とびきり一途な純愛結婚 猟犬伯爵は花の巫女を甘く愛する 3
第三話
「仕方ないですわ、現に治安は宜しくありませんから」
おや、とベロニカの思考は現実に引き戻された。愛らしい声で、モニカはそう断言したのだ。
「供もつけず郊外をうろついては、屈強な大男でもない限り、襲われてもおかしくはありません。貴女、いささか不用心ではございませんこと?」
「モニカ!」
ベロニカに対し、正論を軽やかに叩きつけたモニカを叱責したのは、ローレッタではなくマルスだった。モニカは黙ったものの、朗らかな微笑を湛えたままだ。
「彼女にも事情があったのだろう。それに、本来はそうしたことが起こらないのが正しいんだ。彼女に責任はない。俺の不徳の致すところだ」
「まあ。治安の低下は、叔父様たった一人の不徳で片付くことなのですね? だったら明日にでも解決していただきたいわ」
モニカは全く負けていない。
この姉妹の性格もわかってきた。姉はきつそうに見えてマルス並みのお人好しで、義憤に駆られやすい性格。一方妹はたおやかな深窓の令嬢然としながら、口を開けば理路整然とした毒舌家。
二人とも、見た目と中身にギャップがありすぎる。
「とにかく貴女、お入りになって」
やれやれといわんばかりに、ローレッタが促してきた。どうやら冷静になったらしい。
「あ、その前に……妹のモニカが失礼を申しました。私は、叔父様のいうことが正しいと思っています」
ローレッタが、すっと頭を下げた。彼女はマルスの肩を持つようだ。
だが、モニカの言葉にも一理ある。治安が良いに越したことはないが──。
(理想論なのよね……正しいことは全て……)
モニカは言い方こそ辛辣なものの、的外れどころか、王都を取り巻く現状を正しく把握した上でベロニカに指摘していた。
「正直に思ったことを申し上げただけですが、不快な思いをさせたのでしたらお詫び致します。さあ、中へどうぞ」
モニカも頭を下げた。だが顔をあげた彼女の表情は、全く崩れていない。そして、楚々とした手振りで屋敷の中にベロニカを招いた。
「すまない。見苦しいところを見せたし、君も不愉快だっただろう」
マルスまで謝ってきた。姉妹はダールマンとともに、先へ進んでいる。
何となくであるが、マルスがモニカを疎んじているように感じなかった。歯に衣着せぬ会話ができる仲、という印象だ。
「でも、庇ってくれたでしょう?」
「え?」
「私にも事情があるって、ちゃんといってくれたじゃない」
──だから、嬉しかった。ありがとう。
しかし、そう告げようにもなぜか喉がつかえて、感謝を上手く伝えられなかった。
「別に不愉快だと思わなかったわ。それに、危ないところを7助けてもらったもの。見ず知らずのみすぼらしい女なのに」
「人が人を助けるのは当然だ。第一、君はみすぼらしくなんかない」
「……こんな泥だらけなのに?」
「泥なんかで、その人自身の輝きは消えたりしないよ」
思わずマルスを見上げると、碧い瞳には一切の曇りがなく、ベロニカを見つめていた。
輝いているのは、マルスの方だ。
(──私にはこんな眼、できないな)
ベロニカは、マルスから視線をそっと逸らした。
***
「ああ、もう。こんな満腹なの久しぶり? いや、初めてかも!」
ベロニカはぼすんっと、客室のベッドに飛び込んだ。
板に毛布を敷いただけの硬い寝床ではない。身体が沈むほどふんだんに羽毛が使われた高級なベッドだ。シーツも真新しくて清潔だ。
ベロニカは、マルスと姉妹令嬢と一緒に夕食をとった。その後、使用人によって寝間着に着替えさせられ、そしてこの客室にいくらでも滞在していいといわれた。
(貴族って、警戒心が全くないのね。それとも、この家は特別不用心なのかしら)
もし私がどこぞから送り込まれた暗殺者だったら、今頃シルヴェスター家の邸宅は血の惨劇で大事件よ、と、ベロニカは心の中でぺろっと舌を出した。
保護どころか、歓待だった。
屋敷にあげられたベロニカは、まず浴室に案内された。そこで温かな湯に入れられ、使用人二人がかりで身を清められた。
怪我については、足首を捻っていたが悪化はしておらず、擦り傷も一つ残らず手当てしてもらった。
身にまとっていた外套と麻の服は、下着も含めて洗濯してくれることになった。代わりにと差し出されたのは、ローレッタのドレスだった。
深い緑色のエンパイアドレスだが、触れずとも見ただけで、上質な生地で仕立てられているのがわかった。胸元には金糸で、細やかな刺繍が施されている。神殿でも刺繍を学んだが、これほどの技術者はいない。
このドレス一着だけで何ヶ月分の食事を賄えるか、ベロニカは思わず計算しそうになった。
今着ている、ゆったりとしたワンピース型の寝間着だって、引っかかるところのない滑らかな生地で作られている。これもローレッタのもので、しかもまだ新しく、下手をすれば袖を通してすらいないのではないかと思うほどだ。
もし血が滲んで汚したらと、使用人に訊ねた。
『汚れてもお気になさらず。明日、ベロニカ様のお身体に合わせて新しいものを用意します、とのことでございます』
貴族の余裕を見せつけられた。
一着や二着、服を盗まれたり汚されたりしても、全く問題ないということだ。
ベロニカが使っていた外套は、神殿での先輩から譲られたお古で、もう五年は使っている。冬の寒さを凌ぐのには心許ないが、日差しが強い時は重宝する。
穴が開いたり破れたりすれば、丁寧に繕った。
(神殿では、最低限の衣食住を与えられた。立派な巫女になるための鍛錬に耐えなければいけなかった。それでも、外の世界で生き延びる過酷さを思えばずっとマシだわ)
寝返りを打って仰向けになり、ベロニカはぼうっと天井を見つめた。
自分のような、人買いによって外国から連れてこられた子どもにとって、神殿に引き取られたのは幸運だったに違いない。
貴族や豪商の家に、養子として迎えられるなど、そんなのは夢のまた夢だろう。
だから、巫女になるなど──大したことではない。
神殿には二種類の巫女がいる。世間一般に知られている『巫女』とは、神事において舞いや歌を披露し、平時は花の育成と管理をする未婚女性を指す。
ユースラー教にとって、花は非常に重要なものだ。女神ユースラーは花と緑の神で、絵や彫刻では必ず花を携える姿にしなければいけない。花自体は何でも良い。だから画家や彫刻家によって違うし、花言葉や季節などの意味を込めることもある。
神殿は季節を問わずに花が咲き乱れており、特に、『ユースラーの楽園』と呼ばれる庭園は信者とその家族であれば、自由に出入りできる。
多くがユースラー教徒である王都民の憩いの場だ。
もう一方の巫女は──これは決して表に出ない存在だ。
神殿のために、裏の労働を行う。
神事を行い花を育成する巫女と違って、見習いの期間は長くなる傾向にある。なぜなら、あらゆる教養を叩き込まれるからだ。
学問、武術、舞踊、演奏、マナー。不出来なら罰だ。さらに容姿端麗でなければいけない。そして大半は、身元がわからない孤児や、親に売られて身寄りのない娘──。
厳しい訓練に耐えて、合格した少女は、それまでの厳しさから一転して立派な個室を与えられ、好きに着飾ることを許される。使用人もついて、炊事や掃除なども免除される。
代わりに、神殿への一生涯の忠誠を改めて誓う。そして、その身をもって奉仕する。
芙蓉族のベロニカは、まさに適任だ。
興奮すると、甘い花の匂いを発する特異体質。
まだ自由に出せないが、手っ取り早く匂いを発する方法は“閨房”だと教わった。
男と寝る。たとえお互いに情がなくとも構わない。芙蓉族の女は、その匂いで男を虜にして離さなくなる。
つまり、娼婦として神殿に貢献するのだ。もっとも、閨での実技に至る前に、こうしてベロニカは特命を受けて──いや、自ら志願して外の世界に出てきた。
(必ず、私が助けてあげるから……リリアン)
ベロニカは眼を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、苦楽をともにした友の顔。二つ年上で、優秀なため巫女見習いを早々に卒業した。
ベロニカにとって姉のような存在で、外套をくれたのも彼女だ。
「どうか待っててね」
ぽそりと呟くと、不意に睡魔がベロニカの意識に覆い被さってきた。
やはり、疲れていたのだ。ベロニカは、すぅ、と一息ついた後、眠りに落ちた。
***
夜も更けた頃。
「……不用心ね」
ロングスカートにショールを頭からまとい、貴族の召使いの装いをした女は、俯いてぽそりと呟いた。
そして、石畳の隙間に落ちている二本の短針を素早く拾った。はた目には、小銭が落ちていると勘違いして手を伸ばしたように見えたはずだ。
一見ただの折れた針。しかし、これが仕込み針だと気づく者もいるかもしれない。
だがその場でまじまじとは見ない。こっそりと、ショールの端に短針を刺した。
ここはシルヴェスター家の、王都内の邸宅前だ。門の内外には警備が二人ずついる。
一人の警備がすぐにこちらを見たので、照れ隠しを装い、軽く会釈して足早に去った。
ちょうど背後から、馬車の音が聞こえてきた。馬は二頭。およそ六人の人間が乗れる大きさのものだろうが、その割に車輪の音が軽めだ。中にいるのは六人より少ない。
シルヴェスターの人間だろう、と直感した。今は見つかるわけにはいかない。
(ベロニカ、せめて今だけでも上手くやってね。何とかしてあげるから)
すぐに角を折れて、御者に見られる前に姿を消した。
***
「──足音がしなかったか?」
馬車の中で、髭を蓄えた紳士が口を開いた。年の頃は五十代だが、体躯が鍛え上げられており、腕を組んで威風堂々たる雰囲気をまとっている。
蹄の音、車輪の進む音、馬車の軋む音──その中で、ほんの僅かな異音に気づいた様子だった。
「ローレッタ達がお出迎えかしら?」
隣に座る赤いドレスの夫人が、落ち着いた声で告げた。その膝には、六歳の男児が頭を預けてすやすやと眠っている。
「いや違う。妙な気配だった」
「すみません。私は気づきませんでした」
「気にするな……。戦場にいた頃を思い出す。もう二十年近くも経つのに──」
紳士が深く息を吐いた。
ただの通行人であればいいが、それにしてはどうにも隙がない足音だと感じた。
紳士は、足音だけを聞き取ったのではない。気配、というものも同時に捉えていた。
戦場にいた頃には日常だった。
だが、今は戦争など起きていない。随分と平穏に過ごしてきた。なのに、どうにもこの頃の王都はきなくさく、気づけば戦場での癖がついつい出てしまうのだ。
「貴方が気を張るのは、仕方ないことだわ。貴方の異母弟にあたるランドルフ国王陛下が亡くなってからというもの、王都は物騒ですから」
「ランドルフは王妃と王女に先立たれたが、本人は……いや、よそう」
夫人はそっと幼子の頭を撫でた。
「貴方と結婚してから、十八年。色んなことがありました。でも、どうか一人で抱え込まないでくださいね。貴方には、私がいます」
少年の焦げ茶の髪色は、紳士──夫のものと同じだ、と、夫人はくすっと笑った。
隣に座る夫の髪は灰色に変じ始めていた。だが歳を重ねた分の上品な渋みが増して、夫の魅力は今も衰えない。
「……それは、俺の台詞だ」
そういって、紳士も少年に視線を落とす。
「子ども達の未来のためにも、後顧の憂いは俺達の代でなくしたいものだな」
「この国の女侯爵として、近衛隊スカーレット・ガーディアンの将として、シルヴェスター家当主の伴侶として、子ども達の母として──懸命に務めますわ」
優しい声だが、凜とした芯の強さがある。
「君こそ背負いすぎるなよ」
「ふふ、私達、似た者夫婦ですものね。努力します」
夫人が笑った時、「んん」と息子が身じろいだ。
「……とうさま、かあさま……もう、おうちですか……?」
ぽやんとした眼で見上げてきた我が子に、夫婦は揃ってにこりと微笑んだ。
「ええ、もうすぐ到着よ。でも無理に起きなくていいわ」
「父様がベッドまで運んでやるからな、ジョセフ」
夫人に代わって紳士が大きな手で頭を撫でてやると、ジョセフと呼ばれた少年は「うん」と嬉しげに答えて、また瞼を閉じた。
「警戒は怠らないようにしよう。マルスにもそう伝えておいてくれ、リリー」
「もちろんよ、アレクサンダー」
夫婦は視線を交わした。愛と信頼が、二人の間にはしっかりと結ばれていた。