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とびきり一途な純愛結婚 猟犬伯爵は花の巫女を甘く愛する 4

第四話

 

 遠くで声がする。
 ベロニカはそちらに視線をやった。
『返して、返してぇーっ!』
 女の声だ。ベロニカより少し上ぐらいの女性がいた。彼女は喉も裂けんばかりに絶叫している。
 だがその姿が、みるみるうちに小さくなっていく。
 身体が上下に揺れて、今にも吐きそうだ。
 今、自分は馬に乗っている。いや、乗せられている。誰かの肩に担がれている。
『いやああぁぁ! ア、ア──! 娘を連れて行かないでぇぇ!』
 もう姿は見えないのに、女の声は耳を貫くように響く。
(あれは……お母さん……)
 この腕から逃れなくては。母のもとに帰らなくては。
 しかしついに母の声は途絶えた。
(ああ、また。また私、この夢を見ているのね……)
 十歳になる少し前から、ベロニカはよくこの夢を見るようになった。だが、どんなに「降りなければいけない」と思っても、ベロニカは何もできないで終わる。
 そしていつしか気づいた。これは『記憶』なのだと。
 本来なら物心もついていないはずだ。だが、鮮烈に焼きつき、なおかつ思い出したくない過去として、無意識下に封印されてきたのだろう。
 神殿長のダライアスが語る通りであれば、ベロニカが引き取られたのは三歳。人買いの言葉によると、一年前に拾って、すぐに風邪を引いたが放置するには惜しい、芙蓉族の“乙女”だから見捨てずに一年育てたのだ、と。
 よって、それらの証言が正しいとすれば、ベロニカは二歳で母親の手から奪い取られたのだ。
 引き取る時にどれほどの金を渡したのかは、知らない。だが無償であるはずがない。あるいは、神殿と繋がる見返りとして芙蓉族の乙女を差し出したのか。
 だがもう、自分の値打ちなど、どうでもいい。
 ただ、忘れたくないものがある。あの夢を見るようになったおかげで、ベロニカはあることを思い出したのだ。
 人買いは母から娘の自分を奪った。
 しかし、最後に一つだけ絆が残されていた。
 ベロニカという名で覆い隠されてしまった、本当の名前。
 今の自分は『ベロニカ』──その名で生きていくしかないが、思い出した絆は、自分が忘れさえしなければいい。
『私はリリアン。あんた、今日から稽古なのね。名前はなんていうの?』
 突如、記憶が飛ぶ。
 十年前。そろそろ体力もついたとして、厳しい稽古が始まった八歳の頃のことだ。
 踊りの振りつけを間違うと背中に鞭を打たれ、反省しろといわれ夕食を抜かれた。夜に一人で泣いていたら、声をかけてくれたのが二歳上のリリアンだった。
 赤茶けた髪がうねっていて、肌が色白の女の子だった。小鼻のそばかすが愛らしくて、丸っこい眼が特徴的だった。
『これ、食べな。見回りの神官に見つからないようにね』
 こっそりと差し出されたのは、夕食で出たと思われる堅パンだった。切り込みがあって、そこにたっぷりと蜂蜜が塗られている。
『お腹空くと悲しくなるね、私もそうだった。飯を抜かれたら私にいいなさい。こんなので良けりゃ用意したげるから』
『でも……見つかったら、リリアンさんも怒られちゃうよ?』
『大丈夫。どうってことないよ。あと、私のことはリリアンでいいから!』
 リリアンは恩人だ。そして、親友になった。
 彼女がいたから、辛い日々に耐えてこられた。ベロニカはリリアンに比べると要領が良くないが、それでも彼女の助けになることなら何でもしたいと思った。
『あんた、私の妹に似てるんだ。死んじゃったけどね』
 そのリリアンが、病に倒れた。
 神殿が保管する秘薬を用いれば治ると、神殿長はいった。
 だが、これは国王ですらおいそれと使えるものではない。しかし、今すぐ命の危険はないので、適切な治療をしながらできる限り面倒を見る、と──。
 それを聞いてベロニカは、神殿長のダライアスを真っ直ぐ見据えて訊ねた。
『私が立派な働きをすれば、リリアンに秘薬を使っていただけますか?』
 ダライアスがにっこりと笑ったところで、夢がぷっつりと途切れた。

    ***

 ベロニカは、パチッと瞼を開けた。
 神殿での朝は早く、いつまでもぐずっていると水をかけられることもあった。いつしか熟睡していても朝の気配があると、素早く目覚めるようになった。
「……あれ……ここ……」
 だが視界に入ったのは、見慣れた天井ではなかった。ベッドもふかふかだ。
(そうか、ここは……)
 神殿を出てすぐに暴漢達に追われ、『王都の猟犬』であるマルスに救われて連れてこられた、シルヴェスター家の客室だ。
 公爵令息のくせに『王都の猟犬』なんかに身を置いて、そして滅法強い──のに、とても美しい男だった。
「眼が覚めたかい?」
「うわーっ!」
 突然横から声をかけられ、反射的に叫びながらそちらを向くと、マルスが椅子に座っていた。
「あ、朝から元気だね、君は……」
 至近距離で突然の大声を浴びたからか、マルスは引き攣った笑顔で耳を塞いでいた。
「だだだだ、だって、いきなり目の前にいるから。いつからそこにいたの!」
 神殿で寝食をともにするのは、同性だけだ。神殿長や一部の神官とは、巫女見習いの共同生活区画と別の場所で会う。
 つまり起きてすぐ異性がいる、という状況は滅多にない。
「少し前だよ。ノックしても返事がないから」
「だ、だからといって勝手に!」
「もし熱を出したとかで、苦しんでいたらと思ってさ」
「普通は寝ていると思うものでしょう!」
 ベロニカはがばっと掛け布を頭から被った。
 たったこれだけのことで、動悸が激しい。
 自分から仕掛ける分には、心の準備ができても、突然のことに対処できない──リリアンなら、こんな状況でも笑って受け流すだろうに。
「……? なんだ、この匂い……?」
 マルスが呟いた。布越しだからかくぐもって聞こえた。
(え……?)
 掛け布の中で、花の芳香が漂っていた。
(まさか……これ……どうして)
 意図的には出せなかった、芙蓉族の体臭。
 なぜ。驚いたことで出せるというなら、巨漢に足を掴まれた時でも充分出せたのではないだろうか。
 しかし厄介なのは、マルスにも気づかれていることだ。
 芙蓉族であることは見た目でバレているだろうが、今、このタイミングでこの匂いを嗅がせ続けるわけには──。
「マルス。貴方、レディの寝室で何をしているの」
 扉の方から、女の声がした。
 怒りよりも落ち着きを感じさせる、凛とした芯のある声だった。
 ローレッタとモニカのものではない。彼女達より年長だ。しかし、声自体は似ていた。
 ベロニカは掛け布から顔を出した。
 ドアがいつの間にか開いていた。そこには、赤を基調にしたシンプルなドレスをまとった女性が立っていた。
 足音は殆ど聞こえない。線の上を真っ直ぐ歩くように、決して頭を揺らすことなく、その女性は近づいてきた。
「リリー姉様。俺は何もしてないよ」
「嘘おっしゃい。聞こえていましたよ。ノックしても返事がないなら、人を呼べばいいでしょう。女性の部屋に勝手に入るなんて失礼だわ。ましてや寝顔を見つめるなんて」
「……うん。そうだった。……すまない」
 リリー姉様と呼んだ女性に窘められて、マルスが頭を下げてきた。
(姉……ということは、シルヴェスター家の女主人ね)
 ベロニカはじっと、リリーを見つめた。
 するとその視線にすぐ気づいたのか、リリーがにっこりと眼を細めた。朝の光を受けた瞳は、菫の色に輝いている。
 見事なブロンドの髪を薔薇の髪飾りで結い上げており、白い肌に渋めの赤色がよく映えている。細身だが、決して貧相ではない。むしろ肉感的な印象を受ける。
 ローレッタとモニカの母親だと考えると、三十半ばと思われるが、それよりもずっと若く見える。
 若作りなんかではない。すらりとした伸びた四肢に、真っ直ぐな背筋。細いのに肉づきがよく見えるのは、鍛えられているからだ。
「マルス。クレア達を呼んできなさい」
 クレアとは、昨晩ベロニカの身を清めてくれた使用人の名前だ。
 マルスは「わかりました」といい、腰をあげた。
「でも、もし体調が悪かったらすぐいうんだよ。ベロニカ」
「あ……はい」
 去り際にそういわれて、ベロニカは自然と素直に答えてしまった。
 花の匂いは、とっくに消えていた。
 女主人であるリリーも出て行くのかと思ったが、彼女はマルスが先ほどまで座っていた椅子に腰掛け、頭を軽く下げた。
「お加減はいかが? 足を捻られたと聞きましたが」
「あ、はい。大丈夫です……もう痛みはありません」
 そもそも軽症だったのだが、今は足首を動かしても鈍い痛みすらない。
「挨拶が先でしたね。私は、リリー・ブロンソン・シルヴェスター。この家の当主の妻でマルスの姉です。この国の女侯爵で、そして近衛隊スカーレット・ガーディアンの将として、王城に仕えております」
 リリーは偉ぶる様子もなく、今度は深々と頭を下げてきた。
「私はベロニカと申します。スカーレット・ガーディアン……女性だけで構成された近衛隊ですよね」
 発足自体はそこまで古くない。今から十五年ほど前、女性の新しい雇用を生み出すことを目的として新設された。
 基本的に力仕事となる近衛隊の仕事だが、王城にいるのは国王だけではない。王妃や王女も存在する。
 その側近くで警護をするのには、男性よりも女性の方が良いとなったのだ。
(確かその頃、前の国王に王女が生まれたから……)
 女性だけの近衛隊結成は、父王の配慮だったのだろう。だが王妃はその出産で亡くなり、王女も早くに病死した。
 それでも、スカーレット・ガーディアンが解散されることはなかった。体力さえあれば、女性一人でも自活の道を切り拓ける働き口として、非常に人気があったからだ。今も、主に王城内部と周辺の警護を担っている。
「その通りです。将といっても、今は後任指導が主なので、シルヴェスター“伯爵”夫人としての仕事の方が多いかしら」
「……? シルヴェスター家の当主は伯爵なのですか?」
 グリーンベルト王国において、臣下貴族には爵位による序列が存在する。第一位がブロンソン公爵家である。
 リリーは女侯爵と名乗った。
 この国の爵位制度では、侯は伯よりも上位である。
(そういえば、神官から聞いたような……爵位を持つ女性もいるって。すごく珍しいけど)
 それがリリーだったのか。
 制度などの知識は神殿で覚えさせられたが、個々の家の事情はまだ完全には把握できていなかった。ブロンソン家は、ベロニカにとってはまだ知っていた方だ。
「我が家には、爵位が二つあるのよ。夫の母方の実家であるシルヴェスター家の伯爵位と、臣籍に下った際に賜った侯爵位。我が家の当主は夫なので、私の方が侯爵位を継いだの」
「そもそも、なぜ継いだのですか?」
 実に異例なことだ。
 家が持つ複数の爵位を夫婦で分け合うなど、神殿の講義では聞いたことがなかった。
「……夫に先立たれた貴族の女性は、跡継ぎがいなければ、再婚か修道院行きか、もしくは誰かの愛人になるのが常。ですが、私は女侯爵です。私自身が貴族を名乗れます」
 リリーは、アレクサンダーの妻というだけでなく、爵位を持つ一貴族でもあると周りに認めさせる。夫婦でそう話し合い、実行したのだ。
 そうすれば息子が生まれるのを待ったり、娘婿を早々と探したりする必要もなく、リリー自身が当主になる、あるいは新たに家を興すことが容易くなる。
 結果として息子にも恵まれ、夫も壮健。しかし、女性の新しい生き方の事例として、貫いていこうと決めたのだという。
(なんか斬新ね。大貴族ってみんな保守的だと思ってた)
 しかしよくよく考えれば、マルスだって、次期公爵であるのに民間の警備隊にいる。あんな郊外で暴漢相手に戦う必要など全くない、高貴な身分のはずだ。
「それよりも、ベロニカさんのお話が聞きたいわ」
「えっ……」
 ドキッとした。
 神殿関係者であることがわかるものは、何も身につけていない。まとっていた外套自体も、ありふれたものだ。あるとすれば靴に仕込んでいた針だが、それはもう処分した。
 神殿関係者だと打ち明けるのは、時期尚早だ。
「……私、孤児であちこち転々としているんです。やっと見つけた働き口でも、辛く当たられて……逃げ出したんです」
「まあ……だから、追われたのかしら?」
「わかりません。雇い主が私を捕まえようとしたのか、それともただの暴漢なのか……」
 実際にそうだ。いくら芙蓉族が珍しいとはいえ、ただの暴漢があんなに執拗に迫るだろうか。これも仕事だといっていたが、詳しいことはベロニカにはわからない。
「怖くて必死で、でも逃げきれなくて、そこをマルス……様に助けていただいたんです」
 ベロニカは俯いて、切々と訴えた。
 ただの伯爵夫人であれば、顔をあげ、涙を見せた方がいいだろうが、リリーには逆効果だと判断した。
「そう……ああ、あと、マルスに『様』とつけなくて結構です。すでにマルス自身がいってるかもしれないけど」
 ふふ、と、リリーは含むように笑った。
「嫌なんですって。まだまだ青いのよ。色々と」
 確かにマルスよりも、姪のモニカの方が、ずっと現実的かつ老成した考えを持っている。
 もっとも、マルスからは呼び捨てで良いといわれ、彼との会話ではすでにそうしているのだが。
「ベロニカさん。どうぞ、落ち着くまで我が家でゆっくりなさってね」
「いいのですか?」
「もちろんです。辛くて逃げてきたのなら、帰るあてもないのでしょうし。何なら、私の部下として働きませんか?」
「ええっ! だ、大丈夫です。できるだけ早く新しいところを見つけますからっ」
 嘘の経歴なのだ。その話を受けるわけにはいかない。
「そう? ベロニカさん、とても向いていると思ったのですけど……」
「……そんな、畏れ多いです」
「残念。でも、その気になったらいつでも仰ってね」
 ふふっとリリーが微笑んだ。
 ──見透かされている心地がして、背中に冷たい汗が伝う。
「すっかり話し込んでしまいましたわ。クレアもドアの前で待機しているでしょうし。これで失礼します」
「は、はい。お気遣い、感謝します」
「じゃあ、後で一緒に朝食をとりましょう。支度が終わったら食堂へいらしてね」
「はい……」
「夫は用事でもう家を出ましたので、女同士お気兼ねなく。マルスはいますけどね」
 楚々としながらも、スッスッと、一切の迷いが見えない足取りでリリーは出て行った。
(背中に向けてナイフを投げても、振り向かずに躱されそうだわ)
 マルスと姪達はともかく、リリーに対しては警戒を続けた方がいいだろう。そしてその夫である、シルヴェスター家当主にも。
(当主が留守の間に、何か調べられるかしら)
 とにかく、動くしかない。落ち着くまでいても良い。つまり、怪しまれるまではいても問題ないといわれたのだから、最大限に利用するべきだ。
 ベロニカは、表情には出さず、気合を入れ直した。

 


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