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身代わり魔女は魔王さまの夜伽で永遠の愛を刻まれる 1

第一話

 

 気がついたら、真っ暗なところにいた。
 前も後ろも上下もない。ただの暗闇。
 なぜ?
 どうしてわたしはここに?
 呆然としていると、前方にぼんやりとした白いものが現れた。
 ゆっくりと近づいてくる。
 あれは……人?
 子ども?
 輝く金色の髪を持つ、十歳くらいの少年に見える。
 彼が近づくと、あたりが明るくなっていく。
 まるで天使のようだ。
 わたしの周りの闇が消え、光が満ちて白い世界に変わった。
 けれど……。
 それはわたしがいたところではない。
 だってわたしは……自分の屋敷にいたはずだ。
 コルネリア伯爵であるお父さまの看病をしていたのに……。
「こんにちは」
 少年がわたしに挨拶をした。夏の空を思わせる青い瞳でこちらを見つめ、かわいらしい唇から高い声を発している。
「あなたは誰?」
 彼に見覚えはない。そもそも少年に知り合いなどいなかった。
「僕の名はルイス。悪い魔女のあなたを、魔界から迎えに来たんだよ」
 うっすらと笑みを浮かべて少年が告げる。
 魔界? 悪い魔女ですって?
 わたしは大きく目を見開き、少年を見返した。
「何を……言っているの? わたしは悪い魔女なんかじゃないわ。コルネリア伯爵家のマリリアよ」
 むっとして言い返す。
 少し前までわたしは、貴族の子女が学ぶ王立学院にいた。
 そこへ入学してすぐに、魔女のような赤毛だと笑われたことがある。
 気弱なわたしは、言い返すことも睨み返すこともできなかった。
 ひっそりと目立たぬように、学院生活を送ったのである。
 あの時の悲しさや惨めさを思い出し、思わず顔を顰めてしまった。
「あなたは悪い魔女だよ。ほら、手首にその印が付いている」
 少年がわたしの手首を指し示す。
 言われるまま視線を移すと……。
 わたしは驚いて目を開く。
「こ、これは……!」
 青黒い色をしたコウモリの模様が、手首に刻まれていた。
 印を見たわたしの頭の中に、あの時の記憶が蘇る。

 ******

 わたしは先週、全寮制の王立学院を卒業して、コルネリア伯爵邸に戻った。そこで初めて、父のコルネリア伯爵が意識不明で臥せっていたのを知る。使用人たちの話では、半月ほど前に具合が悪くなって倒れたらしい。
 父伯爵は先月再婚したばかりだ。わたしの継母となった人はどこに行ったのだろう。
 父が倒れてから、外出したまま彼女は帰ってきていないという。そのせいで、医師を呼んでいないと使用人が言った。
 わたしは慌てて父を医師に診せたが、原因不明で治療方法がないと診断が下される。他にも数人医師に診てもらったけれど、ことごとく首を横に振られてしまった。
 使用人たちは父が不治の疫病に罹ったのだと、気味悪がって屋敷から出ていってしまう。残された一人娘のわたしが、父の看病をすることになった。
 医療については学院で少し習ったことがある。看護に興味があったのでそのことに苦はなかったけれど、原因不明の症状に対してはどうしていいのかわからない。とにかくそばにいて必死に世話をするしかなかった。

 

 そろそろ白湯を飲ませる時間じゃなかったかしら……。
 あたりを見回すが、父の姿や伯爵邸と思えるものはなにもない。ただ白い世界が広がっていて、目の前に少年がいるだけだ。
「悪い魔女と取引をしたよね?」
 少年に問われる。
「取引? それは……お継母さまとの約束のこと?」

 

 わたしが父の看病を始めて二日後に、継母が屋敷に戻ってきた。
 初めて会った継母は、艶やかな黒髪と白い肌、赤い唇を持つ派手な美貌の女性である。大きく開いたドレスの胸元から、豊満な胸の谷間が見えていた。
 彼女は灰色のマントを纏ったいかにも怪しい者を連れている。フードを深く被っているために顔は見えない。
「この者は呪術師だよ。伯爵の話をしたら、恐ろしい呪いがかけられていると言っているわ」
 継母に言われた。
「呪い?」
 怪訝な表情で問い返したわたしに、継母と呪術師は大きくうなずいている。そして呪術師がわたしの前に進み出て……。
「この呪いは、わたくしどもでは祓えぬ恐ろしいものです。魔界の王に頼んで、呪いを解いてもらわなくてはなりません」
 掠れた低い声で告げられる。
「魔界? そんなの……どこにあるのかわからないわ」
 わたしは首を振った。
「わたくしめが、魔界にご案内いたしましょう」
 呪術師がフードの中の目を光らせ、ぞっとするような嫌な声で言った。
「ま、魔界なんて恐ろしいわ。それに、本当にお父さまがそれで治るかなんて、わからないもの……」
 首をすくめて拒否をする。わたしは臆病なので、そういうことは苦手だ。けれど、そんなわたしを咎めるように継母が睨んでくる。
「呪術師の言う通りにすればいいのよ。しなければ、おまえは父親を見殺しにすることになるわ。それでもいいの? 親不孝な娘だわねえ」
 脅すように言われてしまう。
「た、助かるにはそれしか道はないの?」
 継母に問いかける。
「そうよ」
 彼女は赤い口の端を上げて答えた。
「それなら、お、お継母さまが行かれたらどうかしら」
 わたしは提案した。呪いや魔界のことを知っているのなら、この任務は継母の方が適任ではないか。
「魔王は純潔の乙女を好む。だから、既婚のこの方ではだめなのだ」
 呪術師が横からわたしに答えた。
「残念だったわねえ。アタシはもうおまえの父親の妻になっているのよ」
 純潔の乙女ではないのよと、継母は笑っている。
 目の前で父伯爵は、目を閉じたまま荒い息をしていた。見るからに苦しそうで、意識は朦朧としている。
「お父さま……」
 学院を卒業して戻ってきたわたしを、「おかえり」と笑顔で迎えて抱き締めてくれるとばかり思っていたのに……。
 幼い頃に母を亡くしたわたしを、父伯爵はたっぷり愛情をかけて、大切に育ててくれた。臆病なわたしを急かすことなく、おおらかに包み込んでくれたのである。だから、これからはわたしが、これまでの恩返しをしようと思っていた。
 愛する父の苦しそうな姿は、辛くて見ていられない。唇も指先も紫色だ。このままでは、本当に助からないかもしれない。
 もし助けられる道があるとしたら、何でもやってみるべきではないか……。 
「わかりました。お父さまのために、魔界へ行きます」
 わたしは藁にも縋る思いで、呪術師の言う通りに、魔界の王に父を助けてもらう決心をしたのである。
「急がなくてはなりません。さあ手をお出しなさい」
 呪術師はわたしに向かって、性急に手を差し出した。筋張って干からびた手に、わたしの手が握られる。
 冷たくて硬い老人のような手だった。
 厳かな表情で呪術師がなにやら唱え、ぎゅっと強くわたしの手を握ってくる。
「ひっ!」
 強い力に目を閉じた。予想以上に力が強く、恐ろしさを感じる。いったい彼は何をしようとしているのだろうか。魔界へ連れていってくれるのではないのか。ただ手を強く握っているだけの呪術師に、違和感を覚える。
 そのうち、握られた方の手首にヒリヒリとした痛みを感じてきた。痛みはどんどん強くなり、思わず目を開く。
 するとそこには……。
「な、なに?」
 わたしの手首に、コウモリのような青黒い印が浮かび上がっていた。
「これはどういう……えっ?」
 問いかけたわたしの目に、呪術師が手を握ったまま黒く小さくしぼんでいくのが映る。そこに影が重なり、今度は人の形に浮かび上がった。
「え? ええ? ……あっ、お継母さま?」
 みるみるうちに消えてしまった呪術師の代わりに、わたしの手を継母が握っていた。赤い唇の端を上げて楽しそうに笑っている。
「おまえの手首に印されたのは、『罪のコウモリ』だよ」
「罪の? なぜわたしに罪の印が?」
 眉間に皺を寄せてわたしは継母に質問した。
「アタシは魔界から逃げてきた魔女さ。おまえはアタシの身代わりにちょうどいい。思った通り、すんなりアタシの罪がおまえに移ったわ」
「罪って、どういうこと?」
 継母の言葉が理解できず、わたしは質問を繰り返す。
「アタシは魔力の大部分をそのコウモリの刻印で封じられていた。魔界に送られて魔王のもとで贖罪しろと天界から命じられていたのさ」
「なんですって?」
 言っている意味がよくわからない。顔を顰めたわたしを、継母が見下ろしている。
「魔王の奴隷になって贖罪させられるなんて、アタシはまっぴらご免なんだよ。でも、やらなければコウモリの印が広がって、完全に魔力を失っちまう。だから地上に逃げたのさ。だけど、この印がある限り思うような魔力を使えない」
 継母はわたしに顔を近づけた。
「それで身代わりを立てて、罪を付け替えて魔力を取り戻すことにしたのさ」
「わたしを……身代わりにしたの?」
「身代わりにするには、純潔の乙女が必要だった。男と触れ合ったこともない、完全な乙女さ。この世界で捜すのは意外と大変だったわ。やっと見つけたのが、このへんぴな伯爵家の娘だったのよ」
「まさか、お父さまの病はあなたのせいなの?」
 強い視線で継母に詰め寄ると、彼女はおどけたように肩をすくめた。
「アタシじゃないわ。アタシにくっついてきた呪いのせいさ。まあ、それを利用させてもらったんだけどね」
 わたしの手を放すと、継母はすうっと空中に浮かび上がった。
「騙すなんてひどい!」
「だって、純潔の乙女でなくては、呪いを付け替えても魔界で弾かれて、『罪のコウモリ』がアタシに戻ってきてしまうのよ。しょうがないじゃない?」
 継母は答えながら笑う。
「ひ、卑怯よ!」
「ふん! 騙される方が悪いのさ」
 言い捨てて継母はどんどん上がっていく。
「待って! お父さまはどうなるの?」
「魔王に助けてもらいな。しばらくはあのまま生きているだろうよ。呪いを浄化する力は魔王にしかない」
 長い黒髪をうねらせ、赤い唇で笑いながら、継母が飛び去ろうとしている。
「そんな、待って!」
 わたしは渾身の力で飛び上がった。継母の足に手を伸ばすと、なんとか足首を掴んでぶら下がる。
「しつこいねっ! いいから魔界へお行き!」
 継母は忌々しげに言うと、わたしの胸を強く蹴った。
「きゃっ!」
 掴んでいた手が離れ、身体が大きく後ろに飛ばされる。
「きゃああぁぁぁぁ……!」
 わたしはそのまま、暗黒の世界へと落とされたのだった。

 ******

「思い出したかな? 悪い魔女さん」
 少年がわたしの顔を覗き込んだ。
「ちが……違うわ。わたしは悪い魔女などではないわ。お継母さまから騙され、罪の印を付け替えられたのよ」
 首を振って少年に訴える。
「でも、手首にその印がある限り、あなたは悪い魔女だ。いずれその印から身体が腐って、本当に地獄に落ちてしまうよ?」
 少年がわたしの手首を指差して言う。
「地獄に?」
 おののきながら少年を見返すと、彼はうなずいた。
「その印がある者は、魔王に縋らなければ助からない」
 冷たい目で告げられた。気のせいか先ほどよりも声が低く、口調も冷ややかになった気がする。
「わたしは騙されて入れ替わったのよ。本当よ、信じて!」
 少年に向かって必死に訴える。
「どうだか……。悪い魔女が嘘つきなのは知っている。それに、僕を騙して逃げても、その身体に印された呪いは消えないよ」
 言いながら首を振った。
「嘘ではないわ。わたしは本当に、魔女ではないのよ……」
 目から涙が溢れる。
 どうしてこんな目に遭わなくてはならないのだろう。貴族の学院を卒業して、やっと自分の屋敷に戻れたのだ。母亡きあと、たった一人の親族である父親に、二年ぶりに会えたというのに……。
「うっ、うっ……」
 こらえようもなく、嗚咽が漏れ出す。
「嘘でも本当でも、その印を持ってここに来たら、魔王の妃になるしかないんだよ」
 少しだけ少年の口調がやわらいだように感じる。泣いているわたしに同情してくれているのだろうか。
「妃に? わたしが?」
 泣き顔を上げて問い返す。
 継母からそんなことは聞いていない。魔王のもとで贖罪のために働くとしか言われていなかった。
「魔王は妃にした悪い魔女を使って、魔界から地上界に光を与えるんだ。それが人々の幸せに繋がり、贖罪となる」
 少年が答えた。
「光を与える、とは?」
 何を言われているのかよくわからない。
「詳しいことは妃になればわかる。ここは地上界と魔界の間にある魔空間で、悪い魔女がやってきたら魔王のところへ連れていくのが、僕の仕事なんだ」
 要するに、魔界の案内人のようなものだという。
「魔界に……行かなくてはならないの?」
 魔王の妃になどなりたくないとすぐさま思った。継母とはそんな話はしていないし、もしそれが本当だとしても、妃になるのは魔女でなければならないということだ。
「わ、わたしは人間なのよ?」
 人間が魔王の妃になるなど聞いたことがない。
「あなたが何者であろうと、その刻印がある限り、妃にならなければ腐って地獄に落ちてしまうよ?」
 恐ろしいことをあっさりと言われる。
「そんな……どうしよう……」
 困惑する。
「とにかく、ここにいても何もないよ。僕がここから離れたら、また真っ暗になるけどいいの?」
 魔空間は本来暗黒の世界で、少年がいなくなったら暗闇の中に取り残されるらしい。そして、手首の印から腐って地獄に落ちてしまうという。
 ここから出るには、この少年と魔界に行くしかない。
 そもそも、父伯爵を助けてもらいたくて、一度は魔界に行く決心をしていたのだ。
 それに、魔王と聞くと恐ろしい想像しかできないが、実際に会って事情を話せば、継母に騙されたことをわかってもらえるかもしれない。真摯にお願いすれば、父の命も助けてもらえるような気がする。
「そうね……」
 ここにいて腐って消滅するより、ずっといい。
 わたしは少年とともに魔王のところへ行くことにした。