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身代わり魔女は魔王さまの夜伽で永遠の愛を刻まれる 3

第三話

 

 夕刻。
 食事と沐浴を終えると、マリリアはふんわりとしたナイトドレスに着替えさせられた。妃の夜着だとエマから聞かされる。
「透けることはないけれど、なんだか心許ないわ」
 レースがふんだんに使われた白いナイトドレスだが、その下にはパニエも下着のドロワも穿いていない。素足に真珠色のルームサンダルだけだ。
「魔界も夕暮れになるのね」
 窓の外を見てマリリアがつぶやく。
「地上界と同じく夜がやってまいります。真っ暗になりますので、お気を付けください」
 侍女長のエマが答えた。
「地上界のように陽が沈むのではなく、夕闇がやってきて夜になるよ」
 ルイスが付け加える。
「お陽さまはないの?」
 窓の外は薄暮に包まれていた。だが、夕陽の光とはちょっと違う。
「もともと魔界は闇の世界なんだ。でも、魔王の力で昼は地上界と同じように明るくなる」
(本来は暗い世界ということ?)
「あちらが寝室でございます」
 エマが指した方向に、天蓋付きの大きなベッドが見えた。ベッドサイドにテーブルが置いてあり、ランプが載っている。寝室と居間との境目に扉はなく、重厚な木枠があるだけだ。
 これまでマリリアがいた居間は、ここの主の部屋だと言われている。ということは、あそこも主である魔王の寝室なのだろうか。
(あの部屋に……魔王さまが来るの?)
 いつ来るのだろう。寝る前だろうか。
「い……今は何時なの?」
 魔王が寝るのは何時なのかと思いながら問いかける。
「夕刻だけど、地上界のような時間の概念はないよ」
 ルイスが答えた。
「では時計もないの?」
 驚いて目をマリリアは見開く。
「地上界とは時間の進み方が違うんだ」
 だから地上の時計は使えないと言われた。
(進み方が違うって、どういうことかしら……)
 窓の向こうが次第に暗くなっていく。まるで、闇色の霧が濃くなっていくような感じだ。太陽の光ではないというのはわかったが……。
「では、ここにはお月さまもないの?」
 振り向いて問いかけた。
 だが……。
(え……?)
 マリリアの目の前にいたはずの、ルイスの姿がない。一緒にいたエマも、部屋の入口に立っていた侍女たちもいなくなっている。
「ど、どこに行ったの?」
 周囲に視線を巡らす。
 薄暗い部屋にマリリア以外の存在が見当たらない。慌てて部屋の入口に行くが、扉の向こうにも人の姿はなく、廊下は真っ暗な闇に包まれていた。
「なんで?」
 振り向いたマリリアの目に、部屋がどんどん暗くなっていく様子が映る。
「あ、灯りは?」
 寝室にあるテーブルにランプがあったはずだ。急いでそこに行くと、ぼんやりとした灯りが目に入る。
 けれども……。
 マリリアが近づくと、その灯りさえも闇に覆われてしまった。
「な、なぜ?」
 窓の向こうはすでに真っ暗である。マリリアの周りも闇が生き物のように纏わり付いてくる。
 いつしか、前後左右さえもわからなくなるほどの闇に包まれた。
 自分の手足すら見えない。
「や、やだ……なんでなの?」
 恐怖を覚えてマリリアは後ずさる。
 腰や手にベッドが触れ、それに縋るようにしがみついた。
「ルイス! どこにいるの? エマ! 返事をしてちょうだい!」
 マリリアは大声で叫ぶ。
 しかし、返事はない。
 声さえも闇のかなたに消えていく。
「ど、どうすれば……」
 この暗闇の中でひとり、朝まで過ごさなくてはならないのだろうか。
(そんなの嫌……恐ろしいわ)
 涙を滲ませるが、それすら闇に呑まれてしまう気がした。漆黒の闇に押しつぶされそうな圧迫感を覚える。
(……恐い……)
 思わず目を閉じた。
「あ……」
 目を開いていても閉じていても、何も見えないのは変わらない。けれども、閉じているとほっとするものを感じる。
(目を閉じていたら、見えないのは当然だものね……)
 そしてそれは、眠っている時も同じだ。
 この闇がいつまで続くのかはわからないけれど、いつかまた昼がやってくるだろう。ルイスもエマも昼になれば戻ってくるはずだ。
(それまで寝ていればいいわ)
 目を閉じてベッドに入れば眠れるかもしれない。
 寝る支度はできている。
 マリリアは手探りでベッドに上った。明るいうちに見た刺繍が施されたベッドカバーを手のひらに感じる。
 そのまま進むと、シルクと思われる枕に指先が触れた。
(ここからもぐり込めばいいのね)
 がさごそとカバーを持ち上げる。
 すると……。
「なにをしているんだ?」
 マリリアの背後から、男性の声が届いた。
「ひっ! だ、誰?」
 ベッドの上で飛び上がるように驚き、マリリアは後ろを向く。だが、真っ暗なので何も見えない。
「私はここの主だが?」
 低く響く声で返された。
「……あ……では、あの……魔王さま?」
 マリリアははっとすると、おそるおそる問い返す。
「ああそうだよ」
 やっぱり、という答えが戻ってきた。
(そうだったわ)
 ここは魔王の城で、自分は魔王の妃になるためにいるのだ。今更ながら思い出し、マリリアは恐ろしさに震え出す。
「おまえは……」
 魔王は、何かに気づいたように言葉を切った。
「ひ……っ!」
 マリリアは自分の手首に何かが触れておののく。
「この印があるのだから、悪い魔女だな」
 触れたのは魔王の手のようだ。人と同じような手だが、大きくて少し冷えている。気づけば印がある方のマリリアの手首を、持ち上げられていた。
「あの……み、見えるのですか?」
 触感はあるけれど、マリリアの視覚は奪われたままである。
「当然だ。闇を支配しているのだからね。悪い魔女のおまえは、私の妃になりに来たのだろう?」
「そ……そうですが」
 恐怖でガタガタ震えながらマリリアは首を振った。魔王の妃なんて、恐ろしすぎる。声しかわからないけれど、安易に近づいてはいけない相手だと感じた。
「わ……わたしは、騙されて……悪い魔女の印を付けられたのです……で、ですから、本来は魔王さまの妃となるべき者では、あ、ありません」
 首を振ったまま訴える。
「前にここへ送り込まれた悪い魔女とは、顔も姿も……オーラも違う。別人なのはわかっている」
 冷静に返された。
「お、お継母さまが、ここにいたの?」
「わずかな間だがな。ここに送られてきてすぐに、侍女たちを騙して逃げていった。おまえはあの魔女の娘なのか?」
「わたしのお父さまの、後妻になられたのよ。悪い魔女だとは、知らなくて……お父さまは呪いの病に罹ってしまわれたの。お父さまの病を治すためには魔王さまにお願いしなければならないとお継母さまに言われて、手を繋いだら……わたしの手首に印が付いて、ここに飛ばされてしまったの」
 これまでのことをマリリアは訴えた。
「そうか。悪い魔女は狡猾だからな」
 魔王がため息をついている。
「だ、だから、わたしは、ま、魔王さまのお妃になんて、な、なれません」
 マリリアは腕を掴まれたまま魔王に告げた。
「……おまえが妃にならなければ、お互い困った事態に陥るんだが……」
 困惑した声がする。
「どう、困るのですか」
「私の妃にならなければ、この印がおまえの身体を蝕むだろう」
 手首から魔王の手が外れるのをマリリアは感じた。
「蝕む? ……えっ、あっ」
 ほっとしたのもつかの間、手首にある印から灼けるような熱を感じ始める。
「な、なに? あ、ああっ、熱い、痛いっ!」
 手首に焼きごてを当てられたような痛みを覚えた。
「魔が刻を過ぎると、その印は持つ者を焼くようになっている。天が悪い魔女を懲らしめるために付けたんだ」
「ああ、痛い、痛いわ……ま、魔が刻って……いつまでなの?」
 マリリアは魔王に問いかける。
「魔界の夜が明けるまでだよ」
 夜はまだ始まったばかりだ。
「そんな……あ、ううっ、腕が、肘まで、痛いっ」
 印から痛みが広がってくる。
「もっともっと広がるだろう。夜明けどころか、数刻でおまえの身体は焼け爛れることになる」
 恐ろしいことを言われた。
「そ、そんなっ、ひ、ひあぁっ」
 痛みに呻きながら叫ぶ。
「魔女なら魔力でその印を押さえ込めるが……」
 腕を押さえてベッドに突っ伏したマリリアの上から、魔王の言葉が聞こえる。
「はぁ……ああ、腕が、肩が……痛い」
 燃えるような熱さと千切れるような痛みを覚えた。
「……人間の小娘を身代わりにするとは、悪い魔女は非情だな」
 マリリアが押さえていた腕が、大きな手に掴まれる。
 瞬間。
 それまで苛まれていた熱くて痛い感覚が、嘘のように引いていく。
「え……なぜ?」
 暗闇に向かって問いかける。
 肘のあたりを魔王の手と思われるものにしっかりと包まれていた。
「私の妃になれば、この印が持つ熱は消える。そもそもこの印は、悪い魔女に天界から下された罰だ。魔王の妃になって徳を積み、贖罪せよと刻印されている」
「わたしは悪いことなどしていません」
 これまで真面目に暮らしてきた。貴族の学院でも羽目を外すことなく、異性と交際すらしていなかったのである。
「あなたに触れていれば、それは私にもわかるよ。とても綺麗な気を発しているからね」
 魔王から肯定の言葉を返された。
「……手を離したら、また、あの痛みが来るの?」
 震えながら問いかける。
「確実にそうなるだろう。だが、これから私の手助けをしてくれれば、痛みからは解放される」
「どういう手助けをするの?」
「私は天から送り込まれた悪い魔女を妃にして、妃を通して悪気に苦しむ人々を助けなければならない」
「……鏡に映っていた人たちを助けるの?」
 昼に見た光景を思い出す。苦しそうにベッドで横たわる女の子と、それを心配する母親の姿が目に焼き付いている。
「魔が刻の闇の中にいられるのは、印を持った魔女だけだ。他の者は闇に溶け、翌朝まで姿が戻らない。そして婚礼の儀式で妃になった魔女は、私から悪気を祓える魔力を得られる」
「妃だけが呪いに苦しむ人々を助けられるの?」
「そういうことだ」
 昼にルイスが言っていたのと同じ内容だ。
(やはり魔王の妃にならなくてはいけないのね……)
 真っ暗な中でマリリアは考える。事情を知ればやるしかないことはわかる。闇は恐ろしいが、その中で響いてくる魔王の声は不思議と恐くない。
「わかりました。わたしは魔王さまの妃になります」
 声のする方向に向かって、マリリアは宣言した。

 

 

 


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