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憎しみよりも深く、きみを想う 隻腕の騎士と宝石乙女 1

第一話

 

 エレン・バークリーは鳥籠の中で暮らしていた。
「屋敷の外は危険だ。もしおまえが〝宝石乙女〟だと知られたら、拐かされ、それはそれは恐ろしい目に遭う。だから、いいね? ……絶対にここから出てはいけないよ」
 父亡きあと、エレンを引き取ってくれた伯父がそう言っていた。
 だからエレンは伯父の家――バークリー男爵家の離れでひっそりと暮らし、自分の役目を果たしている。
「せめて、空がちゃんと見えたらいいのに……」
 離れには一応小さな庭があるのだけれど、高い塀と鳥籠のような鉄格子が邪魔で空すらまともに見えない。
 それでも、さわやかな風を感じられるこの庭は、エレンにとってお気に入りの場所だった。時が止まったかのような離れの中で、庭だけは唯一小さな変化が感じられるのだ。
 落ち着いて過ごせるこの場所で、エレンは週に一度の役目を果たす。
 働きに出ることすらできないエレンがここに住まわせてもらうためには、〝魔晶石〟を生み出さなければならない。
(痛いのは嫌い。……でも、保護してもらっているのだから……)
 庭に置かれたテーブルの上に、小さなガラス製の小皿がある。
 エレンは持っていたナイフで左手の人差し指を傷つけて、小皿の上に血を滴らせた。
 しっかりと血が流れるくらい自分で傷つけるのは恐ろしく、何度繰り返しても慣れない。
 毎週こんなことをしているものだから、エレンの両手は傷だらけだった。
(でも……本当に痛いのはここから……)
 血は、エレンの体内から魔力を取り出す媒体でしかない。
 じくじくと痛む傷口に意識を集中させる。
 そして、小皿の上にある自分の血に触れながら、そこに魔力を送り込んだ。
「……うぅっ!」
 身体の中にあるものを放出しているだけだというのに、外に出るその瞬間、魔力は熱湯のように熱く感じられる。
 本当にやけどをするわけではないのだから、その痛みは気のせいだと伯父は言う。
 けれどエレンにとって痛みは本物だ。
(私、これしか……できない……役立たずだから……)
 魔晶石を生み出す役目を放棄すれば、エレンは貴族の屋敷でなに不自由なく暮らす権利を失ってしまう。
 そういうふうに伯父からきつく言われていた。
 途中でやめてしまったら、この痛みは無駄になり、明日までにもう一度同じ思いをしなければならない。
 だからエレンは気を失わないように心を強く持って、作業を続けた。
 しばらくすると小皿の上の血液が輝き出し、色を失っていく。
(あと少し、あと少し……)
 カチャリ、と小皿の上になにかが転がる音がした。
 作業を終えて、集中力が途切れた瞬間に、貧血に似た症状に襲われる。
 ひどく汗をかいている。鳥籠の庭にも風は届くから、それだけが救いだった。
 小皿の上には雫形の透明な石が転がっていた。
 今、エレンが生み出したばかりの魔晶石だ。真っ赤な血に魔力を込めるとなぜ透明になるのかはよくわからない。
 光にかざすとキラキラと輝くその石は、ダイヤモンドよりも価値のある宝石だとされている。
 エレンは無属性の魔力を持つ者だった。
 無属性の者は、自分自身では魔法を使えない。唯一できるのが、他人に魔力を供給する特別な石を生み出すことだった。
 魔晶石は魔法使いにとっての栄養となるものだ。取り込めば、足りない魔力を補い、一時的にではあるものの本来の能力を超えた力が使えるようになる。
(手当て……しなきゃ……)
 痛みで息が上がっているし、身体がだるい。それでも基本的に自分のことは自分でやらなければならない。
 この離れは、伯父と通いでやってくるばあや以外誰も入れない。
 ばあやは今ごろ、掃除か洗濯をしているはず。伯父から命令されたことしかしない人だから、手当てをしてほしいとお願いしても一蹴されるだろう。
 エレンは、あらかじめテーブルに用意していた消毒薬を傷口に振りかけて、コットンで押さえて止血をした。
 だんだんと眠気に抗えなくなったエレンは、あとで肩や首が痛くなるとわかっていたのに、机に突っ伏してそのまま目を閉じた。
(早く明日にならないかな……。あの方に会いたい)
 外出を許されていないエレンだが、じつは最近、伯父に黙ってこっそり街へ出かけていた。
 この建物は、部外者が入ることはできないし、エレンが勝手に出ることもできないように鍵がかけられている。
 けれど少し前に、食器棚の高い場所に裏口の鍵を隠しているばあやの姿を偶然目撃してしまったのだ。
 その鍵を使えば通いのばあやが帰った午後、外に出られる。
 もちろん宝石乙女だと知られたらまずいと重々理解しているし、伯父にバレたら折檻されてしまうとわかっている。
 伯父は監視目的なのかちょくちょくこの離れを訪れるのだが、週に一度、決まった日に魔晶石を受け取ると、少なくとも翌日まで姿を見せない。
 その週に一度の決まった日が明日だった。そのためエレンは、初めて街へ出かけた日に親しくなった青年と会う約束をしている。
(眠い……)
 青年のことを考えていれば、痛みも忘れられそうだった。
 エレンはそのまま気を失うように眠りについた。

   ◇ ◇ ◇

 どれくらい眠っていたのかわからない。
 すぐそばで誰かが大きな声を出していることに気がつく。
「エレン、起きろ……。真っ昼間から昼寝とは、随分といいご身分だな」
 男性の声だ。
 伯父以外、男性が離れに立ち入るはずはないのに、どこかいつもと声が違っている気がする。
(誰……?)
 伯父よりも若い人の声に聞こえるのは気のせいだろうか。怠けて寝ているわけではないのだから、理不尽な言いようにエレンは文句を言いたくなった。
 けれど、なかなか瞼が開かない。
「起きろと言っている」
 肩を揺さぶられたせいで、ようやく意識が覚醒した。
 目をこすりながら無理矢理起こした人物を眺めるが、やはり伯父ではなかった。
「だ……誰、ですか?」
 騎士の制服に身を包んだ薄茶色の髪の青年が、エレンをにらんでいた。
「ネイサンだ。義理とはいえ、兄の顔も忘れたか?」
「ネイサンお兄様……?」
 言われてみると、確かにネイサンだった。
 ネイサンはバークリー男爵家の一人息子で血縁としてはいとこだった。
 十八歳のエレンより七つ上だから、現在二十五歳になっているはずだ。
 引き取られた当初は仲がよく、話し相手になってくれていたのだが、エレンが十三歳を過ぎた頃から離れを訪れなくなった。
 騎士となって官舎住まいを始めたからだと聞いていたけれど、男爵邸に一切帰らないとは思えないため、おそらくエレンが嫌いになったのだろう。
 彼とは世間話をして楽しく過ごした記憶しかなく、もうエレンのもとへは来ないということすら、直接告げてもらえなかったのが悲しかった。
 疎まれていたなんて少しも感じていなかったから、最初の頃はショックだった。
 けれどエレンは、だんだんと自分の置かれている状況に慣れてしまい、そのうちにすべてを諦めれば楽になれるのだと悟った。
 以降、ネイサンについてあまり思い出さなくなっていた。
 そんな義兄――ネイサンが今エレンに向けているのは侮蔑のまなざしだ。
 やはり理由はわからないが、いつの間にか嫌われていたのだというエレンの予想がは正しかったと、それだけで理解する。
「伯父様はどうなさったのですか? 魔晶石なら、ちゃんと作っておきましたから怒られる理由なんてないと思います!」
 エレンはきちんと座り直してから抗議した。
 この離れに閉じ込められているのは身の安全を確保するためだとしても、エレンの望んだことではない。眠っていたのも、役目を果たした反動のようなものだから、そんな視線を向けられる理由はなかった。
「呑気なものだ。喜べ、エレン。父上が捕まったぞ。あと、おまえの世話役の老婆もな」
 ネイサンは皮肉めいた笑みを浮かべ、テーブルの上にあった魔晶石を手にした。コロコロと指先で転がして、出来映えを確認している。
 姿だけならば昔の面影があるのに、もう別人のようだった。
「伯父様が? どうして……喜べなんて言うんですか? ひどい!」
 エレンは伯父のことがあまり好きではない。
 保護してくれているのだから、それだけでありがたいと思わなければならないのかもしれないが、この生活そのものが嫌いだったから仕方がないだろう。
 けれどネイサンが喜ぶのはおかしい気がした。
 彼にとっては実の父親だし、エレンとは違い閉じ込められているわけでもないのだから。
「あの男は正真正銘の悪人だった。魔晶石を犯罪者に売っていたんだからな」
「え……魔晶石を……? そんなっ! 伯父様はいいことに使うって……」
 その魔晶石とはもちろんエレンが生み出したものに違いない。
 自分の作ったものが犯罪に使われたと言われたことがショックで、エレンはどうしていいかわからなかった。
 するとネイサンが、持っていた魔晶石を地面に落とした。
「な……なにを……!?」
 エレンは魔晶石を拾おうと手を伸ばす。
 けれどその前に、ネイサンが足で踏みつけた。シュッ、と一瞬だけあたりに魔力の気配がして、すぐに霧散していく。
 痛みに耐えてようやく生み出した石が、無残に砕かれ失われたのだ。
「お兄様……! ひどいっ、ひどいです……」
「世間知らずのお姫様は思った以上におめでたい頭をしているようだ。まだわかっていないようだな。……おまえは父上の共犯者だ。罪人なんだよ、エレンも」
「そんな……私、なにも知らなかったの……」
 人のために使われると言われて、なにも知らずに作っていた。
 騙されていたのだとしても、罪人になるのだろうか。無学なエレンにはよくわからなかった。
(でも……魔晶石が悪いことに使われたとしたら、私の魔力で誰かが……?)
 魔晶石はいったいなにに使われてしまったのだろうか。
 ネイサンに聞いたら教えてもらえるかもしれない。エレンは疑問を口にしかけて、すんでのところで呑み込んだ。
 誰かが傷ついた――そんな答えが返ってくるのが怖くて、逃げたのだ。
「エレンには結婚して、ここから出ていってもらう」
「結婚……?」
「幸せになれるなんて思うなよ」
 冷え切った瞳のネイサンに見下ろされて、ゾクリと鳥肌が立つ。
「そんな……。嫌、です。絶対に嫌!」
 幸せになれないと断言されて、結婚したいと思うはずがない。
 エレンは立ち上がり、じりじりと後ずさりをした。
「おまえには選ぶ権利なんてない。言っただろう? 罪人だと」
 ネイサンが容赦なくエレンの手首を掴んだ。
 罪人――そう言われると、途端に抵抗してはいけない気がしてエレンの身体から力が抜けた。
「早く来い」
「ま……待ってください。せめて、明日……」
 もし本当に罪人だというのなら、ネイサンが決めた罰を受け入れるしかないのだろうか。
 それでもエレンは、せめてあと一日猶予がほしいと願ってしまう。
「明日、なにかあるのか?」
「それは……っ、あの……」
 会いたい人がいるなどと言って、許してもらえる想像ができない。
 むしろ、エレンが会いたい青年まで仲間だと誤解される危険性もある。
 そう思うと、なにも言えなかった。
「おまえには自分があの男の共犯だったという自覚があるのか? ……私は騎士の任務でここにいるんだ。手間をかけさせるな」
 無理矢理歩かされて、エレンは質素な馬車に押し込まれた。
 監視するような目つきの義兄と一緒に、エレンはそのまま結婚相手のところへ向かうことになった。
 結婚だとネイサンは言ったが、到底そんな雰囲気ではない。エレンはきっと、囚人になったのだ。
(カーティス様……。お別れも言えなかった……)
 二ヶ月前。春の初め頃に親しくなった青年との出会いを思い出しながら、エレンは長い時間を過ごした男爵邸をあとにした。
 そして、無理矢理押し込まれた馬車の中で、義兄から今の状況についてもう少し詳しい説明を受けた。
 伯父――バークリー男爵はすでに捕らえられ、もう一生塀の外には出られないらしい。
 ネイサンは自分の父親が犯罪に手を染めていると気がつき、積極的に証拠を集め、ほかの騎士たちと協力して犯罪組織を壊滅に追い込んだ。
 その功績により、バークリー男爵家は取り潰しを免れ、ネイサンが爵位を継ぐことになったという。
 宝石乙女の存在を公表すると国内が混乱してしまう。
 一連の事件は、表向きには違法な薬物の売買をしたものとして処理される予定だ。実際、魔法使いにとって魔晶石は麻薬のようなものだから間違ってはいないのだろう。
 無学なエレンには淡々と語られても理解できない部分があり、ネイサンに何度か聞き返してしまった。
 かみ砕いて説明はしてくれるのだが、そのせいで彼の機嫌が余計に悪くなっていく。
「おまえの結婚相手はオルグレン卿だ。年齢は二十六歳で、伯爵位を持っておられる。私にとっては上官にあたる騎士だ。……くれぐれも失礼のないように」
「オルグレン、伯爵様……?」
「異論は認めない。牢屋行きにならなかっただけありがたいと思え」
「は……はい……」
 エレンは今後、義兄が定めた結婚相手のもとで暮らすのだという。
(監視役……ということなのかしら?)
 エレンの宝石が二度と犯罪者に渡らないようにするために、誰かがそういう役割を担うというのはわかる。
 けれど、義兄が監視役ではだめな理由がわからなかった。自ら父親を捕らえたのだから、ネイサンが魔晶石を悪用するとは思えない。
 それからどうして伯爵という身分の高い男性が、わざわざエレンと結婚する必要があるのかも疑問だった。
「なんだ、その顔は?」
 ただ考え事をしていただけなのに、ネイサンがにらんでくる。
「……今度は、魔晶石を正しく使ってくださる方だったらいいなって思いまして」
 この様子では、質問してもまともな答えなど返ってきそうになかった。だからエレンは対話を諦めて、適当に返した。
「おまえ、おめでたい頭をしているな」
 きっと彼は、義妹が嫌いだから何を言っても苛立つのだろう。
(ネイサンお兄様なんて、私がどんな暮らしをしていたか知らないくせにっ!)
 エレンは心の中で義兄に反発した。
 話し相手もいない場所に閉じ込められて、毎週痛みを伴う作業を強いられ、しかもそれが悪人に渡っていたというのだ。
 次に暮らす場所が実質的には牢獄だったとしても、苦労して生み出した宝石が悪事に使われないとわかっているならいくらか救われるはずだった。
 不機嫌な義兄これ以上の会話を続けても無駄だ。だからエレンは黙って外の景色を眺めていた。
 ほどなくして、二人を乗せた馬車がとある屋敷の門を通過した。
「大きなお屋敷ですね」
「伯爵邸だからな。……こっちだ」
 ネイサンは馬車を降りるときに手すら貸してくれなかった。
 エレンは急いで馬車を降り、どんどんと先に進んでしまうネイサンを追いかけた。
 エントランスに入ると、屋敷の家令と思われる初老の紳士が出迎えてくれる。
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
 丁寧だけれど感情を見せない家令に先導されて、屋敷の二階にある一室へと向かう。
「旦那様、ネイサン・バークリー様がいらっしゃいました」
「通せ」
 小さな音を立てながら、扉が開く。
 案内されたのは豪華な内装のサロンだった。中央にテーブルとソファが置かれているが、そこには誰も座っていない。声の主は窓辺にたたずんで外の景色を眺めていた。
 騎士の制服を肩にかけた黒髪の青年――腕を組んでいるが、左手が義手であることはすぐにわかる。
 なぜなら、その青年をエレンは知っていたからだ。
「……え? ……カーティス様?」
 青年がゆっくりとエレンのほうへ向き直る。
 視線が交わった瞬間、カーティスも大きく目を見開いた。
「……銀の髪……? だが、君が……なぜ……」
 彼は、エレンがこっそり男爵邸の離れを抜け出した日に出会って、それ以降親しくしていた青年騎士だった。囚われの身となる前に、せめて別れを告げたいと望んでいた相手が、今まさに目の前にいた。

『幸せになれるなんて思うなよ』

 ネイサンの声が頭の中に響く。
「どうして、カーティス様が……?」
 義兄が冷たく言い放った言葉の意味がわからず、エレンはただ困惑していた。