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憎しみよりも深く、きみを想う 隻腕の騎士と宝石乙女 5

第五話

 

 カーティスはエレンに魔晶石を作れとは言わなかった。
 けれどエレンは生まれて初めて、心から望んで魔晶石を作るようになっていた。
 役に立ちたい、好かれたい――日に日にそういう気持ちが強くなっていく。
 エレンが魔晶石を渡すと、カーティスは笑顔で受け取ってくれる。
 その様子が見たかった。だからこの日も、一人きりで過ごす時間に魔晶石を作ろうと決めた。
(でも、午前中に魔力を使ってしまうと倒れるかもしれないから、スミス先生が帰られてからがいいわ)
 学ぶ機会を無駄にするのはあり得ない。エレンは家庭教師が訪れるまで、予習復習に励み、真面目に講義を受けた。
 昼食もミセス・スミスと一緒にいただくことが多い。
 これは食事マナーの講義の一環で、わざと食べづらいメニューが出される。
 この日の難関は、白身魚のソテーだった。
「魚は骨があって苦手です」
 離れで暮らしていた頃は、ずっと一人で食事をしていた。
 誰の目もないし、習ってもいないから、魚の小骨はためらわずに手で取っていたし、食事中にカチャカチャと音を立てるのが悪いとすら思っていなかったのだ。
「安心してください、エレン様。お魚は種類によって骨の入り方がある程度わかるので、それを覚えてしまえば美しく食べられるものですよ。今日は私を真似てくださいね」
「はい、スミス先生」
 ミセス・スミスは礼儀作法のなっていないエレンを決してばかにしない人だ。
 指導したくないのは不出来な者ではなくやる気のない者であると、常日頃から言っている。だからエレンは安心して、彼女になんでも質問ができた。
 あっという間に日が暮れて、夕食の直前にカーティスが帰ってきた。
 せっかくなので、エレンは今日の成果を実践で見せようと奮闘した。するとカーティスはそのことに気づいて、「仕草が美しくなった」と褒めてくれる。
 彼が優しいから、エレンは明日も頑張れるのだ。
 夕食のあとは湯に浸かり、身を清める。
 エレンに与えられている部屋はカーティスの部屋の向かいで、建物の二階にある。
 重厚な家具に落ち着いた花柄のファブリックの豪華な部屋で、就寝前は本を読んだり、ミセス・スミスから与えられた課題をこなしたりするのが日課だ。
 この日は、美しい文字を書く練習をしていた。
 貴族同士のつき合いで手紙のやり取りをするときに、悪筆だと侮られるため、習う必要があるのだ。自分の名前、カーティスの名前……それから季節の挨拶。
 集中して、できるだけお手本と同じように書いていく。
「いけない! もうこんな時間」
 課題をこなしているうちに就寝の時間になっていた。一週間後に終わっていればいいはずのものだったが、やめるタイミングを見失ってしまったのだ。
 今日は魔晶石を作る予定もあるというのに、うっかりしていた。
 エレンが机の上にある筆記用具を片づけようとしていたところで、ノックがあった。
「エレン、少しいいか?」
「はい」
 扉の向こうにいるのはカーティスだ。
 エレンが返事をすると、彼はすぐに部屋の中に入ってきた。入浴を済ませたばかりなのか、着崩したシャツにガウンという格好だった。
 髪が少し濡れていて、眺めているとなぜだかドキドキしてしまう。
「まだ明かりがついていたようだから気になってな。熱心なのは好ましいが、根を詰めすぎてはいけない」
「ええっと、今終わろうとしていたんです。今夜は魔晶石を作ったらもう休もうと思います」
 きっと心配させてしまったのだ。
 エレンは本当に終わらせるつもりだったと主張したくて、いそいそと机の上を片づけはじめた。
「そうか……。あれを作るなら魔力を消費するのだろう? 無理をしていないか?」
「大丈夫です。……もう寝るだけですから」
 カーティスは話を続けるでもなく、部屋を去るでもなく、立ったまま微動だにしない。
 どうしたのだろうか、とエレンは首を傾げた。
「……見せてもらってもいいだろうか?」
 それは唐突な願いだった。
 この一ヶ月ほどのあいだで四つの魔晶石を生み出しているが、使用人に知られないように注意しろと言われたくらいで、この件には積極的に関わってこない印象だったのに、どういう心境の変化だろうか。
「え、えっと……」
「なにか見せたくない事情でもあるのか?」
 エレンは正直、断りたいと思っていた。
 苦痛で顔が歪んだり、汗をかいたりするからそんな情けない姿をカーティスには見られたくなかった。
 それに、痛みを伴うのだと知られたらなんとなく怒られそうな気がした。
 だがやましいことがあると疑われるのも嫌で、見せてはだめな理由が思いつかない。
「そんなことないです。ちょっと恥ずかしいですが……。もちろんいいですよ」
 エレンは小さく笑って、チェストの中にしまってある道具箱を引っ張り出した。
 これは男爵邸の離れで暮らしていた頃から使っているもので、ナイフや小皿、手当ての道具など魔晶石作りに必要な道具が収めてあるものだ。
 エレンは道具箱をテーブルの上に置き、ソファに座った。
 そこで作業を行うと知ったカーティスも向かいに腰を下ろす。
「では、始めますね!」
 まずは消毒液でナイフと指先を清める。
「ちょ、ちょっと待て。……その手……」
「そういえば、できるだけ見せないようにしていましたよね? 汚くて恥ずかしいです。……気にしないでください。ええっと、今日は右手がいいかな……」
 出かけるときなどは手袋をしているし、普段の生活の中で意外と手の内側を見せる機会は少ない。手袋をしていないときはできるだけ隠すようにしていたため、彼はエレンの手が醜いことを知らなかったらしい。
 エレンはまじまじと見られている状況に心が落ち着かないが、それでもさっさと済ませてしまおうと左の手でナイフを持って、手のひらに傷をつけた。
 カーティスは眉をひそめていたが、無言で作業を見守っている。
 ここからは途中で集中力が切れると、痛みが無駄になってしまう。だからエレンは視線を気にせず、魔晶石作りに集中した。
 いつもの手順で血液に魔力を込めていく。
(少し、量が多かったかも……)
 魔晶石は流れた血に比例した量の魔力を送り込まないと、ただの血の塊にしかならない。
 けれど今やめるわけにはいかないから、エレンは石が輝き出すまで魔力を込め続けた。
 出来上がった頃には、サーッと血の気が引いていく感覚に襲われて、額からは冷や汗が流れていた。
「ごめんなさい。いつもはこれほどではないんです。カーティス様に格好いいところを見せたくて……それでちょっと大きめにしてしまった……というか……えへへ。綺麗でしょう?」
 努力の甲斐があったのか、出来上がった魔晶石は普段より一回り大きいものだった。
 きっと騎士としてカーティスが役立ててくれるはずだと思うと、達成感がある。
「苦痛を伴うなんて聞いていない! 顔色が悪いし……その傷……」
「大丈夫です。ちょっとだけ疲れたみたいで……。傷もすぐに塞がる程度のものです」
「ちょっと……ではないだろう!」
 カーティスは一際険しい表情になり、道具箱の中から消毒液とコットンを取り出し、手当てを始めた。金具がついた義手ではうまくできないようで、途中からエレンとの共同作業になった。
 傷は痛むのに、カーティスの手がちょこんと触れると、ぜんぜん気にならなくなった。
 労りのつもりなのか、大きな彼の手がエレンの手を包み込んでくれる。
 そうされると、温かく、力強くて安心できた。
「……大したことではないです。魔力を持つ者の義務で、怠けたらいけませんから」
「怠け? 君にそんなことを言ったのは誰だ?」
「だって『魔法は己のためにあらず』って……」
「誰が、言ったのかと聞いている!」
 カーティスがなんだか怖かった。エレンは今、悪いことをして怒られているのだろうか。
「……伯父様です」
 正直に告げたら、カーティスが盛大なため息をつく。
「君はバークリー前男爵のことを信じているのか? 罪人だぞ」
「伯父様なんて好きじゃありません。だから信じてもいません。でも! 私は私の意思で、義務から逃げたくないって……最近はそう思えるようになって……」
 嫌っている相手で罪人だとしても、発言のすべてが間違いだったとはならないはずだ。
 エレンはただ、怠け者になりたくなかっただけだ。持っている力を世の中のために役立てなければいけないという考えは正しいと思う。
 問題は伯父がエレンの力を善行に使っていなかった部分にある。
 そして今は魔晶石が正しく使われるとわかっているから、自信を持って宝石乙女の役目を果たせる。
 エレンにとってこんなに嬉しいことはない。
「ばかな。エレン、もうその石は作らなくていい」
 このままだと、せっかく作った魔晶石を受け取ってもらえないかもしれない。
 不安に駆られたエレンは立ち上がり、できたばかりの宝石をギュッと握って、テーブル越しにカーティスに押しつけた。
「私がカーティス様のためにできることってこれしかないんです。カーティス様は民を守るためにその身を危険に晒すのでしょう? それなのに私が傷を作るのはいけないのですか?」
 実際にカーティスは騎士の任務で取り返しのつかない大怪我をしたというのに、まだ騎士であり続けている。それに比べたら、エレンの傷など取るに足らないものだ。
「べつに君が役立つからそばに置いているわけじゃない……。できることがないのなら、これから増やせばいいだろう」
「だったら実際に増えてからやめます!」
「時々君は頑固だな」
 頑固なのはカーティスのほうだ、とエレンは頬を膨らませた。
「頑固でもいいです。……だって、そうでしょう? 役に立てる方法があるのに、やらないなんてきっと許されません」
 なかなか受け取ってくれない彼に痺れを切らせたエレンは、指を無理矢理開かせるようにして魔晶石を握らせた。せっかく痛みに耐えたのに、彼が受け取ってくれないとすべてが無駄になってしまうのだから必死になるのは当然だった。
「エレン、わかったから……ひとまず魔晶石はテーブルに置きなさい」
 彼の声色が真剣そのものだったため、エレンは反射的にそれに従った。
「私の役に立ちたいんだな?」
「はい……」
 どうして伯父と一緒に罪に問われなかったのかはよくわからないけれど、カーティスはエレンを保護してくれた恩人だ。
 彼のためになにかできるのだとしたら、エレンはなんでもする。
「だったら、今の君にできることが一つ……ある……」
 カーティスは立ち上がると、わざわざエレンの近くまでやってきてから手を差し出した。
「こちらに」
 エレンは差し出された右手にそっと自分の手を重ねる。誘われるようにして向かったのは、エレンの部屋にあるベッドだった。
「……?」
 カーティスはそこに腰を下ろすと、エレンを膝の上に座らせて抱きしめた。
 こんなに二人の距離が近づいたのは初めてで、ドキリとしてしまう。抱きしめる、というのは好きな相手にする行為である気がした。
「君は、大人の男女が夜……なにをしているのか知っているだろうか?」
「健康的な人なら、きっと寝ていると思います」
「……そうだな。だが、それだけじゃない」
 顔が見えなくても、無知なエレンをからかっているのだと声色だけでわかった。
 耳に吐息がかかる距離でささやかれるとこそばゆい。それに体温が急に上昇している気がした。
「いいか、エレン。夫婦となった者は、夜……一緒に眠るんだ。それだけじゃなくて、裸で抱き合って子をなすための行為をする。……閨事(ねやごと)と言うんだが」
「閨事? もしかして、今から私とカーティス様もそれをするんですか?」
「あぁ、そうだ。婚約者だからな……それくらいしても許される」
 カーティスは今から夫婦となるために必要な知識をエレンに与えようとしてくれているのだ。
(そ、そうなんだ……。嬉しい!)
 カーティスは、エレンが街で会っていた娘だとは知らないうちから宝石乙女との結婚を決めていた。
 それはつまりエレン個人が彼に選ばれたわけではなく、街で会っていたエレンに対しては特別な好意を持っていなかったという意味になる。
 もしこの一ヶ月、エレンがカーティスに好かれようと奮闘した結果、彼が夫婦になるために進もうと考えるようになったのだとしたら、喜ぶべき変化だ。
「自分で服を脱げるか?」
「服、ですか?」
 唐突な言葉に驚いて、エレンは聞き返していた。
「そうだ」
「……はい。でも、男の人に裸を見られたらいけないって、昔言われた気がしますが」
 物心ついたときから母はいなかったから、幼い頃、エレンは父と一緒に風呂に入り着替えも手伝ってもらっていた。
 けれど五歳の頃には一人で着替えを済ませろと言われていたし、公衆浴場にも近所で暮らす女性と一緒に行っていた。
 無知なエレンだけれど、一応そのことは覚えている。
「異性に肌を見られるなんて、確かにいけない。けれど、夫となるただ一人の男にだけは許されるんだ」
「そうだったんですね? 知らなかった……」
 常識的に許されるのであれば、エレンにはためらう理由はない。
 さっそく寝間着のボタンをはずしていく。座ったままでは脱ぎにくいため、途中で立ち上がり、脱いだ寝間着は軽く畳んでチェストの上に置いた。
「……下着も、全部だ」
「は、はい。……これでいいですか?」
 待たせないように手際よく、シュミーズとドロワーズを脱いでから、エレンはカーティスのほうへ向き直る。
 裸を見せるなんて大したことではないというのに、カーティスがじっと見つめながらも返事をくれないものだから不安になってしまう。
「あの……私の身体、どこか変だったりしますか?」
 エレンは背が低めで、あまり太陽にあたらない生活を送っていたから色が白い。それでも女性らしい体つきに成長し、胸にも臀部にも肉がついている。
 見た目はきちんと大人の女性に変わっているはずだったが、十年以上他人の裸体など見ていなかったので、誰かと比較することができない。
 だから、じつはものすごく醜いのではないかと考えた。
「いいや、君は美しい。……こちらにおいで、エレン」
 その言葉に安心したエレンは、彼の言葉に誘われて、一歩、二歩と近づく。
 カーティスの右手が伸びてきて、エレンの細い腰を抱き寄せる。そのまま先ほどと同じ、彼に背中を預ける姿勢を取らされた。
(夜に夫婦がすること……。いったいなにを?)
 抱きしめられるのは心地いいし、親切なカーティスがエレンを痛めつけるはずはないともちろんわかっている。
 それでも、これからする閨事がどんなものかがまったく想像できないから、だんだんと心がざわついていった。

 

 

 


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