戻る

憎しみよりも深く、きみを想う 隻腕の騎士と宝石乙女 4

第四話

 

「どうして……?」
 エレンは、窓辺に立つ黒髪の青年から目が離せなかった。
「カーティス様がどうしてここにいらっしゃるの? オルグレン伯爵様? ……私の、結婚相手……?」
 彼がそうなのだろうか。
 けれど、カーティスは目を見開いたまま微動だにしない。だからエレンは、答えを求めてネイサンの様子をうかがった。
「オルグレン卿と知り合いだったのか? だが、おまえは十年以上離れで暮らしていて、人との接触なんてなかったはず。……どういうことだ!?」
 ネイサンもかなり戸惑っていて、エレンを咎めてくる。
「……そんなこと、今はどうでもいいんです!」
 聞きたいのはエレンのほうだった。それに伯父が捕まったというのなら、エレンがこっそり屋敷から抜け出していたことを批判する者はもういない。
 ネイサンにだってそんな権利はないはずだ。
 エレンが語気を強めると、ネイサンは小さく息を吐いてからしぶしぶといった様子で口を開く。
「いいか、エレン……オルグレン卿は」
「バークリー卿。少し二人で話をさせてくれないか?」
 カーティスがネイサンの言葉を遮った。
「しかし!」
「いいから」
 カーティスにそう言われたネイサンは、到底納得がいかないという様子だった。
 それでも上官には逆らえないらしく、しばらくためらったあとに、エレンをひとにらみしてからサロンを出ていった。
「あの?」
 二人きりになりエレンが所在なげにしていると、カーティスが座るようにと促した。
 テーブルの上にはティーセットが置かれていて、彼もそこに近づくと、片手で器用にお茶をいれはじめた。
「……とりあえず、お茶でも飲むといい」
 カーティスはエレンの前にティーカップを置いてから、向かいのソファに腰を下ろした。
「はい」
 エレンにとって、彼は無条件で信頼できる人のはずだった。
 けれど今日は別人のようで、少し恐ろしい。
 勧められたものを飲まないわけにもいかなくて、エレンはカップに口をつけるが、くつろぐ気には到底なれない。
 緊張が伝わったのだろうか。カーティスが今日初めて小さく笑った。
「まさか、君が宝石乙女だったとは。髪の色が違うし、エレンという名はめずらしくもないから考えもしなかった……。だが、君がエレン・バークリーならいろいろと腑に落ちる。……これまで大変だっただろう?」
 彼はエレンが囚われの身であったことを心配してくれていた。
 その言葉で、エレンの中にあった緊張が一気に解けていく。
「ええっと、ネイサンお兄様はあなたが私の結婚相手だって言っていました。本当に?」
「ああ、事実だ。……驚かせてしまってすまなかった。希有な存在である宝石乙女は国王陛下がお決めになった者が守り、生み出した宝石を適切に管理しなければならないんだ」
(私と、カーティス様が……?)
 それは予想もしていない話だった。
 馬車の中で、もう彼に会えないと嘆いた少し前の自分が嘘みたいだった。
 こんな幸運があっていいのだろうか――エレンはそう思ったのだが、ネイサンの言葉が頭をよぎった。
「でも、ネイサンお兄様が……幸せになれないって……」
 あれはどういう意味だったのだろうか。今後、カーティスと一緒にいられるというのに、エレンが不幸になるとは考えづらい。
「それはそうだろう? 気の利かない軍人で、おまけに片腕がないときた。一般的には好まれる結婚相手ではない」
「私は……」
 なにせエレンにはその「一般的」という感覚がよくわからない。
 カーティスが片腕を失ったのは任務の最中だと聞いていたし、それならば名誉の負傷のはずだ。
 努力家で、剣を振るうのに不利であっても、体術や魔法を駆使してそれを補っている。
 たまたま助けたエレンのことが放っておけなくて、世話を焼いてしまうお人好しでもある。
 欠点など一つも持ち合わせていない人に見える。
「いざとなったら敵を排除できる武力。高位貴族にもある程度対抗できる地位。それから、手にした宝石を私的に使わないように……国王陛下への忠誠心のある者。このあたりが条件になっていたはずだ。……そこに君の希望は一つも考慮されていない」
 エレンの望みを無視しているから、ネイサンは不幸だと言ったのだろうか。
 だとしたら、とんでもない思い違いだ。偶然でもカーティスと結婚できるエレンは、とても幸福な人間だと言える気がした。
「それなら、これからは誰かに狙われる心配はないのでしょうか? それともまたどこかに閉じ込められますか? あ、あと……カーティス様は悪いことに魔晶石を使わずにいてくださるのでしょうか?」
 エレンは嬉しくなり、矢継ぎ早に質問をぶつけた。
「落ち着いてくれ、エレン。私は君を閉じ込めるつもりはない。……その力だって、限られた者にしか知られていないのだから、すべてが自由とはいかないまでも、これからは普通の女性として暮らせるはずだ」
「普通の……? 本当ですか!?」
「ああ、もちろんだ」
 それはエレンがなによりも望んでいたものだった。
 とくに最近、鳥籠の外の世界を知ってから、あのまま実父と暮らしていたらあったはずの普通の幸せがどんなものか想像できるようになってしまい、焦がれていたのだ。
 それらが叶うという言葉を聞いて、涙が出るほど嬉しくなる。
「私、魔晶石を生み出すことしかできなくて……。前はこんな力があるせいで閉じ込められているのだと思うと嫌で仕方がなかったですし、悪いことに使われるのなら無属性の魔力なんていらないって思っていました。でも、騎士のカーティス様の力になれるのなら自分が好きになれそうです」
 先ほどまで沈んでいたからこそ、余計に気分が高揚していた。
「宝石乙女の力は……いらない……か。……そうだな、これからその力が悪事に利用されることなんてないから安心するといい」
 カーティスのまなざしはいつも優しい。
 けれど身分が明らかになったせいだろうか。街で会っていた頃より、さらに落ち着いた印象で、感情が読み取りにくくなっていた。
 エレンはカーティスに好意を抱いていたけれど、カーティスのほうはどうだろうか。嫌われてはいない気がしたが、もしかしたら自分だけが喜んでいたのかもしれない。
 それに気づいたエレンは慌てた。
「で、でも結婚って……。カーティス様はそれでいいんですか? 私、世間知らずだから迷惑をかけてしまうかもしれません」
 彼はエレンがどんな女性かを知らないうちから王命によって結婚を決められていた。
 相手が誰だかわからなかった時点では、互いに強要される立場であり対等と言えたかもしれない。けれどエレンの希望だけ叶ってしまったら、カーティスだけが損をしているような気がしてくる。
 彼はエレンが世間知らずで危なっかしいから世話をしてくれただけだ。
 エレンが彼に好意を抱く理由はあるけれど、彼がエレンを好ましく思う理由はほとんどない。
「優しいな、君は。……大丈夫だ。結婚と言っても、身構えなくていい。まずは婚約して、互いを知るところから始めよう」
 優しいのは彼のほうだった。
 互いを知るところから始める――これからは今よりももっと彼のことを知って、そして堂々と好きになっていいのだと思うと、喜びがあふれてくる。
(だったら私も……カーティス様が王命なんて関係なしに、私がいいって思ってくれるように頑張らなきゃ)
 こうしてエレンはカーティスの婚約者となり、オルグレン伯爵邸で暮らすことになった。
 二人を引き合わせたネイサンだけが、いつまでも納得がいかないという顔をしていたが、エレンは放っておくことにした。
(これまで助けようともしてくれなかったくせに、突然現れて嫌なことばかり言うんだもの! もうネイサンお兄様なんて知らないわ)
 ネイサンからすれば、エレンがいなければ父親が欲望に心を支配されることもなく、男爵家が危機に陥ることもなかったという思いがあるのかもしれない。
 けれど、一度だって選択肢を与えられていないエレンにとって、ネイサンの態度はとにかく理不尽でしかなかった。
 昔はそれなりに仲がよかったはずの義兄の変化に腹を立てつつ、エレンはカーティスとの今後の生活を考えることで、なんとか感情を爆発させずにいられた。


 ◆ ◆ ◇ ◆ ◆


 伯爵邸での暮らしは、エレンにとって夢のようなものだった。
 エレンが宝石乙女だという事実は使用人にも秘密だ。知っているのは国王と一部の騎士くらいだという。
 対外的には、身体が弱くてあまり外に出ていなかったバークリー男爵家の養女が、最近快復し、義兄と親しいカーティスの婚約者になった――という説明がされた。
 事情を知らないからこそ、使用人たちはエレンをただの令嬢として扱ってくれる。
 世間知らずで、貴婦人が身につけておかなければならない教養も足りていないエレンだが、そのあたりも病弱だったという理由で納得してもらえている。
 カーティスの婚約者になってから一ヶ月。
 朝食の時間、エレンは今日の予定を彼に語った。
「カーティス様、今日はスミス先生が来てくださるんですよ。とっても楽しみです」
 ミセス・スミスはカーティスが手配してくれた家庭教師の一人で、語学やマナー、歴史などを教えてくれる女性だ。
 エレンは博識な彼女が紹介してくれる本がお気に入りだった。
「あぁ、そうだったな。……エレンは学ぶのが好きか?」
 カーティスは穏やかで優しい人だけれど、時々悲しそうな顔をすることがある。もしかしたら教養のないエレンを哀れんでいるのかもしれない。
 そんなとき、エレンは気づかないふりをしていっそう明るく振る舞うように心がけている。至らぬ身だから、できるだけ負担をかけたくないのだ。
「はい、もちろんです。とくに語学と歴史が好きなんです」
「よかったな、エレン」
 エレンは笑顔で頷いた。
 この十年。エレンの楽しみといえば刺繍と読書だった。
 そして伯爵邸で暮らすようになってから、趣味の読書すらじつは制限されていたのだと知った。
 エレンが暮らす離れに用意されていたのは、当たり障りのない物語ばかりで、十八歳の娘が読むにはふさわしくない子供向けの本だったらしい。
 裏口の鍵を手に入れてからは、街の本屋で自由に本を買える状況だったはず。それなのにエレンは、無意識に普段と同じような本しか買っていなかった。
 ここに来て、カーティスやミセス・スミスが薦める本を読んでみて初めて、エレン自身が成長しようという気持ちを自ら手放していたのだと気づいた。
 今でも子供向けに書かれた物語も好きだが、もっといろいろな知識に触れたいと思えるようになった。
 伯父の呪縛から解き放たれた気分だ。
 彼はきっと、エレンが年相応の思考を持って、彼の命令に反発するという事態を避けるために、エレンの心さえ操っていたのだろう。
(カーティス様は伯父様とはぜんぜん違う。今からでも間に合うとおっしゃって、先生を三人も雇ってくださったわ)
 ミセス・スミスのほかにも、ダンスと楽器の演奏はそれぞれ専門家がエレンを指導してくれる。
 こっそり街へ行くようになってから、エレンは自分に常識がないことを知ったのだが、改善しようという気にはそこまでなっていなかった。
 だが教師から学問を教わるにつれて、だんだんと自分が恥ずかしい存在に思えてきた。
 文字は綺麗に書けないし、複雑な計算はできない。この国の歴史や貴族に関する知識にも乏しい。食事のマナーも最低限で、歩き方は優美さの欠片もない。
 落ち込むことばかりだけれど、それに気づけたのが第一歩だと考えていた。
「ところでカーティス様。今日のお帰りはいつ頃ですか?」
「昼間の勤務だから、なにもなければ夕方には帰れるはずだ。遅くなるようなら知らせを出すようにしよう」
「夕食もご一緒できたら嬉しいですが、ご無理はなさらないでくださいね」
 カーティスは都の治安を守る騎士で、部隊の隊長を務めている。階級が上がるほど事務仕事が増えて夜勤は少なめになるようだが、それでもなにか大きな事件などが起こると丸一日帰ってこない場合もある。
 できるだけカーティスと一緒にいたいと思うエレンだが、わがままは言わないように注意していた。
「ああ。エレンのほうも、私が遅くなったら先に食事を済ませておきなさい。……料理人やメイドにもそう伝えておく」
「はい」
 朝食を終えたカーティスは立ち上がり、エレンの頭をポンポンと撫でてからダイニングルームを出ていった。
(どうしてかしら? ……最近、カーティス様に触れられるとくすぐったくて、なんだかふわふわする)
 これが幸せというものなのだろうか。
 だとしたら、未熟なエレンは彼になにを返せるだろうか。
(やっぱり、魔晶石を生み出すことしか、今の私にはできないわ)