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崖っぷち女学者ですが、甘くて危険な男を買いました 1

第一話

 

 男。
 男が欲しい。
 知性的で、堂々としていて、でも優雅に振る舞える立派な大人の男。
 いま、この場にそんな男がいてくれたらどんなにいいだろう?

「クラリッサ。今日、僕がこのボロ家に来た理由……わかっているんだろうな!?」
 ここはウェルディック王国、王都のはずれにある一軒家。
 クラリッサ・ハチェットは従兄のモーリスの怒鳴り声を聞きながら、どうやってこの場を切り抜けようか考えていた。
「クラリッサ! 聞いているのか!?」
「ええ、ええ。聞いているわ。聞いていますとも」
 クラリッサがおざなりに頷くと、モーリスはこちらに人差し指を突きつけた。
「では荷物をまとめろ! 君には今日からフローリー伯爵邸に移ってもらう!」
 彼の話を聞いてはいた。しかし、だからと言って従うつもりはない。クラリッサは椅子に腰かけたまま、モーリスを見あげて首を横に振った。
「だから、それはできないのよ。ほら、私はこの家の……留守を預かっているから」
 そう告げると、モーリスは苛ついた様子で狭い客間を歩き回る。そしてクラリッサのいるテーブルの前に戻ってくると、忌々しげにため息をついた。彼はテーブルの上に置いてあった本を手に取り、その表紙に記された文字を読みあげる。
「『ディアルス丘陵の地層と化石について ジェイド・ストークス著』──この本を書いたジェイドという男は、君の父親の弟子だという話だったな? 伯父上は、亡くなった際にこのボロ家や蔵書を愛弟子のジェイドに相続させた……と、そう聞いているが」
「ええ、そうよ? そのとおりだけれど……」
 ここはボロ家ではない。確かに古いし伯爵邸に比べたらひどく狭いが、ボロ家ということはないのだ。この家にはクラリッサに必要なものがほぼすべて揃っている。自分にとってはお城に等しい。そう言い足そうとしたが、モーリスは理解を示さないだろう。それがわかっていたからクラリッサはそこで言葉を切った。
「そして君はジェイドの助手をしていると言ったな?」
「ええ……」
 クラリッサは頷いた。
「それで? ジェイドとやらはどこにいるんだ?」
「言ったでしょう? 留守にしているの……研究を兼ねた旅に出ていて」
「いつ、帰ってくるんだ?」
「それは……わからないわ」
 そう答えると、モーリスは眉間にしわを寄せてクラリッサを見下ろした。
 氷のような水色の瞳に射貫かれている気がして、クラリッサは彼から目を逸らす。
「クラリッサ、なぜこちらを見ない? 君は嘘をついているんじゃないだろうな?」
「う、嘘なんかついていないわよ……」
 こめかみに冷や汗が滲んでいる気がする。けれどもそれを拭ってしまったら、モーリスはますます訝しむだろう。クラリッサは思い切って彼と目を合わせた。
「では、なぜジェイドという男はいつも留守なんだ?」
「いつもというわけではないのよ。研究旅行が一段落するたびに、ちょくちょく帰ってきているわ」
「僕はジェイドに一度も会ったことがないが?」
「それは、きっと、そのー……あなたのやってくるタイミングが悪いだけじゃない?」
「……いい加減にしてくれ!」
 モーリスは手にしていた本をテーブルに叩きつけるようにして置く。テーブルの上に載っていたお茶のカップがガチャンと音を立てた。
 こんな扱い方をしたら本が傷んでしまう。それに、本にお茶がこぼれてしまったら大変だ。さすがにクラリッサは異議を唱えた。
「ねえ、本を乱暴に扱うのはやめてちょうだい?」
「やかましい! クラリッサ、君の言い分は無茶苦茶だぞ! まず、君が……一族の女が学者の下で働くなど、フローリー伯爵家の当主として認められない!」
「あら。お父様は認めてくださっていたわ」
 クラリッサの父親アーロンは先代のフローリー伯爵であり、また学者でもあった。いろんな土地に行って、いろんなものを見て、わかったことをまとめて本にしたり、講演を行って発表したりするのである。
 幼い頃に母親を亡くして以来、クラリッサはいつも父親の旅に同行していた。ズボンと登山靴姿で山道を歩いたこともあるし、腰まで水に浸かりながら川を渡ったこともある。そして父が論文や本を書いているときは、助手としてその手伝いをしたものだ。
「それは父娘だから許されていたことだ! それに、先代ははっきり言って異端だ! 女に学者のまねごとをさせるなど……ありえない!」
「……でも、エルツラント王国には女性のための教育機関があったわ。いいえ、女性だけでなく、なんと庶民も学校に通うことを許されていたのよ」
 クラリッサは思わず言い返す。それはこのウェルディックのすぐ北にある国の名前だ。
 モーリスは鼻で笑う。
「エルツラント? 十年も前にクーデターで滅びた国だろう? 女の教育などと馬鹿げたことをやっているから滅びるんだ!」
「あら、クーデターは確か……六年ほど前だわ。それに、女性を教育したせいで滅びたわけではないのよ?」
 クーデター以降、エルツラントの情報はあまり入ってこなくなったので、詳しいことはよくわからない。ただ、軍が王党派と共和派の二つに分裂したことが原因だと言われている。
「付け加えると、滅びたのは王朝であって国自体は共和国として……」
「クラリッサ、口答えはやめろ!」
 モーリスは自分の拳でテーブルを叩く。クラリッサは俯いた。
 このウェルディック王国には「女は簡単な読み書きができればじゅうぶん」「女が知恵をつけると碌なことにならない」という考えが根づいている。女の身では学校に通うことも、政治に参加することも、思想を語ることもできなかった。たいていの女はちょっとした読み書きを習ったら、あとは花嫁修業をし、家長が決めた相手に嫁ぐ。
 だがアーロンの考え方は違った。彼は娘にあらゆる分野の本を与え、さらに自分の研究を受け継がせようとしたのだ。周りの人たちはアーロンのことを「異端」とか「変わり者」と呼んだ。アーロン本人はそんなことを気に留めず、クラリッサの好奇心や知的欲求を尊重してくれていた。
 しかし四か月ほど前、事情が変わった。アーロンが亡くなったのだ。伯爵位はモーリス──アーロンの弟の息子──が継ぐことになり、伯爵邸や領地はモーリスのものになった。
 それでもアーロン個人がクラリッサに遺してくれたものは多くある。
 まずはこの家。ここはアーロンが仕事場として使っていた建物だ。アーロンもクラリッサも、伯爵邸よりはこちらに滞在することが多かった。だからクラリッサの実家と言ってもいいくらい馴染みがある。新しくはないが、クラリッサが住むにはじゅうぶんな家だった。
 それから死ぬまでに蒐集した大量の本や資料、覚え書き。自分の著書。虫や葉っぱの化石。変わった模様の石。クラリッサは時折これらを取り出して眺め、父を偲んでいる。
 アーロンが遺してくれたものはまだある。
 彼は自分の身体が死の病に蝕まれていることを悟ると、クラリッサが一人でも生きていけるように取り計らってくれたのだ。
 アーロンは「ジェイド・ストークス」という架空の学者の存在を作りあげ、亡くなる前にジェイドとの共著を発表し、彼の銀行口座も作った。
 共著を三冊ほど発表した後で父はこの世を去ったが「ジェイドはアーロンの弟子である」と、世間の研究者たちは認識してくれたようだった。
 クラリッサは「ジェイド・ストークス」の名を隠れ蓑にして、女一人ではできないこと──本を書いたり、異国から資料を取り寄せたり──をやっている。先ほどモーリスが手に取った本は、つい先月出版されたものだった。もちろん、中身を書いたのはクラリッサである。
 自分が研究したことを自分の名で発表できない歯がゆさはある。ジェイドの名で公開した論文が認められても、クラリッサは決して表に出られないのだ。
 それでもクラリッサは女の自由が許されていないこの国で、自分なりの自由を満喫していた。
 モーリスに「ジェイドに会わせろ」としつこく詰められるまでは。
 先月までは爵位の引き継ぎにまつわる諸々でモーリスも忙しかったようで、彼と顔を合わせる機会はほとんどなかった。しかしそれが一段落したらしい。
 彼ときたら事あるごとに保護者面でこの家にやってきては、クラリッサの生活環境について小言を言っていく。これまでは彼の追及をのらりくらりと躱してきたが、それも苦しくなってきたところだ。
 クラリッサが大人しくなったので、モーリスはこちらを説得した気になったのだろう。彼は得意顔でクラリッサの手を引っ張り、立たせる。
「一族の女が誰かの下で労働しているなんて、世間体が悪いからな! 君は、僕と一緒にフローリーの屋敷に帰るべきだ」
「ろ、労働といっても、学問に関わることだわ。私がやっているのは本棚の整理とか書類の清書とか……そういう類のことよ」
「まだわからないのか? それは使用人がやることだろう? 労働と同じだ。そもそも、学問は女の仕事ではない!」
 この国でも働いている女性はたくさんいる。針子、食堂の給仕、宿屋の従業員、それに娼婦。だが一定以上の階級の女性になると、職業の選択肢はほぼなかった。王宮で侍女をやるくらいだろうか。
「君の荷物は……そうだな、後で使用人に取りに来させよう」
 モーリスはクラリッサを玄関のほうへ引っ張っていこうとする。クラリッサは足を踏ん張って抵抗した。
 いまモーリスの屋敷──元々は父とクラリッサの住まいの一つであったが──に連れていかれたらおしまいだ。きっと彼はクラリッサが学ぶことを許さない。本も取りあげられてしまうに違いない。そのうえ「伯爵家のためだ」などと言って、クラリッサを政略結婚の駒にしようとするかもしれない。
「ま、待ってよ。いま私がいなくなったら、その……ジェイドが帰ってきたときに不便をかけるわ」
「置手紙を書いていけばいいだろう。そもそも、男の家で住み込みをしているのがおかしいんだ! いいか、君は未婚の女なんだぞ!?」
「男の家と言っても、ジェイドはほとんど家にいないのよ。だから、私は一人暮らしのようなもので……」
「それはそれで良くない! 未婚の女の一人暮らしも大問題ではないか! 君には保護者が必要だ!」
 モーリスは顔を真っ赤にして怒鳴っている。クラリッサは彼のこういうところが昔から好きではない。すぐに感情的になって声を荒らげるし、年齢は一つしか違わないのにやけに居丈高に振る舞う。伯爵位を継いでその性質は増長したように思える。そんなモーリスの管理下に置かれるなんて、とんでもない話だ。
「保護者だなんて……私、もう二十七歳なのよ?」
「それでも、未婚の女であることには変わりないだろう!」
 モーリスに引っ張られながらクラリッサは一生懸命考えた。
 ああ、男が欲しい。
「ジェイド・ストークス」を完璧に演じてくれる男……モーリスを納得させてくれる男が。
 そんな男の人が、ぱっと目の前に現れてくれたらどんなに助かるだろう。
「このまま一人暮らしなんて続けてみろ。世間知らずの君はすぐに騙されて、人買いにつかまって、奴隷として売り払われるかもしれないな!」
「…………」
 奴隷。……奴隷?
 クラリッサはその言葉を頭の中で繰り返す。
 モーリスはクラリッサから手を離すと咳払いをした。
「まあ……そうだな。僕たちも互いにいい年齢だ。これを機に、君を、も、もももらってやらないでもないが?」
 彼は何かを言いながら玄関扉を開け、外に出てこちらを振り返り、改めて手を差し出した。
 追い詰められて焦るあまり「モーリスを納得させてくれる男がこの場にいてくれたら」なんて夢みたいなことを考えてしまったが……奴隷ならば調達できるのでは?
 クラリッサはそこでバタンと扉を閉めた。
「えっ? お、おい! クラリッサ!!」
 外からこじ開けられる前に施錠し、クラリッサは扉の向こうのモーリスに向かって大きな声で言った。
「思い出したわ! ジェイドから、週明けに王都に戻るという便りをもらっていたの!」
「な、なんだと……!?」
「週明けにもう一度来て。そのときにジェイドを紹介するわね。とても立派な方だから、あなたも納得するはずよ」
「おい、ここを開けろ……クラリッサ……!」
「ジェイドが戻ってくるまでに、清書しておく書類があるのよ。私、忙しいの。悪いけど、今日はここまでにしてちょうだい」
 クラリッサはモーリスにそう告げて、一階の奥にある書斎へ向かった。そこで机の上に置いてあった暦を手に取る。
 先ほど口にしてしまった週明けまであと数日しかない。
「奴隷……」
 クラリッサは小さな声でその言葉を口に出す。
 たぶん、職業紹介所を経由して男性使用人を雇い、その人にジェイドを演じてもらうのが無難だろう。しかしクラリッサ一人ではそれは無理だ。この国では、保証人もいない未婚の女が使用人を雇うことはできなかった。
 表向きにはクラリッサの保証人はジェイドということになっているわけだが、ジェイドに実体はない。職業紹介所の職員に保証人を連れて来いとか、ジェイドの身分証明書を持って来いとか言われると途端に詰んでしまうのである。
 けれども奴隷ならばどうだろう?
 これまで父やクラリッサが奴隷を買ったことはなかった。でも、旅先では農作業をする奴隷たちを何度も目にしている。彼らは雇用契約を結んで働く使用人とは違い、主人の所有物になるのだとか。
「契約」でなく「買い物」ならば、女一人でも可能だ。
 人を買うことに抵抗がないわけではない。だが、これしかない気がした。
 クラリッサは顔をあげる。
 先ほどまで扉を叩く音とモーリスの怒鳴り声が聞こえていたが、いまはもう聞こえない。おそらく今日のところは諦めて帰ったのだろう。
 でも彼は週明けにまたやってくるはずだ。
 それまでに「ジェイド・ストークス」を用意しなくては。
 できれば学者のように知的に振る舞える男。モーリスを納得させてくれるような立派な男を。

 

 

 

 翌日、クラリッサは市場の最奥部にある天幕を目指して歩いていた。
 こうして市場に来ることは度々あった。「主人であるジェイドに買い物を頼まれた」風を装って使用人のような質素なローブを纏い、屋台や天幕を見て回るのである。
 だからどのエリアになんの店が出ているか、だいたいわかっていた。奴隷商の天幕が、市場の奥にあることも。
 天幕の入り口まで来ると、クラリッサは深呼吸した。
 この中で奴隷が売られている……はずである。
 これから自分はその奴隷を買う……つもりである。いや、買う。
 もう一度深呼吸して覚悟を決めようとしたとき、天幕の入り口の布が内側から持ちあげられる。クラリッサは驚いて一歩下がった。
「マダム。奴隷が必要なのかい?」
 そう声をかけてきた奴隷商人は、金の髪を後ろにぴったりと撫でつけ、ピカピカに磨かれた革靴を履き、質の良い上着を羽織っている。身なりだけなら上流階級の人間に見えた。
 しかしやたらとぎらついた瞳が、彼が堅気の人間ではないことを物語っている。例えばいま突然戦が始まり、目の前で罪のない人々が殺されていっても、彼は眉一つ動かさずに自分の財産だけを持ってどこかへ消えるだろう。そんな空恐ろしさがある。
 そういった類の人間と、取り引きしても大丈夫なのだろうか。
 クラリッサは怯んでしまったが、商人は笑顔で言い足した。
「この国一番の奴隷商、ギャリー商会へようこそ。探しているのは男? 女?」
「お、男の人……」
「わかった、男ね。どうぞ」
 ギャリーと名乗った商人は笑顔でそう言い、クラリッサを天幕の中へと招く。クラリッサは促されるままに足を踏み入れてしまった。
 天幕の中はランプがたくさん灯されていて意外と明るく、お香の匂いが立ち込めている。ギャリー商会のタペストリーも側面に吊るしてあった。物珍しさに先ほどまでの警戒心をすっかり忘れてしまう。クラリッサが周辺を見回していると、ギャリーが言った。
「マダム。予算は? ……失礼だけど、お金はあるんだろうね?」
 ギャリーはクラリッサが纏っているシンプルな外套が気になっているようだ。確かにこれは、お金を持っている人が身に着ける生地ではない。
 クラリッサは外套の内ポケットから金貨が入った革袋を取り出した。奴隷の相場がわからなかったので、たくさん用意してきている。
 袋の中身を目にしたギャリーは意外そうに片方の眉を上げたが、すぐに頷いた。
「なるほど。あなたは何かワケありの貴婦人のようだ。それだけあれば三十人は買えるよ」
「そんなに必要ないわ。一人いれば、それで」
「うん、理由は聞かないよ。好きなのを選んでいくといい」
 恐ろしい会話をしている気がする。でも話が早くて助かる。
 ギャリーが仕切りのカーテンを開けると、その奥には男が十数人座っていた。皆上半身裸で、腰に布を巻き付けただけの恰好をしている。
 彼らの左腕には刺青が入っていた。何かの記号のような柄だった。きっと、奴隷を識別するための刺青なのだろう。それに、彼らの両手には枷がついていた。
 同じ天幕の中なのに、クラリッサとギャリーが立っているエリアと、奴隷たちが待機しているエリアの雰囲気はまったく違う。空間の異質さに圧倒され、クラリッサは立ちすくんだ。
 しかしギャリーのほうは慣れた様子で手を打ち鳴らした。
「おい、おまえたち。客人だ。ほら、右端の奴から立って、マダムに身体を見せるんだ」
 ギャリーは奴隷たちにそのように命令し、今度はクラリッサに向き直る。
「右から三番目の男は見てのとおり、右腕の肘から先がない。左端の男は、左手の指四本が強張っていて動かない。その分、彼らの値段は安くしておくよ」
 右手のない男には、当たり前だが枷はついていなかった。ギャリーの説明を聞きながら、クラリッサは奴隷たちが裸に近い恰好である理由を悟った。たいていの奴隷は農作業や力仕事に従事していると聞く。だから五体満足で力持ちであることが重要なのだ。彼らが健康で強靭な身体を持っているのだと、買い手にアピールしなければ高い値が付かない。そういうことだ。
 クラリッサはふと考える。
「ジェイド・ストークス」がどのような男であれば、モーリスは納得するのだろうか。いっそのこと、よぼよぼのお爺さんを用意してみようか。それならば「これでは何も間違いが起こりようがない」とモーリスも納得するだろう。
 この中で一番年をとっている人は誰かと訊ねようとして、クラリッサははたと気がついた。ジェイドはアーロンの弟子という設定である。クラリッサの父親よりも年上の男では不自然だ。それにそんな高齢者が、研究を兼ねた旅にしょっちゅう出かけているのもおかしい。
 ジェイドの年齢や容貌について思案を巡らせつつ、クラリッサは一人一人奴隷を観察する。
「どう? 気に入った奴隷はいるかい?」
 ギャリーに問われ、クラリッサは答えに困って俯いた。
 彼らはここへ売られる前も、奴隷か、それに近い職業だったのだろう。指が節くれだっていて、手の甲には日焼けによるシミが多くあり、爪が内出血してどす黒くなっている者もいる。全員が「労働者の手」をしているのだ。
 アーロンも土を掘り返したりしていたので、貴族にしてはごつごつした手だったが、それでも彼らのような感じではなかった。
 手だけの問題であれば、手袋で隠せる。しかし歯が欠けている者も多かった。
 これではどんなに着飾らせても、学者や研究者には見えないだろう。
 それに、そうだ。大事なことを忘れていた。読み書き。ジェイドについての設定は頭の中に叩き込んでもらえればそれでいいが、モーリスが彼の著書や研究について質問してきたりしたら……。見栄えよりも、こちらのほうが重要だ。
 クラリッサはギャリーに訊ねた。
「あの。読み書きができる方はいらっしゃる?」
「……読み書き?」
 ギャリーは怪訝そうに呟いた。
 クラリッサは再び俯く。奴隷に読み書きを求めるのは、おかしいことなのかもしれない。
 こうなったら、もう仕方がない。ここでは職業紹介所につれていくジェイドを買う。雇用主を演じてもらうために。そして職業紹介所で改めてジェイドを雇う。モーリスの前で学者を演じてもらうための。紹介所を介しての使用人ならば、読み書きできる人も見つかるはずだ。
 つまりジェイドを雇うために、別のジェイドを買うのである……もう、自分でも訳がわからなくなってきたが、それしかない気がした。
 そのとき、ギャリーがくすっと笑った。
「マダム。もしかして、あなたは『哲学者』をお求めだった?」
 その問いに、クラリッサはパッと顔をあげた。
 学者。
 そう、自分が求めているのは学者っぽい男性だ。ある程度中身も伴ってくれていると大変有難い。どうして哲学者に限定されているのかはよくわからなかったが、インテリ風の男性なら大歓迎である。クラリッサは何度も頷く。
「ええ! そうなの。そうなのよ」
「なあんだ。それを早く言ってくれないと! 『哲学者』は別の天幕になるよ」
「ええ、ごめんなさいね……?」
 ギャリーは天幕の奥にあった出入り口の布を上げた。ここから別の天幕に繋がっているらしい。クラリッサは彼の後に続く。ほんとうに、どうしてピンポイントで哲学者なのだろうと不思議に思いながら。

 案内された奥の天幕の中にも、お香の匂いが立ち込めている。ただ、先ほどの天幕はローズマリーのような爽やかな香りだった。この天幕の中はムスクの香りがする。色ガラスを使ったランプが所々に配置されていて、それが妖しげな雰囲気を作りあげていた。
「おおい、お客様だ」
 ギャリーは薄いカーテンで仕切られた向こう側に声をかけ、そのカーテンを開ける。
 カーテンの先には、なんとも退廃的な光景が広がっていた。
 男が三人おり、銀色の髪をした男はふかふかのラグの上に身体を横たえたまま、ちらりとクラリッサに視線をよこす。そして興味なさそうにすぐに視線を逸らした。
 左端には木製のベンチがあり、そこでは金髪の男性がキセルをふかしていた。彼は女性と見紛うような繊細な容貌をしていたが、肩幅は立派だし、その胸は平らだった。金髪の彼はクラリッサのほうを見もしなかった。
 もう一人の黒髪の男は、一人がけのソファに座っていた。長い足を見せびらかすように組み、気怠げに身体を背もたれに預けている。黒いビロードのアイパッチで左目を隠しており、それがクラリッサの興味を引いた。
 三人とも上半身は裸で、左腕に刺青がある。でも手枷はついていなかった。
 それにしても、この異質な空間はなんなのだろう。
 先ほど目にした奴隷たちは、怯えている者、心を閉ざしている者、すべてを諦めてしまっているような者ばかりだった。明日をも知れぬ身の上なのだから、そうなるのは当たり前だ。でも彼らに同情していたら、こちらの身も持たない。直感的にそう悟ったので、クラリッサは自分の都合だけを考えて彼らを検分した。
 しかしこの天幕にいる奴隷たちは、なんだか違う。まるで「選ぶのはこちらだ」と言っているかのように尊大な態度である。自分以外の何事にも無関心に見えた。
 先ほどの天幕の男たちとの違いはまだある。体格だ。最初に案内された天幕にいた奴隷たちは、労働者然としたしっかりした筋肉がついている者もいれば、がりがりにやせ細った者もおり、両極端だった。
 でもここの男たちは皆、滑らかな美しい筋肉を纏っている。顔立ちもまるで芸術品のように整っていた。そういえば天幕の中にある調度品も、こちらのほうが豪華である。
 立ち尽くしているクラリッサに、ギャリーは言った。
「いま、うちにいる『哲学者』はこの三人だけだ。一、二週間したら新しいのが入ると思うけど……いまいる奴らが、そのときまで売れ残っているかどうかはわからないよ」
「そ、そうなの……?」
「ああ。それから『哲学者』の相場は、だいたい普通の奴隷二、三十人分ってところだね」
「……値段って、そんなに変わるものなの?」
「そりゃそうだよ。彼らはマダムに本を読んであげたりできるし、楽器の演奏もできるからね……もちろん、本来の役割もばっちりだ」
「え、ええ……?」
 本来の役割とは、哲学のことだろうか。クラリッサは曖昧な相槌を打った。
 クラリッサは学ぶことが大好きだが、哲学という学問はどうもピンとこない。漠然とした難しいことを、しかもはっきりした答えが出ないようなことを考えて考えて考え抜いているという印象だ。ここにいる彼らは、哲学について講義を行ったり論文を書いたりしているのだろうか?
 クラリッサはもう一度天幕の中を見回す。知識のある人に高値が付くのは理解できるのだが、はっきり言って彼らは学者には見えない。しかしどことなく高貴な雰囲気は漂っている。彼らに対してしっくりくる表現は「堕天使」あるいは「爛れた生活を送る貴族のドラ息子」というところだろう。
 再度、隻眼の奴隷を見つめた。少し伸びた黒髪はしっとりした艶がある。がっちりした肩に、分厚い胸板。簡素な恰好をしているというのに、いまの時点ですでにゴージャスだ。彼を着飾らせたら、どんな風になるのだろう。
 するとクラリッサの視線を感じたのか、彼がこちらを見た。
 ムスクの香りが漂う空間で、二人の視線が絡む。彼の右目は美しい青色だ。
 しばし見つめあった後、彼は何かを問うように首を傾げた。
 挑戦的で、ひどく危険で、それ以上に色気のある仕草だった。
 クラリッサはぞくっとした。彼のことが恐ろしかった訳ではない。寒気とも違う。この感覚がなんなのか確かめたかったが、隻眼の彼をもう一度じっくり見つめる気持ちの余裕はなかった。
「誰にするか決まったかい? それとも、今度にする?」
 ギャリーの問いかけに、クラリッサは小声で答える。
「ねえ。あの眼帯の人……いくら?」