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このたび、ゼロ日婚いたしました。2 蜜月な冒険者夫婦は運命を知る 3

第三話

 

「マリーネ様、どうか落ち着いてください」
 ラウラの声で、ヒルダは我に返った。
 母は彼女に支えられつつ上半身を起こして、恐ろしい形相でこちらを──正確には、オズワルドを睨めつけていた。
「お母さん、いったいどうしたの」
 その問いを捻り出すので、ヒルダは精一杯だった。
「ヒルダ、その男から離れて……」
「彼が私の夫になったオズワルドよ! 結婚したの、私!」
 手紙は、ラウラが母に渡していたはずだ。起き上がれないときは、読み聞かせてくれていると思っていた。
「まさかと思った……でも……お前は間違いなく……っ!」
「失礼ですが、お会いしたことが?」
 冷静な声で、オズワルドが訊ねた。すると、目をつり上がらせていた母が、ハッとしたように、視線を伏せた。
「──……」
 何かいいたげな様子だったが、それ以上言葉が出ないようだった。
「あ、あのさ、お母さん。事後報告になっちゃったんだけど、私、結婚したんだよ」
「ええ、知っているわ。手紙を読んだもの」
「えーと、こちらがその、私の夫なんだけど……」
 母は怒っている。
 少なくとも、オズワルドに対して敵愾心を剥き出しにしている。
「あのね、お母さん。勝手に結婚してしまったことは謝るけど、私の大事な人にいきなり失礼なこと、いわないでほしかったな」
「…………」
「何か事情があるの?」
「……いいえ」
 苦虫を噛み潰したかのような顔をして、母はか細い声でいった。
 そして、ゆっくりとした動きだが、ヒルダとオズワルドのほうに向き直った。
「──魔力が流れ込んでくる感覚。あれは、あなたですか」
 お前から、あなたに変わった。
 落ち着いてくれたならよかった、とヒルダが安堵していると、オズワルドが「そうです」と答えた。
「……そう、ですか。……失礼しました」
 急に改まって謝り、マリーネが頭を下げた。
 だがヒルダには、まだ母がオズワルドに対して、強い警戒心を抱いているのがわかった。目が笑っていない。
 あんなにも優しかった母の、初めて見る顔だった。
「お母さん、いったいどうしたの」
「──でも、オズワルドさん。ヒルダとあなたの結婚を、私は認めません」
「! ちょっと!」
 ヒルダは、がばっと母の肩を掴んだ。
「確かにっ、いきなり結婚しましたっていうのは急展開だったと思うけど、でも、なんでそんなにオズワルドを邪険にするの」
「ヒルダ、やめるんだ」
「でも、オズワルド! 私の好きな人のこと、こんな風に扱われて、たとえお母さん相手でも嫌だよ」
「御母堂の顔をよく見なさい」
 オズワルドがあいだに割って入った。見れば、母が痛そうに顔をしかめていた。
「……ごめん」
 そっと、ヒルダは手を離した。
「いいのよ、ヒルダ。でもね、やっぱり……」
「だから、なんでなのよ」
「……なんでも、よ。とにかく、結婚を許すつもりはないわ……」
 母はこんなにわからず屋だっただろうか。
 病──厳密には、そうではなかったが、体調不良が続いたせいなのか。母はずっと、明るくて優しくて、ヒルダがしたいことを決して止めはしなかったのに。
(急に結婚した……というのは、やっぱり、親としては認めづらいのかな。でも)
 初対面とはいえ、こんなにもオズワルドに敵愾心を向けるのは、違和感しかない。
「──御母堂。私は失礼します」
 オズワルドは向き直って、マリーネに深く頭を下げた。
「オズワルド……っ!」
「ですが、私はお嬢さんを大切にしたいと思っています。そして、別れるつもりは微塵もありません」
 オズワルドが、断言した。
 母の頑なな態度に冷えていた心が、じんわりと温かくなる。
「……信用できないわ」
 しかしオズワルドの誠意は、母には届いていない。
「そうですか……すみません、では、俺はこれで失礼します。信じていただかない限り、ここにいる資格もないでしょうから」
 そう告げると、オズワルドは踵を返して、扉のほうへと向かっていった。
「ちょっと、オズワルド、待って!」
「ヒルダ!」
 背後から声をかけられて、ヒルダは思わず立ち止まった。
「お母さん、なんであんなこというの。オズワルドは私の大事な人なのに」
「……どうしてもよ。さあ、ラウラにお願いして、部屋を用意してもらうから、こっちへきなさい」
「いやよ」
 ヒルダはきっぱりと拒絶した。
「わからず屋のお母さんとは、一緒にいたくない」
「ヒルダ……」
 今すぐ、オズワルドを追いかけたい。
 しかし、母がなぜこんな態度をとるのかも気になる。
(大丈夫、よね? オズワルドなら……)
 今すぐ駆け出したいのをぐっと堪えて、ヒルダは母に向き直った。
「せめて理由を聞かせて。ちゃんとした理由を」
「目が覚めて、娘がいきなり結婚なんて、受け入れられないわ」
 平然と、母はいってのけた。
「お母さんが病気じゃないって見抜いて、助けてくれた。それで充分でしょ」
「困っている人を助けるのは当たり前だと、昔からヒルダには教えていたはずよ。それは生きていくうえで最低限のことで、それだけで判断はできない」
 屁理屈だ。
 ヒルダは、今にも煮えたった血が噴き出そうなほど、頭のなかが熱くなった。
「その当たり前ができない人だって、たくさんいるんだよ。少なくともオズワルドはできているよ」
 第一、と、ヒルダは詰め寄った。
「助けられたら感謝する。お母さんはそう教えてくれたはずよ。なのに、恩人のオズワルドを追い出すの?」
 その言葉に、マリーネは唇を結んで沈黙する。
 すると、ラウラが「まぁまぁ」とあいだに入ってきた。
「それぐらいになさって。せっかくヒルダ様が里帰りをして、マリーネ様もこうしてお目覚めになったのですから」
 ラウラに椅子を勧められ、ヒルダはしぶしぶながら、腰を下ろした。
 婚姻のリングが温かい。オズワルドに何も異変が起きていないことの証拠だ。
 マリーネはベッドから降りなかったが、ヒルダがそのまま椅子に座っていると、ラウラがハーブティーを淹れてくれた。
 ひとまず、ほっと一息をつく。
 カッと熱くなった頭が、少しずつ冷静になっていく心地がした。
 だが、次の母の一言がまた、ヒルダの心に火をつけた。
「──ヒルダ。このまま、戻ってきなさい。この村に」


  ***


 オズワルドは後悔していた。
 ヒルダを置いてきてしまったことを。
(しかし、あの場で立ち去らんと、御母堂も納得しないだろう)
 なにゆえ、マリーネがこちらをああも仇のように扱うのかわからなかった。
(……俺が倒してきたモンスターのなかには、人に近い者もいなかったわけではないが)
 だが、大抵はまともに意思疎通ができない魔物たちだ。
 どこで恨みを買っているかなど、完全には把握できない。
 それに冒険者をやっていれば、多少なりともやっかまれたり妬まれることもあり、その繋がりでマリーネにとって不愉快な存在になっていたのだろうか。
(考えても詮のないことだ)
 理由をまともに教えてもらえない以上は、当て推量しかできない。無闇に思い悩んだとて、見当違いの答えに着地する可能性のほうが高い。
 ヒルダの母親が無事に回復したことは、何よりも嬉しい。
 それで充分だ。
(さて、今夜はどこで過ごすか)
 この村には宿らしい宿はない。かといって、すでに村人たちには、ヒルダが里帰りしたことは知れ渡っているだろう。同時に夫である自分の存在も。
 パートナーと離れて一人、村人の誰かに泊めてほしいと願い出ても、その理由を詮索されるのは必定だろう。
 見た限り、雨の心配はない。オズワルドは森のほうへ向かった。
 奥深くまでは行く必要がない。ひとまず、人目さえ避けられれば充分だ。
 食料は、非常用のものを念のため携帯している。
 さすがに、村の外へ出ていく気にはならなかった。ヒルダが捜しに来るかもしれないからだ。
 森のなかに、ちょうどいい丸太を見つけた。動物の気配もない。
「──ん?」
 ふと上を見やると、ふわふわと浮遊する影が視界に入った。
「ティティ」
「きゅ!」
 びくんっとティティが震えあがって、その場に停止した。
「お前、どうしたんだ。どこに行っていた」
「そ、それは……」
 こちらを向いたティティが、視線を泳がせる。
「ヒルダが心配していた。どこかに行くにしても、一言告げていけ」
「あ、あんたには関係ない!」
 そう叫ぶと、ティティはびゅーんっと一目散に飛んでいった。
「おい待て……」
 魔法で目印をつけようとしたが、それよりも早くティティは姿を消してしまった。
(ひとまず、結界だけ張っておくか。戻ってくれば反応があるはずだ)
 魔力を四方に巡らせ、宿の部屋三つ分ぐらいの結界を作る。
 姿そのものを隠す魔法ではないが、誰かが近づけば術者であるオズワルドに、相手の放つ魔力が伝わる。
 万が一天候が急変したとしても、一日ぐらいは持ち堪えることができる。
 とはいえ、オズワルド自身も、魔力は無尽蔵ではない。
 マリーネに分け与えたため、かなり消耗している。
 普通なら、あんな状態になることは滅多にない。魔力は基本的に、使わなければ体内を巡り、消費した分がまた生成されていく。循環するのだ。
 マリーネは常に魔力を放出し続けており、それを自己生成で補えなくなっていた。
 魔力を血とするなら、傷口が塞がらず、絶えず流れ続けている状態に等しい。
 そこでオズワルドは、魔力を放つ理由がわからない以上、傷口の部分は補強するに留めて塞ぎはしなかった。代わりに、マリーネが自己生成できなかった分の魔力を注いだ。
 根本的に治したわけではないが、ひとまずは大丈夫だろう。
 ──彼女が、なぜそんな状態に陥ったのか。
(ヒルダは、御母堂のことを病気だと思い込んでいた。ならば、ほかに事情を知る者がいないだろうか……)
 ラウラはどうだろうか。
 とはいえ、彼女があの場で何も語らなかったということは、何も知らなかった可能性が高い。
 そのときだった。
 結界に、“反応”があった。
 スッと目を細め、すぐにはそちらに視線を向けずに、気配だけを探る。
「オズワルド」
「……ヒルダ、か?」
 声はまさしく、妻のものだ。
「捜しに来てくれたのか」
「当然でしょ。ねえ、なんで出ていったの」
「…………」
「こっち向いてよ。あのね、お母さんがオズワルドも一緒に来ていいって──」
 オズワルドは指先に、一瞬で長く黒い針を魔力で作り上げると、振り向きざまにそれを突きつけた。
「ちょっ、ちょっとなに?」
 ヒルダが慌てて離れるも、オズワルドは淡々と見据えた。
「その辺にいる並の魔法使いならまだしも、この俺を舐めてもらっては困る」
「……」
「ヒルダに化けるために、かなり魔力を抑えたようだな。だが、俺の結界は、ほんの微弱な魔力も感知する……何の用だ」
「……ふーん、わかってて素通りさせたってわけ」
 けけけっと、ヒルダが口元を歪ませて笑った。
「すぐに変化の魔法を解け。ヒルダの顔で笑うな」
 ふつふつと怒りが込み上げる。こんなことをするのは、あいつしかいない。
「こりゃ失敬失敬。でも、甘いなぁ。刺すのさ、少しでも躊躇っちゃダメだぜ」
 フォン、と変化が解けた音が鳴った。ヒルダの姿が消え失せて、褐色肌で赤髪の男がその場に現れる。
 カイン。
 魔族の男で、見た目は十八歳ぐらい。
 この男とは、先日対峙したばかりだ。
 オズワルドの知人を攫ったうえ、彼が仕掛けた魔呪がヒルダを襲った。魔呪は解除したものの、オズワルドはヒルダとともに彼に連れ去られた。
 真の目的はわからない。いたずら、つまり快楽目的で場当たり的なものだったのだろうと、オズワルドは推察している。
 だからこそ、腹立たしい。
「まぁ、刺されても困るんだ。今はただ、あんたに借りを返しに来てるだけだ」
「借り……?」
「そ。オレって義理堅いの」
 オズワルドは、眉根に力を入れていっそうきつくカインを睨みつけた。
 あまりに胡散臭いからだ。
「あんたがオレにぶち込んでくれた雷撃さぁ。あれ、かなり効いたぜ」
 消滅させるぐらいの勢いで放ったのだが、それで無事なのだから、この男は油断ならない。正直、今の状態でこの男とまともにやりあって、無傷でいられるかわからない。
 それを見透かしたのかどうかはわからないが、カインは「ふっ」と嘲るように笑ってから告げた。
「ワグテイル伯爵に会いに行きな」
「……なに?」
 カインの口から出てくるとは、一切予想していなかった人物の名に、オズワルドは驚きを隠せなかった。
「あんたの雷撃をまともに喰らったおかげでな、なかなか面白いことを思い出したんだ」
「思い出しただと? 何をだ」
「そーれーは、伯爵から直接聞きな」
「わからんものを聞けるはずがないだろう。そう簡単に会える相手でもない」
「あーあー、人間って面倒くさいな。いや、会いに行けばきっと向こうから出てきてくれる」
 何をいっているのか。
 そう返そうとしたが、次の瞬間にはカインの身体が透け始めた。
「待て!」
「そういわれて待つ奴いるの? いねぇよな! いっとくけど、今のお前だったら一発で倒せちゃうんだぜ」
 消えゆく直前、カインの唇が醜く歪んだ。
「いいか。お前は大事なことを思い出させてくれた──これぐらいしてもいい、と思えるぐらいには」
「──……」
「じゃあな、あの姫様にもよろしく」
 姫様とはなんだ、と聞き返そうとしたときには、カインは姿どころか、気配そのものが消え失せていた。


  ***


 オズワルドは、ずっと構えていた針を消した。
(結界の張り直しだな。自動で発動する罠(トラツプ)を魔法で仕掛けておくか)
 カインが入ってきたことは当然察知したし、ヒルダに化けていることもすぐにわかった。それでも侵入を許したのは、不意を打つため──ではなかった。
 迷ったからだ。
 入ってきたときの足音も、声のわずかな震えも。
 あればかりは、魔力で完全に真似ることはできない。肉体を同一に変化させても、それをどう扱うか、その人物の持つ癖までは、完全にトレースすることは不可能だ。それ自体は、演技力が物をいう。
 カインは相当モノマネが上手いのか。いや、それも違う。
 似ているのだ。
 同一ではない。
 カインはヒルダと──本当に、細かくて誰もが見落とすようなところが、似ている。
 自分だからこそ、気づいたのだろう。
(なぜだ。ヒルダとは、似ても似つかない。なのに)
 一度わいて出た疑念は、なかなか消せない。
『ワグテイル伯爵に会いに行きな』
 カインは確かにそういった。
 伯爵は、ヒルダとマリーネの恩人だ。
(……本邸に行くだけなら、手間ではないか)
 ここはあくまで伯爵領の隣村だ。だが、実質的にワグテイル伯爵家が治めている。領地への行き方はわかる。
 貴族の家であれば、ひとまずそれらしいものが建っているだろう。さして広い領地ではないことも、把握している。
 それに、マリーネがあの様子では、今回の里帰りでこれ以上の対面は厳しいかもしれない──。
「オズワルド」
 突然、再び声をかけられて、思考に気を取られていたオズワルドはバッと勢いよく後ろを振り返った。
「え、あの、どうしたの?」
 ヒルダがいた。
 彼女は狼狽えたように、一歩後ろに退いた。
「……ヒルダ、か」
「そうだよ! すごく怖い顔してる、け、ど……」
 みるみるうちに、ヒルダがしょげかえった。
「うん、ごめん。そうだよね、オズワルドだけ追い出したような形になっちゃったし」
「いや、気にはしてないが」
 オズワルドはヒルダに歩み寄った。
 本物だ。
 やはり魔力の存在が、わずかにも感じ取れない。不自然なほどに。
「結局、お母さんと喧嘩になっちゃって。私も出てきちゃった」
 沈んだ顔で、ヒルダが続けた。
「だって、どんなに話してもオズワルドのことわかってくれなかった。すっごく頑固。私がいないあいだに変わっちゃったみたい」
 俯いたのは、泣きそうになっている顔を見られたくないからだろう。
「俺のことは気にせず、戻っていいぞ」
 なぜマリーネがあそこまで拒絶するのか、その理由は気になる。しかし、問いただしても彼女が語らないなら、自分は距離を取るよりほかにない。
「戻らない」
 震えている細い肩に、そっと手を乗せた。服越しだが、体温が低いように感じた。
 日暮れが近づいていた。
「……戻りたくない。オズワルドといる」
 まるで幼い子どものようだ。
 ここは、強引にでもマリーネのもとへ帰らせるべきだろう。
 だが、自分はあの邸にはいられない。こんな状態のヒルダを放っておくことはできない。
 オズワルドは、ため息をついた。
 すると、ヒルダがびくっと身を震わせた。
「夜は冷える。薪はあるから、火を起こそう」
「! うんっ! あ、ラウラさんからこっそり、白パンと干し肉、あとチーズをもらってきたよ。一緒に食べよう。あとワインも」
「ありがたい」
 ヒルダの声に明るさが戻ったことに、安堵した。たとえそれが自分を気遣ってのものだとしても、ことさら無理をしているようには聞こえなかった。
 冬のように寒さに備える必要はない。結界を張っておけば人や獣、この辺りにはいないだろうがモンスターに対しても有効だ。
 罠の魔法も一応かけてはあるが、こちらの姿が見えにくくなる魔法も同時にかけておく。これは普段、マガリ亭では必要がない。
 何日も続けてかけると、さすがに魔力の消費は激しい。もっとも、起きているあいだは解除しておいても問題はないだろう。
 火を熾し終えると、ちょうど日が暮れた。
 干し肉を火で軽く炙る。パンのうえに載せ、熱いうちにチーズも重ねおく。そのあいだに、ヒルダがワインを二人分用意してくれた。
 焚き火を挟んで、向かい合って丸太に腰掛ける。
「いただきます!」
 手を合わせてそういうと、ヒルダはあーんと大きく口を開けて、パンを頬張った。柔らかいパンなので、簡単に噛み切れる。
 ヒルダの口では、一度に入りきらない。
 チーズがとろっと糸を引くように伸びて、ぷちんと切れる。その端が、ヒルダの白い顎にぱちっと当たる。
「美味しい!」
 目を輝かせて、もぐもぐと美味しそうに食べる姿に、オズワルドはふっと小さく笑った。
「野菜も欲しくなっちゃうけど、さすがにないよね」
「乾燥させた香草ならあるが」
「……かけてみてもいい?」
「いいぞ」
「やった!」
 オズワルドは、少量のバジルが入った小袋をヒルダに渡した。薬草として持ち歩いていたものだ。
 ヒルダは指先で摘みとると、パラパラとチーズのうえに振りかけ、ぱくりと一口含んだ。
「んーっ! いける! 美味しいよ、オズワルドもやってみて」
 ヒルダに促されて、オズワルドも同じようにバジルを振りかけた。
「……美味いな」
 チーズと干し肉の塩気と旨味が、バジルのおかげでさらに引き立っている。唾液がわいて、食欲も増す。
「でしょ! これ、マガリ亭でも作ってもらおうよ」
「なら、乾燥したものではなく、栽培したてのものを使ってもらおうか」
「うん、そのほうがもっと美味しいと思う」
 咀嚼したパンが喉を通ると、今度は潤いが欲しくて、ワインを二人同時に飲み干す。
「はぁ、これも美味しい! さっすが伯爵様、美味しいの置いてるんだなぁ」
 ヒルダの声は終始明るい。
 少しずつ、違和感を覚え始めたが、オズワルドはあえて聞き咎めなかった。
 酔いが回ったのか、それとも焚き火のせいか、ヒルダの顔が赤い。
「ごちそうさま。美味しかった。お母さんもこういうの、食べさせてもらってたかな」
「…………」
「一応、生活に必要なお金は送っていたけど、お母さん、手をつけてなかったみたいで……伯爵様も、ご厚意でお母さんを別邸で養生させてくれてて……」
 ヒルダがこの二年間、母親のために金を稼いでいたことは、当然彼女自身から聞いている。それを隠しているわけでもないので、マガリ亭のマティルダからも聞いた。
「オズワルド」
「なんだ?」
「私のしてたことって、無駄なことだったのかな」
 ぽた。
 ぽた、ぽた、ぽた。
 笑ったままのヒルダの大きな瞳から、大粒の涙がこぼれていく。
「あ、あれ、ごめん。なんで? あはは、ごめん」
 ヒルダは誤魔化すように手を振ってから、ごしごしと目元を拭いだした。
「やめなさい」
 オズワルドは立ち上がり、ヒルダの隣に座ると、その肩を抱き寄せた。
「目は擦らないほうがいい」
「だって、そうしないと、涙が出る。止まらなくなる」
「泣いていい。俺しかいない」
「……」
 ヒルダのなかに、色んな迷いが生まれている。
 自分のしてきたことの意味を問うとき、心には重い雲がかかって雨が降る。それはあまりに苦しく、辛い雨だ。
 雨を止めてやることはできないが、傘を差し出すぐらいはできる。
 オズワルドは、外套のなかに包み込むように、ヒルダを抱き寄せた。
「全ての答えは、君自身が出すしかないが。俺は、無駄とは思わない」
「……」
「仮に無駄だったとして」
 ヒルダの愛らしい耳に唇を寄せる。
「その無駄のおかげで、俺は君に出逢った」
 ヒルダが村を離れずにいたら、自分はきっと彼女と巡り会うことはなかっただろう。
 これでヒルダの心が慰められるとは、思えない。彼女にとっての悩みは、母に対することなのだから。
「うん、そうだね」
 顔を上げたヒルダが、わずかに眉根を寄せ、涙を溜めながらも微笑んだ。

 

 

 

 

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