けものの花嫁 狼王子は番の乙女を愛し尽くしたい 下 3
これはアルベールからの手紙―――。
マリオンは、はやる気持ちに震える手でアルベールからの手紙を机の上に開き、一文字一文字読み進める。
手紙は簡潔だった。
いつものような挨拶や修飾もなく、肝心なことだけがかいつまんで書かれている。
いとしいマリオン。
会いたい。
今宵、みなが寝静まったころを見計らって、ここに来てほしい。
文字は三行。
手紙にはもう一枚簡易な地図も添えられていた。地図に描かれているのは、どうやら、この離宮の庭の一角らしい。
(どういうこと!?)
マリオンはあわてて手紙を畳み本の間に手紙を隠す。
誰にも見られなかっただろうか?
もし、これが知られたら、いったい、どういうことになるか……。
(アルベールさま……)
おそらく、あの商人はアルベールの息がかかった者だったのだろう。アルベールに依頼されて、遠くタロンまでやってきた。
おそらくは、アルベールを連れて。
『会いたい』とは、つまり、そういうことなのだろう。
(アルベールさまがいらしている……)
どきん、と鼓動が弾むのが自分でもわかった。
(アルベールさまがわたしに会いに来てくださった……!)
もしかして、商人が連れていた部下とおぼしき男たち。あの中に、アルベールが紛れ込んでいたのだろうか?
あの時はぼんやりしていたし、部下の男たちの顔まではよく見なかった。
もちろん、いつものとおりのアルベールであればマリオンが見逃すことなどありえないが、いたとしたらアルベールは必ず変装していたはず。見抜けなかったとしても不思議ではない。
それにしても。
(なんて生命知らずな……)
三人の王子たちがいない時でよかった。
もし、彼らがいる時であれば、こんなふうにアルベールの手紙を届けることはもっと困難だっただろう。
そう考えて、マリオンは、否、とその考えを否定する。
あの商人は三人の王子たちがいない時を狙ってやってきたのだ。
三人の王子がマリオンから離れるその千載一遇の機会を得て、マリオンに接触した。
(どうしよう……)
アルベールに会いたい。会いたい。会いたい。
だが、会ってどうなるという思いもある。
自分は既にタロンの三人の王子との肉欲に堕落した身。
アルベールが知っていたマリオンではない。
それに、もし、アルベールと会ったことを、三人の王子に気づかれでもしたら……。
ゾッ。
背中を寒気が走った。
彼らは許さない。
絶対に。
マリオンだけでなく、アルベールにも報復する。
アルベールだって、タロンに逆らった者がどんな憂き目に遭ったか知らないはずはない。なのに、なぜ、こんな危険な真似をするのか……。
(それだけ、わたしのことを思っていてくださったのだわ)
親同士が決めた政略結婚だった。
アルベールはマリオンのことを許婚として誠実に扱ってくれたけれど、でも、マリオンがアルベールにいだいていたほどの思慕がアルベールにもあったのかどうか、マリオンにはわからない。
もしかしたら、自分だけがのぼせ上がって空回りしているのではないかと不安になったことも一度や二度ではなかった。
でも。
(アルベールさまも、わたしと同じ気持ちでいてくださったのかもしれない)
胸の中が火が灯ったようにあたたかくなった。
あのころの気持ちが戻ってくる。
ただ純粋にアルベールを思い焦がれ続けていた恋心が。
しかし、すぐに、それを三人の王子たちのまなざしが打ち消す。
彼らは、いきなり横から現れて、アルベールの花嫁になるというマリオンの長年の夢を粉々に打ち砕いた。マリオンにとっては憎んでも憎みきれないほどの男たちだ。
それでも、今のマリオンが彼らの妃であることは事実である。
これは、アルトリの国王である父が決めたこと。
マリオンの父は、アルトリの未来を鑑みた上で、マリオンの結婚相手にアルベールではなくタロンの三人の王子たちを選んだ。
だから、マリオンも父の決定に従わなくてはならないと思った。
それが、アルトリの王女として生まれた自身の使命であり、なけなしの矜持のよりどころでもある。
でなければ、今日までの日々を乗り越えてはこられなかった。
(会わないほうがいいわ)
理性がマリオンを強く押し留める。
(そのほうがお互いのためには絶対にいいもの)
わかっているのに、心の片隅から小さな声が聞こえてくる。
(でも、ひと目くらいなら……)
とっくの昔に捨て去ったつもりでいたアルベールへの未練が、どこかでまだ燻り続けていて、マリオンをそそのかす。
(どうしよう……。どうしよう……)
三人の王子たちからはなんの制限も受けてはいない。
ノアの言うとおり、マリオンが『自由』であるのならば、部屋はもちろん、離宮からも、なんなら王宮の外へ出て、いつ、どこで、誰と会おうと咎められることはないはずだ。
それなら、よいのではないだろうか?
ひと目会ってその場で別れれば、なんの問題もないのではないか?
(大丈夫……。大丈夫よ……)
三人の王子たちが帰ってくるまでにはまだ間がある。
通訳代わりの少年は夜には親元へ帰っていくし、世話係のふたりは老人だ。目を盗むことも不可能ではないだろう。
離宮には巡回の兵士もいるだろうが、深夜であれば数も頻度も減る。
暗闇に乗じて部屋を抜け出せば見咎められることもないはず。
いつしか、心はこの企みに傾いていた。
(お会いするだけ……。ひと目お会いするだけよ……)
今さらアルベールと会ったところで以前の自分に戻れるわけではない。既に、ふたりの道は分かたれてしまったのだ。
とはいえ、突然の婚約解消で、取り急ぎ手紙をしたためるのが精いっぱいだった。結局会えずじまいで、きちんと挨拶もできないままだ。
国と国とが決めたことであったとしても、長く許婚であったふたりなのである。
マリオンは決めた。
会って、最後のお別れをしよう。
(このような運命となってしまったけれど、あのころのマリオンはアルベールさまのことを心からお慕い申し上げていましたとお伝えしよう)
それが、わざわざ危険を冒して会いに来てくれたアルベールの気持ちに対して、マリオンが尽くせる精いっぱいの誠意だと思った。
心が決まれば、あとはそれに向かって計画を立てるだけだった。
マリオンはまだ気分が優れないと言って早めに床についた。
世話役の老夫婦に『今夜は静かに休みたいので声をかけないでくれ』と伝えるよう、通訳代わりの少年に頼もうかと迷ったが、結局断念した。
少年の大陸の西側諸国の共通語はほんの片言程度だったので、うまく伝わるかどうか不安だったのもあるが、やはり、いつもどおりに振る舞ったほうが怪しまれないのではないかと思い直したからだ。
夜が更けていく。
あたりは闇に閉ざされていく。
マリオンは寝台にうずくまったまま耳を澄ました。
昼間でも、この離宮はとても静かだ。
使用人も、護衛の兵士たちも、いるのかいないのかわからないほどマリオンの前には姿を現さない。
それでも、人の気配というものは、なんとなく、どこかから漂ってくるものである。足音、衣擦れ、水の音や、かすかな話し声。
しかし、今はそれも感じない。
何もかもが闇に包まれ、寝入っている。
マリオンは、そっと起き出すと、闇に紛れるよう暗い色のショールを頭からすっぽりと被り、部屋着のまま部屋の外に出た。
(アルベールさまとお会いするというのに、こんな格好だなんて……)
アルベールと会う時はいつも精いっぱいおしゃれをしていたのにと思うと口惜しくてたまらない。
でも、今はそんな贅沢も言っていられなかった。
もしも、誰かに見咎められたら終わりだ。
マリオンは、言葉もわからないし、うまく言い訳することなどできるはずもない。
だから、早く、早く、誰かの目に留まる前に、アルベールと会って、少しだけ話をして、あとは何食わぬ顔をして部屋に戻ればいい。
離宮の中は何度か案内してもらったので、だいたいの構造は頭に入っていた。
回廊には灯りもなく、足元も覚束ないほどだったが、幸い、今夜は晴天で星明かりが静かに射し込んでくる。
マリオンはそれを頼りに地図で示された場所に向かった。
離宮には、住人である王族たちや客人が利用する正面玄関のほかに、使用人や出入りの商人のための裏木戸がいくつかあった。
マリオンは、その中の一番小さな扉を音を立てないようそっとそっと開いて外に出る。
胸がドキドキして張り裂けそうだった。
ここまでは誰にも会わなかった。
あと少し、あと少しで、地図に描かれていた場所だ。
(お願い……! 誰も来ないで……!)
植栽の陰を選んで庭の小道を進む足は、いつの間にか小走りになっていた。
怖かった。
こんな大それたこと、今までしようと想像したことさえなかったのに。
胸が苦しい。心臓はあたりに鳴り響くほど大きく脈打っている。
両手で胸を押さえながら暗がりを行くと、ようやく目印の生垣が見えてきた。
星明かりの下、生い茂った樹木が野放図に枝を伸ばしているのが真っ黒な影法師となって浮かび上がっている。
目をこらせば、枝に埋もれるようにして古びた門が見えた。
離宮の庭を整備した際の作業用に作られた木戸らしいが、今はもう使われていないと聞いている。
確かに、のびのびと育ち過ぎた生垣に侵蝕され、今では、ちょっと見ただけではそこに門があるとはわからないだろう。
ここから向こうは離宮の外だ。
マリオンは息を殺してあたりを窺った。
誰もいない。
まちがってはいないはずだ。
地図は何度も見て確かめた。
「……アルベールさま……」
マリオンは、小さな声で呼んでみた。
「……アルベールさま……。マリオンでございます……」
返事はない。
「アルベールさま……。いらっしゃらないの……」
もしかして、入れ違いになってしまったのだろうか。
待ちくたびれて、帰ってしまった?
マリオンは呆然として立ち尽くした。
どうしよう。
もう少しここで待ってみるべきだろうか? それとも、急いで部屋に戻るべき?
迷うばかりで答えは出なかった。
アルベールに会うことばかりを考えてここまでやってきたから、会えなかった時のことなど何も考えていなかったのに……。
ふいに、かたり、と音がした。
「ひっ……」
マリオンは、悲鳴を上げそうになって、あわてて両手で口を押さえる。
先ほどまで、そこには誰もいなかったはずなのに、門の向こうに黒ずくめの人物が立っていた。
目深にマントのフードをかぶっていたので顔はわからなかったが、背が高い男だった。
アルベールだと思った。
アルベールも背が高い。並ぶと、ちょうどこのくらいの目線だった。
「アルベールさま……!」
マリオンは、アルベールの名を呼びながら、門のそばまで急いで近寄った。
アルベールが門の横を指差す。
その手は黒い革の手袋に包まれている。
マリオンが指差されたほうに目を凝らすと、そこには、門とは別の、小さな扉があった。
おそらく、大きな資材などを運び入れる時は門を開き、普段人が出入りする際はこちらの扉を使っていたのだろう。
扉には内側から閂がかけられていた。大きな閂だった。
おそらく、ここを開いてほしいということなのだろう。
マリオンは閂に手をかける。
長い間使われてはいなくても、手入れだけはきちんとされていたのだろう。マリオンの力でもなんなく抜くことができた。
ギ、と重い音を立てて扉が開く。アルベールが扉をくぐって入ってくる。
「アルベールさま……!」
駆け寄ったマリオンは、フードの下の顔を見て驚く。
(違う……! アルベールさまじゃない……!)
この男は……。
そうだ。昼間、商人と共に離宮にやってきて、アルベールの瞳の色と同じ青い薔薇のドレスをマリオンに差し出した、あの男。
どういうこと!?
問い質すより先にすばやく口をふさがれた。
「お静かに」
黒ずくめの男が耳元でささやく。
大陸の西側諸国で使用されている共通語だった。おそらく、大陸の西の出身なのだろう。昼間会った商人とは違ってかすかな訛りさえない。
「我々は敵ではありません。どうぞご安心ください」
男の言葉からは高い知性と教養が窺えたが、だからといって、言われるとおり安心できるはずもない。
(敵ではないですって?)
悪事を企む者たちは、しばしばそういう言い回しでもって、標的となる者を籠絡しようとする。
目の前の男がそうではないという保証はないし、土台この状況で男の言葉を信用できるはずもない。
(だって、わたしはだまされたのよ!)
この黒ずくめの男か、それとも、昼間会った南国の商人か。
いったい、どちらが首謀者であったのかマリオンにはわからない。
だが、姦計によってマリオンがまんまとおびき出されたことは事実だった。
あのアルベールからの手紙も偽物だったのだろう。
長年許婚であったマリオンでさえ見誤るほどのものを事前に用意していたのだ。
これは周到な罠。
でも、いったい、誰が、なんのために?
マリオンの心の声が届いたはずもないのに、男が言った。夜の闇にそのまま溶け込んでしまいそうなほどのひそやかな声で。
「このまま我々が殿下をお連れします」
はっとして、マリオンは身をすくめる。
(まさか……、誘拐!?)
咄嗟に身体が動いた。
マリオンは、口をふさいでいた男の指に噛みつくと、容赦なく顎に力を込める。
男は悲鳴ひとつ上げなかったが、それでも、マリオンを拘束していた腕の力はわずかにゆるんだ。
マリオンはその隙をついて男から逃げ出す。
必死だった。
アルトリの王女として生まれてから、こんな荒事には一度も出会ったことはない。
それでも、本能が叫んでいた。
震えているだけでは自分の身を守れない。
男の目的が金銭であれば、タロンの三人の王子たちはともかく、アルトリの父が身代金を払ってくれる可能性はある。
とはいえ、王宮にも出入りするような商人がそんな危ない橋を渡るものだろうか? それよりも、本来の商売に精を出したほうがよほど安全だし稼げるのではないのだろうか?
だが、金銭以外の目的となると、少しも見当はつかない。
自分は、確かにタロンの三人の王子たちの妃だが、タロンの政治にも経済にも一切関与していない。ただ、そこにいるだけの存在でしかないのに。
いつしか、靴も脱げていた。肩にかけていたショールも落としてしまった。
裸足で走るマリオンに、しかし、黒ずくめの男はなんなく追いつくと、再び口をふさいで言った。
「仕方がない。多少手荒になりますが、これも御身のためです。ご容赦ください」
そのまま、猿轡を噛まされた。
目には目隠し。両手は後ろ手に縛られている。
恐ろしいほどの手際のよさだった。
おそらく、こういった荒事には慣れているのだろう。黒ずくめの男は、無言のまま淡々とマリオンを拘束すると、肩の上に担ぎ上げた。
(助けて……!)
マリオンは心の中で叫んだ。
(誰か……! 誰か……!)
レヴァン。ノア。ザザ。
三人の顔が次々に浮かぶ。
(ああ……。だめよ……)
彼らは、今、国内視察に出かけている。
ここにはいない。
マリオンを助けてくれる者は誰も。
絶望が胸を一気に黒く染め上げた。
黒ずくめの男は、マリオンを担いだまま、夜の闇の中を滑るように疾走する。
どのくらいの距離を移動したのか、男の足がふいに止まった。
馬の気配がした。それから、車輪の軋む音。
馬車だ。
気づいた時には、肩から下ろされ、拘束されたまま、馬車の中に押し込まれていた。
(いったい、どこへ連れていかれるの……?)
ただ、震えることしかできずにいると、ふいに猿轡が外された。
口を開くより先に、口元にやわらかいものを押しつけられる。
布なのか海綿なのかは定かではないそれには、何かいやな匂いのする液体がたっぷり染み込ませてあった。
マリオンは首を左右に振って拒んだが、男の力は強く、染み出した液体が唇から舌を伝い、喉の奥へと滑り落ちていく。
「……毒……? わたし、殺されるの……?」
震える声に男が答えた。
「毒ではありません。少しお眠りいただくだけです」
「どうして……? なんのために……?」
男が何か言った気がしたが、よくわからなかった。
頭の中がぐらぐらと揺れている。
次第に何も考えられなくなっていく。
頭の中にたくさんある扉が、ひとつ、またひとつと閉められていくようだった。
そうして、マリオンの意識は次第に闇に閉ざされていったのだ。
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