処女令嬢は最強ユニコーンの激重執着愛から逃げられない 1
昼間だというのに薄暗く鬱蒼とした森の中を、幼いリゼット・ジュゼ・ガルニエは泣きながら歩いていた。
周囲を照らしていた覚えたての魔法の灯りも、そろそろリゼットの魔力切れでチカチカと明滅し消えそうになっている。
「ふぇ……っ、うう……」
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、手でこすりすぎたせいか鼻の先は真っ赤だ。
「お父さま、お母さま……っ、アル……っ」
助けを求めるように家族の名前を呼ぶが、それが余計に寂しさを掻き立て、ますます菫色の大きな瞳から涙が溢れ、止まらなくなる。
一時間ほど森を彷徨っただろうか。
小さな足はすでに疲労困憊だ。しかし、今歩みを止めれば、もう二度と動けない気がして、リゼットはふらふらと少しでも明るいほうへ向かって歩き続ける。
(魔物が出てきたらどうしよう……っ)
滅多にないというが、たまに深い深い森の奥から、凶暴な魔物が人里へ迷い込んでくることがあると父が言っていた。だからひとりで森の奥へ行ってはいけないよ、と。
それを思い出し、風で木々が揺れるたびに、恐怖心も増していく。
やがて、木々が開けて陽が射し込んでいる場所を遠くに見つけた。はっとして耳を澄ませば、ちょろちょろと水が流れている音も聞こえてきた。
「お水……!!」
その途端、喉が渇いていることを思い出す。
最後の力を振り絞り、リゼットは足早にそこへ向かった。
そして辿り着いた先で見たものは――……。
「わあ……」
キラキラと光り輝く、純粋な魔素(まそ)に満ちた清らかな泉だった。
魔素というのは魔力になる燃料のようなものだ。この世界に生きる人間は皆、自然から魔素を取り入れ、魔力に変換して魔法を使うことができる。
どこにでも魔素は漂っているものだが、ここまで濃い場所は見たことがない。
幻想的な風景に、リゼットはしばし見入った。
暖かな陽射しに、心地よい風。
草木の爽やかな匂いと澄んだ空気。
少し息を吸い込むだけで、切れかけていた魔力がすうっと回復していく。魔力だけでなく、疲れていたはずの身体も軽い。
「すごい……。ここは精霊さまのおうちなのかしら……?」
母に読んでもらった本に、精霊が棲む場所には魔素が満ちていると書いてあった。精霊に会ったことはないが、感じたことのない濃密な魔素にリゼットはうっとりとまぶたを閉じる。
「はあ……」
呼吸をするたびに、身体中に魔力が漲っていく。アッシュゴールドの髪も、艶めきを取り戻す。
完全に魔力が溜まったところで、リゼットはゆっくりと閉じていたまぶたを開けた。
すると、目の前に先ほどまでいなかったはずの小さな白馬が立っていた。しかし、普通の馬とは違い、その仔馬の額には一本の鋭い角がついていた。禍々しさはなく、清廉な空気を纏っている。
(この子……、きっと精霊さまだわ)
はっとして、リゼットは居住まいを正す。
この国では精霊は神の次に崇め奉られていて、尊い存在だとされている。
「こ、こんにちは」
習ったばかりのカーテシーで挨拶すると、仔馬が一歩近づいてきて、スンスンとリゼットの匂いを嗅いだ。
そして泉と同じ澄んだ蒼い目でリゼットを見つめて、唐突に喋りだす。
「君は誰? どうしてここにいるの?」
(しゃ、しゃべった……! やっぱり精霊さまなのね……!!)
「わ、わたしは、リゼット・ジュゼ・ガルニエです。今日六歳になりました」
「へえ。ガルニエと言えば、アウラ王国セントウィズ地方にある一都市の人間の領主の家系――つまりこの森の仮の所有者だね」
仔馬は頷いて、リゼットに顔を擦りつけてきた。
滑らかな毛触りに、リゼットは思わず仔馬を撫でてしまう。仔馬は別段嫌がる素振りもせず、リゼットの手を受け入れた。
「あの、あなたは……?」
あまりに聡明な仔馬に、リゼットは首を傾げた。
「僕はユニコーンだ。精霊の一種だよ。聖獣とも言う。皆からはルロワって呼ばれてる。歳は君より一つ上の七歳だ」
「ユニコーン……!?」
よくおとぎ話には出てくるものの、皆が口を揃えて架空の生き物だと言っていたので、本当に存在しているとは思わなかった。
だが、実際に角の生えた白馬が目の前にいるのだから、疑いようがない。
「リゼットって呼んでもいい?」
ルロワが訊いた。
「ええ、もちろん! ルロワさまは、」
「ルロワでいいよ。丁寧な言葉遣いもいらない」
そう言いながら、ルロワはリゼットに身体を擦りつけ、時折スンスンと鼻を鳴らす。まるでマーキングのようなそれに、リゼットは首を傾げた。
「わたし、ヘンなにおいする……?」
その質問に、ルロワはぶるぶると首を振った。
「まさか! 今まで嗅いだ中で一番いい匂いだよ! だからずっと嗅いでいたくて。嫌だった?」
「ううん。それならいいの」
ここまで必死で歩いて汗を掻いたから、臭かったらどうしようかと思ったのだ。
「ルロワはここにひとりで棲んでるの? お父さまとお母さまは?」
「ひとりだよ。自然からとれる魔素さえあれば生きていけるから、ユニコーンは子育てしないんだ」
「そっか……。それはさびしいわね」
ルロワの両親のことを聞いたら、自分が今ひとりなのを思い出し、リゼットはきゅっと唇を噛みしめた。
「リゼットはどうしてひとりでこの森へ?」
「お父さまとお母さまとケンカして、家出したの」
「へえ、それはまたどうして」
ルロワがその場に座り込んだので、リゼットも倣って泉のほとりに座り込む。
「今日ね、わたしの誕生日パーティーがあったの。でも、ふたりともアルにかかりっきりで……」
リゼットの瞳に、また涙が滲みだす。
「そっか。人間は誕生日を祝う習慣があるんだったね」
ルロワがふさふさの尻尾でリゼットの脚を撫でさする。
「うん。あっ、アルっていうのはわたしの弟で、アルチュール・ベント・ガルニエって名前なの。このまえ一歳になって、そのときはいっぱいお祝いしたから、今度はわたしの番だって思ってたのに……」
まだ赤ん坊なのだから仕方がないとはわかっていても、ぐずるアルチュールばかり構う両親をリゼットは許せなかった。
「今日はわたしの誕生日なんだから、アルのことはちょっとくらい放っておいてもいいじゃない!」
そう不満を零すと、両親は顔を真っ赤にして、「どうして大事な弟にやさしくできないのか」と怒りだした。
「だったらもういい! わたしなんていらないんでしょ!」
リゼットはそう言い残し、屋敷の裏手にある大きな森に飛び込んだというわけだ。
しかし、怒りに任せて闇雲に歩くうちに、迷子になってしまった。ルロワのいる泉に辿り着いたのは、本当に僥倖だった。
「せっかくの誕生日なのに悲しかったよね、リゼット」
ルロワが言い、こてんと頭をリゼットに預けた。
「そう、そうなの。わたし、とっても悲しかったの……」
リゼットもルロワに頭を寄せ、いい匂いのするたてがみに鼻先を埋めた。
ルロワの傍は心地がいい。彼が聖獣だからだろうか。呼吸をするたびに、胸に溜まっていたモヤモヤが抜けていく気がする。
「じゃあ、僕が代わりに祝ってあげるよ。まずは美味しいご馳走を用意しようか」
そう言って、ルロワは立ち上がると唐突に角を振った。
すると、森の木々がざわめいたかと思えば、目の前にボトボトと色とりどりの果物が降ってくる。
「すごい……! これ、ルロワの魔法!?」
「そうだよ。森に生っているものならなんだって取ってこられるんだ」
甘く美味しそうな匂いの果物は、ほとんどがリゼットの見たことがないものだった。その中から真っ赤に熟れたハート形の実を手に取って、かぶりつく。
「……おいしい!」
シャリシャリとした歯触りのいい食感と、甘味と酸味のバランスも完璧だ。今までに食べたどの果物――いや、どんなお菓子よりも美味しかった。
あっという間にひとつ食べ終わり、べつの果物にも手を伸ばす。
「これもおいしい!」
「気に入ってくれたようでよかった」
ルロワが眩しそうにすっと目を細めた。
それからしばらく、ルロワに森や精霊についての話を聞いているうちに、高かった太陽の位置も随分と低くなってしまった。
薄暗くなる泉の景色にだんだんと心細くなり、リゼットは自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
そのとき、すっくとルロワが立ち上がった。
「どうかしたの?」
遠くを見つめ、耳を欹(そばだ)てるルロワに、リゼットも立ち上がって訊いた。
「ねえ、リゼット。君は両親が君のことをいらないと思っているようだけど、どうやら違うみたいだよ」
やさしい声でルロワが答え、意味がわからないと目を瞬かせるリゼットに頬を寄せる。
その途端、頭の中に映像が流れ込んできた。
――リゼット! どこにいるの!?
――返事をしなさい! リゼット!!
薄暗い森の中を使用人たちと必死に駆け回る両親の姿だ。
「えっ、お父さまとお母さま!?」
「そうだよ。今、君のことを捜している。残念だけど、もうすぐここに辿り着いてしまいそうだ」
「残念って……?」
どうしてそんなことを言うのだろう。
リゼットが首を傾げると、ルロワはリゼットに身体を擦りつけながらゆっくりと言い聞かせるように喋りだす。
「いいかい、リゼット。僕のことは誰にも話してはいけないよ。ユニコーンがいるとわかれば、人間はきっと僕を狩りにくるだろうから。だから、絶対に内緒にしてほしい。泉のこともね」
「どうして? 精霊さまは大切にするものだって皆言ってるわ。狩りになんて……」
人間が魔法を使えるのは、精霊が魔力のもととなる魔素を人間にも分けてくれるからだと教わった。そのため、精霊は丁重に扱わなくてはならないのだと。
ユニコーンも精霊の一種なら、狩ろうとするなんてあり得ないことだ。
しかし、ルロワは悲しげに首を横に振ると、少し屈んでリゼットの膝をべろりと舐めた。
「きゃっ」
驚いたのは、彼の舌が触れたのもあるが、ピリリとした痛みが走ったからだ。見れば膝に擦り傷ができていた。森の中を彷徨っているときに一度転んだのを思い出す。
脚にはほかにも細かな傷ができていて、それを見たらだんだんと痛みがぶり返してきてしまった。
じわりと目尻に溜まった涙を、ルロワが舐めとる。
そして頭を下げ、自らの角をリゼットの顔の前に差し出して、言う。
「僕の角を舐めてごらん」
「え?」
いきなりそんなことを言われ、リゼットは戸惑いに半歩下がった。しかし、ルロワがそのぶん距離を詰めてくる。
「舐めてみて。そしたら、どうして人間が僕を狩ろうとするのかわかるはずだよ」
ほら、と促され、リゼットは恐る恐るルロワの純白の角に顔を近づけた。
「ん……」
赤く小さな舌で、ぺろりとそれを舐め上げる。
――そのとき。
ぱあっと黄金の光がリゼットを包み込む。心地よい温かさとともにヒリヒリとした痛みがなくなっていくのを感じた。
光が収まり、ぱっと脚を確認すると、傷が癒えていた。それどころか、痕跡すら残っていない。
「すごい……!!」
顔を上げ、ルロワを見つめる。
「僕たちの角には浄化作用があって、どんな傷や病気もたちまち治してしまうんだ。だから、ユニコーンの雄がいると知れたら……」
そこまで言われたら、幼いリゼットでもわかる。
悪い人間が、この角を手に入れようと押し寄せてきてしまう。
「わかったわ。誰にも言わない」
「いい子だね。わかったなら、もう帰るんだ。この道をまっすぐ行けば、リゼットの両親のもとに辿り着く」
ルロワが言うと、木々が揺れ、森の中に一本の道ができた。ふわふわと光の玉も飛んでいて、歩くには十分明るい。
トンッと背中を押され、リゼットは一歩目を踏み出した。
けれど、このまま帰りたくなくて、くるりとルロワを振り返って訊く。
「……でも、わたしひとりだったら、またルロワに会いにきてもいい?」
「もちろんだよ! そのつもりで帰すんだから。君が森に入ったら、迷わずここに来られるように案内役を用意する。この辺には魔物も出ないから安心して。今度は両親にばれないように来るんだよ」
そう言って、ルロワが手の代わりに尻尾を振った。
「またね、ルロワ!」
リゼットも手を振り返し、ようやく泉を去る。
十分ほど歩いたところで両親を見つけ、リゼットはふたりの泣き顔を見て自分がどれほどふたりに心配をかけたのか思い知った。
「リゼット!」
「お父さま、お母さま……!」
力強く抱擁され、アルチュールだけでなく、自分も確かに両親に愛されているのだということがしっかり伝わってきた。
互いに「ごめんなさい」としっかり謝罪をして、リゼットの家出は無事に幕を閉じたのだった。
その後、リゼットがルロワとますます仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
昼間だと屋敷を抜け出したのがばれてしまうので、リゼットは毎週礼拝の前夜に森へ行くことにした。
礼拝前夜はアルチュールの乳母と夜番の使用人以外は早く寝る。だから彼女たちの目を掻い潜りさえすれば簡単に外に抜け出すことができるのだ。
森は真っ暗だが、怖くはない。
自分の魔法で周囲を照らせるし、何より森に入ればルロワが道案内の光の玉を寄越してくれる。
迷子になったときはあんなに長い道のりだったのに、直線距離で行けば泉まで五分ほどで辿り着く。明らかに距離が短いが、それはルロワが魔法で道を繋げてくれていたからだとリゼットが気づいたのは、何年も後のことだった。
毎週のように秘密の逢瀬を繰り返しているうち、あっという間にリゼットは十歳になった。
身長はすくすくと育ち、淑女としての教育も順調だ。魔法の特訓も、ルロワにしてもらっている。
一方のルロワも、リゼットの成長に合わせるように少しずつ大きくなっていった。神秘的な一角も身体の成長とともに長く逞しくなり、今では三十センチほどもある。
「ねぇ、ルロワ。今日はクッキーを焼いてきたの!」
「いいね。リゼットの手作りはいつも美味しいから楽しみだよ」
暑さの続く夏のある日の夜、泉に足をつけながらリゼットは持ってきた包みを開けた。領地で穫れた小麦で作ったジンジャークッキーだ。お抱えの職人に頼んでわざわざユニコーンの型を作ってもらった。仕上げにはシュガーコーティングを施して、ルロワに似せている。
「すごいね、僕にそっくりだ」
「でしょう? さあ、食べて食べて!」
聖獣であるルロワに本来食事の習慣はないが、娯楽として果物を食べると聞いてから、リゼットはたまにバゲットサンドやお菓子を持ってくるようになった。
深夜のティータイムは背徳的で、とても甘美だ。
「はい、あーん」
ユニコーン姿のルロワの蹄では、うまくものを摑めない。魔法で浮かすこともできるが、なぜかリゼットの手から食べたがったので、今はもう何も聞かずともリゼットが手で食べさせている。
たまに指ごと口に含んで舐められるのでくすぐったいけれど、ルロワがうっとりしているのでやめてとは言えない。
「美味しいね! 香ばしくて甘くて……、スパイスも効いてる」
上機嫌に尻尾を振り、ルロワがもう一度口を開けた。もう一枚食べたいようだ。
「よかった。私は好きなんだけど、アルは苦手だって言うから……」
弟のアルチュールは五歳になったばかりだ。ジンジャーとシナモンの美味しさはまだわからないらしい。ルロワもそうだったらどうしようと不安だったが、気に入ってくれたようでよかった。
いつもどおりお喋りをして、一時間ほどで家に帰る。
しかし、その日はいつもと違っていた。
森を抜ける間際、急に光の玉が慌てたようにまとわりついてきた。リゼットを引き留めたそうにしている。
ルロワに何かあったのではと泉に引き返そうとしたところ、途中でルロワ本人と鉢合わせた。ルロワもリゼットを追いかけてきていたらしい。
「大変だよ、リゼット。ガルニエ領の北の森で火事が起きてる。多分、牧場が近い。そこまで燃え広がると悲惨なことになる」
「えっ!?」
急いで父に報告しなければ。リゼットは屋敷へ戻るべく踵を返す。
だが、それをルロワが止めた。
「どうやって知ったことにするつもり?」
「あ……」
そうだ。屋敷から牧場のある北の森までは、かなりの距離がある。ここからではとても見えない。それなのに山火事が起きているなどと言っても、信じてはもらえないだろう。
だからといって、ルロワのことを話すわけにはいかない。
「どうしよう……」
リゼットが困っていると、ルロワが頭を突き出してきた。
「僕の角を両手で握って」
こんなときに何を、とリゼットは思わず怪訝な表情を浮かべたものの、ルロワのことだから何か策があるのだろう。
「うん、わかったわ」
「やさしくね」
ルロワの角に触れるのは久々だ。大事なところだからと、滅多に触らせてはもらえない。最後に触れたのは、リゼットが薔薇の棘で指を切った半年前だ。
硬く太い角にそっと指を絡め、握り込む。
「このくらい?」
「いいね。リゼットの手は気持ちがいい」
うっとりと、ルロワが呟いた。
その声があまりに艶めかしくて、リゼットはどきりとした。胸の奥で妙な気持ちが湧きそうだったので、ふるふるとかぶりを振って、もう一度角を握りなおす。
ひんやりとしていそうな見た目のわりに、そこは血が通っているようにどくどくと脈打っていた。