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自称・恋人の騎士様(メンヘラ製造機)が後方腕組み彼氏面で私(陰キャ魔法使い)を溺愛してきます! 1

第一話

 

 私、アリックス・エリシー・アルマシー。二十二歳。親しい人たちからはアリスって呼ばれてる、大陸のほぼ中心に位置する神聖フォンデル王国の魔法使い。
 普段は魔法に特化した黒鍵騎士団で毒の研究をしているのだけれど──。

「赤狼騎士団のダンテを知っているな? どうやら中毒状態に陥っているらしい。治療してやってくれ」
「えっ……イヤなんですけど。医局に頼めばいいじゃないですか」
 団長室に響く涼やかな声をぼんやりと聞きながら、アリスは反射的に首を振っていた。
 そう、この時点ではなにも考えてなかったのだ。思考の九割が今取り組んでいる実験にとらわれていて、早く研究に戻りたいなぁなんてぼんやりと考えていたから。
「いや? 今お前、ボクに向かって嫌だと言ったか?」
 だがデスクの上で指を組んだ団長が眉を吊り上げたのを見た瞬間、アリスは己の過ちに気が付いた。
(し……失敗した……!)
 団長室に呼び出された時点で、もう少し気を張っているべきだった。
「いや今のは、その……」
 アリスはもにょもにょしながら、右耳で輝く真珠のピアスに触れていた手を下ろす。
 時計の針はすでに深夜を回っているが、そんなものは関係ない。
 騎士団に労働基準法などない。騎士にとって団長命令はなによりも優先される。
 黒鍵騎士団は周囲からエリートのように扱われているが、その中身は変人&曲者ぞろいで、そんな魔法使いたちを束ねている騎士団長に向かって、入団五年の自分が生意気な口を利くなんてあってはならないことだった。
 言い訳になってしまうが、実験にのめりこみすぎて三徹目だったのがよくなかった。急いで軌道修正をしなければ、大げさではなく命の危険にさらされる恐れがある。
 アリスは口を開けたり閉めたりしながら、黒鍵騎士団の団長であるボリス・キッチャクードに向き合う。
「あっ……あのですね、ボリス様……え~っと、その……私、今やってる解析が佳境を迎えててっ……今晩は満月でヒョウジュタケが光る夜で、めちゃくちゃ珍しい胞子が採れるんですっ……だからちょっと、席を離れたくないっていうか……!」
 心の中で『わかってくれ……!』と叫ぶが、ボリスはたどたどしく説明するアリスを見つめて微動だにしない。
(圧がすごい……! 怖い! 殺される……)
 黙っていれば十代半ばの美少年にしか見えないが、団長はエルフだ。
 薄い褐色の肌に先端が尖った耳は古代エルフの血を引く証拠で、エメラルドをはめ込んだような鮮やかなグリーンの瞳の奥は、強い魔力がゆらゆらと波紋のように揺れ、見る者を圧倒する。
 彼はこの国で一、二を争う魔法使いで、その気になれば詠唱なしに指先ひとつでアリスを消し炭にすることだってできる。
(こうなったら土下座だろうか……それしかないのでは?)
 東方出身の同僚に教えてもらった最上級の詫びの作法を思い浮かべていると、ボリスは軽く息を吐いて、それからにこやかに微笑む。
「アリス。先日提出したオウゴンコガネタケのレポートを読んだんだが、よくできていたな」
「えっ?」
 突然の賛辞に目が点になったが、オウゴンコガネタケのレポートは半年以上前に提出したものだ。
(半年前は先日じゃないと思うんだけど……)
 エルフの時間感覚に文句を言っても仕方ない。それよりも多忙なボリスがレポートを見てくれたことが嬉しくて、一気に舞い上がってしまった。
「や~ッ、恐れ入ります……! オウゴンコガネタケの毒が人間に効いて、なぜほかの哺乳類に効かないのか、界隈でも長年研究されていましたが! 人間の酸素運搬のメカニズムと昆虫の酸素運搬のメカニズムの決定的な違いに着目したことで、研究は大きな一歩を踏み出したと自負しております!」
 自慢げに語るアリスの言葉を聞いて、ボリスはやんわりと目を細める。
「オウゴンコガネタケはその名の通り値が張るものだ。実験もさぞかし苦労しただろう」
「はいっ、団長のおっしゃるとおりです!」
 アリスは背筋を伸ばし、儀礼的に踵をそろえて打ち付ける。
「我が神聖フォンデル王国は大陸の中心に位置し、周囲を山脈と深い森に囲まれた大自然の宝庫です! 実験のための素材には事欠きません! とはいえ資源には限りがありますので、黒鍵騎士団の潤沢な予算がなければとても今の成果を出すことはできないかと!」
「そうだな。日頃、うちの予算を使って好き勝手研究してるお前なら、毒に冒された騎士のひとりやふたり、治療できるよな?」
「っ……」
「だよな?」
 念押しするボリスの瞳がギラギラと輝いている。完全に真顔だった。
(こ、怖すぎる……)
 ボリスの正確な年齢は誰も知らない。先月に黒鍵騎士団団長・就任百周年のパーティーが行われたので、百歳以上なのは間違いないだろう。
 彼は神聖フォンデル王国の生き字引と言ってもいい存在だ。当然王族だってボリスの発言を尊重するし、彼に正面切って逆らえる人間などいない。
 あえてあげるなら、アリス憧れの存在である白煌騎士団の団長フェリクスくらいだろう。
 ボリスにとって、アリスなど玄関の足ふきマット以下の存在なのである。口答え=死だ。シャレにならなくなる前に軌道修正するしかない。
 アリスはすうっと大きく息をのみ、それからがっくりとうなだれた。
「ヒョウジュタケは……今晩じゃなくて、いいかも……です……人命……大事です……」
「そうか、よかった」
 ボリスがにこりと微笑んだ次の瞬間、後ろのドアがバタンと勝手に開く。
 用事が済んだらさっさと出ていけということだ。さすが団長、話が早い。
「ではすぐに赤狼騎士団の詰め所に行きますね! はいすぐに……失礼しますッ……」
 米つきバッタのようにペコペコし、可及的速やかにその場を離れようとしたところで、
「おい、アリス。ちょっと待て」
「は、はい……」
 ボリスが指でちょいちょいと自身の足元を指さしたので、大人しく彼の前に立った。
 ボリスは椅子から下りてアリスと向き合うや否や、右手をアリスの腹のあたりに押し付けて瞑想するように目を伏せる。
「っ……」
 いきなり体に触れられて驚いたが、ボリスは当代きっての魔法使いだ。これも意味があることなのだろうと悲鳴を飲み込む。
 ややして、ボリスがゆっくりと目を開けた。
「お前まだ処女なのか」
「えっ……!?」
 唐突な質問に、アリスの顔はみるみるうちに真っ赤に染まる。どうやら彼が触れたのは、アリスの魔力を確認するためだったらしい。語るに落ちたその態度にボリスは深いため息をつき椅子に腰を下ろして、赤面しているアリスを仰ぎ見る。
「生命の根源、神秘に近づこうとする魔法使いがいつまで処女を守っている。お前に誉れ高き黒鍵騎士団の一員の自覚はないのか」
「うっ……」
 上司に処女であることを責められている。普通に見れば結構なセクハラだが、魔法使いは別だ。
 魔術と性体験は切っても切り離せない。ボリスは立場上アリスを心配しているのだ。それはわかっているので、アリスは神妙に目を伏せる。
「えっとその、別に意識して守っているわけではないんですけど……で、でも、ボリス様は私の特殊能力のことを御存じですよね?」
 するとボリスは一瞬「?」という顔をして、それからふと思い出したように、窓の外に視線を向けた。
「ああ……なんだっけ。天候に左右される、アレか」
「こういう能力があると恋人は作りにくいんですよ。仕方のないことなんです」
 さも当然のように胸を張ったが、ボリスは呆れたようにため息をつく。
「お前の能力は人間関係すべてに当てはまることで、恋人限定ではないだろ」
「ウッ」
 そう、確かにアリスにはちょっとした特殊能力があるが、天候に依存しているのでその日は自分の振る舞いに気を付ければいいだけのことなのだ。こんなことで団長が誤魔化されるはずもなかった。
 黙り込んだアリスを見て、ボリスはさらに言葉を続ける。
「とにかく、だ。フェリクスの追っかけなんて現実逃避はすぐにやめて、男でも女でもいいからさっさと捨てろ」
「ウゥ~……」
「さっきから野良犬のように唸っているな。なんだ、躾が必要か?」
 鋭いボリスの眼光に一瞬息をのむ。だがさすがに我慢の限界だった。
「ボッ……ボリス様とそういう関係になりたい老若男女はごまんといるでしょうけど! 私は違うんです……! 純粋にモテないんです……! ボリス様の馬鹿~~ッ!!!」
 アリスは力の限り叫んで、団長室を飛び出したのだった。

(最悪すぎる……本当にいつか処されるかもしれない)
 馬鹿と叫んで逃げたことを後悔しながら詰め所に戻ると、
「団長の呼び出しはなんだったんです?」
 と、部屋の奥から声をかけられる。声の主は同僚のエミリアンだった。
 深夜の詰め所はしんと静まり返っている。残っているのは彼だけらしい。
 彼は他国からやってきた優秀な魔法使いで、これまでいくつか共同で研究をしたこともある。信頼できる同僚のひとりである。
「赤狼騎士団に毒に冒された人がいるから、治療して来いって」
「それはご愁傷様ですね。実験も佳境だったのに」
 エミリアンはため息をつきつつ、眼鏡を指で押し上げる。
 神聖フォンデル王国は『君臨すれども統治せず』の立憲君主制を維持しており、騎士団の成り立ちは王家だが今は違う。
 白、黒、青、赤の騎士団は、それぞれの団長をトップに権力は平等。団長会議で意見のすり合わせはあるがそれぞれが独立した組織であり、平民と貴族が入り混じる議会と、武力を担う騎士団との絶妙なバランスで維持されている。
 その中でもっとも団長歴が長いボリスには、関係各所からさまざまな問題や相談が持ち込まれることも多い。今回の件も医局からボリスに持ち込まれた案件なのだろう。
「まぁ、団長命令だから仕方ないかなって……」
 机の上に積みあがっているレポートや魔導書を崩さないように注意しながら、いくつかのメディシンボトルを選び慎重に皮袋に詰めていく。
 そこでふと封を開けていない手紙を発見した。アリスの故郷の町から送られてきたものだ。送り主は町長で、おそらく毎月の仕送りの礼だろう。
(もう、手紙なんていいのに……)
 アリスは両親を病で亡くした後、町長に引き取られた。
 魔法の才能があることがわかってからは隣町の学校に通わせてもらい、士官学校へ道が繋がった。今のアリスがあるのは町長一家のおかげだ。
(みんな元気かな……)
 薄く微笑みながら手紙を開くと、やはり仕送りに対する感謝の言葉が丁寧な字でしたためられている。アリスが毎月送っているお金は、親を失った子供の育成のための基金になっているらしい。
 手紙の最後にはいつものように『たまには顔を見せに帰ってきてほしい』と書かれていたが、そこは見ないふりをした。
 アリスが毒の研究を始めたのは、両親を鉱山の中毒症で失った過去があるからだ。
 人類が文明を築く上で環境破壊はつきものだが、治療法のない病気が蔓延し家族を失ったアリスにとって毒は憎き敵でもあり、同時にアリスのような子供を出さないために克服するべき問題である。
 魔法は神秘の存在だと思われがちだが、それだけではない。現実に即した一面がなければ具現化することもできないのが魔法なのだ。
(まだまだ黒鍵騎士団で学ぶべきことはたくさんあるわ……ここにいるためにも、ちゃんと仕事はしなきゃね)
 自分は魔法使いだ。魔法使いだから価値がある。
(恩返しをするには、顔を見せるよりも成果を出すことが一番なんだから……)
 目の前の水槽の中には青い傘に白い斑点模様のきのこが鎮座している。
 胞子を採取予定だったヒョウジュタケだ。月に一度、胞子をまき散らしながら成長する美しいキノコで稀少性はかなり高い。ちなみに手のひらサイズで騎士団の給与二か月分だ。
(あーあ……。今日の採取、楽しみにしてたのにな~……)
 今朝、隣席の占星術師に、
『アリスの星の巡りが十年に一度の大幸運モードに入ったわ! なにをやってもうまくいく、長年の悩みが解消されていいこと尽くし! ぜひいろんなことにチャレンジしてみてね!』
 と言われて大喜びしたのはなんだったのだろう。
(しかもダンテって……。フェリクス様なら喜んで行ったのに)
 アリスは脳内でぶうぶうと文句を言いながらため息をつき、いつものように手紙を引き出しにしまい込んだ。
(ダンテを最後に見たのはいつだっけ。フェリクス様の五十二歳の誕生日パーティーにいたような……いなかったような?)
 アリスは白煌騎士団の団長であるフェリクスの大ファンで、ファンクラブに入会するほどの熱狂的な信者だ。
 あの日は新しいブロマイドに本人から直接サインを貰って舞い上がっていたが、会場にはボリスだけでなくダンテもいたような気がする。彼は貴族なので、おそらく招待枠だろう。
 ダンテ・アンディナム・コンスタンティン。二十五歳。
 名門コンスタンティン侯爵家の次男として生まれ、士官学校の騎士科を首席で卒業した将来が約束されている男だ。
 コンスタンティン家特有の燃えるような赤い髪に、神聖フォンデル王国の白百合とまで呼ばれた母親譲りの整った顔と鮮やかなグリーンの瞳で、他の追従を許さないほどのモテっぷりは士官学校時代から有名だ。
 身分、実力、人となり。非の打ちどころがない。将来的には騎士団長に就任するのが当然の男なのである。
(魔法科で平民の私は、士官学校じゃ見ているだけだったけど……)
 解毒薬が入った皮袋を腰につけて、アリスはため息をつく。
 年は違うがダンテは士官学校の同級生だった。騎士科の彼と直接話す機会などゼロに等しかったし、そもそも自分のような平凡を絵に描いたような女が近づける男ではなかった。
(ダンテは私みたいな地味女のこと知らないだろうけど。ちょっと……いや、だいぶ憧れてたんだよね……)
 アリスは壁に立てかけてある鏡で、眉の上でぱっつんと切りそろえた前髪を指で整えながら目を細める。
 大きく波打つピンクブロンドに春の空を思わせるブルーの瞳が、こぢんまりとした小さな顔にバランスよく収まっているが、いかんせん華がない。生まれて二十二年間ずっとすっぴんだ。
(化粧品の飛沫が実験結果に作用したら困るしなぁ……)
 唯一のおしゃれといえば真珠のピアスくらいだが、これはアクセサリーというよりも魔力を高めるための道具である。王城内で行われる式典に出席するときはまだしも、己を美しく見せたいだとか、他人によく思われたいかなんて考えたことがない。
 生命の根源、神秘に近づくこと。それがこの世界に生きるすべての魔法使いの本能であり、願いである。
 アリスを含め黒鍵騎士団に所属している魔法使いたちはその思いが人一倍強く、人間らしい感情──恋愛やら友愛やらに向ける意識の割合が低めだ。
 時間があれば研究をしたいし本を読みたい。他人を己の世界に入れず、たったひとりでより深く魔法の世界に没頭したい。士官学校でもぼっちを貫き通したアリスにとって、黒鍵は理想の職場だった。
(それに引き換え、赤狼の人間なんか全員マッチョで、黒鍵のことわりかし馬鹿にしてる感じあるし……)
 百年ほど昔は四色の騎士団同士の争いで死人が出ることもあったのだとか。魔法使いに対するマイナスイメージは『理解できないものは排除したい』という人間の本能なので、仕方のないことなのだろう。
(だから私が処女なのも仕方のないことなのよ……!)
 モテモテ魔法使いの存在を脳内で無視しつつ、ぎゅうぎゅうに縛っていた髪をほどいてフード付きのローブを身にまとう。
 相変わらず気は重かったが、考え方を変えてみればいい機会だ。ボリスに仕事ぶりを見せられるし、昔なんとなく憧れていた男と合法的に話ができる。
「よし、さっさと終わらせるぞ!」
 そしていつも通り研究に戻るのだ。
 壁に立てかけてあった箒を手に取り、ひらりとまたがる。軽く助走をつけ、窓から外に向かってヒョイと飛び出した。
 いったん沈んだ箒は、すぐに重力に反してグングンと上昇する。頬を撫でる風の温度に夏の終わりを感じる。夜の気配もだいぶ変わり始めていた。
(そういえばもうすぐ秋の感謝祭だっけ……王都が騒がしくなるなぁ……)
 感謝祭は王都でもっとも盛り上がるお祭りだ。前夜祭含めて十日間あまり、王都のありとあらゆる道に露店が並び、旅の劇団や楽団、サーカスがやってきて連日人でにぎわう。 王都だけでなく国中から人が集まる最大のイベントでもあった。
(まぁ私は? 士官学校時代から一回も行ったことありませんけど……?)
 昔から勉学一筋で青春とは縁遠い人生だった。我ながら陰キャすぎて笑うしかない。だが別に構わない。研究は常に孤独と隣り合わせなのだ。人並みの幸せなど自分には過ぎたるものである。
 王宮の南に位置する赤狼騎士団の詰め所に降り立ったアリスは、フードを下ろしながら、中を覗き込む。詰め所にはアリスより頭ひとつふたつ大きな男たちがワラワラいて、いきなりやってきた女魔法使いを見て驚いたように目を丸くした。
 表情筋が死んでいると言われがちなアリスだが、騎士団に入団して一応社会性は身に着けたつもりだ。
(そう、今の私は知らない人に挨拶だってできる……!)
 圧の強い視線にビクビクしつつも、持っていた箒を軽く持ち上げる。
「あ、あの私……ボリス様に言われて来たんですけど……」
「あんた黒鍵の魔法使いか!」
 ひときわ体の大きな男がドスドス歩きながら近づいてきて、ガシッとアリスの肩をつかむ。肩に指が食い込んできしんだがなんとか悲鳴は我慢した。
「ヒッ……あっ、はい、そうですっ!」
 すると大男はパチン! とウインクをして、
「待ってたぜ! 急いで遠征先から帰ってきたのはいいが、医局の薬じゃ全然効果がなくて困り果ててたんだ! んで医者が黒鍵の団長に頼んでくれたってワケだよ!」
 と大きな声で説明してくれた。どうやらダンテは遠征先で毒に冒されたらしい。
「なるほど……それはちなみにどういう状況で?」
「説明はダンテ本人に聞いてくれ。二階の仮眠室で寝てるからさ!」
「わっ……!!」
 次の瞬間、アリスは土嚢のように担がれる。
 大男は詰め所の階段を駆け上がると、一番奥の部屋のドアをガンガンと大きな拳で叩き、部屋に飛び込んだ。
「ダンテ、黒鍵のねえちゃんが来てくれたぜ!」
 部屋は真っ暗だが、窓から差し込む月光で、かろうじて壁際にあるベッドがこんもりと盛り上がっているのが見える。
「ん……」
 呼びかけに毛布をかぶっている山がぴくりと動く。
「ヨシッ、じゃああとは頼むな!」
 ヒョイとその場に下ろされたアリスは、バシバシと背中を叩かれ、ドアはまたバタンと閉められてしまった。
(いや、ヨシッじゃないのよ……)
 あまりのテンポの違いにどっと疲れが押し寄せてくるが仕方ない。これは仕事だ。
 気を取り直し、アリスは毛布の山に向かって頑張って声を張った。
「えっと……ダンテ……? 私は黒鍵騎士団のアリックス・エリシー・アルマシーです。あなたの毒の治療をするよう言われて来たんですけど……」
「く、るな……」
 アリスの呼びかけに対して毛布の奥からうめき声が返ってくる。間違いない、アリスが知っているダンテの声だ。遠い昔を思い出して胸がときめいたが、気を引き締め精いっぱいの愛想笑いを浮かべた。
「あっ、あの、大丈夫ですよ……! 私は魔法使いで特に毒には耐性がありますので、感染の心配はないので……安心してくださいね~ッ……ハハハ……」
 しどろもどろに説明しつつ、フード付きマントを脱ぎポールにかけて開け放たれた窓際へと向かう。
 部屋に吹き込んでくる風は緑と土の匂いが強い。
(あれ、もしかして雨が降る……?)
 だとしたらまずい。可及的速やかに治療を済ませなければ。
 急いで窓を閉め、腰に挿していた魔法使いの杖を取り出した。
「部屋に結界を敷きますね」
 アリスの杖は瑠璃天鳥の羽を使った羽ペンサイズのものだ。手首からヒラリと動かすと、先端から星屑のようなきらめきがこぼれて、あたりに散らばる。
 簡易結界だが、これで外からは誰も入ってこれないし声も外には漏れないはずだ。
 アリスは若干緊張しながらベッドを振り返った。
 毛布の山は相変わらず微動だにしない。ダンテは完全にこちらを無視している。
(陰気な魔法使いと関わりたくないかもしれないけど、私だって好きでやってるわけじゃないし仕事だし……! ちゃんと治さないとボリス様に折檻されるのは私だし……!)
 大きく深呼吸をした後、ベッドに戻って毛布の上から肩のあたりに手を置いた。
「あの……とりあえず様子を見せて──」
「ッ、触るな!」
 ダンテは毛布ごと跳ね起き、アリスの手を振り払うと、壁にもたれるように寄りかかった。
「女はだめなんだよ、ああくそっ、言っておけばよかったっ……!」
 ダンテはハァハァと肩で息をしながら、立てた膝の間に上半身を倒しアリスを上目遣いで見上げる。
 いつも美しく整えられている深紅の髪が汗で張り付いて妙に色っぽい。こちらを見上げるエメラルドの瞳も、熱がこもって濡れたようにキラキラと輝いている。
 ダンテ・アンディナム・コンスタンティン。赤狼騎士団の将来の団長候補と称されるエリート騎士。お城で働く妙齢の女性で、彼のことを知らない人などいないのではないだろうか。そしてアリスにとっても特別な思い出がある男である。
(ダンテ……)
 胸がきゅう、と締め付けられてほんの少し心臓の鼓動が速くなったが、すぐに異変に気が付いた。彼の吐息から、かすかに甘い香りが漂ってくる。とっさに口元を覆い尋ねる。
「もしかして……媚薬?」
「っ……」
 アリスがそう口にした瞬間、ダンテはぴくりと頬をひきつらせる。どうやら心当たりがあるようだ。
 媚薬。性的な興奮を引き起こし相手に恋心を起こさせたり、肉体的な性機能を増進させたりと、魔法使いにはお馴染みの薬品でもある。
「なにか飲まされたり、嗅がされたり……身に覚えはある?」
 その瞬間、ダンテは観念したように奥歯をギリギリとかみしめつつ、両膝を抱えてうつむく。
「遠征でっ……地方領主の、館に滞在したっ……食事をとったあとに、こうなって……」
「ああ~……なるほど。領主には年頃の娘がいたのでは? もしくは領主の若い後妻とか」
「両方……いたな……」
 すでに息も絶え絶えのダンテの様子から、アリスはなにもかもを理解した。
 妻か娘、もしくは両方がダンテに夜這いをかけるつもりだったのだろう。だが素人が薬を扱うのは難しい。用法容量を守れないまま使用して、こういう結果をもたらすのはよくあることだった。思いのほか早く強く効果が出てしまい、ダンテの異変に慌てた騎士団がとりあえず王都に連れて帰ったのだろう。
 魔法使いからしたら皆まで言うなのお約束の展開である。災難すぎて同情しかない。
「それはその……大変でしたね。まずはこれを飲んでください。媚薬の分解を早めますから」
 アリスは腰に下げていたメディシンボトルからいくつか錠剤を選んで取り出し、ダンテに差し出す。
「っ……のんだら、出て行ってくれ……今の俺はっ……頭がまともに働かないんだっ……」
「そんなこと気にしないで。本当に私は大丈夫だから」
 ダンテは喉の奥で声にならない唸り声をあげたが、結局、震える手でそれをつかむと、勢いよく口の中に放り込む。錠剤のいくつかが唇の端から零れ落ち、シーツの上に散らばった。
「落ちましたよ」
 アリスがそれを拾おうと手を伸ばした次の瞬間、
「出て行けって、言ってるだろ!」
 アリスの手首がつかまれて、ぐいと力任せに引き寄せられる。
「ひゃッ……!」
 アリスの華奢な体は宙を舞い、背中がスプリングでバウンドする。気が付けばダンテにベッドの上で押し倒されていた。