焦がれる本能 けものな騎士は辺境伯令嬢を誰にも渡さない 1
「よく聞け、アデル。お前は我が家の長子だ。この先、もし私の身に何かあれば、領地の管理を任せることになるだろう」
アデルは物心ついた頃から、父のレイモンドにそう言い聞かされてきた。
リガシオン王国の国境地域を治めるローベルン辺境伯家には、長女のアデルと次女のシルヴィ以外に、跡継ぎとなる男児がいなかった。
しかし、王が認めれば女でも家督を継ぐことができるため、父はアデルに向かって事あるごとに跡継ぎとしての心構えを説いたのである。
「その時に備えて、今からよく学び、ローベルン家のために励むんだぞ」
「はい、お父さま!」
元気よく返事をすると、厳格な父は満足そうに頷いて頭を撫でてくれた。
アデルはそれが嬉しくて、父の言いつけを胸に刻みこみ、やりたいことは後回しにして勉強に取り組んだ。
だが、彼女が十一歳になった年、長男のカミーユが生まれた。
その二年後にはカミーユがローベルン家の後継者と定められ、跡継ぎの座から外されたアデルは自分の将来について悩んだ時期がある。
そんな時、とある事情からローベルン家に引き取られてきた少年にこう言われた。
「アデルはさ、もっと自分の好きなことをすればいいんじゃないか」
図書室のカウチで読書をしていたアデルは、そのぶっきらぼうな言葉に面を上げて、隣に座っている少年を見やった。
「エミディオ。急に、どうしたの?」
「少し前、アデルが跡継ぎのことで悩んでたから、俺なりに考えたんだよ。これまではレイモンドに言われて、領地のこととか勉強していたんだろ」
黒髪の少年──エミディオが口を尖らせながら続けた。
「だから、これからは自分のしたいことをすればいいんじゃないかって思ったんだ。よく読書してるし、歴史とか神話が好きなんだろ。そういうのを勉強したり、とかさ」
アデルは目を見開いてから、手元の本に視線を戻す。
それはリガシオン王国に伝わる神話を集めた本。
リガシオンを建国した始祖の王と、その友であった獣人の騎士が困難を乗り越えて、王国を作るまでの史実を基にしたとされている。
始祖の王が神格化されており、だいぶ誇張されている部分もあるが、冒険ものとして読むことができ、当時の歴史や文化を知ることもできた。
アデルはそれを勉強の合間に読むのが好きで、屋敷の図書室にある神話集にはすべて目を通していた。
「俺も歴史の勉強になるから読めって言われたけど、さっぱり頭に入らないんだよ」
エミディオが嫌そうに自分の開いている本を示した。
家庭教師に指定された課題図書で、子供向けに読みやすくされた神話集だ。
勉強よりも外で身体を動かすほうが好きだと言い切るエミディオは、それを一ページ読み進めるだけでも苦行らしい。
「でも、アデルは俺と違って、いつも熱心に読んでるから」
「確かに、神話集とか歴史書って楽しいから、つい集中しちゃうのよね」
「嘘だろ。こんなの、読んでるだけで眠くなるのに」
「眠くなるのは仕方ないとしても、教養として読んでおくのはいいと思うけど」
「分かってるよ。……死ぬ気で読めば、一冊くらいなら何とかなるし」
顰め面で呟いて、エミディオは不承不承といった様子で本を捲り始める。
微笑ましくそれを眺めながら、アデルは彼の言葉を反芻した。
──私の好きなことをすればいい、か……。
今までは父の言いつけを守らなくてはいけない、という義務感で勉強していたが、その間もずっとリガシオンの歴史や神話が好きだった。
──歴史と神話を学ぶ。それって、すごく楽しそうね。
父の跡を継ぐ責務がなくなっても、年頃になれば結婚という義務が生じるだろう。
だが、それまでの期間だけでも自分のしたいことに挑戦してみる、というのも有りではないか。
将来への展望が開けてきて、アデルは微笑んで本を捲ったが、まもなく肩に重みを感じた。隣に目をやると、エミディオが凭れかかって転寝をしている。
死ぬ気でやっても眠気には勝てなかったらしい。
すやすやと寝息を立てるエミディオの寝顔はあどけなかった。
ローベルンに来た直後の彼は暗い表情ばかりしていて、こちらを見る眼差しには不安と拒絶の色があった。
だが、今ではすっかり打ち解けて、心を許してくれたのが分かる。
──弟が一人、増えたみたいな気分だわ。
エミディオは十三歳のアデルよりも二つ年下で、現在は十一歳。
アデルにはもともと九歳の妹シルヴィと、二歳の弟カミーユがいるから、四人目の姉弟ができたみたいだった。
寝心地悪そうに唸るエミディオに膝枕をしてあげると、心地よさげに丸まって眠り始めたので、アデルは笑みを深めた。
父からそれとなく聞いたことだが、エミディオは出生に複雑な事情を抱えている。
だから、せめてこのローベルン家が安らげる場所になればいいと思った。
「寝顔、可愛い」
心を開いてくれてからは遊び盛りの少年らしく悪戯をしたり、生意気な言葉を口にしたりすることも増えてきたが、年相応の寝顔は愛らしい。
アデルは可愛いものが好きで、妹や弟はもちろんのこと、新しく家族になったエミディオも『可愛いもの』の対象に入っていた。
ひとしきり寝顔を見つめてから、アデルは読書に戻った。
その間も、エミディオはすやすやと愛らしい寝息を立てていた。
*
十一年後──。
アデルは息も絶え絶えになって枕に突っ伏していた。
薄暗い室内には荒い呼吸が響き渡り、たえまなくベッドが揺れている。
「っ、ん……あっ、あ、ぁ……」
ずんっ、ずんっ、と後ろから腰を叩きつけられるたびに甘美な熱がこみ上げて、アデルはあえかな嬌声を上げた。
くしゃくしゃになったシーツを握りしめ、朦朧としながら目を瞬く。
──まだ、終わらない……これ……いつまで、続くの……?
剛直で奥を突かれて身震いすれば、熱っぽく色気のある吐息が耳朶をかすめた。
「はぁ……アデル……」
うっとりとした声色で名を呼ばれて、はむはむと耳を甘噛みされる。
「や、っ……耳、噛まないで……」
「……どこもかしこも、柔らかくて、甘い香りがするから……齧りたくなるんだよ」
背中に覆い被さっている、大柄な青年──エミディオがひそひそ声で囁き、身悶えるアデルを抱きしめて荒々しく腰を打ち付けた。
すでに何度か白濁液を注がれており、そこに滴る愛液も相まって秘裂はぐちゃぐちゃになっている。
萎えることなく反り返った男根を激しく出し入れされ、グチュッ、グチュッと耳を覆うほど卑猥な音が響いた。
「あ、あっ、ああ……!」
ひたすら雄芯を打ち込まれ続けて、あまりの激しさに身体がベッドの上部へ押し上げられる。
だが、そのたびに頑強な腕によって引き戻された。
背中にぴたりとくっついたエミディオの胸板は汗ばんでおり、無遠慮にのしかかられると、とてもじゃないが自力では振りほどけない。
アデルは好き放題に揺さぶられて喘ぐしかなかった。
「んっ、あ、ん……あ、あ……エミディオ……」
「アデル……キスしよう」
顎をとられて後ろを向かされ、腫れぼったくなった唇に齧り付かれる。
ざらついた舌が入りこんで歯列や口蓋を舐っていった。
その間も腰を揺すられているので、乱れた息遣いを生々しく感じ、アデルは意識が遠のきそうになる。
けれども、ちゅうっ、と強めに吸われて飛びかけた意識を戻された。
「はっ、あ……あぁ……もう、だめ……」
延々と続く睦み合いに限界を訴えるが、エミディオがじゃれつくみたいに頬をぐりぐりと押しつけてきて、大きな右手がシーツと乳房の隙間に入りこんでくる。胸の膨らみをむにむにと揉みしだき、尖った頂を爪で弾いた。
「ひゃ、っ……あぁ、ん……」
「……その声、色っぽくて……腰にくる」
エミディオが甘ったるい声で囁き、蕾のような乳頭をくりくりと指で挟んだ。
雄々しく硬さを保つ陰茎で繰り返し突き上げられ、アデルはされるがままに揺さぶられながら肩越しに彼を仰ぐ。
薄暗い部屋の中でも、獣のそれのように輝く緋色の瞳がすぐそこにあった。
──闇でも光る、赤い瞳……。
このまま食べられてしまうのではないかと思うほど、その眼差しは鋭く獰猛だ。
リガシオン王国で暮らす民の祖先には、かつて『獣人』がいたという。
今やその血は断絶してしまったが、とりわけ血が濃く、優秀な獣人がいたとされる王族の中には時折、先祖返りをする者がいた。
エミディオもその一人だった。
姿かたちまでは変わらないが、獣人の持つ高い身体能力や、人とは違う本能的な習性や特徴をいくつか持っている。
エミディオの瞳の色はもともと黒だから、赤く色が変わるのは特徴の一つだ。
アデルの視線に気づくと、彼は極上の獲物を捕らえた猛獣のような赤い目を細め、口角を持ち上げる。薄らと開いた口からは、狼の牙のごとく尖った犬歯が見えた。
子供の頃、エミディオは小柄で可愛い弟みたいな存在だった。
だが、目の前にいる彼はとても『可愛い』とは言えない。
身長はとっくにアデルを追い越しており、騎士の訓練を日々こなしているため、その肉体は鍛え上げられて引き締まっている。
切れ長の双眸に情欲を宿し、ぺろり、と唇を舐める仕草には雄めいた色気があった。
「アデルが逃げたいと思わなくなるまで、俺の目、ちゃんと見てて」
重低音の声で放たれた言葉は、まだ離すつもりはないという宣言でもある。
アデルは唇に甘く噛みついてくるエミディオを受け入れて、終わらない交合に霞みゆく視界で、ひときわ輝く緋色の瞳を見つめ続けた。
王都を発って数日。馬車は舗装されていない田舎道を進んでいく。
エミディオは車窓の向こうに広がる田園風景をぼんやりと眺めていた。車輪が路傍の石に乗り上げるたびに馬車はガタガタと揺れる。
隣に座っている遣いの男は終始寡黙であり、必要なこと以外は口を利かない。
エミディオも話しかけたりはせず、虚ろな眼差しで窓の外を眺め続ける。
病を患っていた母が逝去したのは、つい一週間ほど前のこと。
王城に知らせを送り、数少ない使用人の手を借りて母の葬儀をした、その翌日に王弟の遣いという男が現れた。
【あなたには、このまま王都を離れていただきます】
涙も乾かぬうちに遣いの男はそう言って、市井の片隅にあるこぢんまりとした屋敷からエミディオを連れ出した。
──この馬車は、いったいどこへ行くんだろう。
どこまでも続く田園風景を眺めて疑問を抱くが、どこでもいいかと投げやりに思う。
エミディオの父は、このリガシオン王国の王族だ。
現国王の弟として生まれ、齢五十近くになっても放蕩者だと悪名高い父に、エミディオは一度も会ったことがなかった。
父は屋敷に仕えていたメイドの母に目をつけ、気まぐれで孕ませたあとは市井の屋敷をあてがい、最低限の生活費だけを与えて飼い殺しも同然の扱いをしていた。
挙げ句、母が病床に伏しても見舞いに来ず、葬儀にすら顔を出さなかった父とは今更会いたいとも思わなかった。
──別に、どこでもいいか……何もかも、どうでもいい。
エミディオはまだ十一歳だったが、己の立場が複雑なものであることを理解していた。
母とともに市井へ追いやられていた王弟の庶子の扱いなんて、ある程度の予想はつく。
辺境の地の孤児院に入れられるか、子供のいない貴族に物同然で買われるか、せいぜいそのあたりだろう。
いずれにせよエミディオに行き先を選ぶ権利はない。
周りの大人たちが勝手に決めることだった。
……だが、せめてもう少しだけ、母と暮らした思い出が残る屋敷にいたかった。
喪失感から気分がひどく落ち込み、エミディオはこみ上げた涙を手の甲で拭い取ると、それ以上は何も考えないよう、ひたすら窓の外を見ていた。
海の見える大きな都市に到着し、高台に建つ屋敷の前で、ようやく馬車は停まった。
遣いの男が先に降りて、屋敷の前で待ち構えていた誰かと話している。
その間、エミディオは車窓から見える大海原に目を奪われていた。生まれてこのかた王都を出たことがなくて海を見るのは初めてだったからだ。
やがて馬車の扉が開き、外へ出るよう促される。
「降りてください、エミディオ様。今後、あなたにはこの地で暮らしていただきます」
エミディオがのろのろと指示に従い、馬車の外へ出た瞬間、ほのかに塩辛い風が鼻腔をかすめた。
海から吹く風の匂いだと気づくと同時に、視界に入ったのは背が高い壮年の男だ。
紺碧の瞳に赤毛を短く刈り上げ、眉間に深い皺が刻まれている。逞しい身体つきをしており、背筋を伸ばして佇む姿には威厳があった。
男がエミディオの前まで歩み寄ってくる。目の前に立たれて、エミディオはその背の高さと、どっしりとした威容に思わず息を呑んでしまった。
「ようこそ我が領地へ。私はレイモンド・ローベルンと申しまして、辺境伯の称号をいただいております。レイモンド、とお呼びください」
開口一番、畏まった口調で挨拶をされた。
エミディオは物心ついた頃から市井の屋敷にいたため、貴族との交流はなかった。日々の生活は慎ましいもので、身分を隠して平民の子たちと遊ぶこともあった。
当然ながら上流階級の大人と接触する機会もなかったから、ローベルン辺境伯と名乗った男の丁寧な口上に、いささか面食らう。
「あ、うん……俺の名前は、エミディオ」
ぎこちなく名乗ると、ローベルン辺境伯は厳めしい顔つきで頷き、背後に並んでいる家族を紹介した。
「こちらは私の妻ベアトリスです」
辺境伯の奥方は金髪碧眼の美しい女性だった。
亡くなった母と同じくらいの年齢だと思うが、日に当たっているのかと疑いたくなるほどに肌は病的な白さで、線も細い。
「はじめまして、エミディオ様。私のことはベアトリスとお呼びください。そして、息子のカミーユです」
侍女に抱かれて眠っている赤毛の幼子も紹介され、エミディオは戸惑いぎみに「うん」と小声で返事をする。
続いてベアトリスの横に立っていた二人の娘たちが前に出た。
「こっちは長女のアデル。十三歳なので、エミディオ様より二つ年上です」
「こんにちは、エミディオ様。アデルです。よろしくお願いします」
姉のアデルは父親と同じ赤毛と、海原のような紺碧の瞳を持つ少女だ。
顔立ちは、どことなく父親に似ている。目尻が少し吊り上がった両目は猫みたいにパッチリとしており、輪郭がたまご型で鼻筋は通っている。
小柄なエミディオよりも背が高く、立ち姿には大人びた雰囲気があり、目が合った途端に親しげに笑いかけてくれた。
胸がドキリと鳴ったが、エミディオはさっと視線を逸らし、もごもごと小声で応じる。
「……ああ、うん……よろしく」
「そして、こっちが次女のシルヴィ。年は九歳です。シルヴィ、挨拶をしなさい」
妹のシルヴィはアデルの陰に隠れて立っていたが、父や姉と同じ紺碧の瞳を受け継いでおり、あどけないながらも整った顔立ちと金髪は母譲りであった。
アデルに促されて、シルヴィが渋々といった様子で挨拶をする。
「シルヴィです……こんにちは」
なんとなく声色に棘がある気がした。姉のアデルにくっつき、こちらを窺い見ている眼差しも好意的ではない。
エミディオが気まずげに頷くと、家族の紹介を終えたローベルン辺境伯が言った。
「今日から、ここを我が家だと思ってください。何か必要なものがあれば、遠慮なくおっしゃっていただければと」
エミディオは無言でローベルン一家を見渡した。
貴族のことはさっぱり分からないが、辺境伯という物々しい響きを聞くからに、王族の庶子を預けるのに相応の家柄なのだろう。
威厳のある辺境伯と美しい妻、幼い息子。そして、明らかに育ちのよい二人の姉妹。
そこに自分が入る余地などないと確信して、エミディオは目線を外す。
──ここが我が家だなんて思えるもんか。
「さぁ、部屋へ案内しましょう」
ローベルン辺境伯に連れられて歩き出すと、見守っていた遣いの男が一礼し、馬車に乗って去っていく。
あの男とは道中ほとんど口を利かなかったが、エミディオは置き去りにされた心地になって俯いてしまう。だが、すぐに面を上げた。
塩辛い潮風に交じり、どこからか漂う甘い香りを嗅ぎ取ったからだ。
──なんだろう、この甘い香り……すごく、いい香りだ。
鼻をこすって視線を巡らせた時、すぐ近くにいた赤毛の少女アデルと目が合う。
またにっこりと笑いかけられたので、エミディオはすぐに顔を伏せた。
ローベルン家で始まった新生活は、エミディオにとって苦難の連続だった。
母と暮らしていた頃は質素ながらも自由な生活で、貴族然としたマナーに縛られていなかった。
だが、ローベルン家では食事の作法一つとっても馴染みがない。
辺境伯はすぐにマナー教師をつけてくれたが、もともと頭を使う勉強よりも、身体を動かして遊ぶことが好きなので堅苦しいマナーは苦痛でしかなかった。
唯一の楽しみであった食事の時間がそんな調子だから、エミディオは食欲が落ちて、ますます気分が塞ぎ込んでいった。昼間も部屋から出ることなく、窓辺でぼんやりと海を眺めて一日を過ごす。
辺境伯夫妻と長女のアデルは何かと気遣ってくれたが、エミディオが壁を作っているせいで距離が縮まらず、我が家と思えるほど馴染むこともできない。
亡くなった母が恋しいあまり悪夢を見て、泣きながら目覚めるという日も多々あった。
ある時、いつものようにマナーの講義を受け、鬱々として海を眺めていたら、アデルとシルヴィが庭園から砂浜へ続く階段を下りていくのが見えた。
「おねえさま! はやく、はやく!」
「分かったから、シルヴィ。走らないで」
姉妹は仲良く手を繋いでいた。二人を見守る侍女が後ろについていく。
エミディオのところまで笑い声が届いてきたから、ひどく惨めな気持ちになった。
最愛の母を喪い、慎ましくも幸福な生活を奪われただけでなく、幸せそうな姿を見せつけられている。
孤独感に押し潰されそうになり、エミディオは床に蹲って膝を抱えた。
きつく閉ざした瞼の端から大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちていく。
そうして一日中、膝を抱えて過ごし、気づけば夜になった。
扉の向こうでコンコンとノックの音がして、アデルの柔らかい声がする。
『エミディオ様。夕食の時間ですよ』
食事の時間になると、いつもアデルが部屋まで呼びに来るのだ。
エミディオは膝を抱えたまま硬い口調で応じた。
「いらない」
『……もしかして、どこか体調でも悪いんですか?』
「食べたくないんだよ」
つい口調が強くなる。今は誰の顔も見たくなかったし、幸福を絵に描いたようなローベルン家の人々と対面したら、また惨めな気持ちになりそうだった。
アデルは黙ってしまったが、少し間をおいて言う。
『分かりました。あとで夜食を届けますね』
気遣う台詞を残し、アデルの足音が離れていく。
エミディオは耳を澄ませて部屋の前に誰もいなくなったのを確認してから、ゆっくりとバルコニーに出た。
夜の潮風に当たっていると、姉妹が仲良く砂浜に下りていった光景が蘇ってくる。
最愛の家族と幸福な時間。エミディオが失ったものを、この家の者たちは当たり前のように持っているのだ。
──でも、俺にはもう何もない。ここは俺の家じゃないし、母さんも死んだ。父親の顔だって知らない。きっと、俺はこれからずっと一人なんだ。
ローベルン一家と自分を比べたことで、余計に孤独を感じてしまい、エミディオはバルコニーの手すりをぎゅっと掴んだ。
──もう、こんなところにいたくない。どこか、ほかの場所へ行きたい。
堅苦しいマナーも、幸せを見せつけてくる一家もうんざりだ。
エミディオは感情のままにそう思い、バルコニーの手すりから身を乗り出した。
庭園には背の高い木が植えてあり、部屋のバルコニーまで枝葉を伸ばしている。そこを伝って庭に下りることができそうだ。
念のため人がいないか周りを見渡すが、夜の庭園は無人だった。
食事時、ローベルン家の人々は一階にある食堂に集まるから、彼がいなくなったとしてもしばらくは気づかないはずだ。
エミディオはバルコニーの手すりによじ登り、軽い身のこなしで枝に飛び移った。
幼少期から、彼は普通の人よりも五感に優れ、人並み外れた運動神経を持っていた。
木登りなんて朝飯前なので、木の幹にしがみついて無事に着地する。
人より夜目も利くため、エミディオは迷うことなく庭を横切り、昼にアデルとシルヴィが向かった階段を目指した。
階段の入り口には鉄の柵があったが、それを軽々と乗り越えて浜辺に下りていく。
しかし、ほどなくして足がぴたりと止まる。
夜の海は真っ暗だった。人の気配がない砂浜は波の音以外は静かで、月も雲間に隠れてしまっており、あたりはひどく薄暗い。
日が落ちたからか潮風はとても冷たく、エミディオはぶるりと身震いをした。
おそるおそる砂浜に出て海原を見渡すと、どこまでも黒い水面が広がっている。昼に見る海とは明らかに雰囲気が違った。
──夜の海、こわい。
本能的にそう感じて、エミディオは来た道を振り返った。
砂浜の端にある岩場から、高台にあるローベルン家の屋敷まで石階段が延びている。
そこを上れば、明るい屋敷に戻ることができるだろう。
「…………」
一瞬だけ心が揺らいだが、エミディオは唇を噛みしめて石階段にくるりと背を向けた。
あんなところにいたくないと思って出てきたのだ。今更、戻るわけにはいかない。
──でも、どこへ行ったらいいんだろう。
冷たい海の風にさらされて歩きながら、ふと不安がこみ上げた。
ずっと引きこもっていたから屋敷の外に出たことがなく、この街については何も知らなかった。他の場所へ行きたいという気持ちだけで行動してしまったが、エミディオには行くあてなどないのだ。
砂浜を離れて街へ出ようかと考えたが、こんな時刻に子供が一人でふらついていたら目立つだろうし、市井で育ったエミディオは夜の街の危うさを知っていた。
治安が悪い区画へ迷いこめば、下手すると誘拐されることだってありうる。
ましてや、ここは見知らぬ街だ。
土地勘がないため、うかうかと歩き回れない。
考えながら歩を進めるたびに気分が沈んでいき、エミディオはとうとう立ち止まった。
──行く場所なんて、ない。
俯いた時、お腹がぐうと鳴る。
ここのところ食が細くなったことに加えて、今夜は夕食も食べていない。
エミディオは空腹を訴える胃のあたりをさすると、近くに漂着していた丸太に座る。
広い砂浜には誰もおらず、ただ波が打ち寄せる音だけが聞こえて、なんだか世界で一人きりになってしまったかのようだった。
暗い海原を眺めていたら、どうしようもなく寂しさがこみ上げる。
いつしか身体の末端まで冷えており、かたかたと指先が震え始めた。少し眩暈もしてきたし、腹の虫はひっきりなしに鳴っている。
エミディオは肩を縮めて小さくなった。
──もういい……ここで死んだっていいや。
心細さと悲しさに打ちのめされ、そんな行き過ぎた考えまで脳裏を過ぎった。
しかも、死んだところで悲しんでくれる家族はいないのだと気づいて、より一層、悲しくなってくる。
ぶるぶると震えながら丸くなり、目尻に涙が溜まった時だった。
「エミ……様──!」
どこからか人の声が聞こえたので、エミディオはハッとして面を上げる。