戻る

焦がれる本能 けものな騎士は辺境伯令嬢を誰にも渡さない 2

第二話

 

 自分が歩いてきたほうへ目をやれば、屋敷のある高台の近くでたくさんの明かりがチラチラと光っていた。
 再び、誰かの呼び声が聞こえる。
「エミディオ様──ッ!」
 彼の優れた聴覚は、その声──自分を捜すアデルの声を確かに拾った。
 エミディオは驚いて立ち上がったが、すぐに足元がふらつく。
 夜の海風にさらされた身体は冷えきって、まともに食事をとっていなかったせいか、きちんと立てない。
「エミディオ様! いたら、返事をしてください……! エミディオ様──!」
「お待ちください、お嬢様! 一人では危のうございます!」
 息を切らしたアデルと、侍女らしき声が近づいてきて、蹲っていたエミディオはのろのろと立ち上がった。
 淡いランプの光が暗闇に包まれた砂浜を照らし、きょろきょろとあたりを見回しているアデルの姿が浮かび上がった。
「っ、エミディオ様!」
 ランプを掲げたアデルがエミディオを発見して走ってこようとしたが、砂に足を取られて派手に転んだ。しかし、すぐに立ち上がって駆け寄ってくる。
「モリー! エミディオ様を見つけたわ!」
 追いかけてくる侍女に「ここよ!」と叫んだアデルが、エミディオの正面に膝を突く。
「ああ、無事でよかった……!」
「……アデル? どうして……」
 弱々しい声で囁くと、たちまち彼女は泣きそうな顔になった。
「夜食を持っていったら、あなたがどこにもいなくて……慌てたお父様が、街まで捜しに行って、お母様と私たちで庭や砂浜を捜していたんです……何かあったんじゃないかと、心配で……」
 説明するアデルは汗をかいており、いつも綺麗に整っている髪はぐしゃぐしゃだ。
 転んだためか着ているワンピースも砂まみれだった。
 こんなにも必死になって自分を捜してくれるとは思わなくて、エミディオが言葉を失っていたらアデルの手が伸びてくる。
 労るように頭を撫でられると不安と寂しさが薄れていき、鼻の奥がじんと熱くなった。
「まぁ、エミディオ様! ご無事でようございました……!」
 アデルの侍女モリーも追いついてきて、無事なエミディオを前にしてほっとした表情を浮かべる。
 それを見たら緊張の糸も切れて、気づけば目尻から涙が溢れ出した。
 エミディオがいきなり泣き始めたからか、アデルがそっと抱擁してくれる。
 初めてローベルン家を訪れた時に感じ取ったものと同じ、甘い香りが鼻腔を満たした。
 ──なんだ、これ……甘い香りがする。
 無意識にアデルの首に顔を押しつけ、くん、と香りを嗅ぐ。
 ──すごく好きな香りだ。
 自分から抱きつくと背中をさすられた。幼子を宥めるみたいにトン、トンと叩かれて、涙の勢いがますます強くなる。
 そこからの記憶は曖昧だ。涙が止まらなくて頭はぼーっとするし、寒気もひどくて歩けなくなり、モリーに背負ってもらった。
「ねぇ、モリー。先に行って、エミディオ様が無事だったことを屋敷のみんなに知らせてくれない? 屋敷はすぐそこだし、あとは私が背負うから」
「お嬢様が背負われるのですか?」
「ええ。ちょっとくらい大丈夫よ。よくシルヴィも背負っているし」
 遠くのほうでそんな会話が聞こえて、途中から背負ってくれる相手がアデルになった。
「もうすぐ屋敷ですよ、エミディオ様。お部屋でゆっくり休みましょうね」
 エミディオは市井にいた同年代の男児の中でも小柄なほうだった。
 アデルとは年齢がたった二つしか違わないのに、彼女の背中はやけに大きく感じて、密着しているからか甘い香りに包まれる。
 ──ここ、安心する。
 ゆりかごみたいに揺れる背中に身を預け、また涙を一粒ぽろりと流した。


 屋敷へ戻ってから、しばらくエミディオは寝こんだ。
 心身ともに弱っていたところに身体の芯まで冷えたせいで、ひどい風邪を引いたのだ。
 なかなか熱が下がらなくて、ベッドを出ることもできなかったが、あの夜を境に一つ大きな変化があった。
「こら、シルヴィ。エミディオ様が休んでいるのよ。ベッドに上がっちゃダメでしょ」
 消化のいい昼食をとり、うとうとしていたエミディオは薄目を開けた。
 視線を横へやると、ベッドの横で読書をしていたのか、アデルが読みかけの本を片手に妹のシルヴィと話している。
「だって、ぽかぽかして、ねむくなってきたんだもの」
「お昼寝しに部屋へ帰る?」
「ううん、ここにいる。おねえさまの、おひざに乗っていい?」
 仲のいい姉妹のやり取りを寝ぼけ眼で見つめた。
 ここのところ毎日、ベッドで目が覚めるとアデルとシルヴィが側にいる。
 辺境伯夫妻も様子を見に来るが、特にアデルはエミディオに付き添い、あれやこれやと世話を焼いた。
 ──あの夜も、アデルが見つけてくれた。
 砂浜で震えていた彼を捜し出し、屋敷に連れ帰ってくれたのだ。
 ちなみに街まで捜しに行った辺境伯と、周辺を捜索していたベアトリスには「死ぬほど心配したんですよ」と叱られたが、それが不思議と嬉しくもあった。
 本気で心配してくれていたというのが伝わってきたからだ。
 なによりも叱られている時はアデルが側にいて、エミディオの手を握っていたので、一人じゃないと言われているようで心強かった。
 以来、目覚めるたびにアデルが側にいると、なんだかとてもホッとする。
 アデルの柔和な横顔にぼんやりと見蕩れていたら、シルヴィが姉の膝によじ登ったところで、エミディオが起きていると気づいたらしく「あっ」と声を上げた。
「おねえさま。エミディオさま、起きたよ」
「エミディオ様。お水、飲まれますか?」
「……うん」
 アデルが膝に乗せたシルヴィを下ろし、水を注いだグラスを差し出してくる。
 だるい身体を起こして受け取り、冷たい水で喉を潤した。空になったグラスを返したら二杯目の水を注がれる。
「他に、何か欲しいものはありますか?」
「……ない」
「じゃあ、わたしたちに、してほしいことはありますか?」
 シルヴィがベッドに頬杖を突き、ませた口調で訊いてきた。
 ──してほしいこと?
 エミディオはしばし黙ると、アデルをちらりと見る。すぐに目が合ったので、ぱっと視線を逸らす。
 不思議そうに首を傾げるアデルから目線を外したまま、勇気を出して切り出した。
「……敬語を、やめてくれ。名前も、呼び捨てでいい」
 思いきって告げると、アデルがきょとんとしてシルヴィと顔を見合わせる。
「どうする、おねえさま」
「うーん。お父様には、失礼のない態度で接するようにと言われているんだけど……」
「堅苦しい態度をとられると、息が詰まりそうになるんだ……ずっと、母さんと街で暮らしていたから、マナーも苦手で……畏まった感じに、慣れてない」
 聞き取りづらい声でもごもごと打ち明けた。
 この説明だけでも、彼が王都でどんな扱いを受けていたのかは察するだろう。
 案の定、姉妹は揃って驚いていたが、やがてアデルがふうと息を吐いた。
「分かったわ。敬語はやめる」
「うん、わたしも」
「お父様にも、そう話しておく。それでいい、エミディオ?」
 親しげに呼ばれて顔を上げれば、またアデルと目が合った。
 海と同じ色の瞳で見つめられると、ひとりでに頬が熱くなったが、エミディオはぷいと顔を背けて「それでいい」と頷いた。
 この一連の出来事がきっかけとなり、よく姉妹と過ごすようになった。
 勉強の時間以外は、どこへ行くにも一緒で、年長のアデルが手を引いてくれる。
 自分の居場所ができたことで食欲は旺盛になり、悪夢のせいで不眠ぎみだった夜は、シルヴィと共にこっそりとアデルのベッドに入れてもらい、姉妹とくっついて眠ることで熟睡できた。
 一緒に寝ている件は、辺境伯夫妻と使用人たちも黙認してくれた。
 エミディオがようやく心を開き、見る見るうちに元気になったことに加えて、まだ子供だからという理由で見逃されていたのだと思う。
 そうして穏やかな日々を送り、エミディオはローベルン家の一員になっていった。


 辺境伯家での暮らしに慣れた頃、カミーユの二歳の誕生日がきた。
 屋敷では盛大な誕生日パーティーが開かれて、一日中、賑やかであった。
 けれども、その夜、エミディオは夕食後から姿が見当たらないアデルを捜し回り、図書室で泣いている彼女を発見した。
 読書用のカウチに膝を抱えて座り、嗚咽を零すアデルの姿は、普段のしっかりとした彼女とは別人みたいだった。
「……アデル?」
 書棚の陰からおそるおそる声をかけたら、アデルが驚き、慌てたそぶりで瞼をこする。
 エミディオは涙を隠そうとする彼女のもとへ近づいていった。
「今、泣いてたのか」
「別に、泣いていないわ。エミディオはどうしてここに?」
「俺は……本を借りに来ただけ」
 本当はアデルを捜していたのだが、気恥ずかしさから嘘をついた。
「シルヴィは一緒じゃないんだな」
「今夜はお母様と一緒に寝るって言っていたわ。お母様の体調もいいし、たまには甘えたいんだと思う」
 姉妹の母のベアトリスは身体が弱く、カミーユを産んでから体調を崩す日が多いため、母の代わりにアデルがシルヴィにつきっきりだったのだという。
 エミディオは「ふうん」と頷き、アデルの隣に座った。距離が近づくと、あの甘い香りが鼻をかすめる。
 ──相変わらず、アデルはいい香りがする。
 周りの人々よりも嗅覚が優れている自覚はあったが、ここまで誰かの香りに反応したことはない。香水を付けているのかとアデルに尋ねた時は否定されたので、もしかしたら彼女自身の香りなのかもしれない。
 横顔をじっと見つめたら、アデルは涙の余韻を見せたくないのか、そっぽを向いた。
「で、アデルは何で泣いてたんだ」
「……泣いてない」
「絶対、泣いてた。……何か、あったのか?」
 沈黙が落ちても根気よく待っていると、やがて観念したようにアデルは口火を切る。
「……今日、お父様とお母様の会話を偶然聞いてしまったの」
「何の話だったんだよ」
「ローベルン家の跡継ぎはカミーユにしようって……私は女だから、そのほうがいいって話していたの」
「アデルは、それが悲しかったのか?」
「うん……私ね、ずっとお父様に『いずれ、お前がこの領地を継ぐことになるかもしれない。そのために今からよく学び、ローベルン家のために生きていけ』って言われて育ってきたの。勉強も一生懸命やってきたわ」
 アデルはシルヴィとエミディオの面倒をよく見てくれたが、空き時間があれば読書や勉強をしていた。
 机に向かって勉強するのを苦手とするエミディオにしてみれば、彼女の勤勉さに感心することもあったが、それも辺境伯の言いつけだったのだろう。
「カミーユが生まれたことは嬉しいの。だけど時間があれば勉強して、やりたいことも我慢してきたのに……来年から、お父様に付き添って、領地のことも教えてもらうはずだったのよ。でも、たぶん、それもなくなる」
 アデルが肩を落として俯き、小さな声で付け足した。
「我慢することが多くても、私は長女だし、しっかりしなくちゃいけないと思ってた。だから、女だからって理由で跡継ぎから外されるなんて、悔しくもあって……今、頭の中がぐちゃぐちゃなの」
 それで泣けてきてしまったのだと、彼女は複雑な心境を吐露する。
 エミディオにも血の繋がった異母兄弟はいるが、一度も顔を合わせたことがなくて後継問題とは関わりがなかった。
 だから、アデルに何て言葉をかけてやればいいのか分からない。
 ただ、しょんぼりと肩を落とすアデルは、いつもよりもずっと幼く見えた。
 ──そうか……アデルって、俺とは年齢が二つ違うだけなんだ。
 今はアデルのほうが身長は高い。背負ってくれたこともあるし、言動も大人びている。
 そのせいか姉みたいに感じていたが、アデルもまだ十三歳の少女なのだ。
「……難しいことは、よく分からないけど」
 エミディオはぶっきらぼうに切り出すと、早鐘を打ち始めた心臓に「うるさい」と心の中で悪態をつき、おずおずとアデルの手を握った。
「俺、アデルが勉強しているところを見て、すごいなと思ってた……女だからとか、そういうのは気にしなくていいと思うし……爵位を継ぐのは、大変そうだから……レイモンドとベアトリスも、アデルを想って決めたことだと思う」
 ちゃんと励まさなくては思うのに、言いたいことがうまくまとまらない。
 もどかしさに口を尖らせつつも繋いだ手を握りしめると、アデルが身体の力をふっと抜いたのが分かった。
「……そうよね。お父様とお母様が、私のことを考えてくれているっていうのは、私もよく分かっているの……ありがとう。エミディオ」
 あどけない笑みを向けられた瞬間、エミディオの心臓がドクンと大きな音を立てた。
 じわじわと顔が熱くなり、アデルが控えめに手を握り返してくれたので更に鼓動がうるさくなる。
 あの甘い香りも鼻腔をかすめて、エミディオは赤面を見せまいとそっぽを向いた。
「あのさ、アデル……いまのと全然関係ないことなんだけど、言っていい?」
「うん、何?」
「アデルって、人と違う香りがするんだ」
「香り?」
「そう。でも、香水つけていないんだろ」
「つけてないわ。私だけなの?」
「シルヴィからも、よく似た香りがするけど、こんなに強くなくて……俺、昔から鼻がいいから、人によって香りを感じたりするんだ」
「……ねぇ、それって『臭い』ってことじゃないわよね?」
「違うよ」
 自分の匂いを嗅ぐ仕草をして、もじもじしているアデルの問いかけに即答する。
「アデルの香りは甘くて、すごくいい香りなんだ」
「そうなんだ……もしかして、生まれつきの体臭みたいな感じかしら。シルヴィと似ているのも、姉妹だから、とか?」
「たぶん、そうだと思う」
 だが、シルヴィの香りは至近距離に顔を近づけなければ嗅ぎ取れないほど薄かった。
 こうして隣にいるだけで香りを感じるのはアデルだけだ。
 ──きっと、アデルが特別なんだ。
 エミディオは顔を背けたまま鼻をこすり、わずかに目を細める。
「やっぱり、いい香りがする。……この香りは、好きだ」
 ぶっきらぼうに言うと、アデルが息を呑んで逆方向に顔を背けてしまった。赤毛の隙間から見える耳の先まで赤くなっている。
 それきり会話が途切れたが、お互いに手を繋いだまま側を離れなかった。
 翌朝、自室のベッドで目を覚ましたエミディオは、すぐ目の前にアデルの寝顔があったため呼吸が止まりそうになる。
 ──ア、アデル……? あれ、俺、いつ部屋に戻ってきたっけ……確か、会話が途切れて……眠くなって……アデルに、背負われたような……?