焦がれる本能 けものな騎士は辺境伯令嬢を誰にも渡さない 3
まさか、アデルがここまで運んでくれたのだろうか。
恥ずかしいやら情けないやらで固まっていたら、アデルが小さく唸った。長い睫毛が震えて海原みたいな青い瞳が現れる。
「ふわぁ……おはよう、エミディオ」
「あ、うん……」
「よく眠れた?」
「……眠れた」
「よかった。図書室で寝ちゃったから、おぶって運んだの。モリーに見つかったけど、お父様とお母様には内緒にしてと言っておいたから」
これまでアデルと寝る時はシルヴィもいたが、初めて二人きりで朝を迎えてしまった。
その事実が妙に恥ずかしくてうろたえていると、頭をよしよしと撫でられた。
なんだか弟扱いされている気がする。
そう感じた瞬間、恥ずかしさが不可解なモヤモヤに変わった。
だが、その感情の正体を確かめる前に、アデルはうーんと伸びをしながら先にベッドを出ていく。
それを視線で追いかけた時、不意に枕の下が盛り上がっていると気づいた。
不思議に思って枕の下に手を入れたら犬のぬいぐるみが出てくる。ふわふわの生地で手触りがいい。
──これ、シルヴィが置いていったのか?
夜にアデルの部屋を訪ねて、シルヴィと三人で寝る時には見かけたことがない。
大人びたアデルがぬいぐるみを持っているイメージもないため首を傾げると、振り返ったアデルが「あっ!」と声を上げた。あっという間に戻ってきて、エミディオの手からぬいぐるみを取り上げる。
「それって、アデルのぬいぐるみ?」
「えっと、これは……何ていうか、そのー……」
犬のぬいぐるみを腕に抱えたアデルの顔がどんどん赤くなっていった。
いつも落ち着いている彼女のうろたえる様を見て「アデルのぬいぐるみだ」と察し、エミディオはベッドに頬杖を突いてニヤリと笑う。
「アデルって、ぬいぐるみとか好きなんだ」
「そ、そういうわけじゃないのよ。ただ、その……すごく小さな頃、誕生日にお父様からもらったから、大事にしているだけで……」
「へぇ」
「ちょっと。何をニヤニヤしているのよ」
「別に、なんでもない」
「……このことは、誰にも言わないで」
両親や妹には内緒にしてほしいと、真っ赤な顔で口止めするアデルは可愛かった。
しっかり者の姉みたいな感覚だったが、ぬいぐるみが好きなんて普通に『女の子』らしいではないか。
赤面しながらぬいぐるみを背後に隠す姿も、いつもより幼く見える。
──アデルのこんな可愛い姿、たぶん他の誰も知らない。
そう考えたら急に嬉しくなって、満面の笑みを浮かべたエミディオは睨んでくるアデルに「誰にも言わないよ」と約束した。
そんなやり取りからしばらく経った時、自室で宿題を片づけていたら、シルヴィが一人でエミディオの部屋を訪ねてきた。
「ねぇ、エミディオ。ききたいことがあるの」
「なんだよ、シルヴィ」
「おねえさまのこと、好きでしょ」
腕組みをしたシルヴィにませた口調で尋ねられて、エミディオは教科書を捲っていた手を止めると、扉の前に立っている年下の少女を振り返る。
見目麗しい母に似たシルヴィは金髪碧眼の美少女だが、エミディオは「綺麗な顔をしているな」という以上の感想を抱いたことがない。
普段のシルヴィはわがままで、何かと手のかかる妹のような存在だった。
「いつも、おねえさまのことばっかり見てるもの。わかりやすすぎ!」
最近、気づくとアデルに目を奪われていたが、まさかそれを指摘されるとは思わず、エミディオは大いにうろたえた。
「……俺は……別に、そんなつもりは……」
「言っておくけど、おねえさまは、わたしのおねえさまなの。エミディオには、あげないわよ」
小生意気な少女は呆気にとられるエミディオに背を向けると、満足そうに出て行った。
それから十秒くらい時間をかけて理解が追いついてくる。
「──はぁっ!?」
遅れて憤慨の声を上げたが、すでにシルヴィの姿はない。
──あげないって、アデルはシルヴィのものじゃないし、いったい何様だよ!
この宣戦布告は、エミディオに多大な衝撃をもたらした。
それと同時に自分の中で「たとえシルヴィでもアデルを渡したくない」という初めての感情が生まれる。
──あれ? シルヴィにも渡したくないなんて、どうして、そんなふうに思うんだ。
シルヴィみたいに、ベタベタに甘えたいわけではない。
ただ、アデルともっと一緒にいたいとは思っている。
──でも、世話を焼いてほしいとか、そういうことじゃなくて……。
悶々と考え始めたら、真っ赤な顔でぬいぐるみを隠して、恥ずかしそうにしているアデルの姿が浮かんだ。
──そうか。アデルの可愛いところを、俺はもっと見たいんだ。だけど自分以外の誰にも見せたくないし、全部独り占めにしたい。
だからシルヴィにも渡したくないんだと答えが出て、エミディオは動きを止めた。
──待てよ、独り占めにしたい? それって、なんか……俺がアデルを『好き』ってことみたいじゃないか。
その考えに行き着いた瞬間、脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた。
アデルが気になる、という漠然とした感覚が『恋』という明確な形になったのだ。
そして恋を自覚したことにより、アデル本人に気づかれないところで、シルヴィを相手にアデルを取り合う攻防が始まったのである。
アデルが王都にある王立学校へ通うことになったのは、エミディオが十四歳になる年だった。
学校の合格通知が届いた時、彼女は図書室のカウチで話してくれた。
「大学まで行って、歴史学と神話をより深く学びたいの。大学に進学するためには優秀な成績を収めないといけないんだけどね」
かねてリガシオン王国の歴史と神話に興味があったアデルは、やりたいことを見つけたのだ。
この頃には、アデルと将来について相談し合える関係を築いていたエミディオも自分のことを報告した。
「俺も、来年はローベルン領の騎士学校に入る。レイモンドも許可をくれた」
「許可をもらえて、よかったわね」
「うん。騎士になりたいって話した時は、少し渋られたけどな。俺は身体を動かすことが好きだから、騎士は肌に合うと思う」
ローベルン領の騎士学校は、貴族が優遇される王都の学校とは違い、入学試験さえ合格すれば貴賎を問わずに受け入れる。
騎士になると身分が保障され、俸給をもらえるため平民の志願者も多い。
ただし、国内一と言われるほど訓練は厳しかった。
ローベルン領は隣国ダラスと接しており、国防意識がとても高く、騎士の練度も極めて高い。定期的に王都の騎士隊が訪れては、高水準の実践訓練を行なっているそうだ。
辺境伯のレイモンドもローベルンの騎士学校を出ているため、エミディオは彼に師事して剣の訓練を始めていた。
「ローベルン領の騎士学校は、全寮制で厳しいと有名だけど、それは大丈夫なの?」
「大丈夫。俺、そういうの平気だから。それに、アーキナイト公爵が騎士学校に推薦してくれるって」
「アーキナイト公爵って、王国騎士団の団長をされている方よね。お父様とは騎士学校時代の友人だと聞いてるけど」
「うん。今回の件もレイモンドがアーキナイト公爵に相談してくれた。まぁ、ほら……俺の身の上は複雑だから。その点、ローベルンの騎士学校は身分関係なく受け入れるだろ。俺が騎士になれば、生活は保障されるし、大人たちも都合がいいんだと思う」
この地へ来てから王都の遣いが来たことは一度もなく、辺境の地を治めるレイモンドに預けられた時点で、父とは縁が切れたと思っている。
おそらく今後、他の王族と関わることもないだろう。
だからこそ、きちんと教育を受けて騎士になるという道は前向きな選択なのだ。
「なんにせよ自分で決めたことだから、心配いらない」
クールに断言して、エミディオは内心、強めの気合いを入れる。
──身体を鍛えて騎士になれば、アデルも俺を頼もしく思うはずだし。
近ごろ身長が伸びてアデルと同じくらいになったが、今はローベルン家の居候も同然であり、アデルも年下のエミディオを明らかに弟扱いしていた。
ちゃんと男として見てもらい、頼られるためには努力しなくてはならない。
「そっか。じゃあ、お互いに頑張りましょうね」
「うん。…………あ、そうだ。アデル」
エミディオは視線を斜め上に向けつつ、隣に座っているアデルとの距離をいそいそと詰める。肩が触れ合うほど近づくと、あの甘い香りがした。
──相変わらず、アデルはいい香りがする。
大好きな香りだと思いながら、彼女の肩を抱くために腕をそろりと持ち上げる。
「あのさ……お互い、学校に入ったら、しばらく会えなくなるだろ」
「そうね。寂しいわ」
「……俺も。だからさ、その……」
言い淀むと、アデルがつぶらな目を瞬かせて見つめてきた。
大きく息を吸いこんで「定期的に手紙のやり取りをしよう」と言いかけた時、思いのほか近くで視線が絡む。
深みのある青い瞳に射貫かれ、肩を抱こうとした手がぴたりと止まった。
──あ、ヤバい。
アデルは小首を傾げてエミディオの言葉の続きを待っている。
少し身を乗り出せばキスができる距離だから、急に胸の鼓動がドキドキと高まり始めて、彼女の唇に視線が吸い寄せられる。
いっそ、このままキスをしてしまおうか。
そうすれば、アデルは自分のことを男として見るようになるんじゃないか。
そんな不埒な欲求が過ぎり、エミディオは汗ばんだ手を握りしめながら顔を傾けた。
しかし、あと数センチで唇が重なるというところで、いきなり図書室の扉が開く。
「お姉さま! お母さまから聞いたの! 王都へ行くって、ほんとう!?」
甲高い声が響き渡り、エミディオはぎくりと動きを止める。
シルヴィがドレスの裾を摘まんで駆けてきて、固まるエミディオを押しのけて二人の間に陣取った。
「そうよ、シルヴィ。来月から王立学校へ通うの」
「お姉さまがいなくなると、すごく寂しい。たくさん手紙を書くから」
「うん。私もたくさん書くわね」
アデルに抱きつくシルヴィを横目で見やり、エミディオはカウチの肘掛けに頬杖を突くと、ぶすっとした表情を浮かべた。
──あと少しでキスできたのに。シルヴィのやつ、また邪魔をしやがって。
シルヴィは寝こみがちな母親に代わり、面倒を見てくれた姉のアデルが大好きなのだ。
そこへエミディオという対抗馬が現れたことで、ますます姉にべったりになった。
今思えば、初対面の折、シルヴィの態度が刺々しいと感じたのは、姉を取られるのではないかと危惧していたからだろう。
じろりとシルヴィを睨みつけたが、すぐにアデルに目を奪われて、ぼーっと見蕩れてしまった。すかさずシルヴィが足を蹴ってくる。
「なによ、エミディオ。そんなに怖い目で見ないで」
いやらしい目で、お姉さまを見過ぎなのよ。
言外に含まれた非難を感じ取り、エミディオは口元を引きつらせた。
──そっちこそ、妹だからってアデルにくっつきすぎなんだよ。
シルヴィを睨みつけ、今度はこれみよがしに姉妹と距離を詰める。シルヴィからもかすかにアデルと似た香りがしたが、意識を集中しないと嗅ぎ取れないくらい薄かった。
少し離れていても感じ取れるアデルの香りは、やはり特別らしい。
「ねぇ、エミディオ。そんなに近づかないでよ」
「ふん。別にいいだろ」
シルヴィの牽制に言い返し、バチバチと火花が散りそうなほど睨み合っていたら、まじまじと二人を見比べたアデルが呟いた。
「あなたたち、本当に仲がいいわね」
「よくないわ」
「よくない」
思いっきり台詞が被ってしまい、アデルが「ほら、仲がいい」と言って笑う。
出会った時から変わらない、朗らかな笑い方に胸がドキドキして、またぼんやりと見蕩れていると、シルヴィが露骨に嫌そうな顔をしていた。
またいやらしい目で、お姉さまを見てるわよ。
そんな冷ややかな声が聞こえた気がしたので、エミディオは我に返り、大好きなアデルの笑顔から視線を逸らした。
翌月、アデルは王都へ旅立った。
エミディオも自分の将来を見据えて、本格的に身体を鍛え始める。
しかし、それから三年後。
辺境伯レイモンドが山道から滑落して大怪我をし、アデルは夢半ばでローベルン領へ帰ってくることになる。
王立学校に通って三年目の冬。
父のレイモンドが大怪我をしたと知らせを受けたのは、卒業後の進路を決める、重要な試験の数日前であった。
アデル・ローベルンはその日のうちに馬車に飛び乗り、数日かけて故郷へ帰った。
「……帰ってきてくれたのか……すまないな、アデル」
「いいのよ、お父様。意識があってよかった」
ベッドに横たわり、いつになく弱々しい父の手を握って、アデルはかぶりを振る。
父は大雨で地盤が緩んだ土地に視察へ行った折、ぬかるんだ山道が崩れ、馬もろとも滑落したそうだ。
全身打撲で、両足は複雑骨折。特に右足は後遺症が残りそうだというのが医師の診断だった。
リハビリにも時間を要するため、辺境伯として表に出るのはしばらく難しいとのこと。
「領地のことも心配しないで。カミーユはまだ幼いから、アンドリュー叔父様が駆けつけてくださるみたい。私も卒業試験を受けたらローベルンに帰ってくるつもりだし、領地の管理についても勉強していたから役に立てると思うわ」
気丈に笑ってみせると、父は苦渋の表情を浮かべて「すまない」と、また謝った。
鎮痛剤が効いて父が眠ったあと、アデルは付き添う家族から離れて庭園へ向かった。
華やかな庭園の奥には四阿があり、そこから青々とした海が一望できる。
──一度、王都に戻って、先生たちに相談して、卒業試験だけは受けさせてもらって……それから荷物を纏めて、ローベルン領に戻ってきて……それで……。
四阿に佇み、ぼんやりと海を眺めた。
今日、王立学校では大事な選抜試験が行なわれている。成績優秀者の中から、大学進学者を決めるためのもので面接もあった。
本来であれば、アデルはその試験を受けて大学に進む予定だった。
けれども王立学校の規律は厳しく、いかなる理由であっても選抜試験を欠席すれば、追試は行なわれない。
今日のために寝る間も惜しんで勉強してきたが、徒労に終わってしまった。
──ここまで、か。
うまくいかないものだな、とアデルは顔をくしゃくしゃに歪めた。
十三歳になるまではローベルン家を継ぐために学んできたが、跡継ぎは弟のカミーユに決まった。
だから自分でやりたいことを見つけて、両親を説得して学校に入った。
大学まで行けば、いずれ歴史に関わる仕事ができるかもしれない──そんな夢も抱き始めていた矢先、こんなことが起きた。
──仕方ない。私は長女だもの。お父様が生きていてくれただけでもよかった。
大怪我をした父はしばらく療養に専念しなくてはならない。
弟のカミーユはまだ七歳で、母のベアトリスはカミーユを産んでから寝こみがちだ。
叔父が助っ人に来てくれるそうだが、彼にも自分の領地があるから、ずっとここに居続けるというわけにはいかなかった。
そうなれば、長子のアデルが父の代理をしなければならない場面が出てくる。
その状況がいつまで続くかも目処が立っていない。
家族のことも、自分の将来のことも、とにかく不安が大きくて足が竦みそうになった。
──どうしよう……泣きたくなってきた。
父を心配し、道中もよく眠れなかったから寝不足による眩暈までする。
目尻にじわりと涙が溜まってきた時、背後で誰かの足音が聞こえた。
「アデル」
低い声で名を呼ばれて、肩がぴくりと揺れる。
目元の涙をすばやく拭い取って振り返れば、エミディオがいた。
「……エミディオ。どうしたの?」
何でもないそぶりで問いかけると、彼は大股で近づいてきてアデルの正面に立った。
闇夜をそのまま写し取ったみたいなエミディオの黒髪は少し癖があり、前髪は目にかかるほど伸びている。そこから覗く切れ長の目も夜更けの海のごとく漆黒だ。
年に数度、休暇で帰るたびに感じていたことだが、また身長も伸びた気がする。
思わず目をぱちくりさせてエミディオを見上げてしまった。
──ずいぶん背が伸びたわね。
いつの間にかアデルの身長を追い越して、肩幅が少し広くなっただろうか。
──初めて会った時は、私よりも小さくてほっそりとしていたのに。
王家の血筋の庶子で、ローベルン家に引き取られた少年。
姉弟みたいに育ち、少し生意気なところはあっても可愛い存在だった。
騎士学校へ通うようになってからは彼も落ち着きが出て、会うたびに成長を実感する。
「何かあった? もしかしてお父様の具合が悪くなった、とか?」
それで呼びに来たのかと尋ねたら、エミディオは「違う」と短く応じた。
「ただ、アデルの姿が見えなくなったから捜しに来ただけだ」
「私?」
「そうだよ。レイモンドのこともあるし、なんか落ちこんでいるみたいだったから」
冷静にふるまったつもりだが、彼にはそう見えたのか。
黙りこむと、エミディオが頭をかいて「あー」と声を出した。あ、の形に開いた口からは狼みたいに尖った犬歯が見える。
「今日は進学を決める試験だって、手紙に書いていただろ。こんなことになって試験を受けられなかったから、それも理由かなって」
「…………」
「もしかして、俺、的外れなこと言ってる?」
唇を尖らせるエミディオに、アデルは緩くかぶりを振った。
「ううん、合ってるわ」
「やっぱりな」
「……薄情よね、私」
「なんで?」
「お父様が怪我をして大変なのに、自分のことでも落ちこんでいるから」
そう吐露した途端、顔が歪んでしまいそうになり、くるりと背を向ける。
唇を噛みしめていたら、いきなり真後ろから二本の腕が伸びてきて腰のあたりにぎゅっと巻きついた。
「?」
「アデルは薄情じゃない。落ちこむのも当然だろ」
エミディオはそう言ったきり黙りこみ、アデルの側頭部に頬を押しつける。腰に巻きついた腕にも力がこもって、ぎゅうぎゅうと更に抱擁が強くなった。
彼なりに慰めてくれようとしているのは分かったが、それにしては腕の力が強すぎる。
肩越しにエミディオを見やれば、憂いを帯びた漆黒の瞳と視線がかち合った。
真剣な表情と、眼差しの強さに胸がドキッとする。
「これからのことも、俺にできることがあれば、何でもするから」
照れ隠しからかエミディオの口は尖っていたが、本気でそう言ってくれているのが伝わってきた。
アデルは一人ではない。手を貸してくれる家族や味方はたくさんいる。
そんな当たり前のことを思い出し、なんだかホッとして肩の力が抜けていく。
ふうと息を吐いてエミディオに寄りかかると、彼がしっかりと支えてくれて、竦みそうになっていた自分の足でもきちんと立つことができた。
「ありがとう、エミディオ」
「ああ、うん。……どういたしまして」
二人でくっついて海を眺めていたら、側頭部にすりすりと何かの感触があった。
前を向いたまま手で探ると、エミディオがじゃれるように頬ずりをしている。
そこまでのスキンシップはされたことがなかったため、アデルは戸惑いながらも手のひらで彼の頭を撫でた。すると「うー」と小さな唸り声がする。
それが懐いたばかりの獣っぽくて、少し可愛かった。
「今更だけど、エミディオがこんなふうにくっついてくるのは珍しいわね」
「ふん」
「ふんって、その言い方、ちょっと可愛い」
「かっ、わ……はぁっ? 冗談だろ? どこがだよ」
「だから、ふんって言い方が……」
「次また可愛いって言ったら、その口を塞ぐからな」
「今は両手が塞がっているから無理でしょ」
腰に回された腕をトントンと撫でたら、エミディオはまた小さく唸り、アデルの頭に押しつけていた頬を、今度は彼女の頬に押し当ててくる。
またじゃれつかれているみたいだと笑っていたら、エミディオの声が低くなった。
「無理じゃない」
ぐりぐりと頬ずりをされて目線を横へ向けると、端整な顔が至近距離にあった。
漆黒の瞳がまっすぐにアデルを見つめていて、心臓がドキリと大きな音を鳴らす。
「手が使えなくても、口は塞げる」
「──え?」
お互いの顔は、あと少し近づけば唇が触れ合うほどの近さだった。
エミディオが目を細めて顔を傾けたので、また心臓が高鳴る。
彼の顔がゆっくりと近づいてきた。最愛の恋人にキスでもするみたいに──。
「アデルお姉様──!」
シルヴィの声が聞こえた瞬間、アデルはハッと瞬きをした。
エミディオも弾かれたように振り向き、すばやくアデルと一定の距離をとる。
あまりの速さに目を瞬かせると、屋敷のほうからシルヴィが走ってきた。
「シルヴィ?」
「お姉様! 一人で悩んでいるんじゃないかって心配で、あちこち捜していたの!」
美しいブロンドを靡かせ、ぱたぱたと駆けてきたシルヴィに抱きつかれた。
アデルはそんな妹をしっかりと抱き留めてやり、ふとエミディオの視線に気づく。
彼の眼差しは、シルヴィに注がれていた。
和やかだった表情は抜け落ちているが、切れ長の目を見開き、射貫くような視線を妹に注ぎ続けるエミディオを見上げて、アデルは唐突に気づいた。
──そういえば、今までもそうだったわ。
いつからだったのかは覚えていないが、シルヴィと一緒にいる時、エミディオの視線はよく妹に向けられていた。
──もしかして、エミディオってシルヴィが好きなのかも。
いつも遠慮のないやり取りをする二人を見るたび、喧嘩するほど仲が良いのだなと思った。たまにチラチラとアイコンタクトをしている時もある。
シルヴィの声がした途端、アデルから離れたのは、おかしな誤解を与えたくなかったから、とも考えられるだろう。
──あれ? だけど、さっきは……。
エミディオの顔が近づいてきて一瞬、キスをされるのではないかと感じた。
やたらと距離が近くて、今までになく雰囲気が甘かったからドキドキしてしまったが、それも勘違いだったのかもしれない。
──って、ドキドキって何よ。相手はエミディオなのに。しかもキスされると思ったなんて、とんでもない勘違いじゃない。
アデルが首を横に振り、再びエミディオを見上げると、今度はちゃんと目が合った。
闇色の瞳には、なにやら複雑な感情が揺らめいている気がした。
「エミディオ、どうかしたの?」
「何でもない」
エミディオはぶっきらぼうに応じて、それきり目線を合わせてくれなかったが、何故かシルヴィのことを横目でじーっと見ていた。
やはり彼は妹のことが気になるのかもしれない。
そう思いつつも、アデルは何も気づかぬふりをして、二人を連れて父の部屋へ戻った。
*
視界が白く霞み、曖昧模糊とした意識の底で、エミディオは大きなベッドの上にいた。
隣にある温かい存在を探り当てると、ほっそりとした腕に抱き寄せられた。たちまち甘い香りに包まれる。
──これはアデルの香りだ。
子供の頃は漠然と『甘い香り』と思っていたが、近頃はおいしそうに熟した林檎の香りとそっくりだなと感じる。ちなみに林檎は大好きだ。
エミディオは胸いっぱいに甘い香りを吸いこみ、主人にじゃれる獣みたいに顔をぐりぐりと押しつけた。
すると背中に回った手がトン、トンと一定のリズムで叩く。
アデルに親愛の抱擁をされる時、まったく同じリズムで叩かれるので、この温もりの主は彼女に間違いないと思って頬が緩んだ。
──アデル、大好きだ。
自分からぎゅっと抱きつけば、アデルの身体は驚くほどに柔らかく、思わず「はぁ」と熱い吐息を漏らした。
──ずっと、くっついていたい。このまま離れたくない。
すりすりと頬を押し当て、温もりを抱きしめる腕にぐっと力を込めた時だった。
夢見心地な頭の中で、これまでエミディオを邪魔し続けてきた生意気な声が蘇る。
【エミディオに、お姉様は渡さないわよ】
嫌になるほどぶつけられた言葉を思い出し、浮かれた気分が一気に萎んでいった。
エミディオは噛みしめた歯の隙間から苛立ちを交えて囁く。
『シルヴィ……』
夢の中でまで、俺の邪魔をするのはやめろ。
そう胸中で悪態をついた時、隣にあった温もりが動いて、彼の頭を抱きしめた。
またしても大好きなアデルの香りに包まれ、あっという間に苛立ちが薄れていく。
エミディオは口角を緩め、彼女の唇にそっと自分の唇を寄せて──。
ゴーン!
朝の八時を知らせる街の鐘が響き、パチリと目を開けると見慣れた天井があった。
「……あ?」
エミディオは寝起きの掠れた呻き声を漏らす。
しばし天井を見上げていたら、徐々に頭が回ってきたため手のひらで額を押さえた。
──今のは、夢か……。
ため息をついて、ゆっくりと身を起こす。
アデルと一緒にいて幸せだったのに、現実でもさんざん邪魔してきたシルヴィの声が蘇り、幸福感に水を差された気分だ。
──まぁでも、アデルが出てくる夢だったからな。目覚めは悪くない。
長い前髪を気だるげにかき上げた時、ふと下半身に目が向く──朝っぱらから元気に反応していた。たぶんアデルとくっついている夢を見たせいだ。
「最悪だ……欲求不満かよ」
十代の子供じゃあるまいし、と寝起きの掠れ声でぼやき、再び寝転がる。
今日は久々の非番だが、同僚と訓練場で手合わせをする約束だ。
約束の時刻までは少し余裕があったから、ひとまずベッドに四肢を投げ出して、身体の火照りが冷めるのを待つことにした。
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