辺境伯の罪深き執愛 献身の乙女は甘く淫らに囚われる 1
女が泣いている。
出して、出してと泣いている。
その声がどんなに憐れであろうとも、カーティスの心にはもう届かない。
柔らかな金の髪、花で染めたような淡い色合いの目、そして頼りない小さな拳。
彼女は儚く小さく壊れ物のようだった。
中身がどんなにしたたかでも、その姿は一輪の花のようだった。
風が再び、彼女の泣き声を届けた。出して、と。
──さようなら、大恩ある人。俺は貴女の罪を許さない。
カーティスはか細い声に背を向けて、その場から立ち去った。
長い長いらせん階段をのぼり終え、廊下を抜けて、カーティスは明るい庭にたどり着く。
あたりは緑に包まれ、空は抜けるように青かった。
漂う薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込み、カーティスは独り言つ。
「これが俺の弱さです。弱い人間には、他の選択肢はありませんでした」
さあ、と風が駆け抜ける。カーティスの黒髪がさらわれ、彼は思わず目を閉じた。
瞼に浮かぶのは父の笑顔だ。
誰かを心から愛せれば、人は強くなれる。
その教えを、カーティスは守れなかった。『彼女』の声はもうここまでは届かない。
「それでは、行ってきます。父上」
誰もいない庭園に、カーティスの声が響き渡った。
「神よ、我が身と引き換えに、カーティス・ヴァルセー様の視力を取り戻してくださいませ」
それが、シアが発した最後の声だった。
まばゆい光が魔法陣と、その中心で祈るシアを包み込む。
ごう、と強い風が吹き、シアの柔らかな金の髪が揺れた。
同時に魔法陣の光が消える。
「お……終わった……?」
「成功したのか?」
叔母と叔父の声に、祈りを捧げていたシアは淡い紫の目を開く。
『術は成功しました』
そう宣言しようとしたとき、声がまったく出ないことに気付いた。
──え……っ?
つ、と胸の谷間に汗が流れる。
──私の……私の声が……!?
しばらく喋ろうと努力して、シアは気付く。
献身の術は、使い手に『肉体』の一部を要求する。
今回の代償として、自分が失ったのは声だ。
顔も知らない男を助ける代わりに、声を失ったのだ……と。
術を使えば使うほど使い手が支払う代償は大きくなる。
次に失うものは、目玉か、舌か、臓器か、あるいは命なのか。
シアの全身に脂汗が吹き出す。
けれどその場には、シアを気遣う人間など一人もいなかった。
「ねえシア、お父様に逆らったんですって? もう献身の術を使いたくないって」
従姉フィーリの静かな問いに、シアはぎゅっと唇を噛んだ。
皇帝の依頼で『献身の術』を使い、声を失って二ヶ月が経つ。
十八歳になった誕生日が、声をなくした日だった。
あの日からかすれ声さえも出ない。
「ねえ、黙りこくってないで答えて」
バシッと頬が鳴る。
容赦ない平手打ちに、シアはよろめき、尻餅をついた。
──痛い。
涙ぐむシアの身体に、フィーリが二回、三回と蹴りを入れた。
「あんな危ない術を私に使わせるつもりなの!? 私は、絶対に、献身の術なんて使わないわ! あれは貴女の役目なんだから!」
シアとフィーリは同じ『献身の一族』の力を持っている。
一族の中で力を持つのはこの二人だけだ。
しかし、フィーリが皇帝の依頼を果たすことは絶対にない。傷つきたくないから、危険な思いをしたくないからだ。
「私は、絶対に、危険に晒されたりしないわ! それはお前の役目なのよ!」
フィーリは取り憑かれたように何度も何度もシアの頬を叩き、はっと我に返って手を止めた。
「……っ、嫌だ、私ったら。顔を殴ったら目立っちゃうのに」
フィーリは優しい笑顔で言うと、シアに命じた。
「あ、そうだシア、貴女にお願いがあるの」
そう言って、フィーリがシアの背後を指さす。
「その薬草の処理をお願い。作ってほしいのはいつもの美容茶よ」
「……」
シアは根も土もついたままの薬草の山を振り返る。
高山地帯で採れるティパの葉だ。
「あら、なに? 今の顔。もしかして嫌だった?」
シアは、少しでも早くフィーリから離れたい一心で、首を横に振る。
「そうよね、シアは薬作りが好きだものね!」
無邪気に言うと、フィーリはぐいとシアの前髪を掴んだ。そしてすべすべの愛らしい顔をシアに近づけ、笑顔のままで言った。
「じゃ、美容茶をお願いね」
フィーリが部屋から出て行くのを頭を下げて見送り、シアは籠に山と積まれた薬草を引き寄せる。細い葉には無数の棘が生えていた。
おそらくいつもの商人から買い入れたものだろう。
──こんな高価な薬草を山ほど購入するなんて。
財の出所は、シアのお金だ。
『献身の一族』であるシアは、皇帝の命令で誰かを癒やすたび、莫大な報奨金を受け取っている。
誰かを救うのと引き換えに、身体の一部を失ってきた。
術を使うたびに身体に引っかき傷ができ、爪や髪が千切れそして最後には声を失った。
だが与えられた報奨金はすべて、シアを引き取った叔父夫婦が横領している。
『シアが使い物にならなくなったら金が入らなくなるな』
『だけど、こんな危険な術、フィーリに使わせることはできないわ』
『そうだな。シアが死ぬまで金を搾り取って、先のことはそのとき考えよう』
それが、叔父夫婦の口癖だ。
シアを気遣い、術を使わせないようにと計らってくれる人間など、この世にはいない。
こんな人生、死んでいるのと変わらない。
『亡き両親に会いたい』
そんな思いに囚われかけ、シアは自己憐憫を振り払った。
──考えても仕方ないわ。フィーリに言われたとおりに、美容茶作りの準備を始めましょう。なにもしていなかったら余計に殴られる。
シアは心を殺す覚悟を決めた。
ティパの棘だらけの葉は、一枚一枚ちぎり取り、形を崩さぬよう陰干しをせねばならない。高価な葉を傷めようものならフィーリの容赦ない暴力が飛んでくる。
「……!」
葉に触れただけで細かい棘が指に刺さり、鋭い痛みが走った。
こんな痛みばかりの作業は、今時は誰もしたがらないと聞いた。
この村でもティパの美容茶を作っているのはシアくらいのものだろう。
しかし効き目は確かだ。
だからこそ価値があり、フィーリが欲しがるのだ。
もっと作れ、もっともっと作れと。
シアは痛みに耐え、細かい葉を丁寧にむしり始めた。
フィーリは美しく、贅沢好きだ。
昔から大富豪との結婚を望んでいる。
美しく着飾って帝都のパーティに出ること。そして己の美貌で大富豪の心を射止めること。それがフィーリの夢なのだ。
お金がいる、お金がもっといる。
そうつぶやくフィーリの声が聞こえた気がして、シアは歯を食いしばった。
──こんな暮らし、もう嫌。
逃げ出そうとしたことはある。
けれど、ここは途方もなく田舎だ。隣の村まで徒歩で丸二日かかる。
お金を一切持っていないシアは、命がけで隣村に逃げたところで手数が尽きた。ぼろぼろの若い娘に手を差し伸べる人間は、下心のある嫌らしい男しかいなかったのだ。
無論、連れ戻された叔父の家では、今まで以上の激しい折檻が待っていた。
──逃げなければ献身の一族として、逃げれば女として搾取される。私の逃げ場はどこにもない。
閉塞感がシアに押し寄せる。
このとき、シアは想像してさえいなかった。
息の仕方も忘れるような地獄の中で、叶わぬ恋が芽生えるなんて……。
◆
「ここが献身の一族が隠れ住む村か」
辺境伯カーティス・ヴァルセーの黒い髪を、秋の爽やかな風がさらっていく。金の目に映るのは、のどかで自然豊かな光景だった。
『南部戦争の英雄』、『ヴァルセーの獅子』と呼ばれて三年。
カーティスは十八の頃からヴァルセー辺境伯として戦場に出ていた。
何人の敵兵をこの手で屠ったのか、もう数えてもいない。分からない。
だが、ここには転がる死体も燃え上がる屋敷もなかった。
いつかはこんな場所に居を構えたい。
そう望んだ美しい光景が目の前に広がっている。
──豊かな自然に、澄み切った空気。食い物も旨そうだ。なによりもう誰も殺さなくていいってのが、最高だよな。
風に揺れる野の花たちは一輪一輪が愛らしくて、花好きのカーティスの笑みを誘った。
カーティスは二十七歳になった今でも、子どもの頃と変わらず花が好きだ。
──俺がこんな景色が見られるのも『献身の一族』のおかげだからな。
愛馬に跨がったまま、カーティスはそっと己の瞼に触れる。
失明したのは一年前。敵の特殊兵器で毒霧を受け、目を潰されたときだった。
もう視力は戻らないという医者の宣告をはっきりと覚えている。
──俺の目は確かに見えなかったんだ。わずかな光さえ感じられなくて……。
しかし、二ヶ月前、奇跡が起きた。
カーティスの戦功を讃えた皇帝が、特別に彼の視力を回復させてくれたのだ。
それは、皇帝直属の魔道士、『献身の一族』の力によるものだった。
──まさか、手も触れず、姿さえ見せずに俺の目を治してしまうなんて。
こうして、終わらない暗闇からカーティスは救われた。
だが、一方的に善意を受け取って終わりにするわけにはいかない。
──この目を癒やしてくれた恩人に、礼をしなければ。
そう思ったカーティスは、任務明けの休みを使い、献身の一族が住むこのサン・リエ山麓の農村地帯へとやってきたのだ。
だが、献身の一族に関する事項は、秘密のヴェールに包まれている。
献身の一族を保護するため、皇帝でさえもサン・リエ村に住む『取り次ぎ役』を介さなければ、彼らと連絡を取り合うことはできないのだ。
その『取り次ぎ』は、代々サン・リエ村の村長夫妻が担っているらしい。
無論これも極秘事項である。
皇帝の甥にあたるカーティスだからこそ、教えてもらえた事実だ。
──まずは村長夫妻に会いに行き、俺の事情を話して、恩人である『献身の一族』に礼がしたいと言おう。
そう思いながらカーティスは手綱をたぐり、馬の腹を軽く蹴る。
ゆるやかに歩き出した愛馬に揺られ、カーティスはもう一度、優美な山里に目をやった。
花の色、空の色、そして紅葉の色。
あらゆる場所に秋の鮮やかな色があふれている。祝福に満ちた彩りだ。
──どこもかしこも花、花、花……なんと自然の恵みに満ちた土地なのだろう。
カーティスは薄い唇に、かすかな笑みを浮かべた。
虚飾に満ちた社交界とも、血塗られた戦場とも違う、第三の理想郷。
花咲き乱れる野原に心を委ねていると、ふと母の声が蘇る。
『カーティス、花が好きだなんてお前は軟弱すぎます!』
無意識にカーティスは拳を握り固める。
カーティスは『絵描きになりたい』と口走るような夢見がちな子どもだった。
女辺境伯だった母は、日々そんなカーティスの養育に心を砕いていた。否、砕いていたのだろう、あれでも。
──子を殴りつける母のなにが正しいのか、俺には分からないが。
『今度絵を描いたら許しません。騎士は武技のことだけを考えていればいいのです!』
カーティスが好きなものを好きだと口走るたび、母はカーティスを平手打ちした。
軟弱者、軟弱者、軟弱者……。
それ以外の言葉を、母からかけられたことがあっただろうか。
──お前は、俺以下の人間だったくせに……。
カーティスは無言で強く拳を握りしめる。
十八になり、成人したばかりのカーティスを戦場に送る、と真っ先に声を上げたのも母だった。
普通の母親は、我が子を戦場に送りたいなんて考えないはずだ。
けれどカーティスの母は……。
『この子は剣の腕だけは立つようです。戦場に送れば、きっとエルランス帝国のお役に立つでしょう』
冷淡に言い切った母の声を忘れられない。
いつかは母に愛されるはずだと信じていたカーティスはその日、母に愛を求めることを永遠にやめた。
『絵なんて描いていないで、国のお役に立ってきなさい。この軟弱者』
母に打ち据えられ痣だらけになった身体を抱いて、自分にこう言い聞かせたことを覚えている。
『この人は俺の“母親”ではない』と。
そして、送られた先で待っていた『戦場』は血塗られた地獄だった。
殺さねば、自分が殺される世界。
いつしかカーティスは絵筆の代わりに剣を握り、敵の鮮血で大地を染め上げる鬼に成り果てていた。
──いや、昔のことを思い出すのはやめよう、せっかくの休暇なんだ。それに母上ももういらっしゃらない。俺は……これからは、俺の思うままに人生を楽しめるはずだ。
カーティスは気持ちを切り替え、澄み切った里山の光景を目に焼き付ける。
時期的に考えて、秋の花々は今が盛りのようだ。
──森の中に入ってみようか。どうせ急ぐ旅でもないのだし。せっかくだから手入れされていない自然の花も見てみたい。
カーティスはそう思い、浮き立つような足取りで街道を外れて獣道へと踏み入る。
愛馬のロザリーは従順に付いてきた。
森がどんどん深くなる。
陽の光が届きにくくなり、あたりが薄暗くなってきた代わりに、身体中が静寂に包まれる。
森の精気に心洗われるようだ。
このいきいきした緑を画板に写し取るには、どんな色の絵の具が必要になるだろう。
そう思いながら深呼吸したそのとき、さああ、という耳を洗うような爽やかな水音が聞こえてきた。
──滝でもあるのか?
こんなに美しい自然の中に湧く水なら、さぞ澄み切っていて美味しいだろう。
ロザリーに森の水を飲ませてやりたいと思いながら、カーティスは水音のするほうへと近づいていく。
やがて視界が開けた。小さな滝が泉に降り注いでいる。
──ああ、なんて綺麗な水なんだ……ん?
カーティスは瞬きする。
滝壺に、すらりと背の高い妖精が佇んでいたからだ。
その妖精はなにも身にまとっていなかった。
三つ編みにした金の髪に真っ白な肌。
豊かな乳房が水を艶やかに弾き、鼠径部は慎ましやかな金のかげりに覆われている。
夢から抜け出してきたかのような姿だった。
ここが自邸のアトリエだったら、そして絵画の道具があったのなら、カーティスは迷いなく彼女の姿をキャンバスに写し取っていただろう。
──妖精の女王が、水浴び中……なのか?
あまりの美しさに、カーティスはひとときその姿に見入った。
──たしか、妖精の水浴びを見た人間は石にされると聞いたが……。
そんなことを考えたときには、遅かった。
不意に顔を上げた妖精が、カーティスの存在に気付いてビクリと肩を揺らす。
淡い紫の目としっかり目が合う。
──いや、なにを考えている。この世に妖精なんているわけないだろう!
カーティスはようやく我に返った。それほどに娘は美しかったのだ。
「失礼、馬に水を飲ませようと思ってここに来……」
事情を説明しかけたとき、ぴゅんと石が飛んできた。
それはコツンと音を立てて、カーティスの胸に当たる。娘が泉の底から拾って投げつけてきたのだ。裸を見られて怒っているのだろう。
故意ではないとはいえ、申し訳ない気持ちになる。カーティスはその娘に向けて謝罪を口にした。
「申し訳ない。妖精なのかと思ってつい見とれてしまった。だがもう見ないと約束を……」
言いかけて、カーティスは言葉を失う。
あり得ないものが、はっきりと目に飛び込んできたからだ。
娘の身体中に浮かぶ青あざだった。
木々の影が落ちているのではない。彼女の肌があちこち青黒いのだ。
──怪我をしている? しかもあの怪我……殴打痕?
これまでのささやかな好奇心など吹き飛んだ。
──ひどい怪我じゃないか。まるで昔の俺みたいな……。