逆行愛執 彼に生きてほしいので、大嫌いなあの男と結婚しようと思います 1
「はあ、はあ、はあ……」
オリバー大陸北西部にあるフェレイラ王国。その王都を出た先にある丘を目指して、ライラはひとり走っていた。
「……早く、行かなければ」
馬車が行き交う舗装された道を外れ、野花が咲く長い草道を駆ける。
「う……」
足の痛みに顔を歪める。
低いとはいえヒールのある靴を履いているのだ。ふだんあまり走らないライラには丘の緩やかな傾斜さえも厳しかったが、彼女が足を止めることはなかった。
だって、いつ追手が来るかも分からないから。
長い薄茶色の髪が揺れる。母譲りのこの髪はびっくりするほど真っ直ぐで、いくらコテで巻いてもすぐに元に戻ってしまう。そのため彼女は基本、髪を下ろしたままにしていた。
その髪が乱れるのも気にせず走り、祈るように呟く。
「気づかれる……前に……」
彼女の手に荷物はない。着の身着のまま飛び出してきた。
準備などすれば、屋敷の者たちに怪しまれてしまうと分かっていたから。
「ちょっと散歩に」とだけ告げて屋敷を抜け出したが、彼らはもうライラがいないことに気づいたかもしれない。
「……」
額に汗が滲み出る。
太陽が高い。そろそろ正午だろうか。
朝に比べて、気温が上昇している。日差しが地面を明るく照らしていた。
普段着用のものとはいえ、ドレスが重く、心が折れそうになる。
周囲に彼女以外の人影はない。
鳥の鳴く声と草木が揺れる音、そしてライラの息づかいだけが響いていた。
ライラ・マルティネス。
茶色い真っ直ぐな長い髪と青い目をしたマルティネス公爵家の娘。
貴族である彼女がどうして供も連れず、ひとり丘を駆け上っているのか。
それは、愛する人と駆け落ちをするため。
将来を約束した人と、手に手を取って逃げるためだった。
◆◆◆
今から一年ほど前の話だ。
二十歳のライラはホークという男に、一目惚れをした。
場所はオッド侯爵邸、そこで開かれた仮面舞踏会で彼女たちは出会った。
当時、いや今もだが、フェレイラ王国では空前の仮面舞踏会ブームが起きており、王家主催のもの以外の全ての夜会が仮面舞踏会という有様だった。
仮面舞踏会は仮面を付け、素性を隠して楽しむ催し。
相手が誰か分かっていても黙っているのがマナーなのだ。
そんな仮面舞踏会でライラはホークと出会った――出会ってしまった。
◇◇◇
「……っ!」
仮面舞踏会の開始時間から一時間ほど遅れてやってきた男、その人をひと目見た瞬間、ライラは雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。
何故だろう。顔がひどく熱い。
信じられないくらい、胸がドキドキしていた。
他にいくらでも人はいるのに、彼だけが光り輝いて見える。
仮面を被っていても分かる柔和な表情と綺麗な立ち姿が、やけに素敵に思えて仕方ない。
好きだという気持ちが自然と湧き上がる。それに気づき、ようやく自分の身に何が起きているのか理解した。
咄嗟に頬を押さえる。
(わ、私……彼に一目惚れした?)
まさかと思うも、胸の高鳴りは強くなる一方。今や顔だけではなく全身が熱を持っている。なんだか目も潤み始めてきた。
見られていることに気づいたのだろうか。楽しげに会場を眺めていた彼が、ふと彼女に目を向けた。
「……あ」
バチリと視線が合う。目を逸らそうとしたが、綺麗な青色の瞳に見惚れてしまって動けない。
(ど、どうしよう)
目を合わせたままぼーっとしている変な女だと思われていないだろうか。
一目惚れした相手にマイナスの感情を抱かれたらどうしようと不安に震えていると、彼は何故かライラをじっと見つめ返してきた。その口元がふわりと緩む。
「……え?」
ゆっくりと彼が近づいてくる。その視線は彼女を捕らえたままだ。
いまだ動けないライラの前に立った彼は、照れくさそうに笑った。
子供のような純粋無垢な笑顔だ。
その彼が、すっと手を差し出してくる。
「すみません。その……少しお話しさせていただいても構いませんか?」
「え」
「あ……えーと、いきなりで不躾ですよね。でも僕……あなたが気になってしまって」
彼の声が上ずっている。よく見れば頬も紅潮し、仮面越しの目は赤く潤んでいた。
「あ……」
目を瞬かせる。彼はもう片方の手で頭を掻いた。
「こんなこと言っても信じられないと思うでしょうけど……僕、どうやらあなたに一目惚れしてしまったようなんです」
「仮面越しなのに、嘘みたいですよね」と、気恥ずかしそうに続ける彼を凝視する。
まさかの相手も一目惚れしていたという状況に驚いたが、ライラはそれ以上に深い喜びを感じていた。
(嘘、本当に!?)
惹かれていたのは自分だけではなかったのだ。それが嬉しくてたまらない。
弾む心を押さえつけながらも彼に告げた。
「わ、私も同じ、です」
「……え?」
「私も、あなたに一目惚れしたみたい」
驚きに目を見開く彼に笑顔を向ける。差し出された手を両手で握った。
「お話し、させてください」
それが始まり。
一瞬で意気投合したライラたちは恋人同士となり、毎週のようにどこかで行われる仮面舞踏会で逢瀬を重ねるようになった。
「ホーク、愛してる」
「ライラ、僕もだ」
愛を語り、キスを交わした。
「君を抱きたい」
「私も、あなたがほしいの」
何度も身体を繋ぎ、ひとつになった。
甘い触れ合いはひどく心地良く、ライラはいつだって痺れるような幸福感を得ていた。
仮面舞踏会の参加者のために用意された休憩室で、飽きるほどに睦み合う。
話だってたくさんした。
始まりは一目惚れだったが、いつしかライラはホークに強い愛情と絆を感じるようになったし、彼もそれは同じ。
お互い、相手を唯一無二の存在だと思うようになっていた。
ひたすらに蜜月と呼ぶに相応しい密度の濃い日々を過ごす。
とはいえ、相手の素性は知らないままだ。
仮面舞踏会以外でデートするようなこともない。
普通の恋人同士なら有り得ない付き合い方だが、彼女がそれについて言及することはなかった。
それは何故かと言えば、フェレイラ王国の国内情勢にある。
現国王エドガーは八年前に王位を継いだのだが、彼を気に入らない一部の貴族たちが五年前に王弟レックスを擁立しようと王弟派を立ち上げ、結果として国は現国王派と王弟派の二つに分かれてしまったのだ。
ちなみにライラの家は現国王派。
もしホークが王弟派であれば、付き合ったところで未来はない。
親が絶対に許さないからだ。現国王派と王弟派はいがみ合っており、今のところ和解する兆しは微塵もない。
もしホークのファミリーネームを聞いて「王弟派」と言われたら。
それを思うと怖くて、素性を問うことも告げることもできなかった。
たぶんホークも同じで、だから彼も何も言わなかったのだろう。
とはいえ、結局、お互いの素性は一年ぶりに行われた王家主催の夜会で明らかになってしまったのだけれども。
あの時感じた絶望をライラは今も覚えている。
◇◇◇
「なんと、あそこにいるのはテイラーではないか。王弟派の分際で、のこのこと顔を出すとはどういう神経をしているのか」
ワインを片手に会場内の雰囲気を楽しんでいると、父親が吐き捨てるように言った。
今日は久しぶりの王家主催となる夜会。
レイラは父親であるマルティネス公爵に連れられて、この場に参加していた。
仮面舞踏会ではないので皆、素顔でダンスをし、談笑している。
先ほどまでレイラの父親も友人の侯爵と笑顔で話していたのだけれど、今は厳しい顔つきでとある一点を見つめていた。
「えっ……」
釣られるように父親の目線を追ったライラは、ギョッと目を見開いた。
父親が常日頃から目の敵にしている王弟派のテイラー公爵。その隣によく知っている男が立っていたからである。
金髪碧眼の、見るからに実直そうな青年。
風貌は優しげで、立ち姿がとても綺麗だ。夜会服を着ていても、引き締まった体つきをしているのが分かる。
つい目が追ってしまうというか、妙に人を引きつける雰囲気を持つ人でライラの……恋人だ。
(え、どうして……ホークが)
何故、彼が王弟派のテイラー公爵と共にいるのだろう。
答えはひとつしかない気がしたが、ライラは信じたくなかった。
ドクンドクンと嫌な感じに心臓が音を立てている。
「……お、お父様、彼は?」
何かの間違いであってほしいとの一心で尋ねる。
父親はもう一度テイラー公爵を見ると、嫌そうに顔を歪めた。
「ああ、ホーク・テイラーだな。テイラーめの息子だ。長年留学していたらしいが、半年ほど前に帰国したらしい。お前は会うのは初めてだったか? よく顔を覚えておけ。王弟派になど関わるものではないぞ」
「……」
名前しか知らなかった恋人のファミリーネームを聞き、唇を噛みしめる。
底の見えない穴に突き落とされたような絶望感に襲われながらも、彼女の頭の中は「やはり」という言葉でいっぱいだった。
そんな気はしていた。そんな予感はしていたのだ。
だってこれまで彼の素性を詮索してこなかったのは、こういう展開を恐れてのこと。
ホークが好きだったから、万が一にも彼と別れたくなかったから見て見ぬ振りをし続けてきた。
彼もライラに気づいたようで、これでもかというほど大きく目を見開いている。
ただその様子はただショックを受けたというより彼女と同じで「やはり」と思っているように見えた。
ホークもライラの家が現国王派だと薄々察していたのだろう。
「帰るぞ。王弟派と同じ空気を吸うのも腹立たしい」
秘密裏に付き合っていた恋人が王弟派だったショックに震えていると、父親がライラの腕を掴んだ。
引き摺られるように会場の出口へと向かう。
外に出る直前、確かにホークと目が合った。
縋るような眼差しを向けられ、今すぐ駆け寄りたい気持ちになるも、父親には逆らえない。
彼女はただ緩く首を横に振り、諦めるようにホークから視線を外した。
「どうした。何かあったか」
ライラの様子がおかしいことに気づいた父親が声を掛けてきたが、彼女は目を瞑り、否定した。
「いえ、何も」
「そうか。ならいいが。……行くぞ」
「……はい、お父様」
素直に返事をし、父親に従う。
こうしてライラは予期せぬ形で恋人の素性を知った。
◇◇◇
お互いの立場を知ってしまった以上、今までどおりではいられない。
王城主催の夜会があった次の週、約束していた仮面舞踏会でライラは告げた。
「別れましょう」
それ以外、選択肢はないと判断してのことだった。
実際、不可能だと思った。だって現国王派と王弟派。親が許すはずがない。だがホークは頷かなかった。
励ますようにライラの手を握る。
「大丈夫だ。真摯に話せばきっと僕たちのことを分かってくれる」
「でも」
「それとも君は、そんなに簡単に僕のことを諦められるのか? 僕とのことは遊びだった?」
「そんなわけ……!」
愛情を疑うような恋人の問いかけに、慌てて否定する。
「心外だわ! 私はあなたのことを愛してる!」
本気だからこそ、今まで見て見ぬ振りをし続けたのだ。
普通なら恋人の素性を知りたくないはずなどないのだから。
感情が昂り、目が潤む。そんなライラの瞳をホークが覗き込んでくる。
「僕だって同じだ。君のことを愛してる。手放すなんて考えられない」
「……ホーク」
「大丈夫だ。誠実に向き合えば、皆、分かってくれる」
「分かってくれるって……そんな簡単に」
無理だと俯きながら首を横に振るライラに、ホークは根気よく訴えた。
「簡単とは思っていない。でも、僕たちが本気だと理解してくれれば、きっと許してくれるさ。……あと、一応言っておくけど今の言葉、僕はプロポーズとして言っているから」
「……え」
「僕の生涯の伴侶として側にいてほしい」
「……」
真剣な顔で告げられ、ライラは息を呑んだ。
まさかこの場面でプロポーズされるとは思わなかったのだ。
驚く彼女の手を力強く握り、ホークが熱く告げる。
「大丈夫。僕を信じてくれ。絶対に父上を説得してみせるから」
「ホーク……私」
恋人からの求婚は嬉しいものだったが、彼女は素直には頷けなかった。
だってどう考えても詰んでいる。結婚を許される未来が彼女には微塵も見えなかった。
躊躇うライラにホークが心から告げる。
「君を愛しているんだ」
「っ……私、も」
駄目だと思う気持ちが、彼を好きという心に塗り替えられていく。
始まりこそ一目惚れだったが、ライラはホークの真っ直ぐなところや人を信じる優しい心に惚れていたのだ。それを見せられて、断れるはずがなかった。
ライラたちは結婚を約束し、両家に挨拶へ行ったが、結果は惨憺たるものだった。
当たり前だが、どちらの家の父親も激怒。
いくら懇願しようと結婚を認めてはくれなかった。
しかもライラにはホークではなく別の婚約相手が宛がわれることになってしまった。
「現国王派で信用の置ける人物だ。以前からお前のことが好きだったらしい」
父は満足げだが、今更他の相手となんて結婚できるはずがない。
絶望するも、ライラの味方になってくれる人はどこにもいなかった。
◇◇◇
「ライラ」
王家主催の夜会から半年ほど経ったある日のことだった。
気分転換にと屋敷の庭を散歩しているライラに、後ろから声が掛けられたのだ。
聞き覚えのある声に驚きつつも振り返れば、草木に身を隠しているホークの姿があった。
「どうしたの……!」
誰かに見つかったらまずいと、焦りながらも駆け寄る。周囲に誰もいないことを確認した。
「危ないじゃない。あなたに何かあったら私……」
「大丈夫。気をつけているから。それより、話がある。僕と……駆け落ちをしないか?」
「え、駆け落ち……?」
聞き間違いかと一瞬耳を疑った。だがホークは真剣な顔をしている。
「君が僕ではない他の男と婚約したと聞いたんだ。それでようやく目が覚めた。僕は今でもいつか皆が分かってくれると信じているけれど、でも、それは今じゃない。今、君を諦めればきっと後悔する。だから一緒に逃げたい」
「……ホーク」
ホークが手を差し出してくる。その手を見て、ライラは自分が人生の岐路に立っているのだと気がついた。
このまま親の言うとおりにホークを諦めて、好きでも何でもない人と結婚する人生。
もうひとつは、好きな人と全てを捨てて逃げる道だ。
このふたつが目の前にあり、まさに今、選択を迫られている。
「私……」
「君とならどこででも暮らせる。僕と駆け落ちしてくれないか」
「っ!」
もう一度告げられ、胸がグッと熱くなった。
彼の青い瞳を見つめる。明るい日差しの下で見る彼の目は、夏の青空のように澄み渡っていた。
どこまでも広がる青は美しく、力に満ちあふれている。
ついていきたい。そう素直に思った。
「……行くわ。あなたと一緒に」
「ライラ!」
「私だってあなた以外の人と結婚なんてしたくないもの」
手を取ると、強く抱きしめられた。その背を抱き返し、目を閉じる。
「あなたと行くわ」
たとえ全部捨てることになろうとも後悔しない。
ライラはその時、確かにそう思ったのである。