騎士団の家政婦ですがコワモテ団長が私の下僕になったようです!? 1
「ほ、本当ですか?」
アウリは思わず声を上げ、レネおばさんの言葉に飛びついた。
「真面目で根性のある人を探しているって言うからさ、私がちょうどいい子がいるよって紹介したんだよ。そうしたら、先方もぜひって言ってね。アウリさえよければ紹介するよ」
「ぜひお願いします!」
渡りに船とはこのことだと、レネおばさんのふくよかな身体を抱き締めながらアウリは喜ぶ。
『住み込み可希望、家事全般得意でやる気と根性は誰よりもあります』
そんな謳い文句を掲げて求職活動をしていたが、なかなか新しい職場が決まらずに焦りを覚えていたところだった。
レネおばさんが営んでいた小さな食堂は、いわばアウリの家のようなものだ。
十五歳のときから約四年間、ここで住み込みをしながら働いていた。
身寄りがないアウリにとってレネおばさんは家族同然だ。
今年六十歳になるという白髪交じりの彼女は、アウリにとって祖母のような存在と言ったところだろうか。彼女が笑うたびに刻み込まれる皺や、頭を撫でられるたびに感じる手の温かさが大好きだった。
ずっとここでこの食堂を支える一員として暮らしていけると思っていた。
レネおばさんもことあるごとにそう言ってくれていたので、おそらく想いは同じだったのだろう。
ところが、昨年食堂の目の前に大きな大衆食堂兼酒場が開店した。
あっという間に客はそちらに流れていき、レネおばさんの食堂は閑古鳥が鳴く状況になってしまう。
赤字が続きいよいよ経営が立ち行かなくなり、アウリに「潮時だね」と寂しそうに言ってきたあのときの表情を覚えている。
店じまいをし、アウリもまた新たな職場を探さなければならなかった。
レネおばさんの厚意で職が見つかるまで住まわせてもらっているが、いつまでも甘えるわけにはいかない。
求職活動を懸命に行っていたが、職を求めてやってくる人が溢れる王都で職にありつくことは難しかった。
そこで、レネおばさんが伝手を使ってアウリにぴったりな職を見つけてきてくれた。
何から何まで世話になってしまい申し訳ないと思いながらも、これ以上彼女に負担をかけずに済むとホッと胸を撫で下ろす。
「でもね、話を聞くと皆すぐに辞めてしまうそうなんだよ。だからそれだけ過酷な職場なんじゃないかって心配でね」
「でも、仕事内容は家事全般なのですよね?」
「そうは聞いているけれど……」
それはアウリの希望通りだし、そんな過酷な仕事でもないと思うのだがと首を傾げた。
けれどもレネおばさんはそれが引っかかって仕方がないらしい。
迷っている素振りが見えたので、アウリは「大丈夫です!」と言い募る。
「根性があることが私の唯一の取り柄です! どんな職場であってもやり切ってみせます!」
「そうかい? でも、もしも辛くなったらいつでも私のところに帰っておいでよ?」
「ありがとうございます、レネおばさん。私なら大丈夫です。どこでだって元気にやってみせます」
正直に言えば不安はある。
けれどもそれを露わにしてしまえば、優しいレネおばさんのことだ、もっと違う職を探した方がいいと言い出すだろう。
そうなると彼女に負担をかけ続けることになり、アウリの望むところではなかった。
早く自立したい一心でその仕事に就きたいと言うと、レネおばさんは折れて話を進めてくれることになった。
「騎士団の宿舎での家政婦の仕事らしいよ」
「騎士団、ですか……」
そう言われたがいまいちピンとこない。
この国にはいわゆる「騎士団」と呼ばれる集団がいくつかある。
いずれも国王に忠誠を誓っているが、部隊ごとにそれぞれ活動目的が異なっていた。
街の警護、国防、儀仗、諜報活動、実働部隊など多岐にわたると言われているが、実態は謎だ。
こと一般市民のアウリならばなおのこと、その業務内容を知る由もない。
騎士団というものが国を守っているのはぼんやりとは分かっているが、どんな人たちが集まっているか、どのくらいの規模なのかも理解できていない。
だからこそアウリは楽観的に考えていた。
「大丈夫です! 立派に勤めてみせます!」
レネおばさんを安心させるために両手の拳を軽く掲げて明るく言ってみせる。
(平気よ! 頑張っていこうね、私! どんなところでもやっていけるんだから!)
その日から、アウリの心の中でこれが合言葉のようになった。
不安を誤魔化すためでもあったし、己を奮い立たせるためでもある。
おかげでレネおばさんの家から出るときも明るい顔を見せることができたし、騎士団宿舎に到着したときも怖気づくことなく門戸を叩くことができたのだ。
「アウリ・クラウティスです。どうぞよろしくお願いいたします」
宿舎で働く家政婦たちの取りまとめ役である家政婦長に挨拶をすると、彼女は厳格そうな顔で小さく頷いた。
いつも顔に笑みを浮かべているレネおばさんとは正反対のタイプらしく、両端がグッと下がった口と吊り上がった眉が怖いイメージを抱かせる。
おかげでせっかくここまで高めた勇気が徐々に下がっていった。
(こ、ここで挫けてはだめよ! 頑張っていこう!)
懸命に己を鼓舞して気持ちを引き上げる。
レネおばさんに心配をかけないようにここでどうにかやっていかなければならないのだから、こんなことでくよくよはしていられないのだ。
「ついてきなさい、アウリ。宿舎内を案内するついでに仕事について説明いたします」
ここ、ジュヴァルラキア騎士団は少数精鋭の実働部隊であり、団長であるシューリヒトが率いている。
ここに住んでいるのはシューリヒトを含め七人。
昼夜関係なく出動できるように騎士団全員が寝食を共にしているとのこと。
もともとこの宿舎はシューリヒトが所有している屋敷を利用したものなので、人数以上の部屋数があり、敷地も広いので迷子にならないように気をつけること。
家政婦長は宿舎内を一緒に歩きながら説明してくれた。
「団員の皆さんは、いうなれば一癖も二癖もある方ばかりなので、個人的に親しくなるのは避けるように。業務上で必要なこと以外の会話は控えなさい」
「わ、分かりました」
無用な諍いや色恋沙汰などを避けるためだろう。
レネおばさんからも食堂で働き始めた初日に、客として接するのはいいが個人的な付き合いはアウリ自身のためにやめておいた方がいいと言われていた。
ずっとそれを忠実に守っていたアウリは当然のことだと頷いた。
一癖二癖がどんなものかは分からないが、要は必要ないことでは口を開かないようにすればいいということだ。
アウリの主な仕事は各部屋の掃除と、他の家政婦たちの補助だった。
掃除用具がどこにあるのか、掃除の時間帯はいつか、各部屋の注意点などを頭の中に入れる。間違いが起きないようにメモにも取って、あとで見返すつもりだ。
「こちらは家政婦たちが住む棟です」
厨房の側にある廊下の奥に設置されている扉を開くと、渡り廊下があった。
そこを通ると別棟があり、これからアウリが住む部屋があるのだと教えてもらった。
「貴女の部屋はこちらです」
「わぁ! 広いですね!」
一台のベッドとドレッサーとチェストと簡易的な調度品しか置かれていないが、使用人の部屋にしては広い。
レネおばさんと住んでいたときは屋根裏を間借りしていたので、足を伸ばして寝るだけで精一杯の広さだった。
だから思わず感動し、目を輝かせて部屋の中を見て回った。
「荷物を置いたら団長に挨拶に行きましょう」
「はい!」
適当な場所に鞄を置き、家政婦長についていく。
本館の二階奥、一番豪奢で堅牢な扉の前に立つと、家政婦長は「こちらが団長の執務室です」と教えてくれた。
「挨拶が終わったら厨房に来るように」
「……わ、分かりました」
(私ひとりで挨拶するのね)
てっきり家政婦長も一緒に入るのだとばかり思っていたアウリは、扉を目の前にして緊張を高まらせる。
ノックしようと掲げる手を一旦下ろし、深呼吸をしたあとに扉を叩いた。
「入れ」
男性らしい低い声が扉越しに聞こえてきて、ごくりと唾を呑み込む。
「失礼いたします」
ゆっくりと扉を開けて、部屋の奥、大きな窓の前に置かれた執務机の前に座る男性を真っ直ぐに見据えた。
あちらもあちらでアウリの方に視線を寄越し、鋭い目を向けてきた。
(……に、睨まれている?)
彼の二重幅の広い切れ長の目は、まるで敵を睨みつけるようにアウリを見つめる。
もともと強面なのか、それともアウリの来訪を歓迎していないのか。
前者であった場合、変に怖がっても失礼なので明るく振る舞おうと努めた。
にこりとした笑みを顔に貼り付ける。
「本日から家政婦として働かせていただきます、アウリ・クラウティスと申します。誠心誠意勤めさせていただきますので、若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げ挨拶をする。
レネおばさんに最初が肝心だと言われ、一緒に挨拶の練習をした。
練習通りにできたと内心喜ぶが、シューリヒトの表情は一向に変わらなかった。
無言でアウリを睨みつけ続ける。
もしかして何か失礼なところがあったのだろうか。
練習通りにできていたはずだけれど、とソワソワしながらひとまずシューリヒトの言葉を待った。
すると彼は苦虫を噛み潰したような顔をしたあと重苦しい溜息を吐き、視線を横に彷徨わせながらおもむろに口を開いた。
「ジュヴァルラキア騎士団団長シューリヒト・ラディカルだ。何か困ったことがあれば家政婦長に聞くといい」
「分かりました」
あまり歓迎されていないような雰囲気に戸惑ったが、それでも自己紹介をしてくれたのだ、きっと悪い人ではないのだろう。
しかも彼は家政婦長の説明によると、騎士団長であると同時にラディカル侯爵でもあるらしい。
貴族がいち平民であるアウリにする挨拶にしては、丁寧な部類ではないだろうか。
そう前向きに捉え、挨拶後にシューリヒトの執務室を退室した。
(かっこいい人だけれど、怖い人だったな……)
廊下を歩きながら、シューリヒトに抱いた第一印象を思い返す。
黒髪に黒い瞳。凜々しくキリッと上がった眉と、鼻梁の高いスッと通った鼻。
真っ白な騎士団服が似合う男性はなかなかいないだろうに、違和感なく着こなすほどの美貌を持ち合わせている。
座ったままだったので正確には分からないが、服の上からも上腕二頭筋の逞しさは見て取れた。
胸板も厚く、聞こえてきた声も耳に心地よく響く低音だった。
もし睨まれていなければ、彼の見目の麗しさに見蕩れてしまっていただろう。
雇い主に惚けるなどあってはならないので、ああいった態度を取られたのはある意味助かったかもしれない。
いずれにせよ、同じ屋敷に住むとはいえ、騎士団長なんて身分の高い人とかかわることなどそうそうないはずだ。
まずは家政婦仲間と仲を深めること。
そして、何より早く仕事を覚えることに集中しよう。
気分を取り直し厨房に向かうと、今度は一緒に働く仲間を紹介された。
「私と家政婦長を含めて四人……ですか?」
「そうです。この屋敷は私たちだけで維持します。いいですか? 休む暇もありませんよ?」
「は、はい……」
こんな広い屋敷をこんな少人数で維持するなんてできるのだろうか。
家政婦の他にシェフと従僕のふたりがいるだけで、実質家事は四人で行うしかないようだ。
「ですので、いちいち丁寧に貴女に仕事を教えることはできません。この前任者が残したメモを見て学ぶように」
メモ、と渡されたのは紙切れ一枚。
それに目を通すと、各部屋の注意事項が書いてあった。
注意事項といってもさして詳しいことは書いておらず、簡潔に部屋ごとで二、三行ほどにまとめられている程度のものだった。
たったこれだけで何を学べばいいのだろう。
戸惑いながらも一部屋ずつの注意事項に目を通す。
『ゼフィールさん。団長に絶対忠実の人。部屋の物には手を触れない』
そう書かれた横に、小さな字で『ほんのちょっとでも物を動かすと気付かれて問い詰められます』と書かれてあり、随分と神経質な人だということが窺える。
それを念頭において部屋に向かい、扉をノックした。
「お部屋の掃除にきました」
中にゼフィールがいないことを確認し、扉を開けようとノブに手をかける。
「──誰だ」
すると、後ろから心臓が底冷えするような低い声が聞こえてきた。
思わず肩が跳ね、ごくりと息を呑む。
「……あ、あの……本日付けでこちらで働かせていただくことになったアウリ・クラウティスです。お部屋の掃除に伺ったのですが……」
恐る恐る振り返ると、アウリの背後に赤髪の男性が立っていた。
怖い顔で見下ろし、警戒心を露わにしている。
アウリが名乗っても表情は和らぐことはなく、ふたりは膠着状態に陥った。
「ゼフィール、先ほど言っただろう。彼女が新しい家政婦だ。今度は怯えさせて追い出すなよと」
ところが、シューリヒトがすれ違いざま後ろから注意しながらゼフィールの頭をこつんと拳で軽く叩く。
「はい」
ゼフィールの目が不意に逸れて、そのまま去っていくシューリヒトの背中を追っていった。
「彼女に仕事をさせてやれ」
「はい」
怖い雰囲気はどこへやら。
メモに書いてある通り、シューリヒトに従順らしい。
彼の背中についていく姿は、まるで忠犬のよう。
先ほどまでアウリを噛み千切らんばかりに牙を剥いていたゼフィールとは思えない姿に、目を丸くして瞬いた。
それにしても、今シューリヒトはアウリを手助けしてくれたのだろうか。
(あのまま通り過ぎてもよかっただろうに、わざわざ声をかけてくれるなんて)
第一印象で嫌われたかと思ったがそうでもないのだろうか。
いまいち掴めないシューリヒトの言動に疑問を抱きながらも、アウリはその厚意をありがたく受け取ることにした。
やはり悪い人ではない。
(もしかして女性とは距離を取る人なのかしら)
立場がある以上、おいそれと思わせぶりな態度などは取りたくないと思っているのかもしれない。
まだ結論付けるのは早計だが、家政婦長の忠告は的確だなと思いながら、ゼフィールの部屋の扉を開けた。
物を極力動かさないようにしながらリネンの交換と床と窓の掃除をし、ゴミを回収して次の部屋へと移る。
「次は……ウーヴェさん」
メモによると彼はいわゆる引きこもりらしく、任務がない限り部屋から出てこない。
掃除も拒否されるが、無理矢理でも中に入り声をかけずにいれば問題ないとのこと。
また部屋に入るのにもひと苦労しそうな人だなと思いながら扉をノックする。
「……誰?」
指一本分だけ開いた扉の向こうから目が覗き、こちらを窺ってきた。
自己紹介を済ませ、掃除をしに来た旨を伝えるとウーヴェは黙り込む。
「いらない」
そう言ってさっさと扉を閉められ、締め出されてしまう。
「なるほど、こういうことですか」
これもメモの通りだと頷き、ドアノブに手をかけた。
「失礼します!」
「か、勝手に入らないでよぉ!」
アウリが扉を開けると、ウーヴェはぴゃっと声を上げながら大きな身体を毛布に潜り込ませた。
「お掃除させていただきますね」
そう一言声をかけたあと、てきぱきと手を動かす。
ウーヴェはアウリの動きを目で追いながら監視していた。
怯えたような姿に罪悪感を覚えるが、彼は身体を武器にして仕事をする人だ。しっかりと掃除しなければ病気になってしまうかもしれないと、心を鬼にした。
手際よく済ませて部屋をあとにすると、アウリとは入れ違いに他の団員がウーヴェの部屋にやってくる。
「ほら! ウーヴェ! 訓練だ!」
「いーやーだぁ!」
「団長が呼んでんだよ! お前、いつまでも引きこもっていると身体がなまっちまうぞ! 強いんだからもったいないだろ!」
「もったいなくない! ちゃんと働くときは働くからほっといてよぉ!」
イヤイヤと駄々っ子のように首を横に振りながらも無情に引きずられていくウーヴェは、悲鳴を残しながらあっという間に消えていってしまった。
その光景にもあっけにとられ、アウリは呆然とする。
(なんだか騒がしいところなのね。男性が住む家はそういうものなのかしら)
血気盛んな男性が何人も集まれば、静かにしていることなど難しいのかもしれない。実際、レネおばさんの食堂に集まる常連の男性たちも、騒がしくしていることが多かった。
あの喧騒を聞くことがなくなって久しいせいか、なんだか心がほっこりと温かくなってしまった。
さて、次の部屋に取り掛かろうと移動し、扉をノックする。
そんな感じで各部屋の掃除を終え、家政婦長に次に何をすればいいか聞くと、昼食の配膳をお願いしたいとのことだった。
それが終われば洗濯物を回収して畳み、各部屋へと置いていく。
次は夕食の準備に配膳、片付けと休む暇もなかった。
ようやくすべての仕事が終わったときはくたくたで、お風呂に入ったあとにベッドに飛び込むとすぐに睡魔が襲ってくる。
身体が怠くて仕方がない。けれども嫌な倦怠感ではなく、心地よい気怠さ。
働いた! と爽快な気分がアウリの中にあって、気持ちよく眠ることができそうだ。
ずっと気丈に振る舞っていたが、レネおばさんの食堂が潰れて働くあてもなくなって不安だったのだろう。
久しぶりに安心して眠ることができそうだと、静かに目を閉じた。
騎士団宿舎で働き始めて数日。
何故すぐ人が辞めてしまうのか、何となく分かったような気がした。
第一に忙しすぎる。
雇っている人数が少ないせいで休む暇もなく動き続けなければならない。
アウリの場合は、レネおばさんの食堂で働いていたときも朝から仕込みや準備に追われ、開店してからは接客、閉店後は片付けとなかなかに忙しかったため慣れてしまっていた。
苦に感じることなく、むしろ暇があった方が落ち着かなくなってしまうのでこのくらいがちょうどいい。
だが人によってはこの忙しさに音を上げてしまうことは理解できた。
次に団員たちの癖の強さだろう。
ゼフィールやウーヴェをはじめ、異様に警戒心が強い人が多い。
掃除に来たと言っても怪訝な顔をされ、ときには追い返され、部屋の中に入るのにも大変な思いをして、物を動かしたり余計なことをしないようにと監視される。
中には本に埋もれた生活をしている人もいて、部屋の中に入るたびに並び立つ本を崩さないように動き、いつ本の雪崩が起きないかとハラハラしながら掃除をするところもある。
異様に潔癖な人は埃ひとつでも残っているとやり直しを何度も要求されるしで、あっさりと掃除を終えることができる部屋はほとんどない。
唯一何の障害もなく掃除ができる部屋といえば、シューリヒトのところだろうか。
寝室と執務室の両方の掃除をするのだが、たとえ在室中でも団員たちのように入室を拒むこともなければ物を溜め込むことも、掃除のやり方に文句を言うこともない。
むしろ、アウリをいないもののように扱ってくれるのでありがたかった。
その代わり鋭い視線は相変わらずで、引き続き嫌われたままのようだ。
どうやらシューリヒトは女性を避けて冷たくしているというわけではないらしい。
そのことを知ったのは三日前のこと。
もうひとりの家政婦仲間と話しているのを見かけたのだが、そのときの彼は彼女を睨みつけるわけでもなく冷たい態度を取るわけでもなく普通だった。
ある程度の距離感を保ちながらも、それでも「嫌っている」と感じられるほどの明らかな拒絶感のようなものが見えない。
それは家政婦長に対しても同様で、シューリヒトはアウリに対してだけあのような冷たい態度を取っていた。
ということは、女性だからとかそういうのは関係なく、アウリ個人を嫌がっているということになる。
そのことに気が付いたときショックではあったが、気にしていたらここでは働いていけないと気持ちを切り替えた。
ところが、シューリヒトという人は少々複雑な人らしい。
執務室の窓掃除をするとき、アウリはいつも窓の上の部分を拭くために踏み台に上がり手を伸ばす。
それでも背が低いアウリにはこの踏み台の高さでは足りず、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら拭かなければならなかった。
ある日、跳んで着地したはずみで踏み台から足を踏み外し、後ろに倒れそうになった。
身体を咄嗟に捻り、落下を防ごうとしたが近くには掴める物もなく、落ちることを覚悟したとき、横からにゅっと逞しい腕が伸びてきた。
少し離れた執務机の前で書類仕事をしていたはずのシューリヒトが、いつの間にか側にやってきて落ちそうになるアウリの身体を抱きとめ助けてくれたのだ。
何が起こったか分からず惚けていたアウリを、彼は床の上に立たせる。
「あ、ありがとうございます……」
情けない声でお礼を言えば、シューリヒトは無言のまま去っていった。
慌てて駆け寄ってくれたのだろう。
彼が先ほどまで座っていたはずの重厚な椅子が床に転がっていて、それを元の位置に戻したあとに書類仕事を再開する。
(嫌っているのに助けてくれるんだ)
しかも椅子を倒して飛んでくるほど必死に。
嬉しいという気持ちと感謝の気持ち、そして申し訳ないという気持ちがごちゃまぜになって複雑な心境だった。
さらに驚いたのが、翌日踏み台が替わっていたことだ。
以前のものより高く、上りやすいように階段がついているものだった。
おかげで窓拭き掃除が楽になったのだが、いったいこの踏み台は誰が用意してくれたのだろうと頭を捻ることになる。
家政婦長に聞いたが知らないと言われ、他の人からも同様の答えが返ってきた。
そうなると必然的にシューリヒトに辿り着く。
「間違っていたら申し訳ございません。団長が新しい踏み台を手配してくださったのですか?」
勇気を出して聞くと、彼はぎろりとアウリを見て口を真一文字に引き結ぶ。
そして、視線をふいと外した。
「ああ」
短い返事だったがそれを聞けただけでもよかったと、アウリは顔を明るくした。
「ありがとうございます! これでお掃除がさらにしやすくなります!」
頭を深々と下げお礼を言う。すると、シューリヒトは眉間に皺を寄せて無言のままどこかに行ってしまう。
ちゃんとお礼の言葉を受け取ってもらえたのか分からないが、踏み台を大切に使おうと心に決めた。
この一件があってから、シューリヒトのイメージがまたがらりと変わった。
苦手意識が薄れ、話しかけることに躊躇いがなくなっていったのだ。
「おはようございます、団長」
「他に捨てるものはありますか?」
「お食事の用意ができております」
アウリも挨拶か用事があるときにしか声をかけないし、シューリヒトも声をかけるたびに睨みつけ嫌な顔をするが気にすることもない。
そんな日々が一ヶ月過ぎた頃には、アウリは仕事に慣れ、ゼフィールの無言の背後立ちにも慣れ、ウーヴェの部屋に難なく入ることができるようになり、本の雪崩を起こすこともなく、掃除のやり直しを要求される回数も少なくなる。
この調子ならばレネおばさんにいい報告ができるし安心させることができるだろう。
今度休みをもらうことができたら報告しに行こうと、こっそり楽しみにしていた。