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黒豹公爵の甘い誤算 遊び人と噂の彼が、純真令嬢に夢中になるまで 1

第一話


 何年も自分の領地に引きこもってきたエリスの目には、全てが華やかでまばゆく見えた。
 今日の舞踏会が行われる王城の大広間は、代々公式の舞踏会やレセプションが実施されてきたところだ。一年前には、十年続いた隣国との戦争の和平の調印式が開かれた。
 ──ようやく戦争が終わって、ずっとお預けだった舞踏会が開催されるようになったわ。わたくしはその間に二十歳になったから、急いで結婚相手を探す必要があるのだけれど、慎重にやらなくては。だって、一生のことですもの。
 貴族の娘は二十歳ぐらいまでに結婚するのが一般的だ。
 だが戦争のために長らく舞踏会は開かれなかったので、エリスは今回が社交界デビューとなる。
 若い貴族にとって、舞踏会は結婚相手を選ぶ重要な機会だ。選ぶというより、お見合いの場として機能することが多い。何故なら、貴族というものは政略結婚が一般的だからだ。
 だが、エリスの父──現国王の弟であるアルブレヒト大公は、エリス自身が結婚相手を選ぶことを許してくれた。ただし、いくつかの条件はついた。
 相手は王族または大公・公爵・侯爵クラスの高位貴族の継承者に限ること。アルブレヒト大公家にふさわしい名門貴族出身者であり、血筋の正統さと個人の資質が求められる。
 そして何より、その相手が父に認められること。
 期限は一年間。その間に結婚相手を見つけられなければ、父がエリスにふさわしい相手を選ぶ。
 母亡き後、父はエリスを溺愛していた。娘の幸せを一番に望んでいる。エリスとしてもそんな父の愛情に応えたいのだが、自分自身の恋心も大切にしたい。そんな思いで父と、粘り強く交渉した結果だ。
 厳しい条件ではあるものの、ろくに顔も合わせたことのない相手を一方的に押しつけられるよりずっといいはずだ。
 だから、エリスにとっては、この一年が正念場となる。腕によりをかけて、添い遂げるにふさわしい相手を選びたい。
 ──一年なんてあっという間って聞くから、行動は素早くね。それでも、慎重に相手を選びませんと!
 戦争は長く続いたが、王都まで侵略されることはなかった。王城には破壊の痕跡はなく、かつての賑やかさを取り戻しつつある。
 だが社交界は縮小されていたので、エリスは十歳から二十歳までの間、安全な大公領に引きこもり、ひたすら勉強に明け暮れる日々を送ってきた。
 だから同年代の娘に比べたら知識だけはあるはずだが、世間知らずだという自覚がある。
 ──恋をするとは、どんな感覚なのかしら。
 心が浮き立つような気分で、エリスは今日の舞踏会の会場に向かう。
 今日は父が同行して、しっかり目を光らせる予定だった。エリスが下手な男に引っかかることのないよう、ダンスの相手の選定にも気を配り、父お薦めの貴族を紹介するつもりだったらしい。
 だが、父は急遽、欠席することになった。隣国との和平条約への不満が、今でも国内貴族の間でくすぶり続けている。そのごたごたの後処理に引っ張り出されたらしい。
 代わりに同行することになったのは、叔母だった。
 馬車でここまで向かう間に、叔母が言った言葉をエリスは思い出す。
『あなたは今季の舞踏会の、一番の有望株よ。アルブレヒト大公は、王太子さま亡き後、この国の第一王位継承者となりました。その娘であるあなたと結婚することは、出世を約束されたようなもの。だけど、男たちはそんな下心などおくびにも出さず、あくまでも礼儀正しくあなたに接してくるはずだわ。あなたは相手の下心を見抜かねばなりません。恋心などでその目を曇らせてはならないの』
 叔母はエリスの『自由意志』をひどく警戒していた。
 エリスは若くて世間知らずだから、簡単に恋の罠に引っかかると思いこんでいる。
 だが、エリスは大公領に引きこもっていた間に、愚鈍な領主や国王の政策によって、人々がどれだけ苦しめられてきたのか、その長い歴史も学んできた。
 地位と名誉が欲しいだけの軽薄な男にだまされるわけにはいかない。恋心などに目を曇らされず、自分自身の目でしっかりと見定める必要があるのは重々承知しているつもりだ。
 そんなふうには思っていたものの、それでも気持ちはふわふわと浮かれてもいたのだ。
 ──恋したいの。
 エリスの頬は興奮に上気している。若くして病気で亡くなった母は、父の心を一瞬で虜にしたほどの美人だったと聞くが、エリスはその母に生き写しらしい。
 母譲りだという柔らかな金髪は、時間をかけてふんわりとカールさせた。舞踏会のドレスは、何度も試着を繰り返した最先端の品だ。動くたびに繊細なレースのスカートがとてもいい形に開くし、エリスの柔らかな肌の色を最大限に引き立てる桜色の花模様も大好きだ。
 そんなエリスが手首から提げているのは、ダンスの順番をメモする小さな手帳と、顔がすっぽりと隠れるほどの大きな絹の扇子だ。エリスは正直な性格で、あまり本心を隠すのが得意ではない。いざというときには、これで顔を隠せばいい。
 ──さぁて! 行くわよ!
 戦争が終わって以来の大規模な舞踏会ということで、今夜は王都に滞在する貴族という貴族が集まるようだ。王城のエントランスでは馬車の渋滞も始まっていた。
 特別に準備された控室で一息ついてから、エリスが叔母の後について王城の大広間に入っていくと、その登場を待ち詫びていたのか、ほおっと大きな歓声が上がった。
 その注目度に、エリスは息を呑む。人々の間を通って奥まで移動する間にも、自分がやたらと注目を集めているのを感じていた。
 ──あれが、大公の娘。
 ──エリス嬢。
 ──噂通りの美人だな。
 ──狙うか?
 ──いや、高嶺の花すぎる。
 多少は注目されることを覚悟してはいたものの、ここまでとは思っていなかった。最近ではすっかり政務から身を引きつつある国王の代わりに、父が権勢を握っていると聞いてはいた。その影響力を思い知らされる。
 奥のほうにある少し開けたところで足を止めると、エリスと叔母はあっという間に大勢の求婚者に取り囲まれた。だが、叔母がしっかりと条件を伝えて、大公、公爵と侯爵以外は遠ざけてくれたので助かった。
 これほどまでに、叔母が頼もしく見えたことはない。
 それでも高位の貴族が二人残っており、エリスは彼らを紹介された。
 ローゼンベルク公爵と、シュバルツ侯爵だ。
 結婚相手は歳が近い相手がいい。せいぜい離れていても十歳ぐらいだと思っていたエリスは、娘のような年齢の相手に臆面もなく求婚してくる彼らに密かにショックを受けた。
 女性側が若くて子供を産める年齢であるのならば、男性側としては何の問題もないと考えているのかもしれない。
 ──だけど、わたくしは嫌だわ。お父様のような年齢のかたと、恋愛できる気がしないもの。
 顔を強張らせて挨拶を受ける間に、舞踏会のざわめきの中でエリスは少し異質な響きを感じ取った。
 歓声に似た、甘い響き。女性たちが意中の男性を前に、発しているようなもの。
 その発生源を探して、視線がさまよう。
 舞踏会が開かれている大広間の端に、彼らはいた。休憩をするための椅子が壁際に整然と並べられていたのだが、彼らはそれを崩して好きに使っているようだ。
 その中心に、きらびやかな衣装をまとった男がいた。
 初めての舞踏会に出席するにあたって、叔母に注意された内容をエリスは思い出す。
『宮廷には、女をもてあそぶ蛇のような男もいるの。どんなにその男の家柄が立派であっても、そんな男に決して引っかかってはならないわ』
 ──たとえば、あのかたのようなタイプには要注意、ってこと?
 ドレス姿の女性越しに見え隠れするだけであっても、その男の衣装が途轍もなく贅を尽くしたものであることが見てとれた。
 濃いブルーの上質な長衣の布地を、金銀の刺繍が隙間なく覆っている。この遠い位置からでもボタンが光って見えるのは、それだけ高価な宝石が使われているからだろう。
 三人の女性を侍らせても彼は満足ではないらしく、近くを通りかかった女性にも気安く話しかけて、引き止めてもいるようだ。
 ──いかにも遊び人、って感じ?
 叔母がエリスの視線をたどって、誰を見ているのかに気づいたらしい。
「あの男はダメよ」
 頭ごなしの否定に、エリスは面食らう。
 エリスがまるで乗り気ではなかったために、二人の高位の求婚者は叔母によって丁寧に断られ、離れていくところだった。
 その二人が十分に離れたのを見計らってから、叔母が言葉を継ぐ。
「あの男は論外だわ。あんなふうに女を侍らせる男に、誠意なんてないもの。あなたのような純粋な若い娘は、手玉に取られて遊ばれるだけ」
 そこまで頭ごなしに否定されると、エリスは逆に興味を惹かれてしまう。
「あのかたは、どなたですの? 今後注意するためにも、お名前を聞かせていただけます?」
「コンラート・ハルシュタット公爵よ。東に大きな領地を持つ、ハルシュタット家のご当主」
 その言葉に、エリスは驚いた。その名は戦争中に聞いたことがあった。救国の英雄だ。
「ハルシュタット公爵って、戦争で、『黒豹』と呼ばれておられたかた?」
 隣国に侵略された国境線沿いのいくつかの町を、見事奪還した人物として、名を馳せた。十年も続いた戦争に終止符が打たれたのは、彼の活躍あってのことだともてはやされたはずだ。
「そうよ」
 叔母の返事によって、エリスの興味は大いにその男に惹きつけられた。
「もっといかつい大男だと思っておりましたわ。それに、ずいぶんとお若いみたい?」
 女性たちがいるから見えにくいが、長身で引きしまった身体つきは若々しい。
「『黒豹』の黒は、彼の黒髪から?」
 立て続けに尋ねると、叔母はあきれたように溜息をついた。
「ですから、あの男に興味を持つのはおやめなさい。──ええと確か、三十歳にはなっていなかったはずよ。戦争中の活躍もあって、彼は大勢の女性から興味を持たれるの。流れるように武勇伝も語るけれど、そのほとんどがホラ話だとか」
「ホラ話!」
 救国の英雄のくせに、そんな軽薄な性格なのだろうか。
 ますます興味を引かれて、エリスはちらちらとそちらに視線を注がずにはいられない。
 相変わらず顔は見えにくいが、彼は酔っぱらっているように思えた。動きが大仰で、制御できていない。女性たちにしなだれかかり、背後から抱きしめながら耳元で何かをささやく姿が煽情的だ。
 エリスは見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて視線をそらせた。
 叔母が眉間にしわを寄せながら、エリスに説明してくれる。
「爵位を継いだのは、確か四年前よ。戦争中のこと。ご両親もお身内さまもいなくなったので、誰も注意できずに、あのような醜態を」
「ご両親とお身内? 亡くなられたってこと? 戦争で?」
 三十歳前で爵位を継ぐなんて、かなり異例だ。
「大きな事件があったのよ」
 溜息交じりにつぶやいた叔母は、ハッとしたように口をつぐんだ。
「叔母さま?」
「いえ。それはいいの。──陛下は戦争でめざましい活躍をされたハルシュタット公爵の功績を称えて、王国軍総副司令に指名しようとされたこともあったそうなのだけど」
「お受けになったの?」
 そこまでの地位にある男が、へらへらと人前で女性と戯れていてもいいものなのだろうか。
「いいえ。自分には荷が重いからと、陛下じきじきのご指名をお断りになったそうよ。それどころか、ハルシュタット公爵家が代々担われてきた宮廷内の職務も全て放棄されて、今はご領地の管理のみ。それすらもおそらくは家令に任せて、ご自身はあのようにお遊び三昧なの。社交界の行事には頻繁に参加されるんだけど、目的はもっぱら女性という話だわ。最近では、とある未亡人の邸宅に入りびたりだとか」
「……そ、そうですの」
 生々しい話に、エリスは鼻白む。
 そもそも貴族たちにとって、浮気はたしなみのようなものらしい。宮廷での風紀は乱れていると聞いていたが、そんなにひどい状況だったとは知らなかった。
「まぁ、わたくしからそのようなかたに、近づくことはないと思いますわ」
 きっぱりとそう言うと、叔母は安心したように息を吐いた。
「そうね。エリス、あなたは聡明な娘ですもの」
 エリスは叔母の話を聞きながら、大広間全体に何気なく視線をめぐらせた。
 来てすぐのときには大勢の求婚者に囲まれたものの、侯爵よりも上でないと条件に合わないとかたっぱしから断ったので、今は叔母と二人きりだ。
 初めての舞踏会だから、誰かとダンスを踊りたいと思っていた。だがもしかして、今日は誰とも踊ることなく終わるのだろうか。
「──フェルデナンドさまは、まだお見えになっていませんの?」
 ふと、叔母に尋ねてみる。
 フェルデナンドはモンフォール侯爵の長男であり、エリスが今日の舞踏会に出席すると聞くなり、すぐさま屋敷にやってきて、父に直接、今日の舞踏会のエスコートをさせてほしい、と熱心に交渉してきた、と聞いていた。
 エスコートされたら、その人が舞踏会での正式なパートナーとなる。
 どうする? と父に打診されたが、エリスは初めての舞踏会にあたってしがらみなく結婚相手を見定めたかったから、断ってもらった。
 とはいえ、せっかくの申し出を断ってしまったことを申し訳なく思ってもいた。フェルデナンドは二十代後半で、容姿も整っているらしい。頭もよく、社交力もあると聞いたから、どんな人なのか会ってみたい。
 だがフェルデナンドは現れず、エリスは他の参加者がダンスを踊ったり、親密そうに語り合ったりするのを眺めるばかりだ。
 ──待ちに待った、舞踏会の日なのに、ね?
 ダンスの特訓もしたし、ドレスや装身具も吟味に吟味を重ねた。社交界の有力貴族の名や相関関係も覚えて、失礼がないように慎重に準備した。
 楽隊が奏でる軽やかな音楽に乗って、会場の中央ではすでに大勢の人々がダンスに興じている。
 そんな様子を眺めているうちに、エリスはだんだん息苦しくなってきた。
 コルセットを締めすぎていたらしい。控室に行って侍女に少し緩めてもらおうと、エリスは叔母に許可をもらい、人々の間を縫って大広間を横断し始めた。
 今日はとても人が多い。主催は国王である上に、春の社交シーズンの幕開けとなる大切な会だ。
 不意に動いた人を避けようとしたエリスは、その代わりに円柱の陰から出てきた人物にぶつかりそうになった。
「おっと」
 素早く相手が身を引いてくれたから助かったが、間近で視線がからみあう。
 その途端、エリスは大きく目を見開いた。
 ──コンラート・ハルシュタット公爵……!
 先ほどは遠かったので顔まではよく見えなかったが、そのきらびやかな衣装から一目瞭然だ。
 無造作に伸びた前髪と、シャープな顎のラインから頬にかけての刀傷が目に飛びこんでくる。
 その傷跡と、鋭いハシバミ色の目を見た瞬間、エリスの記憶は鮮明に呼び起こされた。
「あなた──」
 自分はこの人に、会ったことがある。
 それは、戦争が終わった三か月後のことだ。
 エリスは避難していた大公領から、王都に戻る馬車の中にいた。道は悪く、王都防衛のために道や橋が封鎖されたまま復旧していないところも多かった。王都の城壁をくぐってからも馬車は迂回に迂回を繰り返して、なかなか先へ進まない。
 挙句に渋滞で止まってしまったので、エリスは窓から外を見ていた。
 普段ならエリスが目にする機会もないところ──王都の貧民街のあたりを通りかかっていたようだ。
 建っているのが不思議なほどの、崩れかけた家々。野菜くずや汚泥がたまった路地。こんなところで暮らしていたら病気になるだろう。道端には、襤褸をまとった行き場のない人々がうずくまっていた。
 こんなにも戦争の影響が残っているとは思わなかった。
 戦場から兵士たちはすでに戻ってきている。壊れた建物は急ピッチで再建され、王都は元の賑わいを取り戻しつつある。そのように、大公領にいた家令はエリスに語っていたはずだ。
 どうにか貧しい彼らに救いの手を差し伸べられないのかと心を痛めていたとき、ふと目についた人の姿があった。
 その人はただ路地にたたずんでいる。
 地味だが、しっかり仕立てられた服を身につけていた。遠くて表情までは見定められなかったものの、立ち姿はシルエットまで端正だ。
 そのとき、どこかで怒号が響いた。
 直後に、路地から少年が全速力で飛び出してきて男にぶつかりそうになり、それを避けようとして地面の泥に足を取られて転んだ。転んだ拍子に、少年が抱えていた大きなパンの包みが地面に転がるのが見えた。
 少年から少し遅れて、凶悪な空気をまとった太った男が道に飛び出してきた。
 太った男は転んだ少年に詰め寄り、思いきりぶん殴ろうと腕を振りかざした。
 そこに割りこんだのが、先ほどの男だ。
 男は太った男の腕をつかみ、何やら話しかけながら、自身のポケットを探った。太った男に手渡したのは、おそらくパンの対価か、それ以上の額の硬貨だろう。
 太った男はそれでも納得できないようでぶつくさ言っていたのだが、男はその太った男の肩を何度か叩いて、立ち去らせた。
 それから、地面に転がったままの少年を見て、落ちていたパンの包みを手渡した。さらにズボンからオレンジを取り出し、それも渡す。
 エリスの心を打ったのは、その一連のしぐさをしていたときに、男が少年の目の高さに屈みこんでいたことだ。
 地面は汚水やゴミで汚れている。そんなことをしたら、男の立派な外套の裾やズボンの裾が汚れてしまう。だが、男はそれらをまるで気に留めることなく、少年に話しかけていた。
 目を離せずにいたとき、馬車が動いた。
 近づいたことで、男の服装がよく見え、貴族階級に属するものだと一目で読み取れた。さらに、男の顔も目に飛びこんできた。頬の傷も気になったが、それ以上にエリスの心を一瞬でとらえたのは、男が少年に向かって、元気づけるように柔らかく微笑みかけていたことだ。
 ──それを見て、心臓が止まるような気がしたの。
 アルブレヒト大公の娘であるエリスは、それまで自分の血統と、その家に生まれた者としての矜持を言い聞かされて育った。
 だが、貴族であるはずのその男は、少年と対等に接している。
 自然と刷りこまれていた、自分は特別だという思い──だから、戦争中であっても贅沢な暮らしを続け、心配ごとには関わらず過ごしていてもいいのだという傲慢な思いが、そのとき、エリスの中で打ち砕かれたような気がした。
 貴族たちは戦争に勝利したと浮かれ騒ぎ、誰も被害のことを口にしたがらない。庶民の苦しみなどエリスが気にかけることではないと言われたし、エリス自身にも何かができるとは思っていなかった。
 だが、あの男を見たことで、自分にもできることはあるはずだと思い直した。たとえば、あの子のような子供を助けることとか。
 馬車はその後、すぐに勢いよく走りだした。だから、その男とはそれっきりになったものの、強い印象をエリスに残した。
 エリスは王都のアルブレヒト大公の屋敷に到着してから、現在、庶民がどんな生活を強いられているのかについて調べ始めた。自分に何ができるのかについて、父と何度も話をした。
 父はエリスが慈善活動をする必要はないと言った。社交界デビューも間近なのだから、おまえは結婚のことだけを考えろ、と。
 だが、エリスは折れなかった。粘り強い交渉の結果、養育院に関わることを許された。
 ──そのきっかけとなったのが、この人よ!
 馬車の中から見かけた、見知らぬ貴族。あのときはどこの誰だかわからなかった彼が、目の前にいる。
 エリスは目を見開いて、ハルシュタット公爵をまじまじと見た。
 今のハルシュタット公爵の姿は、あのときとはまるで違っていた。路上にいた男は貴族だとわかる服装ではあったものの、さすがに公爵ほどの地位にある者だとは思っていなかった。
 公爵であるならば、街歩きをするときでもきらびやかな格好をしているはずだし、従者も大勢引き連れていくのが一般的だ。
 だからこそ、よく似た他人かもしれないとも思った。だが、瞼に刻みこまれたあの男と完全に一致している。他人のそら似なら、頬の刀傷まで一致するはずがない。
 ハルシュタット公爵のほうは、エリスの驚き顔を前に首を傾げた。
 悪戯っぽい笑みを、その刀傷のある頬に浮かべる。
「君は、アルブレヒト大公のご令嬢だったかな? 今日の舞踏会でデビューする令嬢の中で、一番の美人だとささやかれていた。それが君だろう?」
 いきなりの歯の浮くようなささやきに、エリスは鼻白んだ。さすがは大勢の女性に囲まれているだけあって、女性を褒めそやす言葉はすんなりと口から出てくるようだ。
 さらに、ハルシュタット公爵はエリスを称賛するように目を細めた。
「太陽の光をたっぷり含んだ黄金の髪に、海の深みを思わせる瞳。その目で見つめられたら、たいていの男は腰砕けになるだろうな」
 エリスの容姿を評価する男性は多い。だが、エリスとしては、その中身のほうこそ評価してもらいたい。
 エリスはハルシュタット公爵の、かつての姿を見ていた。少年の前で屈みこみ、元気づけるように微笑みかけていた姿を。
 あのような行動をした男が、どうして宮廷ではこれほどまでに軽薄にふるまい、女性を侍らせているのだろうか。
 それが、不思議だった。
「あなたを見たことがありますわ、貧民街で」
 いきなり指摘した途端、ハルシュタット公爵の表情が一変した。
 そのハシバミ色の瞳の奥に、警戒したような光が浮かぶ。
 だが、瞬き一つしただけで、ハルシュタット公爵は元のにこやかな表情に戻った。
 ハルシュタット公爵の手が伸びて、エリスを閉じこめようとするように、自分と円柱との間に挟みこむ。軽く腕を伸ばされただけなのに、エリスは動けなくなった。