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黒豹公爵の甘い誤算 遊び人と噂の彼が、純真令嬢に夢中になるまで 2

第二話

 

 ハルシュタット公爵は陽気に話しかけてきた。
「俺を、──どこで見かけたって? 公爵家の当主ともあろう者が、貧民街に足を運ぶなんてことが、あると思うか?」
 ハルシュタット公爵と接するのが初めてだったならば、この男は軽薄な遊び人だと頭から信じこんでいただろう。
 それだけの軽い雰囲気と宮廷の華やかさを、ハルシュタット公爵は見事に身にまとっている。
 王都では、貴族と庶民との生活エリアは物理的に隔たれていた。貴族たちの住むエリアと、庶民たちの住むエリアもまるで重ならない。
 特段の意図がなければ、貧民街にハルシュタット公爵の姿があることはひどく不自然だ。通りかかったなんて言い訳は通用しない。
 だけど、エリスは折れることはしなかった。
 象牙のような白い肌をほのかに上気させながら、ハルシュタット公爵を見返す。少しうるんだように見える大きな目に、揺るぎのない信念を宿す。
「ですけど、見かけましたもの。あなたは黒の地味な服を着ていらしたわ。九か月ほど前のことよ、戦争が終わって、三か月ほどしたころのこと」
 エリスは続けて、彼を見かけた貧民街の、詳しい場所まで口にしてみる。
 ますますくっきりと、あの日の情景が脳裏に浮かびあがった。
「それは俺じゃない。別人だな」
 すぐさま否定されたことで、エリスは意地になる。
「絶対にそうですわ。あのときのあなた、パンを盗んだ少年をかばって、追いかけてきた主人に代金を支払っておられましたの。その後で、オレンジもその子に渡していたわ。立派な行動だと思いました」
「──あのとき、か」
 ハルシュタット公爵はようやく思い当たったらしく、その全身から緊張が消えた。
「君は、それを馬車の中から見ていた?」
 顔をのぞきこまれ、ニヤニヤしながら確認される。
 それでも彼の目の奥に残る警戒感を、エリスは敏感に感じ取った。
 ──どういうことなのかしら……?
 善行をしていたとしても、公爵ともあろう人が供もつれずに貧民街をうろついているのは不自然だと、エリスにはわかる。その上、そのことをハルシュタット公爵は隠そうとしている。
 だが、エリスはずっとあのときの男と再会したいと思っていた。その願いがかなえられたことで、自然と笑顔になっていくのがわかる。
「あのときは、道があちらこちらで封鎖されていて、迂回に迂回を強いられましたの。大公領から王都に戻ってくる途中でしたわ」
「そうか」
「わたくしが感服しましたのは、あなたが助けてあげた少年の前で屈みこんだことですのよ。貴族の男性が、少年の前で屈みこむ姿を、初めて目にしましたから──」
 本人に告げずにはいられなくなるほど、その姿は衝撃的だった。
 貴族たちは庶民など虫けらとしか思っていない。だから、戦争で親を亡くした子供を助けようと働きかけるエリスの慈善行動に驚く。そんなことに気を配らず、もっと楽しいことをしようと誘ってくる。
 だけどエリスは、人々の苦しみを見て見ぬふりはできない。
 ハルシュタット公爵は、ことさらからかうような笑みを浮かべた。
「屈みこんだのは、財布を落としたからだけど」
 その笑顔は魅力的だったが、エリスにはあえて軽薄な印象を与えようとしているように思えてならない。
 エリスはその軽薄さの向こうにある、ハルシュタット公爵の本質を見た。
 その確信とともに、エリスは毅然と見つめ返した。
「財布など落とされていないわ。あなたは、あの子の姿に心を痛めていらした。わたくしはそんなあなたに感服いたしましたの。自分が戦争の間、どれだけ優遇されていたか思い知らされ、微力ながらも力を尽くしたい、と思いましたわ」
 ハルシュタット公爵の、あのときの笑みをもう一度見たい。子供相手に浮かべた、思いやりのある笑みを。
 それさえあれば、エリスはまた力を与えてもらえる。
 慈善活動などバカなことはやめろ──そうエリスの前で言い放った親戚たちの言葉を、一蹴する勇気が持てる。
 ハルシュタット公爵はまたしてもからかうように眉を上げたが、ふと何かに気づいたかのように、視線をエリスの肩の向こうに投げかけた。
 エリスを円柱との間に閉じこめていた腕が外され、その身体が離れていく。
「エリス嬢」
 そのとき、背後から話しかけられた。
 振り返ると、硬い表情で立っていたのは、銀髪の見知らぬ青年だ。
 その横に叔母が付き添っているのに気づいた。
 間髪容れずに、叔母が口を開く。
「こちらはフェルデナンド・モンフォールさまよ。モンフォール侯爵のご子息。あなたも、フェルデナンドさまのご到着を、今か今かと待ちわびていたわね」
 彼がフェルデナンドかと、エリスはあらためて青年を眺めた。
 銀色の髪を持つ端整な男だったが、フェルデナンドと叔母が、すぐ横にいるハルシュタット公爵を完全に無視しているのが気にかかる。
 エリスはハルシュタット公爵と話していた。そこにぶしつけに割りこんできて、挨拶もしないのは礼儀から外れている。
 エリスはちらっと、ハルシュタット公爵を見た。彼はその無礼を咎める様子はなく、にやにやと楽しげな顔をして、エリスたちを見守っている。
 その意図が理解できない。このような扱いをされて、ハルシュタット公爵は腹が立たないのだろうか。
 エリスはフェルデナンドに向き直り、まずは礼儀正しく一礼した。
「フェルデナンドさま。今日の舞踏会のエスコートを申しこんでくださったというご厚意に、まずは感謝いたします」
「あっさり断られましたが」
 フェルデナンドが冗談めかして肩をすくめる。次期侯爵となる彼のエスコートを断る令嬢など、いないのかもしれない。
 その整った鼻梁のごとく、彼の矜持の高さを感じ取る。
 それでも、エリスは信念を曲げたくなくて告げることにした。
「互いの魂が響き合う相手を、慎重に選びたいと思っておりますの。わたくしにとっては、人生の一大事ですから」
「そうですね。まずは僕という人間を、しっかりと見定めてください。僕のほうは、そのような信念を持つあなたに、ますます惹かれるばかりですが」
 そう言って、フェルデナンドはエリスの手首をしっかりとつかんで歩き始めた。
 その力は思いがけないほど強くて、軽く手を引いたぐらいでは振りほどくことができない。もっと力を入れて思いっきり振り払ってもいいのかと迷っている間に、ダンスフロアまで連れ出されてしまった。
 ハルシュタット公爵ともっと話をしたかったのに、と思いながら、エリスは今いたあたりを振り返る。だが、すでに彼の姿は消えていた。大広間の一角から歓声が上がったから、定位置に戻ったのかもしれない。
 ダンスフロアで、あらためてフェルデナンドにダンスを申しこまれた。
「踊っていただけますか、エリス嬢」
 フェルデナンドは結婚相手の候補としてはまあまあ合格だと、父から聞いていた。切れ者で、社交界の評判もいいらしい。これから人柄を確かめたいと言っていた。
 確かにエリスをダンスフロアまで強引に連れ出したフェルデナンドの手口は、鮮やかで無駄がなかった。おかげで、ひどく断りにくい状態になっている。
 だが、その強引さがエリスには引っかかった。
 返事をする前に、無言でフェルデナンドの顔を見つめる。
 浮かべた笑みが、どこか作り物のような気がした。
 そんなふうに思うのは、エリスが心からの笑顔というものを知っているからだろうか。少年を前に極上の笑みを浮かべたハルシュタット公爵と、どうしても比較してしまう。
 じっと動かずにいたエリスの手首をつかみ直して、フェルデナンドは強引にダンスの格好を取った。
「踊っていただけますね?」
 その身勝手さもどうかと思う。もう少し、エリスの意思を尊重してほしい。
 ──でも、……まぁいいわ。踊れば彼がどんな人間だか、わかるでしょうし。
 それに誰とも一曲も踊らないまま、舞踏会を終えるのは残念でもあった。
「でしたら──」
 フェルデナンドの手に、エリスは礼儀正しく手を重ね直した。
 ダンスフロア付近の壁や天井には鏡が多用されている。きらめくクリスタルのシャンデリアが、床にレース模様のような複雑な影を描き出していた。
 その鏡に映りこんだ自分とフェルデナンドの姿をチラッと眺めてから、エリスは彼と曲に合わせて踊り始める。
 フェルデナンドは踊り慣れているらしく、ダンスの輪に交ざるのも上手だ。
 エリスもダンスの練習を重ねていたから、どうにか間違えずにステップを踏むことができる。
 しばらく踊ることに集中した後で、フェルデナンドがふと思い出したかのように口を開いた。
「さきほど、ハルシュタット公爵につかまっておられましたが」
 灰色の焦点がつかみにくい目が、じっとエリスをとらえている。
 エリスにとっては、絶好の機会と言えた。ハルシュタット公爵の謎の行動──本当は誠実な人かもしれないのに、社交界では軽薄にふるまっている彼の行動の理由が何なのか、そのヒントが欲しい。
「ハルシュタット公爵は、社交界ではあまりよろしい噂がありませんの?」
 すると、我が意を得たり、とばかりに、フェルデナンドがうなずいた。
「あの男には、くれぐれも気をつけてください。舞踏会ごとに新しい女性に声をかけ、その翌日にはその名すら忘れているような軽薄な男です。あなたのような純粋な女性が、彼の戯れの標的になるなんて、あってはなりませんから」
「あら」
「ハルシュタット公爵がどれだけ大勢の女性を泣かせてきたのか、僕は逐一あなたに説明するつもりはありません。ですが、あなたが泣く姿だけは見たくない。そもそも彼と親しいという噂が立つだけで、あなたの名に傷がつくことをお忘れなく」
 ──そこまでの悪評なの?
 エリスは踊りながら、思わず笑ってしまいそうになる。そのとき、フェルデナンドの手が伸びて、エリスの腰を慣れ慣れしく引き寄せた。それだけで、エリスの背筋にはぞわっと鳥肌が立つ。
 思わず足を止めると、耳元で内緒話のようにささやかれた。
「あのような男に、あなたの価値が理解できるはずがない。あいつは、女心をもてあそぶだけの道楽者。あなたには、僕のような誠実な男がふさわしいと思いますよ」
 ──あら? 自分で誠実とか、言っちゃうわけ?
 心の中で突っこみながら、エリスはターンをしてフェルデナンドの腕から逃れた。
 初めてこの舞踏会でハルシュタット公爵の姿を見たならば、フェルデナンドや叔母の言葉を信じこみ、決してあの男には近づくまいと心に決めていただろう。
 ──だけど、わたくしは貧民街でのあのかたを見ているの。
 エリスに衝撃を与え、何かしなくては、と慈善活動へ向かわせるきっかけとなった姿を。
 ハルシュタット公爵のことをもっと知りたいと思うのは、そこまでいけないことなのだろうか。

 

 それから、一週間が経った。
 その間、エリスは舞踏会や夜会、サロンや晩餐会などに忙しく参加して、慈善活動の資金集めも行う。
 それなりに男性と話をする機会はあったのだが、やはり魂が響き合うような相手との出会いはないままだ。いつしか、ハルシュタット公爵のことが頭から離れなくなった自分に気づいている。
 だが、彼とは会う機会はなかった。
 その日は朝から、王都とその近くにある養育院を回ることにしていた。
 戦争が終わり、孤児たちを受け入れる母体となったのは教会や修道院だった。だが、そこは資金的に十分とは言いがたい状況だったので、エリスは父と何度も相談し、養育院に援助を行うことにした。
 アルブレヒト大公家としてだけではなく、さらに父を介して、王都に屋敷をかまえる貴族たちから、少なからぬ額の寄付金も集めている。
 その資金がつつがなく孤児たちに使われているかどうか、定期的にチェックする役割があった。
 運営は教会や修道院に任せてある。
 だが、子供たちにとっての居心地はどうか、食べ物はちゃんとしたものが提供されているか。衣類や寝床の清潔さは保たれているか。
 まずは、それらの基本的な部分が満たされているのかどうかを確認する。今後は必要な教育を受けさせて、自立まで結びつけたい。
 そんな思いを胸に抱えながら、エリスは寄付をした養育院を視察した。
 まずは院長から話を聞き、シスターに先導されて、孤児たちが生活している部屋を回っていく。
 養育院は問題なく運営されているように見えた。
 だが、まだ戦争が終わったばかりだ。監視の目を緩めたら、大人たちに運営資金をくすねられ、孤児たちは劣悪な状況に置かれかねない。
 ──ですから、わたくしがちゃんとしないと!
 まだ若いエリスだが、責任感は強い。
 この事業に関わるようになって、一年も経っていない世間知らずだという自覚もある。
 だが、この活動を通じて世の中の裏側を少しはのぞけたような気がした。かつて養育院にいたという侍女が、養育院めぐりの際のポイントも教えてくれたからだ。
 大スポンサーであるアルブレヒト大公の娘が来る前には、養育院側ではまず徹底的に大掃除がされる。まずい部分を隠して、表面だけを取り繕うかもしれない。
 だから、たまに抜き打ちで訪問すること。運営側の話だけを鵜呑みにするのではなく、直接、子供たちの面倒を見ている修道女や、孤児からも話を聞くこと。
 抜き打ちで、子供たちと同じ食事をさせてもらうこと。
 そんな助言によって、びっくりするような体験をすることもあった。だがその結果、だいぶ状況は改善されたと思う。
 今ではわりといい感じに、運営されているように思える。
 満足しながら二軒目の養育院の視察を終えようとしたとき、エリスは門の外まで見送りに出た院長から尋ねられた。
「これから、どちらに?」
「聖オーガスティン養育院に向かおうと思っておりますの。しばらく、行けておりませんでしたので」
 王都だけでも三つの養育院があり、王都以外にある町の養育院にも、大公家は金を出している。
 だが、さすがにそこまではチェックしきれないので、エリスが直接視察するのは、王都にある三か所だけだ。他の町の養育院は、信頼できる代理のものに定期的な訪問を依頼してあった。
 時間があったならば、今日は三軒とも養育院回りをしようと思っていた。抜き打ちで訪ねるつもりだったので、あえて連絡はしていない。
 だが、聖オーガスティン養育院の名を出した途端、院長の目が大きく見開かれた。
「そういえばあのあたりで、……昨夜、大きな出火があったと聞いておりますよ」
「出火、ですか?」
「聖オーガスティン養育院に災いが及んだかどうかまでは、詳しい情報は届いておりません。行かれるのでしたら、どうぞお気をつけて」
「ありがとうございます」
 出火と聞いて、エリスは穏やかではいられない。
 すぐさま馬車に乗りこみ、聖オーガスティン養育院まで急ぐように御者に伝えた。
 今日のエリスはお供として侍女を一人と、他に御者と護衛騎士四騎を従えている。
 養育院側が萎縮することがないように、できるだけ人数を絞っているのだが、聖オーガスティン養育院は王都の城壁のすぐ外側にあった。
 王都から外に出た場合には強盗に遭遇する危険性もあるので、これでも最低限だ。
 馬に乗った護衛騎士たちに馬車の前後を護衛され、エリスの乗った馬車は王都の一番外側の城門を抜けた。
 城門に沿ってしばらく走ると、川を見下ろす丘にある聖オーガスティン養育院が見えてくる。元修道院だった、灰色の石壁を持つ建物だ。
 だが、近づくにつれてその石壁が真っ黒に焼け落ち、尖塔の屋根が崩れ落ちているのが確認できた。
「え」
 エリスは言葉を失う。
 まさに火事があったのは、聖オーガスティン養育院だったらしい。かなり出火したのが見てとれる。住んでいた人々は無事だろうか。大公邸に知らせがなかったのは、昨日の今日だったからか。
 馬車はその建物の前で止まった。エリスは慌てて馬車のドアを自ら開いて、周囲を見回す。
 焼け落ちた門のあたりには、まるで人の気配がなかった。
「子供たちは、どこかに避難しているのかしら」
 エリスは足台が準備されるなり、灰や煤などで白黒に染まった地面に降りる。自分を幼いころから護衛してきた老騎士アランに顔を向けた。
 アランは王都のことならなんでも知っている、父の信頼も厚い護衛騎士だ。
「王都内に、聖オーガスティン教会がございますから。避難するとしたら、そちらでしょう」
 すでに火は完全に消えているようだが、火事場特有の臭いが周囲に立ちこめている。
 人の姿がまったく見えないのが、何だかとても不吉でもあった。いつもならエリスが到着すると、子供たちがはしゃぎながら出迎えてくれるはずだ。
 エリスは焼け落ちた門の前に立って、敷地内を見回した。
 石と煉瓦でできた建物だが、木材も多く使われていたから損傷は大きいようだ。壁の一部はそのまま残っているものの、天井などは完全に焼け落ちている。
 建物があったところは灰や燃えたもので覆われていて危険だったから、エリスは中に入るのは断念して、外側から回りこむ形で、壁沿いに奥へ向かった。
 窓から食事室の中をのぞいてみたが、皆と仲良く食事を取った長テーブルや椅子は灰と化している。食器棚も焼けて傾き、壁は一部しか残っていない。
 さらに進むと、子供たちが暮らしていた寝室の藁のベッドも全て灰となっているのが見てとれた。壁が真っ黒に煤けていることから、子供たちを襲った業火がどれだけすごかったのか、想像できる。
 エリスは自分の後ろにいたアランに話しかけた。
「やはり、ここにいた子供たちや、修道女のことが気になるわ。無事を確かめることはできないかしら」
「近隣に、聞きこみにまいりましょうか」
 近隣といっても、この建物は丘の上に独立して建っている。畑をしたり、家畜を飼ったりして、自給自足のようなことを行っていた。
 城壁からそう遠くはないものの、近隣に他の建物はない。一番近いところでも、一つ向こうの丘だろう。
 だが、いてもたってもいられなくて、エリスは頼んだ。
「お願い!」
 これほどまでの火事なら、近隣の人々も駆けつけているはずだ。情報が欲しい。
 ここには六度ほど訪問して、子供たちとも仲良くなっていた。いきなり住むところや生活の糧を失ってしまったのならば、その援助もするように父に頼まなければならない。
「わかりました。エリスさまはこちらに」
 アランがもう一人の騎士と侍女を引き連れて、馬で丘の向こうまで駆けていく。侍女が同行したのは、彼女もいてもたってもいられなかったからだろう。
 それを見送った後で、エリスはさらに焼け跡をうろついた。
 どこを見ても、火の勢いがとても強かったのがわかる。そこまで燃えるものが、この建物にあっただろうか。
 そんなふうに思ったとき、エリスは焼き焦げた壁が重なる向こうに、何やら動く影を見つけた。
 自然と目で追う。片付けのためにやってきた近隣の人だろうか。だとしたら話しかけて、ここにいた子供や修道女たちが無事なのか聞いておきたい。
 そう思ってその人を追ってみれば、焼け焦げた建物の陰から木々の中へと移動したのがわかる。
 ──あら?
 こちらを警戒しているのだろうか。
 エリスがさらに追うと、その人物は木々の間を通って城壁まで移動した後で、吸いこまれたかのように姿を消した。
 そこに門はないはずだ。不審に思うと何事も確かめずにいられない性質だったから、エリスは小走りで城壁に近づき、その人が消えた理由を、ようやく理解した。
 ──城壁に、穴が空いているんだわ……!
 城壁が一部崩れて、人一人くぐれるほどの穴が空いている。
 その穴がどこに通じているのか知りたくなって、エリスはドレスの裾をたくし上げ、その穴をくぐった。
 そこは城壁の内側だ。ごみごみとした大小さまざまな建物が、城壁に寄り添うように建ち並んでいる。
 ──さっきの人は、どこに行ったの?
 左右を見回す。黒っぽい服装をした、背の高い男性だったはずだ。
 すると、それらしき男が路地の向こうにちらっと見えたような気がした。慌てて、エリスはその方向へ足を速めた。
 道はひどく狭く、他人の家の敷地内だと思われるようなプライベートなスペースまで通り抜けることになった。そのことに居心地の悪さを感じて、エリスは小走りになる。
 今日は養育院を回る日だから、地味で質素な服装をしていた。子供たちと遊びやすい服装でもある。それでも布地は厚手のしっかりとしたものだったし、帽子もかぶっている。服の仕立てからも、エリスがこの界隈にふさわしくない令嬢だということは、一目でわかることだろう。
 路地からまた見晴らしのいい道に出て、きょろきょろと左右を見回していると、エリスは不意に腕をつかまれて、路地に引きずりこまれた。
 そのいきなりの行為に凍りついていると、すぐそばに突きつけられた顔がハルシュタット公爵のものであったことに、さらに驚く。
 ──どういう、……ことですの!
 瞬きをして、まじまじと相手を眺める。
 ハルシュタット公爵のほうも、自分をつけていたのがエリスだとは思わなかったらしい。すぐに腕を離してくれたが、向かい合う形で不審そうに顔をのぞきこんでくる。
「なぜ、君が──」
「それは、わたくしの質問ですわ!」
 エリスは毅然とした表情で彼を見上げた。