黒豹公爵の甘い誤算 遊び人と噂の彼が、純真令嬢に夢中になるまで 3
やはり九か月前に貧民街で見かけたあの人は、ハルシュタット公爵だと確信した。あのとき見たのと同じような、黒の地味な衣服を身につけている。
ハルシュタット公爵は軽く肩をすくめて、エリスから少し離れた。圧迫感が消えてエリスはホッとしたが、路地は汚水やゴミで埋めつくされている。すぐそばに汚水の水たまりがあったから、足を動かすこともかなわない。
「俺を追う者に気づいたから、その正体を暴こうとしただけだ。君こそ、何をしていた?」
ハルシュタット公爵の表情は厳しい。先日舞踏会で見かけたときの、軽薄な遊び人の雰囲気はない。
そのことに、むしろエリスは喜びを覚えた。
けれどまずは自分にかけられた疑いを払拭するのが先だと、表情を引きしめる。
「わたくしは、あなたがいらしたあの建物──聖オーガスティン養育院に、寄付を行っておりますの。そこで火事があったと聞いて、慌てて駆けつけてきたところですわ。子供たちや修道女たちがどうなったか、ご存知ありません?」
修道女が十二名、孤児が三十人ほどいたはずだ。
エリスの訴えを聞いて、ハルシュタット公爵は表情を曇らせた。
「皆、死んだと聞いた。朝から遺体を運び出し、養育院の母体である教会に移動させたようだ。君が来たのは、最後の馬車が出た後だな」
──皆、死んだ、……ですって。
エリスは顔から血の気がすうっと引いていくのを感じた。
ひどい火事ではあったようだが、さすがに全員が命を落とすなんてことがあるだろうか。一人ひとりの顔や名前が浮かぶ。その人たちがもういないのだと思うと、呼吸が浅くなる。
「だけど、……そんな……。誰一人として逃げられなかったなんて、そんなこと……」
「養育院の正面と裏口のドアが、釘で打ちつけられて、開かなくなっていたそうだ」
「──っ……!」
悲鳴に似た声が、エリスの喉から漏れた。
修道女たちは気丈なタイプが多く、率先して動く人ばかりだった。子供たちも少しひねくれてはいたものの可愛くて、エリスは養育院に来るたびに彼らの将来を明るいものにしたいと張り切っていた。
目の前が一瞬暗くなる。立っているのがやっとだ。
「誰が、……そのようなことを」
どうにか声を押し出すと、ハルシュタット公爵の短い返答が聞こえた。
「今、調査中だ」
そこで、エリスはハッと我に返った。
聖オーガスティン養育院に寄付をしていた自分は、いわば関係者だ。だが、ハルシュタット公爵はどうしてこの件を知っているのだろうか。
自分よりも事態に詳しいのが、納得できない。
「どうして、あなたはいち早く駆けつけたのですか? ドアが開かず、大勢が命を落とした事故の現場に、どうして無関係なあなたが関わっておられますの?」
どうしてもそれが引っかかる。
エリスの追及に、ハルシュタット公爵はなんでもなさそうに答えた。
「君と同じように、火事だと聞いて駆けつけたところだ」
「どこで? 誰からですの」
「君の追及は手厳しいな」
ハルシュタット公爵は苦笑いした。
その表情にはどこか愛嬌があって、毒気が抜かれる。
そんなエリスにつけこむように、彼は続けた。
「他の町では、かつて養育院にいた子供などが、虐待された復讐のために放火するケースがあったと聞いている。だが、聖オーガスティン養育院の場合は当てはまらないようだ。あそこはいい養育院だったから」
「そうよ。とてもいい養育院だったわ」
思い出すと涙があふれそうになるから、エリスは気持ちを引きしめた。
「あなたは、どこまで何を知っていらっしゃるの?」
「俺も、一応は大公の募金に協力しているんだが。その金が無事に運用されているのかを確かめに、一度、視察に来たことがある」
そんなふうに言われて、エリスは慌てた。
確かに、ハルシュタット公爵家も募金を寄せてくれたはずだ。数多くの貴族から募金を集めていたために、そのあたりを失念していた。
「そ、そうですわね。いつも、大変お世話になっております」
深々と頭を下げたが、ハルシュタット公爵は気にした様子も見せず、軽く肩をすくめただけだった。
「だが、こうなってしまったからには、あそこで何かがあったんだろうと疑わざるを得ないな。養育院の中にいたのは、修道女と子供たちだけだろう? 彼らを皆殺しにする意味が、どうしても理解できないのだが」
「郊外では強盗も相次いでいると聞きますけど、運営費は教会母体に渡っていますから、あそこにまとまったお金はないはず」
そこまでの悪意に養育院が晒される理由が、エリスにもまるでわからない。
「内部の様子はどうだった? 君はそこにどれくらい──」
「六回、訪ねました。修道女たちは子供たちに適切に接しておりましたし、子供たちは人懐っこくて、とても可愛らしかった……」
声が震えそうになって、エリスは言葉を切る。
中でも、特にエリスに懐いていた子供がいたことを思い出した。
彼らはもういないのだと思うと、胸がジンと痛む。苦しみなく、天に召されただろうか。祈る形にぎゅっと指を組み合わせて、エリスは涙をこぼさないように少し上を向いた。
「中でも、一人、とても可愛らしい子がおりましたのよ。わたくしの膝に座るのがとても大好きな、黄金の目をした子供で……」
「黄金の目……?」
ハルシュタット公爵がつぶやく。
エリスは崩れかけた家々の遠くに視線を向けた。あの子も死んだのだろう。
現実感のないまま、エリスは続けた。
「キラキラと澄んだ、とても綺麗な目の色よ。利発な子でね。人目を忍んで、わたくしと話をしたがるの」
「黄金の目は、この国の王族に特有なものだ。英雄の証だという話もある。その子は、王族と関わりのある子供なのか?」
「え?」
思いがけない切り返しに、エリスは戸惑った。
「知りませんわ」
「知らないのか? 大公の娘が? 英雄の話は知っているだろう」
「ええ。もちろん」
エリスはかつて聞いた、この国の英雄話を思い出す。
鉄心の王と呼ばれたアルフレッド王や、星冠の女王と呼ばれたセリーナ女王。彼らは鋭い頭脳と、不屈の闘志で国を救った。
「王輝の間に、代々の王や女王の肖像画が飾ってあるだろ。その目から、まっすぐに線が引かれているのは知っているか?」
「え? ……ええ。そう。言われてみれば、そうですわ」
王族にゆかりのある子供は、幼いころに王輝の間に連れていかれて、代々の王や女王の話を聞かされる。
だがそのときに、王や女王の黄金の目についての言及はなかったはずだ。それでも、そう言われれば、肖像画の目の表現を不思議に思ったことを思い出す。
まっすぐ、目から線が引かれていた。
「あれは、黄金の目から放たれる眼力の表現でしたの……!」
今さらながらの発見に驚いていると、ハルシュタット公爵はうなずいた。
「だとすれば、黄金の目の子供が気になるな。その子は孤児か? 生まれや育ちなどについて聞いたか?」
エリスは記憶をたどってみた。
「そこまで話はしておりませんでしたわ。わたくしたち、これから仲良くなる予定でしたの。先日は、川で魚が釣れたときの話をしてくれましたわ。両手をいっぱいに広げて、すごく大きな魚が釣れたってニコニコでしたけど、後で修道女に聞いたら、てのひらに入るぐらいの大きさだったらしくて」
思い出すだけで、胸がきゅうっと痛くなる。
その子や修道女たちはもういないと思うと、喪失感に言葉が途切れた。
「……っ」
必死で泣くのを我慢していると、ハルシュタット公爵がハンカチを差し出した。
清潔なシルクの、縁に刺繍を施した品だ。女性が感情的になった場合には、男性がハンカチを差し出すことは礼儀だ。
エリスはそれを受け取り、あふれだした涙を拭った。冷静に話がしたいのに、今はどうしても悲しみを抑えきれない。
王族に特有の目の色だと聞いて、あの黄金の目の子供──ギルバートのことが、今さらながらに気にかかってきた。
「ギルバートは、わたくしと二人きりで話をしたがっておりましたの。親を失った子供は、そんな傾向がありますから。特に不思議だとは、思っておりませんでしたけど」
もしかして彼は自分に、大切な話をしたかったのだろうか。
ギルバートは色素が薄かった。
黄金の目に、淡い銀色の髪。色が抜けるように白くて、細くてまだまだ頼りない、四歳の子供だった。
──あの子たちを、……誰かが殺した……。
大勢の子供が殺された。ようやく保護されて、食事をお腹いっぱい食べられるようになったり、清潔なベッドで眠れるようになった子供もいた。
これからあの子供たちに、もっといろいろなことをしてあげたいと思っていた。
またじわじわと涙がこみあげてきて、エリスはハルシュタット公爵から渡されたハンカチを目元に押し当てた。とてもいい匂いがする。
「聖オーガスティン教会に行きますわ。あの子たちが魂の安らぎを得られるように、十分な葬儀を挙げていただかなくては」
だが、こんなことになる前に、どうして阻止できなかったのだろう。
そのとき、ハルシュタット公爵が言った。
「あの養育院に黄金の目の子供がいるという話を、誰かにしたことはあるか?」
「どういうことですの?」
「たとえば……フェルデナンドは、その情報を知っているか?」
どうしてここでフェルデナンドの名が出てくるのかと、エリスは不思議に思った。
「いえ。フェルデナンド・モンフォールさまに、そのような話をしたことはございませんわ。そもそも顔を合わせたのは、この前の舞踏会が初めてでしたし」
「そうか」
「──エリスさま!」
そのとき、アランの声が遠くから聞こえてきた。相当焦っている声だ。
自分が聖オーガスティン養育院の焼け跡からかなり遠いところまで移動してしまったことに、エリスは気づく。
アランは戻ってきてもエリスがいなかったので、ここまで探しに来たのだろう。
善良な老護衛騎士を、心配させてはならない。
「ここよ!」
エリスは声を張り上げた。そんなエリスから離れるときに、ハルシュタット公爵が言い残した。
「フェルデナンドには気をつけろ」
「え?」
「あの男に渡す情報には、注意しろ。今回の養育院の件や、金色の目の子供について、これからも一切話すな。何も気づいていないふりをしろ。君はこの件に深入りするな。探るな」
立て続けにまくし立てると、ハルシュタット公爵は狭い路地の向こうへあっという間に走り去ってしまった。
それと入れ替わるように、焦った様子のアランが通りに姿を現す。
エリスを見つけて、あからさまにホッとした顔をした。
「エリスさま! 護衛もつけずに、このようなところをうろつくのは危険でございます」
「そうね。ごめんなさい」
エリスは詫びてから、あらためて周囲を見回した。
このあたりは、もっとも貧しい貧民街だろう。
木と泥で作られた家々は傾き、屋根は藁や腐った板で覆われている。路地はゴミで埋まり、異臭が鼻をつく。
さきほどは謎の人物の後を追うのに必死だったものの、いつもの状態だったら、一人で踏みこむことはしない。
「戻りましょう」
エリスはそう伝えて、アランと元来た道を引き返す。
自分はともかく、ハルシュタット公爵という身分も財産もある男が、どうしてこのようなところを単身でうろつくのかやはり不可解でたまらない。
──それに、あの注意は何? この件に深入りするなって……。
火事のことを聞いて駆けつけたにしては、情報が早すぎる。しかも、抜け穴のことも知っていたのだ。
それでも、ハルシュタット公爵に悪い印象を抱けないのは、あの第一印象のためだ。
パンを盗んだ子供と目線を合わせ、柔らかく微笑んでいた。
そんなハルシュタット公爵が、どうしても悪人とは思えないのだ。
◇ ◇ ◇
馬車に戻るまでの間に、アランは近隣から聞きこんできた情報をエリスに話してくれた。
やはり聖オーガスティン養育院に住んでいた全員が焼死した、というのは本当らしい。ドアが釘で打ちつけられていた、という恐ろしい事実も。
すでにハルシュタット公爵から同じことを知らされていたものの、エリスはどうしてもショックを抑えきれない。
エリスはそのまま、養育院の母体である聖オーガスティン教会に馬車を向けた。それから、葬儀が行われる二日後にも足を運ぶ。
荘厳かつ悲しみに満ちた葬儀だった。大勢の葬儀だというのに、参列者が驚くほど少ないのも悲しい。
エリスは教会の椅子に座って涙を流しながら、この悲劇を引き起こした犯人を必ず突き止めることを心に誓う。
──だって、許せないもの。
親を戦争で失った子供たちが、未来を奪われたことが。
泣き腫らしてアルブレヒト大公邸に戻ったエリスをさらに驚かせたのは、父が体調を崩して屋敷に戻り、すぐさま医師が呼ばれた、という情報だった。
慌てて、父の私室に向かう。
居間に父の姿はなかったので、その奥にある寝室まで躊躇なく踏みこんだ。
「お父様! お加減は……?」
エリスは幼いころに母を亡くしている。父はそのために、自分自身やエリスや兄の健康をとても気にする癖がついた。その影響もあって、エリスもやたらと家族の体調が気になる。
父はベッドで、ゆったりと胸の上で両手の指を組んで横たわっていた。
天蓋付きのベッドはひどく大きく、当主の権勢を示すものだ。柱には隙間なく彫刻が施され、天蓋布には金襴が使われている。
エリスはその大きなベッドの脇に屈みこんだ。
アルブレヒト大公の顔色は、心持ち青ざめているようだ。だが、呼吸はしっかりとしており、エリスに心配されて、どこか嬉しそうにさえ見えた。
アルブレヒト大公は片目だけ開けてエリスを確認し、大仰に目を閉じてみせた。
「私は大丈夫だ。少し良くないものを飲んで、目がくらんだだけ」
「良くないものって、どういうものですの?」
エリスはベッドサイドから手を伸ばして、父の手を引き寄せ、両手で包みこんだ。分厚く大きなてのひらの感触に、胸が詰まる。父は母を亡くして泣いていたエリスの手を、よくこうして両手で握って慰めてくれた。
父をも失うようなことがあったら、自分はこの先、悲しさでどうにかなってしまうかもしれない。
じわりと涙まであふれたのは、聖オーガスティン養育院のことを思い出して、ナイーブになっていたからだ。
大公はそんなエリスの涙に慌てたようだ。
まずは寝室にいた侍従に合図をして、出ていくように命じる。人がいなくなったのを確認した後で、おもむろに口を開いた。
「今夜は城での晩餐会だった。だが、乾杯の直後に、血相を変えたハルシュタット公爵が近づいてきて、私の手からグラスを叩き落した」
「ハルシュタット公爵が?」
なぜここで彼の名が出てくるのかと、エリスは慌てる。最近では、エリスの夢にまで出てくるほどだ。
「私も、口にしたワインが良くないものだと一口で気づいていた。舌が触れた途端に痺れたからな」
「大丈夫ですの?」
父が毒を盛られたらしいと知って、エリスは慌てる。
だが、大公の口調はしっかりとしたものだった。
「ハルシュタット公爵とその後、二人きりで話をしたよ。私の手からグラスを叩き落したのは、給仕の袖から白い粉が散っているのを見つけたためだ、と。すぐさまその給仕をとっつかまえ、物陰で詰問している間に乾杯となった。おそらく、毒を盛られたのは私だと推測して、グラスを叩き落したそうだよ。普段はうすぼんやりとした男なのに、あんなときだけ、やりおる」
「そう……ですわね」
やはり、ハルシュタット公爵の正体が気になる。
宮廷では女性に囲まれて、軽薄な遊び人を装っているくせに、何気ない観察力や、いざというときの行動力に長けすぎてはいないか。
──さすがは『黒豹』ってところ?
「ハルシュタット公爵は私を晩餐会の場から連れ出すなり、水差しの水で早く口をゆすげと言ってきた。さらに、毒を中和するという水薬まで差し出した。その薬を飲むかどうかについては、躊躇したがな」
「……それが毒である可能性だって、ありますものね」
エリスは父の懸念に思い当たって、小さくうなずいた。
宮廷では変事が相次いでいるという。
エリスが知っているだけでも、一か月前に王城の庭で侍従が殺された事件があった。その少し前には、伯爵が王城内で毒殺されたと騒ぎになっていた。
「ハルシュタット公爵の水薬は、飲みましたの?」
「飲んだ。おかげで今、ピンピンしておる」
「お父様に毒を飲ませるように、給仕に命じた犯人は、おわかりになりましたの?」
「いや。ハルシュタット公爵がとらえた給仕は王城の警護に引き渡され、今、尋問されている最中だ。わかったら、すぐに伝えてもらう手はずになっておる」
「怖い、ですわね」
エリスは震えた。
戦争中に、国王は政務への関心を失ったそうだ。
十年も戦争を終わらせることができなかった失望感に加えて、世継ぎの王太子を戦死させた落胆が大きかった、と父から聞いている。
王太子の代わりに第一王位継承者となったのは、国王の弟であり、エリスの父であるアルブレヒト大公だ。国王が放り出した政務の多くを今は担う形となり、その対応でおおわらわだ。
王城内で不満をくすぶらせているのは、王太子を輩出した母系の一派らしい。王太子が王位を継げば、この先の繁栄は約束されたようなものだ。だが、王太子が戦死したことによって、利権は全てアルブレヒト大公に奪われた。
そんなふうに思いこんでいるらしい。
父は公正な人物であり、自分の血縁ばかり優遇することはないはずだが。
それと、今回の毒殺未遂は関係しているのだろうか。
父はエリスを心配させまいとしているのか、そんな事情さえ詳しく語ろうとはしない。エリスが知っているのは、王城内で噂されている政情ぐらいだ。
「ともあれ、ご無事でよかったわ、お父様。今日と明日、できれば数日、お休みになられたほうがよろしいわ。このところお忙しくて、ゆっくりお身体をお休めになる暇もなかったようですから」
ベッドサイドにひざまずいたエリスを、アルブレヒト大公は愛しげに抱き寄せた。
「そうだな。おまえが一緒にいてくれるのなら、のんびりしよう。──おまえはますます、グレースに似てくるな」
父の部屋には、若いころの母の肖像画がずっとかけられている。
エリスはふと、父に聞きたいことがあったことを思い出した。
「そういえば、お父様。王族には時折、黄金の目をした子供が生まれると聞きましたけど、本当ですか?」
半信半疑で尋ねたのだが、大公はごく当然のことのようにうなずいた。
「ああ。黄金の目をした英雄が国を救う──そんな言い伝えが、古よりある」
「鉄心のアルフレッド王や、星冠の女王も、黄金の目の持ち主でしたの?」
「そうだ。知らなかったのか?」
「誰もわたくしには、説明してくださいませんでした。お父様たちにとっては、当たり前のことすぎたのかしら。──最近、黄金の目をした王族の子供はいらっしゃいました? その子が……行方不明になったという話とか、ございません?」
黄金色の目が王族特有のものだとしたら、聖オーガスティン養育院にいたギルバートは王族の血を継いでいる可能性がある。
そんなふうに思ったのだが、大公は愉快そうに笑い飛ばした。
「いや。さすがに戦争中であっても、王族が行方不明になることはない。もしそうなったら、大事件だ」
「そう……ですわよね」
エリスはうなずいた。
大公領にいれば、戦争のことは何も考えないでいられた。王族が戦争の被害を直接受けることは、まずないのだ。
──王太子さまのことは、不幸な事故でしたけど。
若すぎるあまりに、周囲が止めるのも聞かずに前線に出て戦った日があったという。流れ弾が、たまたまその眼球を射貫いた。
だが、それは例外中の例外で、戦争で被害を受けるのは一番弱い人々だ。
兵士や労働力として駆り出された庶民や、それによって親を失った子供。
死んでしまった養育院の子供たちのことを思い出すと、胸が締めつけられる。
「お父様。……王位を継ぐことになっても、絶対に戦争だけはやめてくださいませ」
父の手を握りながら、エリスは心からそう願う。
父はうなずいて、愛しげにエリスの髪を撫でてくれた。
舞踏会や園遊会、晩餐会に参加したときには、エリスは必ずハルシュタット公爵がいるかどうかを目で探してしまう。その姿がないと、ホッとしたような、がっかりしたような不思議な気持ちになる。
聖オーガスティン養育院の件があってから、三週間が経った。
その間、ハルシュタット公爵と顔を合わせることはなかった。だが、今日は目的があった。だからこそ、あえて彼が出席しそうな大規模な舞踏会に足を運んだのだ。
それは王城で開かれる大舞踏会であり、王妃主催のものだ。親しい国の使節が一堂に集い、同盟強化を目的として開催された。
楽団が優雅な音楽を奏でる中、開場から少し遅れて登場したエリスは、階段を下りながら広い会場中を見回した。壁際を集中して眺めていくと、前回のように椅子が置かれた会場の端に、ハルシュタット公爵の一団が陣取っているのを見つける。
──いらしたわ……!
エリスは少し緊張する。
それでもどこにも寄らずに、その一団のいる場所をまっすぐ目指した。
ハルシュタット公爵は前回とは違っていたものの、やはり豪華絢爛な衣装を身につけ、女性に囲まれてご機嫌な姿に見えた。
社交界経験の浅い令嬢ならまず近づかない不埒な一角だが、エリスは躊躇することなく、ソファに自堕落な格好で寝そべっているハルシュタット公爵の前に立った。それから一瞬だけ息を呑んで、満面の笑みで挨拶してみる。
「ご機嫌いかが?」
女性の膝を枕にしていちゃついていたハルシュタット公爵は、ぎょっとしたように上体を起こした。
だが、すぐに愛嬌のある笑みを浮かべて、エリスを見上げる。
「俺の機嫌は悪くないが、──どうした?」
「どうした、ですって?」
エリスは戸惑った。
ハルシュタット公爵は、また女性の膝に頭を戻しながらにやにやと笑った。失礼な態度ではあるのだが、その姿がいいだけに、目が離せなくなるのが悔しい。
「君のような若い令嬢が、自分から話しかける相手ではないってことだよ。俺なんかと話したら、君まで色眼鏡で見られてしまうぞ」
遠くにいけ、というように、ハルシュタット公爵は手を動かした。犬を追い払うようなしぐさが失礼すぎたのだが、エリスはいまだかつてそんなふうに人から接せられたことがないだけに、むしろ愉快な気持ちになった。
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