もうすぐ死ぬんですが、夫ができました 余命わずかな元聖女は過保護な騎士の愛に溺れそうです 1
寝室には熱が満ちていた。炎に炙られたかのごとく身体には汗が滲み、ただ触れられただけで肌がざわめいてしまう。
「んあぁ……っ!」
唇が肌を滑り、戯れのように痕を残していく。数日で消えるはずのそれが身体から消えたことはない。痛みにも似た刺激を伴うその口づけが、フィオナは好きだった。消える傷は尽きぬ疼きを生み出す愛の証。
「ひぃっ、やっ、んぁぁっ」
強い刺激を受け止めようと、必死に敷布を握りしめる。
フィオナは今、愛する人を全身で受け入れ、喘がされていた。背後からたくましい分身を埋め込まれ、熱と共に愛を注がれ続ける。それは忘我の幸福であった。
(熱い)
身体がどこもかしこも熱くてたまらない。火傷しそうなほどの熱を感じながら、フィオナは快感に揺さぶられ続ける。
熱は人の命そのものだ。それを分け合う時に生まれるのが快感なのだと知ったから、感じる自分にもう躊躇いはなかった。
教えてくれたのが愛する人だというのが、さらに優しく戸惑いを拭ってくれたのだろう。
この場所で行われることは誰にも内緒。
ふたりだけの秘密。
だから何もかもを晒し、認め、受け入れられるのだ。
それでも強すぎる快感から身体が反射的に逃げそうになるのはどうしようもない。熱いものに触れた時、咄嗟に手を離してしまうように。
「あぁぁぁんっ!」
けれどそんな臆病な腰をぐっとつかまれ、より一層強くねじ込まれる。
「あっあっ、ひぃんっ」
深々と刺し貫かれたまま激しく揺さぶられ、フィオナはあられもなく身もだえた。
肌と肌がぶつかるごとに声が押し出される。
強すぎる力で突きこまれるたびに、己の形が変わってしまう。
そんな感覚と強い快感にフィオナは呑まれ翻弄される。
言葉にならぬ声が、粘ついた水音が、激しい打擲音が、熱で満ちた部屋に広がっていく。しかし寝台で絡み合うふたりは、ただ互いを感じることに精一杯だ。
愛する人と繋がることがこんなにも気持ちよく夢中になってしまうものだと、フィオナは知らなかった。
すべては今フィオナを抱く、愛する人が教えてくれた。
けれど。
(知らないほうが、よかった)
だって知ってしまったから。もう、知らない頃に戻ることはできない。以前の自分ではいられない。
「あぁ……っ!」
そんなことが頭を過った時、勢いよく奥を突かれ、いやいやとフィオナは頭を振る。
「だめ、これ、だめ」
拒絶ではなく限界を示すそれを見て、彼女を責め苛む者が背後でふっと微笑んだ。
「可愛いよ、フィオナ。――僕の聖女」
耳元で名を囁かれただけで、身体がわななく。吐息が耳朶にかかる、そのわずかな刺激で軽い絶頂に届いてしまったのだ。
それを察したのだろう。愛する人の動きが激しさを増す。
「んんっ、あっ、ああ――っ!!」
強く突きこまれ、身体がぐうっとしなる。そのまま奥深くまで届いた剛直で揺さぶられ、声が止められない。
フィオナの目の前に光が瞬く。それは快感の頂に押し上げられる合図だ。
(幸せ)
背中に、身の内に愛する人の熱を感じながら、フィオナは幸福と快感に酔う。ぶつかる肌から鳴る音が、敷布を濡らす汗が、フィオナを誘い、追い立て、高みへと連れ去ろうとする。
(このまま、時間が止まってしまえばいいのに)
しかしそれはどんなに望んでも、叶わない願いだ。
時間は止まらない。そしてフィオナの命はもうすぐ尽きてしまう。
だからフィオナはただ愛する人が与えてくれる快感と熱に身を委ねた。
「んあぁぁぁ――……っ!」
背を反らせ叫びながら、愛する人の腕の中で、絶頂という名の終わりにすべてを捧げるために。
その日オルディア王国の王都はすさまじい熱気と喧騒に包まれていた。中でも王宮へ続く大通りはひどい混雑だ。集まった人々のお目当ては、騎士に先導され石畳の大通りを行く一台の馬車である。
「な、なんでこんなに人がいるんですか?」
馬車の窓から外を見たフィオナ・アシュベルは、沿道が見渡す限り人で埋め尽くされた風景に驚き目を丸くする。まるでお祭り騒ぎだ。
元々大通りは身分の高低を問わず多くの人が行き交う場所ではある。だが今は人であふれかえり、立っていることがやっとの有り様だ。みな笑顔で馬車に向かって身を乗り出し手を振り、祝福の花びらをふりかけてくる。
「見ろ! 聖女様だ!」
「聖女様ー!」
窓にフィオナの姿を認めた人々から大きな歓声が上がった。
「見たか!? 聖女様のあの美しく輝く金の御髪を!」
「なんて可憐なお姿!」
「さすが救国の聖女様!」
「……っ!?」
飛んできた言葉に恐れおののきフィオナはぴゃっとカーテンを閉める。
(美しい? 可憐? な、なにが起きてるの!?)
フィオナは聖女である。それは間違いない。しかしここまで熱狂的に歓迎される理由がまったく思いつかない。
「ねえグレタさん……私、王様に会うだけでしたよね?」
隣にひかえていたグレタに恐る恐る尋ねる。言外になんでこんなことになっているのかという疑問を滲ませながら。
今回フィオナが王都を訪れたのは、国王に謁見するためだ。その準備のために派遣されてきたのがグレタである。
彼女は王城の侍女で、王都に入る前に身なりを整えてくれただけでなく、高貴な人々のしきたりに不慣れなフィオナに付き添ってくれている。きちんとした年齢は聞いていないが、二十代半ばであろうか。さすが王族に仕えているだけあって、洗練された美人だ。
「さようでございますね」
「なんでこんなにたくさんの人がいるんでしょう?」
「なんでと申されましても、救国の聖女様の凱旋ですもの。皆聖女様のお顔をひと目でも拝しようと押しかけてきているのですわ」
当たり前のことをなぜ問うのかと言わんばかりに首を傾げながら、グレタは答える。しかしその答えはフィオナにまた新たな疑問を抱かせた。
「あの、救国の聖女って……」
「フィオナ様のことに決まっているではありませんか」
「今初めて聞きましたけど!? そんな名称一体誰が……」
「少なくとも王都の民は皆そう申しております」
「嘘でしょう!?」
「嘘ではありませんわ。王がお会いになりたいのは救国の聖女、フィオナ様でございます」
「……もしかしてその名前をつけたのは」
「私にはわかりかねます」
にこりと笑ってグレタは明言を避ける。しかしそれが何よりの答えだった。
かつて名すら持たなかった未開の大陸を切り拓いたのは、神から魔法を授けられた者たちだ。
彼らは魔法の力で土を耕し、河を渡り、獣を退け、自らの安住の地を手に入れた。
やがてその者たちは国を興し、その血筋は王侯貴族として魔力――すなわち神の加護を受け継ぐ家系となった。ゆえに魔法を扱えるのは、今もなお支配階級の特権である。
しかし聖女だけは、それに当てはまらない。
聖女とは、人に触れるだけで怪我や疲れを癒すことができる力を持つ者のことだ。その力は魔力に由来せず、生まれながらの素質に近い。
そのためか、聖女の素質のある者は貴族だけでなく、本来魔力を持たぬはずの庶民からも等しく現れる。
聖者ではなく聖女と呼ばれるのは、男性で癒しの力を使える人間がごく稀であるため。さらに素質を見出された者は神殿に引き取られ神に仕え生きていくという慣例があったためだ。
フィオナは地方に小さな領地を持つ貴族の家に生まれた。七歳の時に王都にある神殿に引き取られ、以来十年聖女として研鑽を積んできた。
神の代行者として怪我や慢性疲労など薬では治しづらい人を癒すのが聖女の務めである。
三年にも及んだ戦争が終結したのは、ほんのひと月前のこと。
国境近くの戦場で奉仕活動をしていたフィオナはひと息つく暇もなく王都に戻ってきた。
戦場を経験した聖女が王に直接会い、話をするという事実が大事なのだ。そう神殿から説明を受けてはいる。
(私は、まだ聖女と呼べるのかしら)
戦争が終わってひと月経つというのに、身体はずっと重だるく、ついため息を吐いてしまう。いくら休んでもなくならない冷たい何かが、身体の芯にへばりついている。
うつむくとぼろぼろの手が目に入った。乾燥し、ところどころ皮膚が裂けて血が滲んでいる。十七という年齢には見合わぬ荒れ具合だ。
服装や髪はグレタに整えてもらえたが、長い戦場での生活そのもののような手指は、ひと月程度では治るわけがない。
いや、治そうと思えば、治せるのだ。
聖女の力はたちどころにどんな傷も癒してしまう。本来であれば、あかぎれを治すなど造作もないことである。
けれどフィオナは今、その力を使うことができない。
(……今少しでも力を使ったら、お城に行く前に倒れてしまうかもしれないもの)
聖女の力の源は、その生命力そのものである。
このことを知っているのは、聖女本人と神殿のごく一部の人間だけ。だからこそ、彼らはあからさまにフィオナの帰還を急がせた。
(せめて王様に会うまでは、生きていないと)
身体を蝕む疲労が、癒えぬ傷が、フィオナの命の残量を示していた。
(何かあるんだろうな)
フィオナが王に謁見する理由。それはただ戦争の終結を報告するためだけであろうか。
(……救国の聖女って)
わざわざふたつ名までつけて喧伝しているのだ。おそらく別の目的があるに違いない。
ただ残念なことにフィオナは政治的なことは何もわからない。自分が何かに利用されようとしているのは察せても、だからといって今さらどうにかできるわけでもない。
(……それにしてもどこをどう見たら美しくて可憐に見えるのかしら)
フィオナは思わず自らの髪を摘まみ上げる。
グレタの手によって耳より上は束ねそれより下はそのまま垂らした形にされた髪の色は確かに金だ。しかし普段はあまり手入れをしていないせいで干した草のようにぱさついている。瞳の色は青いが少し灰色がかっていて、澄んだ色はしていない。
さらに言えば小柄なくせに身体はがっしりとしている。肝心かなめの顔も綺麗というよりは愛嬌がある感じで、可憐だなんて一度だって言われたことはない。それこそ、親や兄姉にさえ。
客観的に見ればグレタの方がよほどあか抜けているし光り輝いて見えるだろう。
だがフィオナは自分の容姿に不満を抱いたことはなかった。むしろ家族に似ている自分の顔も体型も好きだ。血の繋がりを実感できる。
(そういえば……家族以外にひとりだけいたっけ)
以前、この髪を褒めてくれた人がいた。
そのことを思い出すと、フィオナの胸はいつも温かくなる。
――あの人は、元気だろうか。
「王が戦争を終結へと導いた方とお会いしたいと思われるのは当然ですわ」
フィオナが首を傾げていたからか、グレタが、こうして、と窓の外を示す。
「たくさんの民も聖女様のお姿をひと目でも見たいとお迎えに来ているのですから」
そう言われても、どうしたってフィオナは喜びよりも戸惑いの方が勝ってしまう。
「私だけで戦争を終わらせたわけじゃないですよ」
フィオナにとって、いや聖女にとって人を癒すというのはごく当たり前の行為だ。特別なことでもなんでもない。
「千の兵士を救った聖女様が何をおっしゃいますやら」
戦場を知らないグレタの言葉にフィオナは苦笑するしかない。
「戦争奉仕をした聖女は私ひとりじゃありません」
小さく首を振ったフィオナに、今度はグレタが苦笑する。
「今は、フィオナ様だけですわ」
そう、戦場奉仕を経験した聖女はもうフィオナひとりしか存在しない。戦争で、聖女たちは皆、癒しの奇跡と引き換えに命を落とした。
だからフィオナが王のもとへと向かっているのである。
(私よりもっとこういうの上手な子、いっぱいいたのに)
神殿で共に過ごしてきた仲間たちの顔が思い浮かぶ。
フィオナを優しく導いてくれた先輩、いたずらをして一緒に叱られた同輩、慕ってくれた後輩。もうみんな、いなくなってしまった。
癒しの力は、術者の命を使う奇跡だ。病も怪我も消し飛ぶかわりに、使えば使うほど寿命が削られる。
だから素質のある者は神殿で保護され、その力を使う場面は厳密に定められていた。
そうでなければ奇跡の力は利用され搾取されるだけだ。この大陸で現在聖女を守っているのが、神殿の影響が強いこのオルディア王国だけであることが、その証である。
しかし今回の戦争は、多くの聖女の血で定められた原則を捻じ曲げなければならぬほど厳しいものだった。
戦場で聖女たちはその命を燃やすようにして癒しの奇跡を起こし続けた。
まだフィオナの瞼の裏には血と土埃にまみれた兵士の姿が鮮明に映っている。怒号と悲鳴が耳に響く。手はこと切れた身体の体温と重さを覚えている。
「聖女様、どうぞご自覚ください。あなた様は特別なのです」
(ただ、生き残っただけなのに?)
なぜフィオナだけが残ったのか。戦争が終わってからもずっとわからぬままだ。
言葉にできなかった問いの答えを探すように、窓の外に視線を向ける。
祝福の花びらが舞い、歓声は止まない。
(扉一枚隔てただけなのに、まるで別世界みたい)
どこか現実味を感じられぬまま、馬車は人々の間を進んでいく。
そしてフィオナは王国の象徴である王城にたどり着いた。
王都のどこからでも見える幾重にも重なった尖塔と丸い屋根はまるで天を衝くようにそびえ立っている。石造りの壁は陽光を浴びて宝石のように輝き、緑青を帯びた屋根は遠目にも美しい。朝もやに包まれれば幻想のごとく儚く、夕陽を浴びれば金色に染まり、見る者に息を呑ませる。王の住処で国の中枢。そんな場所にいることが今さらだが不思議でならない。
王族に対する務めは別の聖女の担当であったから、王城にフィオナが足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
「わぁ……!」
城門をくぐれば、それまでとはまったく違う風景に目を奪われた。城を囲む庭園はまるで芸術品のように整えられ、訪れる者をその美しさで圧倒してくる。
やがて城内へと続く白亜の大階段が見えてきた。王城へと至るその最初の門口に、馬車がゆっくりと止まる。すると恭しく姿を現した侍従が馬車から階段へと赤い絨毯を敷いていく。
整列していた騎士たちが一斉に剣を掲げ、刃を空へと突き上げる。刃先に陽の光が反射し眩しく光った。
いかにも貴人を迎えるという雰囲気に、フィオナは感動よりも戸惑いを覚える。
(……なんだか扱いがすごすぎる気が、する)
どうやら救国の聖女とやらは、フィオナが思っていたよりもずっと重要人物として位置づけられているらしい。
「では参りましょう」
目の前の光景にやや引き気味のフィオナとは対照的に、ここが本来の職場であるグレタは堂々と扉を開き、先に馬車を降りていった。
「聖女様、どうぞ」
続こうと腰を浮かせたフィオナの耳に、思いがけない声が届く。
「えっ……」
外から響いたその声に、フィオナは思わず目を見開いた。
「おじさまっ!?」
淑女らしからぬ勢いで馬車から身を乗り出す。しかし馬車の前にいたのはフィオナが思っていた人物ではなく、見知らぬ男性であった。
背はすらりと高く、鍛えられた体つきが身を包んでいる騎士服の上からでも伝わってくる。しかし鋭さよりも穏やかな光を宿した紫の瞳と艶やかな濡れ羽色の髪が与える気品が先に立ち、ただ立っているだけで人目を惹く。美丈夫という言葉を体現したかのような人だ。
美しい彼はどう見ても二十代前半で、まだ十七のフィオナからしてもおじさんではなかった。
「おじさま、ですか」
驚いた男性が目を何度か瞬かせたのち、苦笑する。
「あ……申し訳ありません。その、人違いをしてしまいました」
「そうでしたか。さあ、どうぞ」
咄嗟に頭を下げたフィオナに、男性はにこりと笑うと手を差し伸べてきた。
「あ、ありがとうございます」
その手を借りて馬車を降りると、彼は笑みを浮かべたまま、優雅な礼を取る。
「改めまして、聖女フィオナ様をお迎えする役目を任じられました、オルディア王国第二王子、カイルと申します」
「えっ、王子殿下、ですか!?」
王族の出迎えに、フィオナは途端に狼狽した。丁重な扱いを受けているとは感じていたが、まさか最後に王子自らの出迎えまで用意されているとは思わなかったのだ。
民の大歓迎に、きらびやかなふたつ名、そして王子の姿。ただの戦勝報告にしては、あまりにも仰々しい。
(絶対、なにかある)
そう確信しながらも、フィオナは王の目的など見当もつかない。しかも当の王子は、驚くほど友好的な態度を見せている。だからこそ、笑顔の裏に隠されている何かが怖い。
「あの……殿下に付き添っていただけるなんて、恐れ多いことです」
「気になさらないでください。僕はあなたに大きな恩がありますから。これくらい当然なのです」
「でも……私こんなに高貴なお方とお話しするのは、初めてで……」
「いえ。僕たちはすでに会っていますよ。……戦場で」
「まぁ!」
戦場にいた。その一言だけで、胸の緊張が幾分ほどける。しかしこんな目立つ人なら記憶に残っていそうなのに、まったく思い出せない。
「……申し訳ございません、私、覚えていなくて」
「聖女様はたくさんの兵に接していられましたからね、仕方ありませんよ。どうぞお手をこちらへ」
「はい」
促されるままフィオナはカイルの腕に手をかける。
「では、参りましょう」
カイルは微笑みをたたえゆったりと歩きだした。
城の内部に足を踏み入れれば、目に飛び込んでくるのは天井の高い大広間だった。
天井画には神話の英雄たちの姿が描かれ、無数の金の装飾が光を反射して万華鏡のように輝いている。
足音を吸い込む厚い絨毯が伸びる回廊の両脇には、白大理石の柱が整然と並び、壁を見事な絵画や色鮮やかな飾り織りが彩る。また、ひとつひとつが芸術品であるかのような調度品がふんだんに置かれており、贅の限りを尽くした空間が果てしなく続いていくのではないかと思えてしまう。
(さすが、王城だわ)
現実離れした豪奢な世界に、フィオナは思わず見惚れてしまう。
「王城にいらっしゃるのはこれが初めてですか?」
きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回すフィオナを見て、カイルが尋ねてくる。
「はい。王族の方々に施術するのは私のような若輩者ではなく、先輩の役割でしたので」
王城での施術は失礼がないようにと行儀作法などがしっかり身についた年嵩の聖女の勤めであった。確かにこんなすごい場所に若い子が来たら舞い上がって失敗してしまいそうだ。
「ふむ、では違いますかね」
「何がですか?」
フィオナが尋ね返すと、カイルは笑みを崩さず返してくる。
「いえ、親族の中には私と似た声の者もおりますから、もしやそちらとお間違えになったのかと思いまして」
戦争において、魔法は最大の武器だ。そのため、多くの王侯貴族が直接戦地に赴いている。なにしろ第二王子までもが従軍していたのだ。他にも王族が従軍していてもおかしくはない。
「王族の方、ではないと思います。……戦場でお会いした騎士様なので」
――聖女様の髪は、綺麗だな。
フィオナの耳に、そう褒めてくれたあの人の声が蘇る。背が高くて、がっしりしていたおじさま。他の兵士とさほど変わらぬ装備だったから位の高い立場の人ではないだろう。
「どのような方だったのですか?」
「すごく親切で、お優しい方でした。……皆には内緒だよってキャラメルを下さって」
灰色の髪とたっぷりのヒゲを蓄えていたあの人は、いつも頑張っているねとフィオナを労わって頭を撫でてくれた。荒れて乱れた髪を綺麗だと言ってくれた。
あの人を思い出すと、自然とフィオナは笑顔になる。
聖女が暮らす神殿は女性しかおらず、施術相手に特別な感情を抱かぬよう、外部の人間との交流は禁じられていた。だから、あの人のことは何も知らない。
しかし優しいあの人とのやりとりは殺伐とした戦場での数少ない幸せな思い出だ。だからフィオナはこっそり「おじさま」と呼び慕っていたのだ。
「お父様みたいに大きくて安心できる方でした」
あの人は今どこで何をしているのだろう。
願わくば、無事で。そして穏やかに暮らしていて欲しい、とフィオナは心の中で祈る。
だから隣を歩くカイルの表情が変わったことには、まったく気づかなかった。
謁見の間は、豪奢絢爛にして息を呑むほどの美しさだった。高い天井から吊るされたシャンデリアが煌めき、壁には建国の歴史が描かれた絵が掲げられている。その奥、ひときわ高い段の上に玉座が設えられていた。
フィオナはカイルと別れ、事前に言われた通り玉座の前で王の訪れを待つ。
周囲をうかがえば、壁に沿うように厳めしい顔をした廷臣たちが並んでいる。フィオナに向けられた視線は沿道で大歓迎してくれた民たちよりは落ち着いていたが、悪いものではない。
(私は一体何を求められているのかしら)
聖女として生きてきたフィオナは自分の世界が狭いことを自覚しているし、限界もわかっている。癒しの力以外で人の役に立てることはない。
(……もう、私は何もできないのに)
ぼんやり思考にふけっていると、侍従が声を張り上げた。
「オルディア王国国王陛下、ただいまお出ましになります!」
フィオナは慌てて最敬礼を取り、深々と頭を下げた。周囲の廷臣たちも同じように礼の形をとる。
「面を上げよ」
玉座に着いた王に促されフィオナは深々と下げていた頭を起こした。
(おじさまに似てる)
王の顔を見て真っ先にそう思ったのは、王もまた灰色の髪と立派なヒゲの持ち主であったからだ。元は黒髪だったのだろう髪は色を失っても豊かで、紫の瞳は穏やかな光を帯びているように見えるが、隙がない。背もたれに身体を預け深く座りながらもその存在感は大きく、威風堂々としている。
どことなく先ほど案内してくれたカイルを思い出す面差しだった。ちらりとフィオナは視線を横に動かす。
王の隣にはここまでフィオナを導いてくれた第二王子のカイルと、王太子が並んで立っていた。
ふたりの王子は印象は違うものの、どちらも王の面影があり、フィオナはひそかに心を和ませる。
人の血の繋がりを感じるのが、フィオナは好きだ。家族という特別な絆がそこにあると確認できるからかもしれない。
そこで侍従が事前の説明通りそっと合図を寄越したので、フィオナは慌てて居住まいを正し、まっすぐに王を見つめ口を開いた。
「このたびドラヴォス帝国との戦が無事に終わりましたことを陛下へお伝え申し上げたく、フィオナ・アシュベル、こうして参上いたしました」
何度も練習した口上を述べ、フィオナはまた頭を下げた。
三年前、オルディア王国は隣接するドラヴォス帝国から侵略を受けた。それも、隣接するアルヴェスト共和国と同時に。
ここ数十年国内での小競り合いしかしていなかった帝国が二国同時侵攻という暴挙に踏み切ったのは、飢えに駆られたせいだ。
近年、帝国内で大規模な金鉱が発見され、多大な富が生まれた。富は人々に黄金の夢を抱かせ、周辺の国から多くの者が流れ込み、急激な人口増加を引き起こした。
しかし、帝国の国土の大半は山岳地帯と寒冷な気候に覆われる地で、農耕には不向きだ。主食である穀物の多くは隣接する王国と共和国からの輸入に依存しており、即対応は難しい。
帝国が急激な人口増加をうまく制御できぬうちに、冷害が帝国領を襲った。元より多くない耕作地は冷害でほぼ壊滅状態となり、帝国は深刻な食糧難に陥った。なにしろ黄金は、そのままでは糧にはならない。
飢えた人々を養うために必要なのは、広大な農地とそこから生まれる食料だ。その双方を最も早く手に入れる手段として、帝国は隣国から奪い取ることを決めたのだった。
「よくぞ参った、救国の聖女」
王の低く温かな声が、謁見の間を満たす。
「そなたの癒しの力は、多くの兵を救い、この国を勝利へ導いた。この国を統べる王として心より感謝を捧げよう」
ほぼ手放しといっていい賞賛に、周囲の廷臣たちがざわめく。
「もったいないお言葉にございます、陛下。私ははただ、聖女としてなすべきことをしただけでございます」
帝国軍はとにかく進みが早かった。飢えという命の危機に追い立てられていては、後退はすなわち死だ。
瞬く間に両国の国境沿いの都市は次々と占領、もしくは壊滅状態にされていた。そもそも完全に不意を突かれて始まった戦争だ。王国・共和国双方共に最初から苦しい防衛を余儀なくされた。
国内の小競り合いで練度を上げていた帝国軍と、ここ数十年平和を謳歌し続けた王国と共和国では、そもそもの戦力が違いすぎたことも劣勢に拍車をかけた。
しかし一時は王都のすぐ近くまで進軍を許したものの、オルディア王国は最後には帝国を押し返し、国境線を守り切った。
その原動力のひとつが、聖女の奇跡だった。
オルディア王国だけが守り続けた聖女の癒しのおかげで、王国は兵たちの消耗を最小限に抑えられた。だからこそ、辛くも勝利を収めることができたのだ。
もちろん勝利の要因は聖女の力だけではない。だが同じように侵略を受けた聖女のいない隣国アルヴェスト共和国は、領土の多くを失いオルディアとの従属的な同盟を結ぶことで帝国との停戦にこぎつけ、ようやく国としての形を保つことができた。
この対照的な結末こそが、聖女の力の大きさを物語っていた。
「聖女に褒賞を与えよう。望みの物はあるか?」
(望み……)
フィオナは一瞬だけ迷って、けれどすぐに答えを出した。それは戦場から戻ってくる馬車の中で考えていたことだった。
「こたびの勝利は、決して私ひとりの力で成したものではございません。多くの仲間がいたからこそ、こうして国が救われました」
自分はただ、生き残っただけだ。
「もしお許しいただけるのであれば……戦場で命を散らした聖女たちの慰霊と、その功績を称える場を設けていただければ、何よりも嬉しく存じます」
「ふむ」
王はフィオナの願いを聞くと、思案するかのように口ひげを撫でた。
(望みすぎてしまったかしら)
フィオナの胸に不安が過る。まるでそれを見越したかのように、王は穏やかに続けた。
「なるほど。そなたの願いはもっともだ。必ず執り行わせよう」
「ありがたく存じます」
「だがそれは褒賞などではなく、国が当然に為すべきこと。聖女よ、今はそなた個人への褒賞を尋ねておる」
「私個人でございますか……?」
思いもよらぬことに目を丸くしたフィオナに、王は鷹揚に頷いてみせた。
「そなたの献身に報いねば、余の胸が収まらぬ。褒美を与えることこそ、当然であろう」
「褒美……」
問われても欲しいものなど、フィオナには何も思いつかなかった。神殿育ちのフィオナはそもそもあまり欲というものがない。そうなるよう教育を受けているし、なによりも今自分には意味がないように思えたのだ。
「富を望むか、名誉を望むか……それとも、家門への恩恵か。いかなる願いであろうと、余は耳を傾けよう」
破格の申し出に謁見の間がどよめく。周囲の驚く声を浴びながら、フィオナの脳裏にかすかな願いがひらめいた。
どうしても欲しいものが、ただひとつだけある。
だが同時に、それは王であっても叶えられぬ願いだと、すぐに理解してしまった。
「あ、あの……!」
それでもフィオナは勇気を振り絞り声を発した。
「わ、私……家族が欲しい、です」
フィオナは戦場で仲間たちを看取ってきた。誰であろうと決して、ひとりきりでは逝かせなかった。力尽きた彼女たちにフィオナができることはそれしかなかったから。
聖女の力は命を使う奇跡。フィオナもまた、彼女たちと同じように自身の命を削っていた。
聖女はみな、癒しの力を使いすぎればどうなるのか知っている。この大陸の多くの国で聖女がどのように利用され、どうやって使い捨てられてきたのかという、悲しい歴史を神殿で学ぶからだ。
たくさんの仲間を看取ってきたフィオナは、戦場で力を使いすぎた聖女たちの変化を知っている。皆、身体の芯が冷え始めると……そこから一年、もたなかった。
今の自分にも、その終わりの兆しが訪れている。残酷なほどはっきりと、己の残り時間を告げるように。
フィオナに残された時間は――長くとも、あと一年ほどだろう。
使い切れない富も語り継がれる名誉も、死を目前にしたら何の価値もない。
(ひとりで、死にたくない)
命の灯火が燃え尽きる時、誰かが側にいてほしい。
傍らで手を握ってほしい。
それは理屈ではなく、欲望ですらなく、どうしようもない本能からくる願いだった。
しかし、仲間はもういない。ならばと思いついたのは、家族だけだった。
「家族、と申したか」
「はい」
王の問いかけにフィオナは迷いなく頷いた。
謁見の間が、しんと静まり返る。この場にいる皆が、フィオナの真意を量りかねているのだろう。
「聖女、そなた生まれは……」
「テザルトでございます」
その地名に、周囲の者がはっと息を呑む。フィオナの生家は、国境近くの小さな領地を治めていた一族だ。しかしもう誰もいない。――三年前、その場所は帝国に蹂躙され、領主一族は見せしめのために惨殺された。
フィオナが望むものを察し、皆が黙り込む。どんなに黄金を積んでも、どんな奇跡の力でも、死者を生き返らせることはできない。
(あ……)
静まり返った空気に、フィオナは自らの失言に気づく。今の願いは、まるで戦争の責を王に問うているように聞こえはしなかったかと。
「も、申し訳ございません! 詮無きことを申しました!」
フィオナは慌てて頭を下げる。
死んだ家族を求めているわけではない。ただ、近い将来訪れる死の瞬間、誰か側にいてほしかっただけだ。
けれどフィオナの心情を理解してもらうには衆人環視の中で聖女の力と現在の状態について説明しなくてはならない。聖女の力については神殿の管轄だ。フィオナ個人の判断で話せることではなかった。
「ではその願い、僕が叶えましょう」
「えっ?」
思いもよらぬ申し出にフィオナの目が大きく見開かれる。声のした方を見れば、第二王子カイルが微笑んでいた。
(一体どうやって!?)
身を硬くしたフィオナだけでなく、皆が固唾を呑んでカイルの次の言葉を待つ。
注目の的となったカイルは笑みを浮かべたまま、まっすぐにフィオナを見つめて言った。
「僕と結婚すればいいのです」
謁見の間がどよめきに包まれる。廷臣たちが騒ぐ中、あまりのことにフィオナは言葉を失う。
(私が、殿下と結婚……!?)
フィオナにとって家族とは、両親と兄姉、すなわち血の繋がりのある相手という認識だった。夫なんて考えもしなかったのだ。
思いつきで口にした願いへの答えがまさか王子との結婚になるだなんて誰が想像できるだろうか。
驚きと困惑のざわめきのただ中で、フィオナはひとり呆然としてしまう。
「カイル!? お前何を言い出すんだ!?」
王太子が、慌てたように弟を問い質す。
「夫婦となれば最も早く、確実に家族になれます」
しかしカイルは事も無げに言い返した。
「ははは! そうか! なるほど、なるほど!」
永遠に続きそうだったざわめきを、王の豪快な笑いがあっさりと吹き飛ばした。
王はひげを撫でながら、訳知り顔で何度も頷く。そしてどこか芝居じみた動作で、フィオナに向き直った。
(あ……)
先ほどは穏やかに見えたその瞳には、鋭く油断ならない光が閃いている。
「聖女よ。そちの『家族が欲しい』という願いを叶えよう! 我が息子カイルと結婚し、家族となるがいい!」
王の言葉が謁見の間に轟き渡った瞬間、ざわめきは歓声へと変わった。
「おお……!」
「聖女様が殿下の妃に!」
「めでたい! なんと尊いご縁だ!」
周囲の者たちが次々と声を上げ、やがて場内は口々の祝福で満ちていく。
そんな中フィオナは呆然と立ち尽くしていた。
「えっ……? ええっ!? そ、そんな、私は……!」
(結婚なんて、望んでいません!)
必死に抗議の声を上げようとするが、王の笑い声と人々の喝采にかき消されてしまう。
「英雄と聖女の結婚はまさにこの勝利の象徴となるでしょう!」
「聖女様、カイル殿下、どうか末永くお幸せに!」
喜びに包まれる謁見の間で、ただひとり、フィオナだけが顔を青ざめさせていた。
「お、お待ちくださいませ……! 私、結婚なんて……!」
(私もうすぐ死ぬんです! 結婚なんて無理ですっ!)
だが言葉にできぬ訴えは誰の耳にも届かない。
こうして――聖女フィオナの結婚は、本人の意志とは裏腹に、祝福の嵐の中で決定したのだった。
人生は、時に思いもよらぬことで一変する。それも、自分ではどうにもできない理由によって。
フィオナにとって、七歳の時に行われた魔力判定の儀式がそれだった。
魔力判定の儀式とは、生まれつき持つ魔力の有無と性質を調べるものだ。
魔力は血で受け継がれる。かつて魔力を持つ者たちがこの国を興し、支配者として君臨したゆえに、魔力を備えて生まれるのはおおむね貴族階級の人間である。
フィオナの家は代々国境近くにある小さな都市とその周辺を治める家柄だった。家族の多くがわずかな魔力を備えていたが、魔法を自在に操れるほどの力はない。地方の小領主などそんなものだ。
だから家族もフィオナ自身も、フィオナに癒しの力があるなどとは夢にも思わなかった。
ところが儀式で聖女としての素質と血筋に見合わぬ魔力が認められたことで、フィオナは家族と別れ、神殿に引き取られることになる。
そしてこれまでの暮らしから切り離され、新たな道を歩まねばならなくなったのだ。
聖女になることは、フィオナが望んだことではない。
だが結婚は、ある意味フィオナが心から望んだことであった。
それでもフィオナは自問してしまう。
どうしてこんなことになったのか、と。
あれよあれよという間に話はまとまり、聖女フィオナとオルディア王国第二王子カイルの婚儀は驚くほどの早さで執り行われた。
「フィオナ様の花嫁姿、本当にお綺麗でしたわ」
かいがいしくフィオナの世話を焼きながら、正式にフィオナの侍女となったグレタがうっとりと呟いた。
つい先ほどようやく終わった祝宴は、王子の結婚に相応しい華やかで豪華なものだった。あふれんばかりの白い花で飾られた王宮の大広間で、フィオナは金糸で彩られた純白のドレスに身を包み、貴族たちから絶え間ない祝福を受けた。
けれど……心はまったく現実に追いついていない。
自ら望んだこととはいえ、まるで大きな流れに呑まれてしまったかのように結婚が決まってしまったのだ。
神殿で神に誓いを立てている時も、民の前で手を振っている時も、宴で杯を掲げる時も、これは本当に現実なのだろうかと疑わずにはいられなかった。なんなら一度頬をつねってみたりもした。ちゃんと痛かった。
フィオナの命の残り時間を知っているはずの神殿もまた、この無茶な婚姻に異を唱えることなく、むしろ王と歩調を合わせ積極的に推し進めてきた。
まるで、最初からこうなることが決まっていたかのように。
(なにもかも、わけがわからないわ)
洗い髪を梳くグレタに身を委ねながら、フィオナはぼんやりと思う。
思えば三年前戦場に駆り出されてからはずっと、暗闇の中を這っているようなものだった。仲間がひとり、またひとりと倒れてゆき、戦争が終わり最後のひとりになってもまだ、前方には光ひとつ見えない。
ランプの柔らかな灯りが照らす部屋には、寿(ことほ)ぎの花の香りが満ちていた。祝宴の余韻をそのまま閉じ込めたような豪奢な装飾に囲まれて、フィオナは落ち着くことができずにいる。
「よし、これで今夜の準備は整いましたわ」
グレタが満足げに櫛を置く。鏡には、初めての夜を迎える花嫁が映っていた。
丁寧に梳かれた金髪は背に流れ、頬には淡い紅が差している。透けるように薄い布で仕立てられた寝衣は普段のそれとは違い、胸元を覆い切らずに白い肌を際立たせていた。特別な化粧と装いによって、わずかに残るいとけなさは絶妙な色香へと変わり、まるでこれからの夜を祝福するかのように花嫁を飾っていた。
「なんだか、ずいぶん薄着するのですね」
何気なく呟くと、グレタが小さく含み笑いを漏らす。
「ええ、結婚した女性はこうしたものを纏うのです」
「風邪をひきそうだわ」
王宮の離れにあるこの部屋は魔法で常に一定の温度に保たれており、今も寒さは感じない。けれど普段身に着けている木綿の寝間着とはあまりにも違い過ぎて、フィオナは二の腕をさする。しかし侍女はただ穏やかに微笑むのみだ。
「それでは私は失礼いたしますね」
「グレタ……」
思わず縋るように名を呼んでしまったのは、この先どうすればいいのか皆目見当もつかなかったからだ。
「大丈夫です、フィオナ様。旦那様が温めてくださいますから」
グレタは笑顔でそう言うと、一礼し部屋を出て行ってしまった。
華やかな部屋にひとり残された途端、心臓が早鐘を打ち始めた。静まり返った空間の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響く。喉が渇き、知らず寝衣の布端を握る指先が震えているのが見えた。
ややあってフィオナは恐る恐る顔を上げ、視線を扉へと向けた。
グレタが去った外に繋がる扉ではない。
隣室へと続く扉――その向こうで、カイルが待っている。
夫婦となった男女は同じ寝台で眠る。そうすれば神が子を授けてくださるのだ。
かつて、年上の聖女が神殿を去る日に誰かがそう教えてくれた。幼い頃、両親も同じ寝室を使っていた記憶があるから、きっとそういうものなのだろう。
それでも、今夜の装いは普段とはあまりに違いすぎて、フィオナをひどく戸惑わせた。
ただでさえ七歳から神殿で暮らしてきたフィオナにとって、夫になったとはいえ若い男性であるカイルは最も縁遠い存在である。
結婚が決まってから何度も顔を合わせてはきたが、どう接すればいいのか、いまだに答えは見つかっていない。
フィオナは深く息を吸う。けれど吐き出す空気は浅く、心臓の高鳴りを鎮めるには至らない。
(でも、いつまでも、こうしてはいられないわ)
意を決して立ち上がったフィオナは、どうしたことかひどく重く感じられる足を動かし、隣室へと続く扉の前に立つ。
(よし)
恐れが先立つ時はまず動けと教えてくれたのは、誰だっただろうか。ずいぶん乱暴だとは思うが、知らぬ間にフィオナの指針のひとつになっていた。
暗闇に向かって、手を伸ばすのだ。そうでなければ光はつかめないのだから。
ゆっくりと扉を押し開けば、きぃ、と小さな軋みが響く。向こう側は暗く沈んでいたが、扉の隙間からあふれる灯りが床を照らし、やがて視界が開けていく。
続きの間は落ち着いた温かな空気に包まれていた。足元を深い葡萄色の絨毯が温め、壁には見事な織り物がかけられており、甘い香油の香りが漂っている。
部屋の中心には天蓋つきの大きな寝台があり、背の高い人がそこに腰かけている。
ゆっくりと振り向いたその人と視線が合った瞬間、フィオナの心臓が大きく跳ねた。
「……フィオナ」
柔らかく、それでいて揺るがぬ響きを持つ声に呼ばれ、フィオナは恐る恐る歩を進めた。心臓がうるさく鳴っているのに気をとられていたら、背後で扉が閉まる。
(ふたりきりだ)
そう実感した瞬間、また心臓が跳ねた。
こちらへおいでと示すように寝台を軽く叩かれ、フィオナはおずおずと歩みを進める。少し間を空けて隣に腰を下ろすと、しばしの沈黙が部屋に落ちた。互いに何を話せばいいのかを探っているような空気だ。
(眠りましょうって、言えばいいのかしら)
おやすみなさい、は今日という日を終えるための言葉だ。これから共に眠る相手に言うにはなんだか違う気がして、ますます言葉が見つからない。
「今日は……」
「は、はいっ!」
沈黙を破ったのは、カイルだった。フィオナが身構えると、苦笑したのが気配でわかった。
「色々やることが多くて疲れただろう」
この数か月の間に、カイルは砕けた態度で接してくるようになった。それは右も左もわからないフィオナの肩の力を少しだけ抜いてくれる。
「そう、ですね。なんだか、夢を見ているような心地でした」
早朝から準備をして、儀式をして、散々愛想を振りまいて、ようやく解放されたのが数刻前。なにもかもが目まぐるしくて、この結婚にまつわることすべてにおいて、まったく現実味が感じられない。
フィオナの答えは半ば本音であり、半ば戸惑いの吐露でもあった。
「私も同じだよ。あまりに急な展開だったからね。けれど」
カイルはそこで一度言葉を切るとそっと姿勢をずらし、真剣な眼差しをフィオナに向ける。
「これ以上ないほど、嬉しい夢だ」
どくんと心臓が大きく跳ねる。
向けられた紫の瞳には、労わりを帯びた熱情の光が揺らめいていた。
(こんなの、知らない)
言葉が出ない。フィオナは慌てて視線を伏せ、膝の上で手を握りしめた。
いつから、望まれていたのだろうか。
こんなにも心を寄せてもらえる理由がフィオナにはまったく思いつかない。
「……あの、殿下」
「カイルと呼んで」
「えっ?」
「夫となったのだからもっと気安くいこう」
それに、とカイルは続ける。
「もうすぐ僕は臣籍降下して王族ではなくなるから」
「それは……」
もしかして自分と結婚したからだろうか。しかしフィオナの問いを遮るように苦笑が返された。
「あなたを娶ったからではないよ。元々戦争が終わったらということで話が進んでいたんだ。……それとも、王子妃の方がよかったかな?」
「い、いいえっ!」
フィオナは首を横に振る。妃なんて自分には到底務まらない。
「ですからほら、カイルと」
からかうでもなくただ優しい声に促され、フィオナは勇気を振り絞って口にする。
「……カイル様」
「うん」
カイルは応えると小さく微笑んだ。その表情にフィオナの胸がぎゅうっとつかまれたような痛みを訴える。
「どうして……」
気づけば、ずっと心にあった疑問が口をついていた。
「どうして私なんかと結婚したいと思ったのですか?」
問いかけた瞬間、顔が熱くなる。あまりにも場違いな言葉のように思えたからだ。
それでも一生を共に過ごす相手をあの短い間で決めてしまったカイルのことが、フィオナはずっとわからない。だからこそ、知りたかった。
するとカイルは驚くことなく、手を伸ばしてきた。
「僕は」
フィオナの手を取ると、優しく包み込むように握る。
兵士の手だ、と思った。岩のように硬い手のひらは、幾度も剣を受け止めてきた盾のように荒れている。節くれだった指は細かな傷が無数に残り、そのざらつきがフィオナの手を撫でる。
戦場で嫌になるほど触れた手だ。この手こそカイルがあの地獄の戦場にいた何よりの証であった。
「……あなたに救われたひとりだ」
低く穏やかな声が耳を打つ。
「あなたが戦場に現れた時、私は絶望していた。仲間も希望も失い、ただ剣を振るうことしかできなかった」
まるでかつての戦場を思い出すように、カイルの視線が宙をさまよう。その様子を見ただけでフィオナの脳裏にも惨い戦いが蘇った。
帝国軍は容赦がなかった。魔法の爆風で吹き飛ばされ足を失った者、槍で腹を突かれ内臓がこぼれそうになっている者、千切れそうな腕から血を滴らせた者……ありとあらゆる負傷兵を癒してきた。
フィオナに、聖女に救われたということは、カイルは傷ついた経験があるということだ。痛みを知っているということだ。
暗闇の中を這っていたのは、自分だけではなかったのだ。
「けれど、あなたが僕に光をもたらした」
(私が、光?)
カイルが言うように、自分が光であるとにわかには信じられない。
それでもフィオナはただ彼の言葉に耳を傾けた。
あの闇を知っている、それだけで相手を信じられる気がした。
「あなたと結婚できたことは、僕の人生において最大の幸福だ。フィオナ、僕の聖女」
その言葉と共に、カイルはフィオナを抱き寄せた。
(あぁ……)
広い腕に包まれ、頬が厚い胸板に触れる。背に回った手のぬくもりが、彼の心をそのまま伝えてくるように感じた。胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲む。
誰かを抱きしめることはあっても、抱きしめられたのはいつぶりだろう。もう、思い出せない。
「家族が欲しい」と願ったのは、確かにフィオナだ。だが本当に欲しいものが与えられたわけではない。そう、思ってきた。
しかし違ったのだ。フィオナはカイルに望まれて、今、ここにいる。
(嬉しい)
フィオナの心に甘やかなものが満ちていく、その時。
――ぐうぅぅぅ。
静かな寝室に不釣り合いな音が響き渡った。
「あ、こ、これはっ……違うんですっ!」
フィオナは顔を真っ赤にして必死に首を横に振る。まさかこんな時にお腹が鳴るだなんて誰がわかるだろうか。
慌てふためくフィオナにカイルは目を瞬かせた後、ふっと笑みをこぼした。
「食事は?」
「……あまり、入らなくて」
儀式や祝宴、その準備で目まぐるしく、ゆっくり食事の時間を取ることはできなかった。合間にグレタが食べやすいものを用意してくれていたが、せわしない気持ちからかほんのひと口ふた口摘まむ程度しか食べていない。
「いいものがある」
そう言うとカイルは寝台の脇に用意された小卓の方へ行き、銀でできた小物入れの蓋を開けた。そこにあったのはフィオナもよく知る甘味だった。
「わぁ……キャラメル!」
見た途端に口が甘い味を思い出し、フィオナの腹の虫がまた鳴いた。
「ああっ!」
フィオナが腹を押さえている間に、カイルはキャラメルをひとつ摘まみ上げる。
「さあ、どうぞ」
差し出されたそれに、フィオナは目を瞬かせる。
「私、自分で……」
「いいから。さあ」
「……失礼、します」
口元に差し出され、恥ずかしさに頬を染めながらフィオナはそっと口を開いた。
舌に粒が載った途端、甘く芳ばしい香りが広がる。口の中で転がせば、ゆっくりと角が溶けていく。煮詰められたミルクのねっとりと濃厚な甘みと香りに、フィオナは知らず笑みを浮かべていた。
「美味しいです……!」
けれどふとその甘さの奥に、懐かしさと共に痛みを覚えた。
(この味、知ってる……)
もごもごと咀嚼しながらフィオナはふと気づく。かつて誰かに口元へ差し出されたことがあったはずだと。
「甘い物を食べると、元気になるからね」
「あっ」
微笑んだカイルの言葉を聞いた瞬間、ぱちんと弾けるように記憶が蘇った。
まだ戦争の終わりが見えていなかった頃。フィオナはいつもただ陽が沈むのをじっと待っていた。それは夜だけがつかの間の休息を許してくれたからだ。
青かった空が色を変え、ゆっくりと宵闇へと溶けていくのを認めると、兵士たちは前線から引き上げてくる。そして彼らは無言のまま、粗末な天幕の前で焚かれた火の側に集い、重く長い息を吐き出すのだ。
誰も、声を上げない。ただ、揺らめく炎を見つめている。
焼け焦げた土の匂いがあたりを漂い、ところどころに残る熾火から立ち上る煙が、風にのって細く引き伸ばされ、闇に溶けていく。
国境近くの戦場にあったのはまことの静寂ではない。また日が昇れば戦いは繰り返される。これはほんのひと時の沈黙。
だから耳には、先ほどまで轟いていた剣戟の音が、魔法が炸裂する音が、人々の怒声が、耳鳴りのように残り続けていた。
「すぐに治しますね」
そんな中、フィオナは静かにしていられない――傷を負って苦しむ兵士たちに寄り添い、癒しの力を使っていた。
傷に手をかざすたび、滴り落ちていた血は静かに止まり、裂けた皮膚がみるみるうちに塞がっていく。
「さあ、これでもう大丈夫です」
「ありがとう、聖女様」
傷の塞がった兵士は、ほんのわずかに頬を緩める。身体を休めるため天幕の奥へと戻っていく背を見送り、フィオナはそっと息をこぼした。
戦況は、まったく芳しくなかった。主導権を争うというよりも互いの命を削り合うだけの戦いは兵士たちを疲弊させ、絶望が足を引っ張る。
そんな彼らを癒すフィオナもまた、疲れていた。
人を癒せば癒すほど、身体は重さを増していく。頭の奥が疼き、視界がかすむ。背筋を冷たいものが這う。
力を使いすぎたからだとわかっていたが、目の前で苦しんでいる人がいるのに、癒しの力を出し惜しみなどできない。許されない。
ふらつく身体を抱えながら、フィオナは天幕の前にうずくまる。節々は軋み、指先までもがだるい。限界はとうに過ぎていた。
それでも、胸には達成感があった。
(今日も……ひとり、ふたり、さんにん……たくさん、救えた)
この戦場で兵士を癒すこと。それが聖女に与えられた使命だったから。
(……それにしても、耳鳴りがひどいわ。身体が……重い)
そこでフィオナの意識は、ふっと途切れた。
「ん……あれ……?」
意識が戻った時、肩に柔らかな重みがあった。誰かの外套に包まれているのだと気づくまで、少しの時間が必要だった。
「大丈夫かい?」
「はい……」
声をかけてくれた人を見た時、真っ先に思ったのは「ご老人かしら」だった。髪はまだらに色が抜けたような灰色で、顔のほとんども髪と同じ色の髭で覆われていたからだ。
「私、寝ちゃったんですね」
起き上がろうとしたフィオナを、その人は軽く手を上げて制した。
「眠るというより、気絶と言った方が近いだろうねぇ」
垂れた前髪の奥から、苦笑する気配がした。
「ちょっと、疲れてしまって……」
「……まあ、当然だな」
呟くように言うと、その人は懐から何かを取り出した。
「ほら」
それが口元に差し出される。
「……?」
目線で問いかけると、その人は笑みを深めながら言った。
「他の人には内緒だよ。甘い物を食べると、元気になるからね」
傷つき節くれだった指先に、不器用な優しさが宿っていた。だからフィオナは、巣で餌を待つ雛のように口を開いた。
言葉が、声が、今、目の前にいる彼と重なる。
「……もしかして、カイル様が……おじさま、なの、ですか?」
驚きで目を見開いたフィオナに、カイルは優しく微笑んだ。
「言っただろう? 私はあなたに救われたひとりだと」
「で、でも、髪の色が……」
「魔法で変えていたんだ。あの時は王子として守られているよりも、兵士の中に紛れていた方が安全だったからね。髭を生やしていたのも人相を誤魔化すためだよ」
今は何も生えていない顎を撫でながら、カイルは笑う。
「まさかそのせいで年寄りだと勘違いされていたとは思いもしなかったが」
「……本当に、おじさま、なんですね」
「ええ。こんなに若くてがっかりしたかな?」
その問いに答えず、弾かれるように立ち上がったフィオナはその勢いのままカイルに抱きついた。
「よかった……おじさま……生きてた……!」
張り詰めていた声が震え、胸の奥に押し込めていた思いが涙と共にこぼれ落ちていく。
戦が終わった時、彼の姿は周囲から忽然と消えていた。
生きているのか、もう二度と会えないのか。最悪の事態しか思い浮かばず、夜ごと祈ることしかできなかった。
それでも、きっとどこかで生きているはずだと自分に言い聞かせ、今日まで過ごしてきた。
驚いたように硬直するカイルの胸に、フィオナはさらに頬をすり寄せる。
「よかった……本当に、よかった……!」
鼓動が速い。伝わってくる動揺がまさに生きていると感じさせて、フィオナの長く続いた不安をやわらげていく。
おじさまの存在は、フィオナにとって暗闇に灯った小さな灯火だった。
先の見通せない戦場の夜、ひと粒のキャラメルにどれだけ救われたかわからない。
なにしろあの頃の戦場は、本当に酷い有り様だった。仲間は次々倒れ、動けるのはフィオナを含め数人だけ。後方からの支援も途絶えがちで、その日の食べ物にも困るような状態だったのだ。
そんな時、貴重な甘味を差し出し、「甘い物を食べると元気になるからね」と笑ってくれた人をどうしたら忘れられるだろうか。その手のぬくもりと声に、縋らずにいられるだろうか。
これまで数え切れぬほどの兵を癒してきた。泣き叫ぶ者、意識を失った者にも、血にまみれた者にも、そのすべてに等しく手を差し伸べてきた。けれど、無事を心の底から祈った相手は、ただひとり。おじさまだけだった。
(だから……神殿は人との関わりを禁じたのね)
今ならわかる。
人と関われば、心が通う。心が通えば、その人を特別に思ってしまう。特別扱いすれば、聖女は「神の代理」として等しく癒しを施すことができなくなる。だからこそ、神殿は厳しく人との距離を強いたのだ。
「……心配、してくれていたのか」
驚きを隠さぬ声でカイルが呟く。
「はい。無事だとわかって、本当にほっとしました。よかった……!」
(もう私は、聖女ではいられない)
閃くように、フィオナは気づく。
元より今やほとんど力のない、名ばかりの聖女だ。けれど力の有無ではなく、心そのものが変わってしまった。
ふと、神殿を去った先輩聖女たちのことを思い出す。「特別な人ができてしまったの」と微笑んでいた彼女らの気持ちを、今ならば理解できる。
「こうして五体満足でいられるのは、フィオナのおかげだ」
宥めるように背中をとんとんと叩かれ、フィオナはやっと深く息を吐き出した。
「……これからはずっと一緒たよ。もう、ひとりにはしない」
その一言に、長い間フィオナの心を締め付けていたものがほどけていく。
戦場で幾度となく見送った命。自分もいずれはひとりで逝くのだと覚悟していた。
けれど今、フィオナを抱きしめてくれる人は「ひとりにはしない」と言ってくれた。
それはフィオナが何よりも求めていた言葉だった。
フィオナは腕を伸ばし、そっとカイルの背に回す。目を瞬かせ涙を堪えながら、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
ふたりを包む沈黙は、穏やかで温かなものだった。
ランプの灯りが柔らかに揺れ壁に映る影までも寄り添っているように見える。
国中が見守った婚礼の夜は、ふたりにとってただひとつの、確かな「家族」としての時間となった。
「そろそろ眠ろうか。……おやすみ。よい夢を」
フィオナの額に、カイルはそっと唇を落とす。限りなく優しい、家族でなければできない親愛の口づけ。
「はい……また、明日」
一日が終わるのが切なくて、フィオナは未来の約束を口にした。
また明日。
それは仲間をすべて失い、己もいずれ死にゆくさだめを悟って以来、決して口にできなかった約束だった。
◇ ◇ ◇
カイルの人生は王の二番目の息子として生まれた瞬間に決まった。
玉座を継ぐ男子はすでにいる。ならば必要なのは冠を守る盾。敵を寄せ付けぬ剣。
まだ何もつかむことのできぬ幼き頃から、戦う人生を宿命づけられた。
それを不当だとカイルは思わない。
生まれた場所や順番で人生が決まるのは、なにも王の子だけではない。農民の子は農民になり、商人の子は商人になる。世の中は、そうして成り立っている。
しかしただひとつ、神殿だけはその摂理から外れていた。
神に仕える限り卑しい生まれでも高貴な生まれでも、同じ身分となる場所。神の庭を模した箱庭。
聖女とは、神の庭に咲く花だ。大切に守られるべき存在であるはずだった。
だが戦争が、すべてを台無しにした。
蛮勇妄動の帝国軍に抗うために、王国はついに聖女という最後の切り札を切らざるを得なかった。
そして滅私を教え込まれた彼女たちは、期待した通り自らの命を削り兵士に尽くしてくれた。
(その結果が、今だ)
戦争は終わった。だが、花は踏みにじられた。
自らの腕の中で安らかに眠るフィオナを見ながら、カイルは自嘲する。
兄と父は、よくやったと手放しで褒めてくれた。隣国のように国土を失うことなく帝国軍を追い返したのは、完全勝利と言っていい、と。
だがこの勝利で得たものは何もない。帝国から賠償金はもぎ取ったが、失われた命は金では買えない。
王国は、最も戦から遠い場所にあるはずの聖女を戦場に追いやり、死に至らしめた。
それは間違いなく、国を守るべき盾としての敗北だった。
カイルは腕の中の花をじっと見つめた。その健やかな寝息がカイルの胸にかかる。
(あたたかい)
そう思った次の瞬間――カイルは拳を握りしめ悶絶した。
(僕の聖女、可愛すぎないか!?)
思わず心の中で叫ぶ。
なにしろ今夜のフィオナは、とにかく可愛かった。
名を呼ぶと、警戒心の強い小動物のように恐る恐る近づいてきて、恥ずかしそうに隣に座る。そんな仕草ひとつひとつがカイルの心を鷲掴みにしてしまった。
胸に抱いた小さな身体の存在が、安堵したようにすべてを預けてくれる存在が、静かにカイルの胸を震わせる。
まさか、敗北の先にこんな幸福が待っているだなんて誰が予想できただろうか。
なによりも寝衣がいけない。透けるほど薄い布を重ねて作られたそれは守っているようでいて無防備で、とにかく罪深い。
髪がさらりと肩から流れるたびに、淡く染まった頬を見るたびに、身体の芯が力を持ちそうになるのを必死でこらえた。
元よりフィオナは可愛いが、気の利きすぎる侍女の見事な仕事ぶりに、カイルは感心し、そして呪った。
(我慢できなくなるだろうが!)
額への口づけだけで止められたのは、自分でも奇跡に近い。
本当は、今すぐにでも抱き尽くしたい。潰してしまうくらい、全部欲しい。
だが、そんなことをすれば怯えさせるに決まっている。
年上の男が、余裕もなくがっついたら……嫌われるかもしれない。
カイルは思わず腕に力を込め、フィオナをぎゅっと抱きしめた。
柔らかな身体がむずかるように身じろぎしたのを感じ、慌てて力を緩め、体勢を戻す。
フィオナは温かく、髪からは香油のよい匂いがした。
(……生きていてくれて、本当によかった)
胸の奥からこみ上げる思いに、カイルは深々と息を吐く。
魔法で髪の色を変え一介の兵士に扮したのは、軍の中に帝国の内通者と暗殺者が紛れ込んでいたせいだ。しかし暗殺者の目をくらますことはできたが、ただの兵士として身をすり潰すことになった。
ある時、深手を負い、カイルは死の淵にいた。かろうじて砦に戻ることはできたものの、血に濡れ、もはや剣すら握れず、ただ死ぬのを待つだけだった。
カイルの正体を知る者も助けることができないくらい、戦況も状態も最悪だったのだ。
そんなカイルへ駆け寄ってきたのが、フィオナだった。
「大丈夫ですか? すぐに楽にして差し上げますからね」
彼女は血まみれのカイルに迷わず癒しの力を注いでくれた。労わるように撫でてくれた手の感触は、注がれた命の力の温もりは、今も忘れられない。
だからフィオナが力なく倒れているのを見た時、放っておけなかった。
「美味しい……!」
キャラメルを頬張り、幸せそうに微笑んだ少女。
戦場という地獄のただ中にあって、その笑みはひと筋の光のようにカイルの胸に差し込んだ。そして気づいた時には、もう愛していた。
(しかしまさか、覚えていてくれたなんて)
カイルにとってフィオナは、ただひとりの特別な存在だった。
しかし彼女にとって自分は、癒してきた無数の兵士たちの中のひとりにすぎないだろうと覚悟していた。
聖女とは神の前で等しくあれと教えられた存在。誰かを特別にすることは、許されぬ行いなのだから。
それがまさか一途に心配され、無事を祈られていたなんて思いもしなかった。
正直な心境を述べれば、おじさんだと思われていたのは少々傷ついたが、彼女の特別になれていたのならば、そんなことは些末なことだ。
嬉しさと同時に、胸の奥からどうしようもない衝動が湧き上がってくる。
カイルはそっと息を吐き、フィオナの柔らかな髪に指を絡める。さらりと流れる感触に、身体の芯が熱を帯びるのがわかった。
(落ち着け。……疲れているんだ。眠らせてやれ)
カイルにとってこの結婚は待ちわびたものであったが、フィオナにとっては青天の霹靂であったのはその反応でわかっていた。
彼女が求めた家族は伴侶ではなく、寄り添い守ってくれる者だ。その真意を捻じ曲げ、最も近い場所をせしめた自覚はある。
こんなずるい男の胸の中で安心して眠ってくれているのだ。その安らぎを壊すわけにはいかない。
とはいえ、理性を総動員しても、身体の熱は収まらない。腕の中の温もりを抱きしめるたび、奥に渦巻く欲望は増していく。
けれどフィオナが「また明日」と言ってくれた。
その約束がある限り、焦る必要はない。
なによりもこれまで苦労してきたのだ。この世の幸福をすべて味わわせてあげたい。
(絶対に、幸せにする……!)
カイルは悶々とした思いを抱えながらも、腕の中の温もりを、彼女の安らかな眠りを守ることに集中した。