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もうすぐ死ぬんですが、夫ができました 余命わずかな元聖女は過保護な騎士の愛に溺れそうです 2

第二話


 小高い丘の上にそびえる豪奢な建物、ルミエール・パレス。
 その名は、数代前にこの国へ嫁いだ王妃ルミエールにちなんで名づけられたここはつて彼女のために築かれた離宮であった。しかし今では扉を大きく開き、貴賤を問わず訪れる者を受け入れる憩いの場となっている。
「すごく賑やかですね」
 パレスの前の芝生広場には敷物を広げて憩う人々、散策に興じる人々、さらに彼らに声をかける物売りの姿まであった。ひときわ明るい笑い声と呼び声が風に乗って響いてくる。
 その光景を馬車の窓から見たフィオナは目を見張る。
「これでも少ない方だよ。休みの日はもっと賑わう」
「もっと!?」
 隣にいるカイルの言葉にフィオナはまた驚く。
「ふふ、まるで休日ごとにお祭りがあるみたいですね」
 神殿で過ごすことが多かったフィオナにとって、王都の賑わいはまだまだ未知の世界だった。彼女の感覚は、七歳まで暮らした辺境の街の規模に留まっている。
「ああ。ルミエール・パレスは王都の、いやこの国の文化の中心だ。きっと気に入るものが見つかるよ」
「カイル様がくださるものは、全部好きです」
 実際、カイルが与えてくれたものでフィオナが嫌だと思ったことはひとつもない。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
(わぁ……)
 夫から蕩けるような微笑みを向けられ、フィオナは頬を赤らめた。
 臣籍降下すれば、カイルとフィオナは王都を離れて領地に移ることになる。
 だからこそ今のうちにとカイルは暇を見つけてはフィオナを街へ連れ出すようになった。
 フィオナが興味を示したとあれば、それこそなんでも叶えようとしてくれる。
 市場の喧騒、美しい庭園、舟遊び……賑やかな人々の様子や新しい景色を共に楽しみ、食卓を囲み、そして夜は温かな腕に守られて眠る。
 刺激的で楽しい毎日は傷つきすり減ったフィオナの心を少しずつ癒してくれる。
 実のところ連れ出された神殿の外の世界は色鮮やかすぎて、フィオナはついていくのがやっとではある。ただ、悲しいことをあまり思い出さずに済むくらい充実していた。
(あとは死ぬのを静かに待っているだけだと思っていたのに)
 最期にこんな幸せな日々が待っているだなんて、誰が予想できただろうか。
 けれどあまりにもカイルが優しすぎるから、毎日が楽しすぎるものだから……少しだけ心配になってしまう。
(……こんなによくしていただいて、いいのかしら)
「また、いいのかな、とでも考えているのだろう?」
 まるでフィオナの頭の中を覗いたかのようにカイルが言う。
「えっ!? どうしておわかりになるんですか!?」
「可愛い顔に書いてあるよ」
「ええっ!?」
 思わず熱くなった頬を押さえると、カイルは楽しそうに笑う。
 その笑みに、フィオナの頬はますます赤くなる。
(私の旦那様は、なんて素敵なんだろう)
 結婚してまだいくらも経っていないのに、フィオナはすっかりカイルに夢中だった。

 馬車寄せに止まると、あらかじめ訪問の時刻が伝えられていたのだろう、パレスの職員が整列して出迎えてくれた。その様子を見た周囲の人々が騒ぎ始める。
「カイル殿下だ!」
「じゃあ、ご一緒なのは……聖女様!?」
 瞬く間に囁きが広がり、熱を帯びた視線が集まった。救国の聖女と英雄王子――今や時の人である夫婦に人々が気づかないはずがない。
 群衆のざわめきにフィオナが小さく身を縮めたその時。カイルはさりげなくフィオナの腰を抱き寄せ、大きな身体で人々の視線を遮った。
「さあ、行こう」
 低く穏やかな声と支えてくれる腕に、フィオナはほっと息を吐く。
 カイルはフィオナの不安や戸惑いを察し、いつも気遣ってくれる。
 護衛の騎士たちが人々を制し、ふたりは視線を背にパレスの中へと進んでいった。
「ルミエール・パレスは、存在そのものが芸術でございます」
 案内役の職員は慣れているのだろう。まるで歌うように説明を述べる。
 精緻な装飾を施された外壁や高価なガラスでできたアーチ形の丸屋根は訪れる者を圧倒し、館内に足を踏み入れれば、惜しげもなく飾られた絵画や彫刻が目を楽しませてくれる。
「これらすべては愛するひとりの女性のために捧げられたのです」
「どれも素晴らしいです」
 フィオナは思わず感嘆のため息を漏らした。
 パレスという形を成した、政略によるものではなく愛で結ばれた王と妃の物語。それもまた人々の感動を誘う。
「館の中央には大劇場があり、昼は演奏会、夜は歌劇と、一年を通じて様々な演目が上演されております。それこそ貴族から市民まで、多くの観客を魅了し楽しませるために」
 優雅な歩みを止めることなく、職員は歌い続ける。
「そして訪れる者を最もときめかせるのが、屋内庭園でございましょう。この先に続く大理石の回廊を抜けた先に広がるのは、魔法によって四季の花々が常に咲き誇る温室であります」
 そこで言葉を切ると、職員はカイルとフィオナにほんの少し含むような笑みを向けた。嫌なものではない、どこか見守るようなそんな微笑みだ。
「甘やかな香りが漂い、色鮮やかな花々が織りなす光景は恋人たち……とりわけ若い夫婦の散策にぴったりだと評判なのでございます。花の小径を歩けば、まるで夢の世界に迷い込んだかのような心地になること請け合いです!」
「そ、そうなのですね……」
 職員の意図を察し、フィオナはそっと目を伏せた。指先が無意識にドレスの飾りを揺らしてしまう。思いもよらぬ逢引場所のおススメにカイルも苦笑する。
「では後でそちらも拝見させてもらおう。だが最初にフィオナを案内したいところがあってね」
「どちらですか?」
 するとカイルは人差し指を立て天井を指し示した。
「上さ」
 展望回廊に出ると、思わずフィオナは目を見開く。
「うわぁ……」
 眼下に広がるのは、石畳の街路を縫うように伸びる大通りと、赤茶色の屋根を連ねる街並み。陽の光を受けて、瓦は柔らかく煌めき、煙突からは白い煙がたなびいている。遠くには王城の尖塔がそびえ立ち、陽光を反射して白銀に輝く。その上に掲げられた旗は風を孕み、王国の象徴をはためかせていた。
「すごい、王都がすべて見渡せますね」
「ルミエール・パレスは王宮の次に高い場所にございますので」
 驚きと感動の呟きに職員が得意げに応じる。
 フィオナは胸に手を当て、輝く街並みに目を細めた。
「……たくさんの人たちがここで、暮らしているのですね。生きて、笑って……」
 目の前には命が、営みがある。
 それを初めて実感した気がした。これまで聖女としてたくさんの人と接してはきたが、彼らの暮らしに思いを馳せる機会は少なかったから。
 胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じる。
(私、本当に狭い世界にいたのね)
 もちろんそれは聖女を守るためであったとわかっている。知るとはなんと罪深いことか。世界は、こんなにも美しいのだ。
「フィオナが守ったものだよ」
「えっ!?」
 カイルの思わぬひと言葉に、フィオナは目を瞬かせる。しかし周囲の者たち――護衛の騎士や侍女、さらには案内役の職員まで当然だとばかりに頷いている。
「いえ私は何もしていませんわ」
 帝国から勝利をもぎ取った勇者は、実際に剣を持ち戦った者たちだ。だが周囲の者たちは一様にそれを謙遜だと受け取ったらしい。
「あの山のあたり、見えるかい」
 カイルが王都の東を指さした。城壁の向こうに、なだらかな稜線が幾重にも重なっている。
「一時、帝国軍はあそこまで迫っていたんだ」
「……こんなに近くまで」
「あの時、王国軍が踏みとどまれたのは、フィオナが……聖女たちが力を与えてくれたからだよ」
 カイルの声は淡々としていたが、その響きには確かな敬意が込められていた。
(私の祈りなんて、ほんのささやかなものにすぎないのに)
 救った命よりも、救えなかった命の方がずっと多い。それでも皆は「その祈りが力を与えた」と信じてくれている。
(私の力だけじゃない。みんなの力がこの国のためになったのね)
 ひとりの力では到底及ばなかった。それもちゃんと、認めてくれた。
 カイルの言葉に、周囲の人々の眼差しに、胸が熱くなってくる。
 しばし黙ったまま、フィオナは王都の風景を見つめる。そっとカイルが寄り添ってくれるのが、何よりも嬉しい。
 けれどなぜだろう。目の前の景色が滲み揺らいで見える。
 滲んだ涙を指で拭ったフィオナの耳元に、カイルがそっと囁いた。
「……次は、屋内庭園に行こうか」
 低く穏やかな声にフィオナは顔を上げ、潤んだ瞳でこくりと頷く。
 ふたりで寄り添いながら、回廊を後にする。
(少しずつだけど)
 自分の中で何かが変わり始めている。そんな不思議な感覚があった。

「今日はありがとうございました」
 見送りまでしてくれた職員にフィオナは丁寧に礼を述べる。
「存在そのものが芸術であるというご説明の通り、何を見ても心が動かされる素晴らしい場所でしたわ」
「そのように仰っていただけますこと、我ら管理する者にとって何よりの励みでございます。またお越しいただけます日を、心よりお待ち申し上げております。どうぞいつでもお立ち寄りくださいませ」
「機会がありましたら」
 死ぬまでにもう一度来られるだろうか。これから領地で暮らすとなれば難しいだろう。嘘はつきたくなくて、フィオナは言葉を濁した。
「最後にもう一度見ておきたいところはある?」
 フィオナの心中を察してか、カイルが優しく尋ねてくる。その気遣いにフィオナは少しためらいつつも答えた。
「……芝生に座ってのんびりしてみたいです。みんなみたいに」
 言うや否や、カイルは「承知した」とだけ言い、即座に芝生の広場へ向かった。
 突然の王子の行動に周囲がざわつく中、カイルは真剣な顔で上着を脱ぎ、芝生の上に広げた。
「さあ、おいで」
 どこか誇らしげに差し出されたのは、フィオナ専用の特等席だ。
 結婚してからもはや慣れた主人の行動とはいえ、護衛の騎士や侍女は苦笑を隠し切れない。
 見送りの職員たちは一斉に視線をそらし、通りすがりの婦人は「まあまあまあ……」と口元を押さえ、近くで遊んでいた子供までもが「王子様って……すごいね」と呟く。
 当のふたりだけが、その反応にまったく気づかない。
 フィオナはその紳士的な振る舞いに戸惑いながらも、恐る恐る上着に腰を下ろす。そして柔らかな芝生に触れた瞬間、ぱっと表情がほころんだ。
(ああ……この感触、久しぶり)
 その笑顔を見たカイルの表情がとろけ緩んだのを目に入れぬように、周囲はそっと顔を背けた。誰もが赤面するほどの甘さなのに、自分たちしか見えていないふたりは、仲良く語らい始める。まるで世界にふたりきりであるかのように。
「神殿の庭で、よくこうして過ごしていました」
「仲間と?」
 カイルの問いかけにフィオナは頷く。思い思いに過ごしている人々を見て脳裏に蘇ったのは、神殿でのひと時だ。
 神殿の庭で、奉仕の合間にみんなでお茶を飲む時間。それは静かで、穏やかで大好きな時間だった。
「神殿に入る前も家族でよくピクニックに行ったんです。街から少し離れたところに丘があって」
 家族で足を運んだ故郷の丘を思い出す。兄や姉と走り回り、家族で軽食を取った。何もない場所でも、楽しかった。
(伝えなきゃ)
 心の内を見せるのは、やはり少し照れ臭い。それでも口にしなければ届かない。
「だから今日……カイル様とも同じように過ごせて……すごく嬉しい、です」
「私もフィオナと一緒に過ごせて嬉しいよ」
 微笑んだカイルが、フィオナの頬を撫でる。ざらりとしたその感触が好きで、フィオナはそっと頬を寄せた。温かく傷だらけのその手は、カイルの生きざまそのものだから。
 しばらくそうしていると、ふと遠巻きに向けられる人々の視線に気づく。
 英雄王子と聖女の姿は、王都に生きる誰にとっても特別だ。ざわめきと好奇の眼差しを浴びて、フィオナは羞恥に頬を赤らめる。
(みな、見守ってくれている)
 だがそう思うと恥ずかしいけれど、受け入れられた。
 ……実際は恐れ多く、さらにあまりにもふたりの世界を楽しんでいるのを見せつけられ、誰も近寄れないだけなのだが、フィオナがそれに気づくことはない。
 ふたり並んで王都の街並みを眺めていると、そっと肩を抱かれ引き寄せられる。フィオナはされるがまま隣の夫に身体を預けた。
(幸せ)
 実感と共に沸き起こった幸福に、フィオナはしばし酔いしれる。
「はい」
 すると口元に琥珀色の粒が差し出されたので、フィオナはぱかりと小さな口を開ける。
 ぽん、とその中に放り込まれたのはいつものキャラメルだ。
 こうしてふたりで穏やかに過ごしていると、カイルはキャラメルをフィオナの口へ差し出してくる。
 最初こそ戸惑ったが、いつの間にか手ずから食べさせてもらうことに慣れてしまった。カイルがくれるキャラメルは世界で一番美味しい。
 ルミエール・パレスだけでなく、想定外のピクニックまで楽しんで、家路についた。
「ずいぶん長居してしまったね」
「でも……すごく楽しかったです」
 カイルが労わるように微笑んでくれたので、フィオナも笑みを返す。
 馬車で丘を下っていると、太陽がゆっくりと傾いていくのがわかった。とろりと濃度を増した鮮やかな陽の光を受け、街が金色に包まれていく。
 やがて夜の帳が下りると、家々の窓に明かりが灯り、まるで地上の星のように瞬き始めるのだろう。
 日ごと夜ごとに繰り返される、人々の営み。
 それを守ったのが自分と仲間たちだと思うと、誇らしかった。
(戦争は、本当に終わったのね)
 もう誰も傷つくことはない。それが確かな実感としてフィオナの心に落ち着いた。
(みんなに話すことがまた増えたわ)
 本当は、自分ひとりだけが生き残り、こうして楽しんでいることにフィオナは強い罪悪感があった。
 けれど今はそこまで感じない。
どうせもうすぐフィオナも後を追う。ならばたくさんの土産話を持っていこう。神の庭で再会した時のために。


「あのね、カイル様って花の名前をたくさんご存じなの。花言葉にもお詳しくて、庭園でたくさん教えていただいたわ!」
「それはようございました」
「それでね……」
「フィオナ様」
 息を継ぐのも惜しいとばかりに話し続けるフィオナにグレタが苦笑する。
「そろそろお休みの支度をなさいませんと。お話の続きはまた明日にいたしましょう」
「あ……ご、ごめんなさい」
 かなり自分が浮かれていたことに気づき、フィオナは小さくうなだれる。
(つい、みんなと一緒だった時みたいに話してしまったわ)
 神殿での生活は安定していたが、言い換えれば単調で刺激が少ない。ひとりに珍しい出来事が起こると、みなが話を聞きたがる。その時の癖が抜けていないのだ。
 元は地方貴族の生まれだが、幼くして神殿に入り聖女として暮らしてきたフィオナには、神殿と関わりのない友人・知人がいない。そして神殿で親しくしていた同輩も、もういない。
「カイル様のことを話せる相手があなたしかいなくて……」
 グレタも地方の小領地の生まれで似たような育ちをしていると知ってから、以前よりもずっとグレタに頼りっぱなしである自覚はある。
「本日の外出、本当に楽しかったのですね」
「ええ、とても!」
「おふたりがどんどん愛を深められているようで、よろしゅうございますわ」
「愛……そうね」
 フィオナは熱くなり始めた頬を押さえながら頷く。優しいカイルとの夫婦生活は順風満帆であった。
 しかし実はカイルと仲がよくなればよくなるほど、フィオナは心にある懸念が大きくふくらんでいくのを感じていた。
「グレタ……あの、ひとつ訊いてもいいかしら」
「もちろんでございます。なんなりとお申し付けくださいませ」
 グレタはフィオナのどこか不安げな様子を感じ取ったのか、姿勢を正す。真剣に向き合ってくれたことにほっとしながら、フィオナは結婚当初からの懸念を初めて口に出した。
「あの、私とカイル様って毎日一緒に眠っているでしょう?」
「さようでございますね」
 当然だとばかりにグレタは大きく頷く。
 あの初夜以降、ふたりは同じ寝台で寝起きしている。抱き合って眠るのはフィオナにとって至福の時間だ。
 そればかりか、最近は頬や額ではなく唇に口づけたりしている。
 親愛のそれではなく、夫婦の口づけだよと言われて、とんでもなく恥ずかしくて、そして嬉しかったことを思い出し、フィオナの頬が熱を持つ。
「えっと、このままだと……その……私、子供を授かってしまうのではないかしら」
「……フィオナ様、申し訳ございません。もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか」
 グレタが一瞬呆気にとられたような顔になったのを、恥ずかしさから目を伏せていたフィオナは見ていなかった。
「だから、一緒に寝ていたら子供を授かるのではないかって。同じ寝台で眠る仲の良い夫婦に神は子供を授けてくださるのでしょう? 一緒に休まなければいいだけだってわかってはいるけど、私……」
 言葉を重ねるほど、フィオナの声はどんどん小さくなっていく。
 妊娠は十月十日子を身の内で育むという。しかしフィオナの時間は子供を育むほどは残されてはいないはずだ。ならば授かってもこの世に生み出してあげられない可能性が高かった。
 しかし子供を神の庭に連れていくわけにはいかない。絶対に。
 だが、一緒に眠ることはやめたくない。カイルの腕と温もりから離れたくない。
「だからどうしたらいいか、わからなくて……」
 散々悩んだがカイルではなく同じ女性であり頼りになるグレタなら何かいい知恵を持っているのではないかと頼ったのだが。
「フィオナ様」
「はい……って、グレタ、どうしたの?」
 手元に落ちていた視線を上げると、グレタの綺麗な顔が思いきり顰められている。
「……なにから申し上げてよいのか、少々迷うのですが」
 そしてグレタは深々とため息を吐き、続ける。
「まず、夫婦がお休みになるのをご一緒されるだけでは、子は授かりません」
「えっ!? そうなの!?」
「ええ、ご安心くださいませ」
「よかった……」
 まだ何も宿っていないお腹に、フィオナはそっと手を当て息を吐く。しかしこうなると新たな疑問が湧いてくる。
「ならどうしたら神は子を授けてくださるのかしら」
 問いかけた途端、またグレタは表情を歪ませる。普段の彼女では絶対にあり得ないことだ。
「ごめんなさい。私、何か悪いことを尋ねてしまったかしら」
「いえいえっ! フィオナ様は何も悪くございませんわ! 余計な口出しせずに見守る方がよいと判断しておりましたが……ああ、私が至らぬばかりに……っ!」
 グレタは何かを悔やむように早口で呟くと、真剣な表情でフィオナに向き直り言い放った。
「ありていに申しますと、フィオナ様とカイル殿下は、まだ本当の夫婦ではございません」
「ええっ!?」
 あまりにも衝撃的すぎて、フィオナは目を見張る。
「……か、神の前で誓ったのに?」
 神殿で執り行われた婚姻の儀は正式なもののはずだし、フィオナは今一時的に王族として扱われている。これで夫婦でないなら今のふたりの関係はなんなのだろうか。
「神の前で交わす誓約と、本当の夫婦の在り方は別でございます」
「本当の夫婦」
 フィオナは、ごくりと唾を飲み込む。
(カイル様と、本当の夫婦になりたい)
 それは自分でも驚くほど自然に湧いてきた欲求だった。
「どうすればなれるの?」
「僭越ながら」
 真剣な面持ちで尋ねたフィオナにグレタはゴホンと空咳をしてみせた。
「私がフィオナ様に『本当の夫婦のありよう』をご教授させていただきます」
 グレタは少し頬を赤らめながらも、説明を始めた。
「……以上が子供を授かるために必要な『本当の夫婦のありよう』でございます」
 植物のおしべとめしべから始まったその説明は、決して短くはなかった。……むしろかなり長かった。しかし聖女として培われた生真面目さでフィオナはきちんとすべて聞いた。
「待って、待って、……えっ……えっ?」
 そして内容を飲み込んだ瞬間、その顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「そ、そんな……そんな……私、ぜんぜん知らなかった……!」
 両手で口元を覆ったままフィオナは固まってしまう。顔どころか耳まで真っ赤だ。
 そんな主にグレタは落ち着いた声色で微笑んだ。
「無理もございませんわ。本来であれば婚姻が決まった時、母や女の親族から密やかに伝えられることでございますもの」
「……グレタ。教えてくれて、ありがとう」
 本来であればグレタの立場で語るべきではないことを、心を砕いて教えてくれた。自分のために職分を越えた行為をしてくれたことにフィオナは感謝する。
「滅相もございません」
「……カイル様は当然『本当の夫婦のありよう』をご存じよね?」
「もちろんでございます。ですから何も心配はいりませんわ。基本殿下にお任せしていればよろしいかと」
「そう……」
 フィオナは深刻な表情でうつむく。その仕草をグレタは若い娘の懊悩だと微笑ましく見守る。
 しかしフィオナの心中はまったく違っていた。
(……カイル様はご存じだったのなら、なぜ今まで私にそれを望んでくださらなかったのかしら)
 芽生えた疑念に囚われたフィオナは、答えを求めるようにグレタを見た。
 その瞬間、答えにたどり着く。
(も、もしかして……私があまりにみすぼらしくて、お相手にする気になれないのでは!?)
 グレタを始め、王宮の侍女や女官たちは、皆洗練された美人ばかりだ。
 王宮で生まれ育ったカイルにとって、フィオナは女ではないのかもしれない。
(それはそうだわ。戦場でボロボロだった私もご存じなのだもの。いくらグレタが綺麗にしてくれたからって、私は何も変わっていない)
 小柄なくせにがっしりとした身体つきで、愛嬌のある顔。美人では、ない。
(私なんかじゃ、何もかもカイル様に相応しくないもの)
 フィオナはもう力も使えない役立たずの聖女だ。家柄も、容姿も、立場も、なにもかもが釣り合わない。
 そう思った瞬間、痛みを覚えて胸を押さえる。息まで詰まりそうになるが、すぐに思い直した。
(きっとお優しい方だから、同情して、私を娶ってくださったのだわ)
 フィオナが家族が欲しいなんて、言ったから。
(私、とんでもないことをしてしまった……)
 今さら悔やんでも、もう神の前で誓いを立ててしまった以上、ふたりは夫婦だ。そして神殿の教えではやむを得ない理由以外での離婚は認められていない。
「さあフィオナ様、寝る支度をいたしましょう」
「そ、そうね……」
 グレタに促され、フィオナは立ち上がる。しかしその頭の中では、これからどうすべきか必死に考えを巡らせていた。

 フィオナが寝室の扉を開けると、大抵すでにカイルの姿がある。
 今夜もベッドの上に寄りかかり、枕を背もたれ代わりにして半身を起こしていた。手には書類がある。フィオナと共に眠るために、無理をして仕事を切り上げ待っていてくれているのだ。
(美しい人)
 健康で溌剌とした若い男性は命の塊だ。カイルを見るたびにフィオナはなによりも彼の持つ生命力に、その力強さに圧倒される。
(こんなに美しい人を私に縛り付けてはいけないわ)
 終戦からここに至るまで、あまりにもいろんなことがありすぎた。ある意味自分を少し見失っていたのかもしれない、とフィオナは我が身を振り返る。
(どうせもうすぐ死ぬのだからって……そんなこと私以外の人には関係ないのに)
 最期なのだから好きにさせろ、と心のどこかで思っていたのではないか。
 死を盾に物事を自分の思い通りにしようとするのは、喉元に刃物を突き立てて迫ることと同じではないか。
 改めて己を省みると、近頃の自分はなんと傲慢な振る舞いをしていたのだろう。
「フィオナ」
 しかしカイルはフィオナの姿を認めると、至極嬉しそうに微笑み緩く腕を広げてみせた。ここにおいでと誘うように。
 いつもならば喜んでその腕の中にかけていくところだ。
 しかし今夜はその穏やかな声に胸がぎゅっと痛んだ。こんなに優しい人をフィオナは縛り付けてしまったのだ。
 フィオナはおずおずとカイルに近づくと、すでに馴染んだ腕の中ではなくその隣にちょこんと腰かけた。
「今日は出かけたから疲れてしまったかな」
 労わるために伸びてきた手に、びくりと身体が跳ねる。
「……フィオナ?」
 そこでカイルもフィオナが普段と違うと気づいたのだろう。伸ばされた手が所在なさげに下ろされる。
「どうしたんだい?」
「……あの、カイル様」
 意を決し、フィオナは口を開いた。
「ん?」
「私……気づいたのです。あなた様が私に同情して、結婚してくださったのだと」
 カイルの動きが止まる。ややあって瞬きをひとつしたあと、カイルは呆然と呟いた。
「同情?」
「ええ……。私が家族なんて望んだばかりに、命の恩を返すため自らを犠牲にしてくださったのでしょう? それなのに私……喜んでしまって……」
 覚悟を決めたはずなのに言葉は途中で力を失っていく。
 そんなフィオナを見て、カイルは顔色を変えた。
「フィオナ、僕は自分を犠牲にしたなんて思っていない! むしろ、あなたと夫婦になれたことを毎日神に感謝している」
 熱のこもったカイルの物言いに、フィオナはそっと視線を伏せる。
「……そんな、気をつかわせてしまって」
「違う! いや、確かに気はつかっているが……そういう意味ではなくて!」
 思わず身を乗り出したカイルの必死さは、自らの不甲斐なさに囚われているフィオナへは正しく伝わらない。
「カイル様は本当に、お優しい方です……。でも私がしたのは当然のことですから、私個人に何か返す必要なんてありませんわ」
 癒しの力は聖女個人のものではない。神の意志を代行しているだけだ。
 それなのにあまりにもみなが、カイルが喜んでくれるものだから、いつの間にか自分が特別だと思い上がっていた。
(なんて身勝手だったのかしら)
 フィオナは手をぎゅっと握りしめる。
 本当は結婚なんてせずに、神殿で皆の冥福を祈りながら、大人しく死を待つべきだったのだ。
 しかしもう結婚してしまった。
 神殿には戻れないし、英雄と聖女の婚姻だ。そうやすやすと離婚が認められるとも思えない。
(なら、せめてこれ以上、迷惑をかけないようにしないと)
 勇気を振り絞り、フィオナは震える声で告げた。
「ですから……寝室を別にいたしましょう」
 それは、フィオナからすれば、精一杯の気遣いだった。
 結婚し、家族となってくれただけで十分すぎる。
 自分のためにこれ以上カイルの人生を犠牲にしてほしくない。ただそれだけの気持ちだったのだ。
「……今、なんと?」
 低く押し殺した声をこぼしたカイルの眉間に、深い皺が刻まれる。それを見てフィオナは自らの失敗を悟る。
「申し訳ございませ……きゃっ!」
 咄嗟に謝った次の瞬間、フィオナの身体は強くたくましいカイルの腕の中に囚われていた。
「……もう嫌になってしまったか?」
「えっ」
 耳元に落ちたのは、いつものカイルの声ではなかった。弱々しく恐れに満ちたそれは、震えてすらいた。
「優しいおじさまではない僕に、幻滅したんだろう?」
「そんなことありませんっ!」
 カイルの言い分が信じられなくて、フィオナは声を張り上げた。
 殺伐とした戦場で自分を気遣ってくれたおじさまのことは、今も大切に思っている。むしろカイルとおじさまが同一人物であったと知ってむしろ愛しさが増した。
「あの時も、そして今も……カイル様は私に手を差し伸べてくれる優しくて……大好きな人ですっ!」
 だからこそ、もうすぐ死ぬ自分に縛られることなく生きてほしい。ただそれだけなのに。
「ではなぜ寝室を分けようと?」
「私はただ……カイル様の負担になりたくなくて……」
「負担?」
 その言葉を繰り返したカイルの声は、疑いと驚きがあった。
「フィオナは私が君を同情で娶ったと、本気で思っているのかい?」
 カイルはまるで逃げ場を与えぬかのように、フィオナの顔を覗き込んだ。美しく真剣な眼差しに、フィオナは顔を赤らめ視線をそらす。
「せ、聖女と結婚することにも、意味があったのでしょう?」
 人々の箍の外れた歓迎ぶりや結婚の際の神殿の態度を見ていたら、世間知らずのフィオナでもさすがにわかる。今や聖女という存在は戦勝のシンボルだ。王族と結ばれる意義は大きいだろう。
 しかしフィオナの問いかけに、カイルの表情が苦虫を嚙み潰したようなものに変わる。
「……いやいやいやいや!」
 カイルは思わずといった様子でぶんぶんと首を横に振る。
「まあ、意味はあったよ。あったんだけども」
 カイルは額に手を当て、ぐりぐりと揉みながら続けた。
「でもそれは目的と手段がまるきり逆だ」
「えっと……どういうことでしょう?」
 首を傾げたフィオナに、カイルはまるで覚悟を決めるかのように深呼吸すると、かっと目を見開き続けた。
「君だよ、フィオナ。君がよかったから結婚したんだよ! 聖女だから結婚したんじゃない! 国のためとか、そういうのは後からくっついてきただけ!」
「え……?」
 まったく予想だにしなかった言葉に、フィオナは思わず目を瞬かせる。
「というか……そもそも同情で結婚など、王族ができるわけがないだろう。結婚相手を求められたなら、適当に釣り合う相手を見繕って終わりだ」
「それは、まあそうかもしれませんけど、カイル様はお優しいから」
「だから――っ!」
 いまいち伝わっていないことを察したカイルが泣きそうな顔で叫ぶ。
「そもそも君が王宮に呼ばれたのは私が望んだからだ!」
「えっ……?」
「フィオナに会いたくて、神殿に無理を言ってどうにかこうにか実現させた。陛下には笑われたし、兄には呆れられたよ」
 だが、とカイルは一度言葉を切った。そしてフィオナをまっすぐ見つめる。
「どうしても、譲れなかった! 命を救われたあの日から、君の姿がずっと心に焼き付いて離れないんだ。このままでは死んでしまうと思った」
「し、死ぬんですか?」
「死ぬよ! いろんな意味で!」
 やけっぱち気味な叫びに、フィオナはぽかんと口を開けてしまう。
「同情であるはずがない。フィオナとどうしてももう一度会いたかった。側にいたいと願った。私が先に、望んだんだ!」
 燃えるような熱を宿した瞳に射貫かれながら告げられたのはカイルのむき出しの本心だった。
「そんな……」
 あまりにも強い感情を前に、フィオナは言葉を失う。
 これまでずっとフィオナの我が儘に巻き込んでしまったと思っていた。子供のような願いを叶えてくれたのは優しいからだと思っていた。けれど、そこにあるのがフィオナへの切望であったのならば。
(嬉しい)
 胸が温かい喜びで満たされていく。望まれることがこんなにも嬉しいなんて。しかしその喜びに浸る暇は、与えられなかった。
「では、撤回できるね?」
「えっ」
「寝室を別にする必要はないだろう? ……同情ではないのだから」
 たくましい腕だけでなく、熱を帯びた視線にも捕らえられ、逃げ場はない。
「で、でも……私たちが『本当の夫婦』になっていないのは、カイル様が私を……つ、妻として、見られないから、なのでは……?」
 できる侍女であるグレタの講義には、ちゃんと初夜の解説も入っていた。フィオナは知識の偏りはあるものの、考える力はある。
 初めての夜、木綿の寝間着ではなく、透けるように薄い布で仕立てられた寝衣を着せられたこと。
 そしてあの寝衣が二度と着せられることがなかったこと。
 このふたつの事実から導き出した答えが、同情だったのだ。
 戸惑いと不安が混じったフィオナのたどたどしい問いかけに、カイルは苦々しげに眉を寄せ首を横に振る。
「違う! 夫婦になったからこそ……今さらだが、段階を踏みたかったんだ」
「段階……?」
「そうだ。優しいおじさんではなく……男として、見られたかった。だがあなたはあまりにも……」
 そこでカイルは一度困ったように言葉を切った。
「……その、純粋だったから」
 精一杯言葉を選んでくれたことにフィオナは苦笑する。
「知るべきことを、知らなかっただけです」
 結婚して家族になるということを、ちゃんと理解していなかった。それは自分にも非がある。
「いや、僕が悪い。ただ君に拒まれたくなかった。それだけだ」
「私がカイル様を拒むだなんてあり得ません!」
「うん、そうだね。今、それがわかった」
 カイルの瞳に、炎のような熱と光が揺れる。
(なんて、綺麗なのかしら)
 まるで魅入られてしまったかのように、カイルの瞳から視線を外せない。そこには自分の呆けた顔が映っている。
「……フィオナ、僕はあなたを妻として、ひとりの女性として、愛している」
 まっすぐに向けられたカイルの気持ちを飲み込んだ途端、胸の奥からせり上がる何かが視界を滲ませた。
(同情では、なかった。愛してくれていた)
 フィオナの心に熱いものが満ちていく。それは歓喜や安堵、困惑……様々な感情が入り混じったフィオナ自身もつかみ切れない感情だ。
「……本当に、私を……?」
 心に渦巻く感情がまるで疑うように確かめさせた。
「そうだ。私はフィオナを愛している」
 しかし返された短くも力強い肯定に、フィオナの眦から光る雫がこぼれ落ちる。それは悲しみの発露ではない。
「……嬉しい……」
 呟いた言葉は優しく塞がれた唇の中で溶けた。
 フィオナが反射的に目を閉じていたのは、そうするものだと教えられたからだ。押し当てられた柔らかな感触から生まれる喜びが胸を満たしていく。
「……っ!」
 しかし触れるだけのはずの唇をやんわりと食まれ、フィオナは驚きで身体を強張らせた。
(そうだ、これが……本当の夫婦の、口づけなんだ)
 腕の中でフィオナが固まったことに気づくと、カイルはなだめるように背中を撫でてくれる。その温もりに。
(これは、私が望んだこと)
 カイルと本当の夫婦になりたい。

「んぁ……」
 ゆっくりと身体から力を抜くと、カイルの腕の力が強まる。すべてを任すに値する、たくましい腕にフィオナはなんの心配もなくわが身を委ねた。
 小鳥のさえずりのような音と共に、唇を啄まれる。刺激よりも唇が鳴らす音がなぜだか恥ずかしくて、フィオナの頬が赤く染まる。
「嫌ではない? 怖くない?」
 しかし口づけの後の優しい問いかけの中、ほんの少し滲む怯えにフィオナは気づく。背を撫でる手の、かすかな震えにも。
「カイル様は……怖いのですか?」
 フィオナが尋ねると、カイルは虚を突かれたように目を見開いた。
 カイルがしてくれることでフィオナが嫌だと思うことなんてひとつもない。そんなことはとっくに伝わっていると思っていた。
「怖い、そうだね。……フィオナを傷つけてしまうのが怖い」
 そろりとカイルは指の背で、フィオナの頬を撫でる。荒れた手のひらではなく、まだ少しだけ柔らかさが残った部分で触れてきたこと。その仕草に彼の恐れが表れていた。
「……カイル様、傷ついていらっしゃるのですね」
 そして多くの兵士を癒してきたからこそ、フィオナは知っている。
 人を傷つけると、傷つけた人間もまた、傷つくのだ。
 心が削れて、壊れてしまうのだ、と。
 壊れた心は鋭く尖り、意図せず人を刺す。そうして相手を傷つけたことで、また心は壊れて刃物のように研がれていく。悲しい悪循環。
(きっと、カイル様は誰かを傷つけてしまったことがあるのね)
 癒しの力で身体は癒せても、心は癒せない。そんな人たちを優しく神の言葉で導くのも聖女の役目だった。
 カイルが傷ついているのなら、慰めてあげたい。何も恐れることはないと言葉を尽くして教えてあげたい。もう戦争は終わったのだ。
「大丈夫です。カイル様の手は、私を傷つけません」
 そうと示すように、フィオナは手へ頬をすり寄せ、微笑んだ。
「私を守ってくださる、優しい手です」
 それに、とフィオナは続ける。
「傷ついても、平気ですよ。私には癒しの力がございますから」
 実際にはもう癒しの力はほとんど残っていない。けれど、カイルになら本当に傷つけられても構わない。その想いに偽りはなかった。
「傷つけるだけでなく……フィオナを穢してしまうのが、怖いよ」
 まるで幼子のように吐露された不安に、フィオナはなんでもないと示すように微笑みを返す。
「夫婦が愛し合うのに、穢れるなんてあり得ません」
 それは無知ゆえの答えだったのかもしれない。けれどフィオナの純粋な答えが、カイルを縛っていた恐れを解き放った。
「フィオナ……!」
 再び唇が塞がれる。重ねられた口づけは浅くも軽くもなく、喉の奥まで熱を流し込んでくる激しさを帯びていた。
「……んぁっ」
 熱く湿った舌で口腔を撫で上げられると、身体の奥でこれまで経験したことのない感覚が生まれ広がっていく。しかしそれは不快ではない。むしろ……心地よい。
 気づけばフィオナはカイルに縋り付いていた。
 より深く繋がれる場所を探すように、何度も角度を変え重ねられる口づけにフィオナは溺れる。
「あふ……んぁ……」
(苦しい)
 呼吸が乱れ、息を継ぐたびに声が漏れる。それでもやめてほしいとは思わなかった。
「ん……ふ……っ」
 舌が誘われ、絡まる。ざらついた感触に身体が震え、甘い感覚の波が押し寄せてくる。
 無意識に舌を動かし、注ぎ込まれる吐息を受け入れ、唇を存分に味わい、吸い付く。
 口づけで生まれる音と感覚はあまりにも生々しすぎて、フィオナのすべてが暴かれていくようだった。
 やがて、深い口づけから解放された時、フィオナは息も絶え絶えになっていた。頬は赤く染まり、胸はせわしなく上下している。
「フィオナ……いいか?」
 カイルの何度目かの問いかけは確認ではなく、哀願だった。
 その声色に滲む切実さに、フィオナの心は激しく揺さぶられる。
(……こんなにも美しくて強い人が、私のことを求めてくれている……)
 聖女ではなく、フィオナというひとりの女を求め、カイルもまた今はひとりの男として許しを乞うている。その事実に胸が震えた。
「……私は、嬉しいのです」
 か細い声で、それでも精一杯の想いを告げる。
「私を妻として、女性として……カイル様が望んでくださることが」
 その言葉に、カイルの瞳が揺れた。炎のように燃え盛る熱の奥で、安堵と歓喜が混じる。
「フィオナ……」
 低く名を呼ばれただけで、涙がまたこぼれそうになる。
 フィオナは震える手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「私をカイル様の本当の妻に、してくださいませ」
「もちろんだ。……絶対に離さない。僕の最愛」
 あふれんばかりの情熱と愛をフィオナに捧げたカイルは、フィオナをそっとベッドへ横たえる。そしてゆっくりと覆いかぶさると、唇を降らせてきた。
「ん……ぁ……」
 額に、頬に、鼻の頭に、フィオナという人間の輪郭をなぞりながら唇が伝っていく。そうして首筋まで下りてきた時、甘い感覚の波がまた押し寄せて、フィオナを震えさせた。
「あ……っ」
 唇を降らせながら、カイルの手が検めるようにフィオナの身体を撫でる。指先が布越しに肌を探るのを感じた時、声が漏れた。
「嫌?」
 耳元に寄せられた唇で囁かれ、フィオナは首を横に振る。
「あの、どうしたらいいか、わからなくて……」
 戸惑うフィオナにカイルは「大丈夫」と柔らかく笑う。
「すべて僕に任せて、そのままのフィオナを見せて」
「は、い……」
 囁きと同時に、寝衣の釦が外される感覚があった。ひとつ、ふたつと開かれていくたびに逃げたくなる羞恥と、抗えぬ期待がフィオナの胸の奥でせめぎあう。
「……あっ」
 肩から寝衣が滑り落ち、肌が露わになる。しかし反射的にそれを隠すように動いた手を取られた。その指先にカイルは唇を寄せ囁く。
「隠さないで」
 鋭く、けれどまっすぐな眼差しに抗うことは難しかった。けれど羞恥に耐え切れずフィオナは目を閉じる。
「……あぁっ!」
 唐突に胸に唇が触れた瞬間、フィオナの身体が跳ねた。
 すでにカイルの唇は何度もフィオナの肌に触れている。それなのにふくらんだ胸の先端を軽く口に含まれただけで、焼けつくような衝撃に襲われる。
「やっ、あぁんっ」
 自らの口からこぼれた甘く高い声にフィオナは驚く。
(わ、私、どうしてこんな声を……!?)
 グレタから教えられた「夫婦の営み」と今感じていることのあまりの違いにフィオナは混乱する。まるで媚びるような声はとんでもなく恥ずかしく、聞くに堪えない。
 けれど抗おうとすればするほど、声は止まらない。
「ああっ、やっ、んっ、あぁ……っ!」
 波のように次々と強い刺激に襲われ続け、フィオナは身もだえる。
「だめっ、んんっ、あぁぁっ」
 カイルの舌で頂を弾かれた瞬間、身体の奥からせり上がる熱で息が詰まる。
 さらにふくらみを荒々しくも優しく揉みしだかれると、そのあまりの刺激の強さに身体がびくびくと跳ねた。
 刺激から無意識に逃げようと身をよじっても、非力なフィオナがカイルの大きな身体から抜け出すことなどできるわけもない。なによりそんな抵抗はすべてカイルによってなかったことにされてしまう。
「逃げないで」
「で、でも、恥ずかしくて、身体が熱くて……」
 戸惑いをそのまま口に出せば、カイルはなぜか嬉しそうに笑う。
「フィオナ。それを気持ちいいと言うんだよ」
「きもち、いい?」
 自分が知る「気持ちいい」と今の状態がまったく繋がらず、フィオナは頬を赤らめたまま首を傾げる。爽快感も心地よさもここにはない。あるのは焦燥感と熱、そして苦痛にも似た切なさ。
「ほら、言って。気持ちがいい、と」
 未知の感覚に困惑するフィオナへ、カイルの指と唇は熱くそして確実に快感を刻んでいく。
「あうぅっ、あっあっ」
 カイルの指や唇が与える刺激は甘い喘ぎになり、フィオナの口からこぼれ落ちる。
「フィオナ」
「はうっ、あっ、き、きもち、いい。きもち、いい……あぁぁっ」
 未知の感覚に自ら名前を与えた瞬間、身体が大きく跳ねた。身の内で暴れるこの感覚が快感であると身体が覚えてしまった。もう忘れられない。
「いい子だねフィオナ。もっと気持ちよくなろう」
 まるで果実の熟れ具合を確かめるような儚さと、ひねり潰そうとするかのような力強さが入り混じった絶妙な刺激に翻弄され、フィオナはただ喘ぐことしかできない。
 カイルという熱に炙られ、フィオナの身体はどんどん熱くなっていく。シーツに触れている背も、縋り付く手のひらにも汗が滲んでいた。
(もっと? これ以上が、あるの?)
 ただでさえこんなにも恥ずかしくて、おかしくなりそうなほどの快感を注がれているのに。荒い息を吐きながら尋ねるようにカイルを見る。するとカイルは笑みを浮かべたまま、欲望を孕んだ眼差しでフィオナの身体をなぞった。
「……んぁ……」
 ただそれだけで肌がざわめき身体は熱く震えてしまう。
(なんてこと)
 無垢なフィオナは知らずとも、身体はこの先を知っているのだと今、気づいてしまった。
(こわい)
 それは本能的な恐れだった。これから自分がどうなるのかわからない、先の見えない不安への恐れ。
 けれど、恐れならばどうとでもなることをフィオナは学んでいた。
 恐れが先立つ時はまず動け、だ。
「わたし、だけ、なのですか?」
 フィオナの問いの意味を量りかねたのか、カイルがいぶかしげに眉を寄せる。
 本当の夫婦になることに快感が伴うことは、グレタから聞かされている。けれどそれは一方的なものではないはずだ。
「もっと気持ちよくなるなら、カイル様と、気持ちよくなりたいです」
 ひとりで夫婦になどなれない。ふたりでなるのだ。
 フィオナがそう言った瞬間、カイルの瞳が大きく揺れた。
 次の刹那、彼は息を詰めたように唇を震わせ、何かを振り切るようにフィオナを抱き寄せる。
「……フィオナ」
 掠れた声が耳元をかすめる。その声音の熱に、フィオナの胸はどくんと大きく鳴った。
 気づけば唇を塞がれていた。
「んん……っ、あふぅ……ん」
 口づけの中に滲む焦りと熱が、かえって愛しさを訴えている気がして、フィオナは戸惑いながらも応える。
 口づけで容赦なく快感を注ぎながら、カイルの手のひらと指は、肌をなぞり切実で甘美な愛撫を施していく。
「……っ!」
 そしていつの間にか下着まで取り払われた下肢に、快感を落とす指がたどり着いた。
 髪と同じ色の下生えを撫で、指はゆっくりとその奥へと進んでいく。
「んあぁぁっ!」
 敏感なそこに触れられた瞬間、落雷のような衝撃がフィオナの身体を駆け抜けた。のけ反った拍子に唇が外れ、声が叫びのようにほとばしる。
 口づけよりも、胸を食まれた時よりもずっと強い。押し寄せる快感に、息が詰まる。
 カイルの指がフィオナ自身ですら身を清める時しか触れぬその場所を探るようにうごめいていた。
「ああっ、そこ、だ、だめですぅっ!」
 腹の奥から熱が生まれ、そこから何かが溶けだしてカイルの指を濡らしていく。その感触に、さらに羞恥と混乱が募る。
(私、どうなってしまうの……)
 口づけで知った快感は、素肌を撫でられ、胸をもてあそばれ、さらに見知らぬ場所を探られたことでどんどん強いものへと書き換えられていく。
 それはまるで身体を作り替えられているようだった。
 知ることは、後戻りを許さない。
 もうフィオナはこの感覚を知らなかった頃には戻れないだろう。それほどまでにカイルが与えてくれるものは圧倒的だった。
「あぁ……」
 両足が大きく割り開かれた時には、すでにフィオナは息も絶え絶えといった状況だった。快感の炎に炙られ続けた身体はもう熱くてたまらない。
 だから下肢にカイルの吐息を感じても動くことができなかった。いや、その先を想像することさえできず、力なく寝台に横たわるしかなかった。
 熱い吐息が下生えを揺らす。その感触に震えた身体から、じわりと蕩けた快感があふれ出した、次の瞬間。
「んあぁぁっ!」
 しとどに濡れたフィオナの花園に熱い口づけが落ちる。舌が蜜をすくい取るように動いた途端、叫び声がほとばしる。
 これまで散々味わってきたものよりもはるかに強く、比べ物にならない衝撃に、フィオナの身体は大きく弾んだ。
「ひぁっ……あっ、や、あぁっ!」
 カイルの舌がフィオナのあふれる蜜を舐めとる。襞をかき分け上へ下へと這い回る。そのたびに甘い痺れが深く広がり、息が詰まる。
「あうぅぅぅんっ!」
 ついに最も敏感な花芯を捉えられ、フィオナは悲鳴のような嬌声を上げた。
 じゅると蜜を啜る音が響く。淫らな水音に、鮮やかすぎる刺激に、羞恥と快感の区別がつかなくなっていく。そしてただ襲い来る大波に翻弄されるがまま、必死で息を継いだ。
「こ、こわ、い、です……」
 胸を塞ぐように恐れがせり上がってくる。与えられているのは苦痛ではない。むしろ心地よいもののはずなのに、自分がどうなってしまうのかまるで想像がつかなくて、怖い。
「フィオナ、怖くない」
 言葉と共に投げ出していた手に、温もりが重なった。カイルが手を握ってくれたのだ。
 手のひらを合わせ、指を絡ませるだけで、不思議と恐れが薄らいでいく。
「でも、また、わたし、ばかりで……」
「ふたりで気持ちよくなるのに、まずフィオナに喜んでもらわなければならない」
 行為とは裏腹の穏やかな声に頬を染める間もなく、新しい感覚が押し寄せる。
「えっ、やっ、んあぁっ!」
 何かが身体の中に入りこんでくる。硬くて長いそれが指だと気づくより早く、フィオナは声を漏らした。
「やぁ……っ、あっ……んんっ……!」
 舌とも唇とも違う確かな存在感が内を満たし、かき混ぜてくる。その異質な刺激に、羞恥と熱が絡み合って、フィオナの身体はもはや理性では抑えきれないほど震えていた。
 カイルの指は唇よりも舌よりも容赦なくフィオナの中に触れ、探り、さらに奥を目指し隘路を拓いていく。
 それは口づけで知った身体の内側を重ねる行為とよく似ていた。けれどはるかに生々しく鮮明で、フィオナは翻弄されるしかない。
(私の中に、カイル様がいる)
 自覚しただけでフィオナの身体がぶるりと大きく震えた。
 そしてフィオナは思い出す。グレタが教えてくれた「本当の夫婦」となる行為を。
(カイル様を、受け入れたら。そうしたら私たちは――)
 この身体の準備が整っているのかどうか、確かめられているのだ。ひとつになれるかどうか。
「カイル、さまぁ……」
 ならばカイルの言う通り、怖くない。
 戸惑いよりも恐れよりもずっとカイルとひとつになりたいという欲望が勝る。
「あぁ……フィオナ。こんなにも……」
 囁きは甘くかすれ、鼻先はまだ花園に触れている。それすら刺激に変わり、思わず声が漏れる。
「あっあぁ……っ」
 中を探る指が優しく、しかし明らかに大きく動いて、フィオナの柔襞を撫でる。内側から暴かれるような快感と、外側から指や舌が与える愛撫と重なり合い、もう思考は溶けて形を成していなかった。
「あっ……や……」
 身の内を探る指が増やされた頃、足元から、指先から、何か得体のしれないものが這い上がってくる、そんな不可思議な感覚に陥る。
 それは何かから追い詰められているかのような焦燥感を伴い、否応なしにどこかに引き立てられていくかのごとき、不思議で恐ろしい感覚。
「いや……なに、これぇ……」
 思わず首を横に振りながら、声を上げていた。見知らぬ感覚は快感と似ているのに、少しだけ違う。その曖昧さがかえって恐怖をかき立てる。
「フィオナ。大丈夫だ。そのまま、受け入れるんだ」
 なだめるカイルの声に縋り、フィオナはふくらみ続ける感覚に必死で向き合う。それしか道はなかった。
「んぁぁ……あぁぁっ!」
 少しずつ激しくなる身の内を探る指の動き。ずっと止まない淫らな水音。滴り落ちシーツを濡らす花園の蜜の感触。それらが坂道を転がる雪玉のようにフィオナの中で大きく育っていく。
「ああっ! こわいっ、こわいぃっ!」
「フィオナ、怖くない。さっき教えただろう? これは気持ちいいんだ」
「きもち、い」
 繰り返すと、少しだけ恐怖がやわらぐ。
「うんっ、きもち、い……きもち、いぃ、です……っ」
「いい子だ、フィオナ」
「あっあぁっ!」
 酩酊と正気の狭間で、フィオナは大きく身体をのけ反らせる。腹の奥が痙攣し、息が詰まる。
 眼前でちかちかと光が瞬く。それが終わりであることを教えられずともわかった。
「ああっ、やっ、きもち、い、いぃ……っ!」
 カイルの指が、唇が、最後のひと押しを与える。
「やあっ、あぁぁぁ――っ!」
 白い閃光が弾け、フィオナはそのまま快感の奔流に飲み込まれていった。
「フィオナ」
 快感の果てに流されたフィオナをカイルは優しい声で引き戻した。
 しかしいまだ身体は快感に侵されたまま、熱の余韻にうかされ、フィオナは寝台にただ力なく身を投げ出すしかない。
 けれど汗に濡れた頬を労るように唇が寄せられ、その温もりにほっと息を吐く。
「……っ」
 視線を感じ見返せば、カイルがじっとフィオナを見つめていた。その瞳には燃え盛る炎がある。けれど……どこか切なげに揺れていた。
「ひぅぅっ」
 フィオナを探っていた指が引き抜かれ、わずかな、けれど間違いない喪失感に身体が震える。
(ここが、カイル様で満たされるんだ)
 想像しただけで快感を覚えた花園の奥がひくつき腰が揺らめいた。
 カイルがフィオナにただ快感を注ぎ続けたのは、閉ざされた扉を開くのに必要だったからだと、今ならばわかる。
「フィオナ」
 再び名を呼んだ声は、明らかな焦燥と必死に押しとどめた欲望が滲んでいる。
 もう、恐れは感じなかった。
 求めているのはカイルだけではない。フィオナもまた、彼を強く強く求めていたのだ。
 フィオナは視線を合わせたまま、小さく頷いた。それが合図だった。
「……愛している」
 素朴で真摯な愛の言葉に、胸に温かくそして切ない気持ちが広がっていく。
「私も……愛しています」
 繋いだままの手をぎゅっと握る。もう離れないと示すかのように。
「あ……」
 誰にも踏み込ませたことのない花園に、カイルの熱を感じた。ただひとりの伴侶に開かれたその花園は、とろけ蜜を滴らせて満たされるのを待っていた。
「……っ!」
 あまりにもあからさまな己の身体が恥ずかしすぎて、フィオナは固く目を閉じる。
「大丈夫。力を抜いて。……ゆっくり、息を吐くんだ」
「は、はい……」
 促されるままフィオナは細く息を吐く。
「……んぁぁっ!」
 熱がゆっくりと入口を進んでいく。感触が伝わった次の瞬間、強烈な圧迫感を覚えてフィオナの喉から声が絞り出される。
 指や舌とはくらべものにならないほどの大きさと硬さを感じて、反射的に腰が引けてしまう。
「怖くない。フィオナ……僕を受け入れて」
 低く囁かれる声は欲望を隠していないのに、不思議と穏やかで、怯えるフィオナをなだめてくれる。

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