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呪われ王の執着愛 孤独な陛下は追放聖女だけが欲しくてたまらない 1

第一話

 


 あまりにもひそやかな空間には、静寂の音がする。
 本を読んでいた少年が手を止めて、ふっと顔を上げれば、窓の外にはいつもと変わりのない風景が広がっていた。
 深い森の奥、梢と梢が重なり合った隙間から、青い空が見える。木々の奏でる微かな音と一緒に、鳥も微かに鳴いている。
 静かだ。
 そう思いながら眺めていると、不意に家の奥から、「痛い!」という声がした。
「ヴァイオレット!」
 少年は本を閉じて、急いで走った。
 悲鳴をあげるとしたら、ヴァイオレットしかいない。この家は、ふたり暮らしなのだから。狭い家だ。
 ヴァイオレットの私室の扉は、しっかりと閉まっていた。
 彼女が在室の時には、扉は少しだけ開けてあるので、この部屋ではない。
 続いてパントリーを覗くと、そこにヴァイオレットがいた。
 棚の前で、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる。
「どうしたの、ヴァイオレット」
 急いで近づけば、理由はすぐ分かった。
 彼女の緩くまとめていたお団子がほつれ、艶やかなブルネットの髪が一筋、立ち襟を留めるくるみボタンに絡んでいた。
 そのボタンは首の後ろ側にあるので、手が届かない上に、自分で見ることも出来ない。
「はさみを持ってきてくれない……?」
 動くと髪が引っ張られるのだろう、ヴァイオレットが首を傾げたまま、そう頼んできた。
 はさみを渡したら、ヴァイオレットなら躊躇なく髪を切る。少年はほぼ確信していた。
「解くよ!」
「面倒でしょ。大丈夫。……切れば済むから、ね?」
「僕がいやなんだ」
 ヴァイオレットの髪は、とてもきれいだ。
 少年はそっとくるみボタンに複雑に絡んだ髪を解いていく。
 パントリーの天井近くにある明かり取りの小窓から射した陽光が、ヴァイオレットに降り注ぐ。
 彼女のうなじの産毛が、きらきらと輝いてみえる。
「解けたよ。ほら、切らないでも大丈夫だった」
 しばらく格闘はしたが、無事に髪は解けた。
 ほっと息を吐いた少年へ、ヴァイオレットが振り向く。紫がかった青い目が、優しげに細められる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 森の奥、ふたりきりの暮らし。
 贅沢できるわけでもなく、貧しい、細々とした生活。
 それでも、少年は満たされていた。

 夜は嫌いだ。
 森の夜はとても暗くて、ろうそくを消してしまえば何も見えない。遠くから響く獣や、梟(ふくろう)の鳴き声、不規則に揺れる木々の音が薄気味が悪くて落ち着かない。
 昼間は、それらの音がどれだけしても、「静かだなぁ」と感じるのに、日が落ち、夜になると途端に得体の知れない怖いものに変化するようだった。
 ベッドの中で毛布にくるまりながらも、少年は物音に怯えていた。
 このままでは眠れそうもない。夕食を済ませ、部屋に下がった頃には確かに眠気があったのに、今ではそれも感じられない。
(……ヴァイオレットのところに行こう……)
 そろりとベッドから抜け出す。
 廊下を覗けば、すっかり居間のあかりは消えている。ヴァイオレットの私室の扉は、いつものように薄く開いていた。
「ヴァイオレット……、起きてる?」
「──…………どうかしたの?」
 返答には間があった。眠そうな声だ。
「眠れないの?」
「うん」
 子どものようで恥ずかしいが、眠れないものは眠れないし、怖いものは怖い。
 少年はヴァイオレットの部屋の扉を開けて、中に滑り込んだ。ベッドの上で上体を起こしたヴァイオレットが、枕元の燭台に火をつける。オレンジ色の柔らかくあたたかな火が、ゆっくりと揺れながらヴァイオレットを照らしている。
 きれい。
 少年はそう思った。
 長いまつげを伏せ、小さくあくびするヴァイオレット。普段は詰め襟の服を着ているが、夜着姿になると鎖骨くらいまで襟ぐりが開いているため、白い肌に目を奪われた。
「おいで。怖いことなんて起きないから」
 眠たげな目のまま、優しく少年を呼んでくれる。
 毛布を持ち上げ、自分の横へ誘うように動く彼女を見て、はじめて少年はたじろいだ。
 ヴァイオレットと暮らしはじめてから、何度もこうして一緒に寝てもらったのに、『悪いことをしている』という気持ちになったのだ。
「どうしたの?」
「……その」
 なんだか、喉が渇く。
 元々、ヴァイオレットは伏し目がちだ。ふとした瞬間、彼女の白い頬に、長いまつげの影が落ちる。
「早く寝ましょう。風邪を引くよ」
 ヴァイオレットは再び少年を呼んだ。
 そろそろと近づき、ベッドに足をかける。
 ぎしり、とベッドが軋む。いつもはどんな風に一緒に寝ていたのだろう。急にどうふるまえばいいか分からなくなり、心が騒がしくなった。
 彼女の体と、少年の体は、全く違う。
 それを、唐突に自覚した。
 ふっくらとなだらかな膨らみを誇る胸や、腰のうつくしいくびれ。丸みを帯びた彼女の体を直視できない。
「おやすみ」
 ぎこちなく横になった少年に、ヴァイオレットは目を細めた。
 そして、毛布を掛けてくれる。ぽん、ぽん、と背中を叩き、彼女はすぐに健やかな寝息を立てはじめた。
 胸がゆっくりと上下する。
 どうして、こんな風に意識してしまうのだろう。
 ヴァイオレットからする甘い匂いも、伝わる体温も、寝息の微かな音も。
 胸の中のざわめきが、まるでヴァイオレットへの裏切りのようで、苦しかった。

 

 

 

 ヴァイオレットには、姓がない。
 地方の貧しい漁村に生まれ、三歳になる前にヴァイオレットは修道院に預けられた。その時に、姓を失い、神の使徒となった。
 修道院に入り、十歳になる頃には勤勉さを見込まれ、『聖女』候補として、王都にある王立修道院に転籍した。『聖女』候補となった者には共通の特徴が顕れる。十歳を過ぎてからの成長が徐々に遅くなり、いつまでも処女(おとめ)のようなみずみずしさを保つのだ。
 太陽神である女神をいただくこの国で、王が王であるためにも、『聖女』は代々続くとても大事な役職だ。
 王も、太陽神から選ばれる必要がある。
 ヴァイオレットは十四歳の頃、『聖女』に選ばれた。
 だが彼女は今、『聖女』の位を剥奪され、王都から遠く離れた最果ての森に追いやられていた。
 何もない森だ。
 何代も前の王が王妃を幽閉した塔があった。それは事故で焼け落ちてしまったが、管理人小屋は残った。その管理人小屋にヴァイオレットは住んでいる。
 ヴァイオレットが暮らすアルスター王国は建国五百年を迎えた大陸の雄だ。
 鷲が翼を広げた姿に似ていることから名のついた、飛翔する鷲(ル・ク・タルー)大陸の東端アルスター半島と、その周辺の群島を主な領地として、建国王エドワード一世が統一を果たすまで、たくさんの国や都市が小競り合いを二百年近く続けており、大陸は全域で疲弊していた。
 建国王エドワード・ゴアは「神の声」を聞いて立ち上がった青年だ。
 アルスターの人々は、彼を「女神の選んだ青年」として信じるようになり、一地方貴族にすぎなかったエドワード・ゴアの呼びかけに応じるように蜂起、統一戦争を起こし、半島を統一した。ほんの小さな島であるゴア島の領主だったエドワードはこうして、初代国王となった。
 そして、エドワードは、国教として教会を整備。戴冠式を、王都の教会で行った。
 夕暮れの教会、厳(おごそ)かな空気の中、エドワードは祝福を受け、晴れて国王の名乗りを上げる。
 その彼に祝福を授けた者、それが、『聖女』だった。女神の代行者としてこの世に生を受け、聖職者として過ごす国教の主教などとも違う特別な地位。当代たったひとりの女性だけが就く聖なる地位。
 女神の意思を受け、王を祝福し、このアルスター王国の人々の幸福を祈る。
 それが、かつてヴァイオレットが就いていた『聖女』という役割だ。

「……よいしょ」
 森を貫く小川のそばに、両手で抱えてきた水瓶を置いて、息を吐く。
 森の中での生活は、不便と言えば不便だ。井戸もなければ、かまどやオーブンもない。
 ただ、そもそも修道院で育ったヴァイオレットにとって、自給自足の生活は苦痛ではなかった。
 気候的な問題で、冬場が恐ろしいほど冷える以外には、特段困ったことはない。
(ある意味で、王都にいるよりもしっかり女神に尽くせていいのかも……)
 水を川でくみながら、ヴァイオレットは内心で思った。
 物心ついたときには、すでに教会にいた。ずっと女神のために生きてきた。『聖女』になりたかったわけではない。
「ん……?」
 水の流れが、なにかいつもと違う気がする。
 修道院にいたころと同じように規則正しく暮らしているヴァイオレットは、水を汲む時間も決まっている。
 顔を上げて、上流を眺め、ヴァイオレットは首を傾げた。
 なにかが、水面に浮かんでいるのが、視界の端に映ったのだ。
 はじめは、木に見えた。
 木の幹が、川を流れてくる──しかし、よく見れば木ではない、人だと悟る。
 慌てて、上流に向かった。
 小川とは言え、それなりに深さがある。
 仰向けで流れているのは、近づくとあどけない少年だった。
(意識がない……!)
 ヴァイオレットはドレスが濡れるのも気にせずに、ざぶざぶと川に足を踏み入れた。川底に足を取られないよう、気をつけながら少年の腕を掴んだ。
 それでも、少年は動かない。
 寝ているかのように穏やかな表情だけれど、顔色は真っ白だ。川のほとりに引き揚げる。
 少年は仕立てのいい服を着ている。見た限りでは怪我はない。
「大丈夫? ねえ、君」
 声をかけながら揺さぶるも、少年はぴくりともしない。ヴァイオレットが軽く頬を叩いても、ダメだった。
 そっと首に触れると、微かではあるが脈はある。ただ、呼吸は止まっているので、時間がない。
 教会は神に奉仕する場でもあり、そして、民の病を癒やす場でもあった。
 ヴァイオレットは自分の体がまだそれを覚えていることに驚きつつも、迷うことなく少年を救うために動いた。
 少年の薄く痩せた胸を、心臓の音より少し早いくらいの速度で圧迫し、何度か唇を重ねて息を吹き込む。
 脈があっても、溺れていた人間を放置しておけば、そのまま弱って死んでしまう。一刻も早く目を覚まさせなければ、危ない。
「起きて……」
 どのくらい経っただろうか。じわりとヴァイオレットの額に汗が滲んだ頃、それまで動かなかった少年の指先が、動いた。
 あ、と思う間もなく、彼は勢いよく水を吐き出して、盛大に咳き込む。
 ──助かった。
 ほぉっと息を吐くと、ヴァイオレットはずるずるとその場に座り込んだ。
「大丈夫……?」
 ヴァイオレットの声に、ようやく視線をこちらに向けた。少年はまだぼんやりとしている。
「ここは王都からかなり離れた森なんだけれど、どこから来たか、分かる? なにがあったの?」
「…………」
 少年は黙ったまま、ヴァイオレットを見上げるだけだ。
(いま起きたばかりだし、意識が混濁しているのかもしれない)
 それに、お互いにズブ濡れだ。このままいたら、間違いなく風邪を引く。
 やはり、はっきりと覚醒していないのだろう、彼はひとりで歩けそうもなかった。少年とは言え、恐らく十二、十三歳程度の彼を、ヴァイオレットが担いで歩くことも現実的ではない。
 ヴァイオレットは、小屋からそりを持ってきて、少年を乗せるとそれを引っ張った。
 小屋に連れ帰り、着替えさせ、毛布でくるんで暖炉の近くに座らせる。
 そうしてしばらくすると、ぼうっとしていた少年の目が幾分かはっきりしてきた。それを確認して、お湯を差し出した。
「ようやく、目がちゃんと覚めたね、君」
「……あの……あなたは」
 声変わりを迎えていない高い声だ。
 少年は毛布をぎゅうと握りしめて、不安そうにしている。
「私はヴァイオレット。この小屋に住んでいるの。君が川を流れてきたから、引き揚げたんだよ、どこか苦しいところはない……?」
「川を……」
 あどけない顔立ちをしているものの、どこか知的な雰囲気が滲んでいる。
 そんな少年の様子を、ヴァイオレットは観察した。
 黒髪で、瞳は紫色だった。その髪色から、キーアランドの民であることはわかる。川を流れてきたというのに、見える範囲ではけがをしていない。森の川はいつもはヴァイオレットの腰くらいまでの水深だが、当然浅いところもあれば、大きな岩が転がっているところもある。
 靴も脱げておらず、服にも損傷がないことはあまりにも妙だった。
 ただ、着替えをさせて分かったことだけれど、彼の背中には無数の傷があった。まだ新しく、傷口がじくじくしている。恐らく、鞭打ちにあっている。
 こんな子どもが鞭打ち刑に? 罪人だとしても、どうして川を? むしろ、罪人なのだとしたら、なぜこれほど仕立てのいいものを着ているのか?
 いくつもの疑問があふれ出す。
 不自然な闖(ちん)入(にゆう)者(しや)だ。
「期待をさせる前に言うけれど、私はこの森から出たことがないの。恐らく、川に沿っていけば、森は出られるはずだけど……、試したことがないから分からない、ごめんなさい」
「…………」
 少年は、視線を落として黙ったままだ。
「帰りたくないの?」
「………………いえ……」
「いますぐに出て行けって話ではないよ。ただ、知らないところにいるのも、不安でしょう?」
 ヴァイオレットの問いに、少年が顔を上げる。今にも泣きそうな表情をしていた。
「僕…………思い出せないんです…………何もかも……」
「え……?」
「…………その、あなたと会うのは、本当にはじめてなんですか……?」
「恐らく。私はこの森に住んで七年くらいになる。君が生まれた時にもし会っていたとしても、覚えてはいないと思う」
 王都を追われてから、この森を一度も出ていないヴァイオレットと、この年齢の少年に接点があるわけがない。
「僕は、一体誰なんだろう……」
 少年は不安そうに、ぽつりとそれだけつぶやいて、また沈黙した。

  *

 ヴァイオレットは、なし崩し的に少年と暮らすことになった。
 濡れたせいでしばらく熱を出して寝込み、その間に、背中の傷が化膿したのだ。
 修道院で教わった薬草の軟膏を作り、その背中に塗ってやる。シーツを裂いて用意した包帯を巻き、甲斐甲斐しく世話をする。
 誰かのために何かをするのは、とても久しぶりだ。
 彼は帰るべき場所を知らないから、こうして守ってあげないと。そう自分で言い訳をしてみたが、それだけが理由ではないことは理解している。
 やはり、孤独は堪(こた)えるのだ。
 いくら女神に仕えるといえども、お言葉を返してもらえるわけではない。『聖女』として王都にいたころは、天啓を感じることもあったが、この森に来てからは一度もなかった。
 孤独だ。
 孤独だったことに、少年が現れて気づいてしまった。
 明らかに何らかの訳ありの少年が相手でも──いや、だからこそ、ヴァイオレットは手を差し伸べやすかったのだ。

「ねえ、ここにも実があるよ。色が違うけど、これも取っていいの?」
 少年が、よく通る声で尋ねた。
 家から少し離れた森の中、木イチゴを収穫していた。
「見せて」
「これ」
「……ああ、大丈夫。これも木イチゴだから」
「毒はない?」
「うん、ないよ。家の近くには、毒があるものはないはず、安心してね」
「そっか」
 ほっとした声をあげて、少年は楽しそうに木イチゴをもぎはじめた。
「すごいね、覚えてるの? このあたりの木とか全部」
「……教えてもらったの。昔にね」
 ヴァイオレットが植物の見分け方を学んだのは、修道院でのことだ。
 薬になる草は、根の部分に強い毒性があったり、そっくりな毒草があったりする。それを先輩修道女に教えてもらって、身につけた。
「痛いっ」
 悲鳴が聞こえて、慌ててヴァイオレットは振り向いた。
 少年が蹲(うずくま)っていて、その周りに彼が一生懸命摘んでいた木イチゴが転がっていた。
「背中が痛むのね……」
「……うん……」
 そばに寄ると、少年のシャツの背中にじわりと血が滲んでいる。蹲り、目を見開いて、少年はゆっくりと息を吐き、痛みを堪えるその手はぶるぶると震えていた。
(……こんなに治らないなんて……、やっぱり呪いかもしれない……)
 一般的な薬草の軟膏だけでは、少年の傷は良くならなかった。
 それどころか、じくじくとしていた傷が膿むようになってきたので、もしやと思い、魔除けの薬草も混ぜた。
 すると、あれほど治りが遅かったのが嘘のように傷は塞がった。
「少し苦しいかもしれないけれど、ごめんなさい」
 少年に言ってから、ヴァイオレットはドレスの中にしまっていたメダイのペンダントを取り出し、血の滲む辺りに押し当てた。
「~~~~ッッ!」
 声にならない悲鳴をあげた少年を抱き寄せる。
「天にまします我らの女神よ。天つ光を持って、この民を救い給え」
 何度かその文言を唱えながら、祈る。
 繰り返し祈っていると、震えていた少年が落ち着いてくる。うめき声もなくなり、表情も柔らかくなった。
 体を起こして、少年は笑った。
「ありがとう。ヴァイオレット」
「いいの。これくらいしかできなくてごめんね」
「あっ」
 少年は声をあげた。
「まだ痛む……?」
 今まで、こんなにすぐに再度傷口が開いたことはない。ヴァイオレットが驚くと、少年は首を横に振った。
「……ごめんなさい、折角摘んだ木イチゴ、だめにしちゃったね」
「え?」
 彼は申し訳なさそうに周囲を見渡す。確かに、木イチゴが散乱して、かなりの数が押し潰されている。
 まだあどけなさを残す頬から、さぁっと血の気が引き、表情がなくなっていた。
 顔かたちが整っている分、まるでビスクドールめいた印象さえある。すべての感情が消えた少年に、ヴァイオレットは、ゆっくりと声をかける。
「構わないよ。木イチゴは、また摘めばいいから」
「でも……大事なものでしょう?」
「優しいのね。でも、君以上に大事なものはないからね」
 それはヴァイオレットの本心だった。
 だが、少年は引っぱたかれたかのような、驚いた顔をした。

(あの子は、どうしてあんな顔をしたのかな……)
 ヴァイオレットは自室に戻り、そう独りごちる。
 昼間、木イチゴを潰してしまった少年は、もしもどこか高い塔にいたのなら、窓から身を投げてしまいそうなほど、思い詰めた顔をしていた。
 すでに夜も深くなり、空には月が昇っていた。
 カーテンを閉めようとして、その光景に手が止まった。
「……きれい」
 満月に近いそれは、夜の闇にひっそりと輝いていた。
 森は、とても静かだ。何年も、この静謐さの中でひとり生きてきた。
(記憶は戻る気配がないし、それにあの背中の傷は……鞭か何かで拷問を受けた痕に見えた……)
 それも、傷ついてからあまり時間が経っていないようだった。
(魔除けの薬草が効くということは、ただの拷問じゃない。あの子は、殺されそうになった? でも、なぜ? 痩せていたけれど、身なりはいいし、身分のある人物……ではなぜ、川に捨てられた……?)
 ヴァイオレットは自分の右の手首に視線を落とした。
 随分と薄くなってはしまったが、太陽の形の痣(あざ)がある。
 これが『聖女』の証のひとつだった。女神に選ばれ、愛された。その、証。
「ヴァイオレット……?」
 少年の声がした。
 振り向けば、ドアのそばに心細そうに立っている。
「どうしたの?」
「…………分からない。でも、怖くて……」