呪われ王の執着愛 孤独な陛下は追放聖女だけが欲しくてたまらない 2
今でこそ頻度が減ったが、少年は眠りながら叫ぶことがあった。
それもあって、ヴァイオレットはいつも寝室の扉を開けている。受け入れられているということを目でみて分かってもらいたかったし、訪ねてきてもいいと、言わずとも伝わるだろうからだ。
まだ長い時間をともにしたわけではないが、彼は、聡い。そして、とても大らかだ。
記憶を失って不安だろうに、昼間は穏やかに過ごしている。
「おいで」
招き入れないと、彼は部屋には入らない。
おずおずと近づく姿をじっと見つめた。
「ヴァイオレットに迷惑をかけてばっかりだよね」
「……どうしてそう思うの?」
「なにもできないから」
少年は、少し離れたところで立ち止まり、俯いた。
「森の生活なんて、慣れてなくて当たり前。ほら、手を出して」
「手……?」
「そう」
ヴァイオレットは自らの両手のひらを上に向けて、差し出す。
少年もそれにならって手を出した。
「見て。私の手と君の手は違うよね」
「僕の方が大きいよ」
「ふふ、そうだね。きっといずれ、もっと背が伸びて、私を見下ろすようになるよ。男のひとの手をしている、でも、私の手との違いはそこじゃない」
「……なんだろう」
「君の手は、とても柔らかい」
ヴァイオレットが、彼を恐らく貴人だと思うのは、その手の柔らかさゆえだ。
かつて『聖女』であったとはいえ、幼い頃から修道院で暮らしていたヴァイオレットの手は、彼くらいの歳のころ、すでにマメだらけだった。
「きっと君は、ここに来るまで、とても大事に育てられたんだと思う。とても仕立てのいい服を着ていたし、手のひらもきれい。きっと、君のために水を汲んでくれる人も、暖炉の火の世話をする人もいたと思う」
「……僕はその人たちを忘れてしまっているのかな」
じっと手のひらを睨むように見て、少年はつぶやいた。
「そして、あなたのことも忘れてしまうんだろうか、ヴァイオレット」
「え……?」
彼は顔を上げる。
大きな瞳は、アメジストのように美しく輝いていた。月のひかりを受けて、いつもよりもきらめく。
その強い視線に、ヴァイオレットは戸惑った。
──その瞬間、窓の外、夜の森で、一斉に鳥が飛び立つ気配がした。
この時間に? 眠っている鳥が?
「下がって」
ヴァイオレットは素早く立ち上がり、少年を自分の背にかばいながら、窓の方を窺った。
窓の向こうには、鬱(うつ)蒼(そう)とした闇が広がっている。
どれほど月が明るくても、木立の中はうかがい知れない。さっさとカーテンを閉めておかなかった自分を恨んだ。
(……この時間、人を襲う動物が起きているわけがない……)
肉食獣は、夜目が利かない。そもそも、この森に暮らしていて襲われたこともなかった。
でも、それは何の判断材料にもならない。
実際、少年が来た。
ずっと変化がなかった生活が大きく変わった。
闇の中で、何か、大きな影が揺れている。
「ヴァイオレット……?」
大きな影が、少しずつこちらに近づき、木立の闇から、一歩、踏み出した。
声をあげそうになり、すんでのところで堪える。
男だ。しかも、鎧をまとった、騎士。すでに中年にさしかかっているようだ。
大柄だが、かなり疲れ切った様子で、やつれている。剣を杖のかわりにしてようやく歩いてきた。
(……また、人が……?)
ここは、牢獄なのだ。ヴァイオレットを閉じ込め、どこにも行かせないようにするための檻。逃げれば、教会に迷惑がかかると分かっていたので、ずっとこの森の奥にいた。
そこに、また誰かが来た。そんなことは、ありえないはずなのに。
騎士が家に気づいて、足を止める。そのうつろな目が急に見開かれた。
「──……殿下!」
叫び。
騎士は剣を投げ捨て、こちらに駆け寄ってきた。走るというよりはそのまま倒れ込むように窓にとりつく。
一枚のガラスを挟んで、彼は口を開く。
「ああ、ああ、ようやくお目にかかれた。私たちの殿下!」
騎士の汚れきった頬を涙が伝っていく。
殿下。
ヴァイオレットは傍らの少年を見た。
そうか、この子は。
──この子は、王子なのだ。
恐らく、ヴァイオレットと同じく追放された。
「……ヴァイオレットの知り合いの人?」
小声で尋ねられる。ヴァイオレットは首を横に振った。
「……違うよ。君を迎えに来たんじゃないかな──そうですよね、騎士殿」
最後の方は騎士に向けて尋ねる。
彼は、泣きながら何度も何度も頷いた。
ヴァイオレットは騎士を家の中に招き入れた。
お湯を沸かし、布巾を濡らして渡す。騎士は「申し訳ない」と頭を下げて、その体を拭う。
茨を抜けてきたのだろう、体には細かい傷があった。
少年は怯えた様子でヴァイオレットから離れようとしない。
「あなたは、『聖女』のヴァイオレット様ではありませんか」
騎士がヴァイオレットに問いかけた。
お茶の用意をしていたヴァイオレットは手を止めて、騎士を振り向いた。目が合う。
(……どこかで、会ったことがあったのかもしれない)
『聖女』として過ごした日々は、ヴァイオレットにとっては遠い記憶になっている。それに、ヴァイオレットが森で暮らしはじめてからの時間、自身以外の人間は月日を重ね、姿も変わっているはずだ。
「もう『聖女』ではありません」
「わたしはギルバート・ラズリと申します。前王アルバート陛下の近衛騎士団で隊長をしておりました」
アルバート。
その名前に、ヴァイオレットは息をのんだ。
ヴァイオレットが祝福した、王だ。女神が選んだ正式な王として、ヴァイオレットが戴冠式を執り行った。──彼は王だった、『聖女』が神託をきいた王だ。
七年前に、実の弟──エドワルドに殺され、王位は簒奪されたが。
「……やはり、これもなにかの運命だったのでしょう。きっと、今は亡き陛下が、お導きくださったのです」
ラズリと名乗った騎士は、力を込めて言った。
「ウィリアム殿下、いえ、王太子さま。ようやく見つけることが出来ました。ともに王都にお戻りください。今度こそ、お守りいたします」
「え……?」
異様なほどの熱い視線に少年はたじろいだ。
(……ウィリアム……)
ウィリアムはありふれた名前だ。けれど、それに敬称である殿下がつけば話が変わってくる。
ウィリアム・メイデン=ゴア。
ヴァイオレットの頭にも自然にその名が浮かんだ。
「どういうこと、ヴァイオレット。この人は何を言っているの?」
「この方、君を迎えに来たの。信頼していいと思う……恐らく、昔、私も会ったことがあるから」
「でも……」
「わたしです、殿下。お父様よりあなた様をお預かりした、ラズリ家の者です、代々王家に仕えております」
警戒したままの少年──ウィリアムにしびれを切らしたラズリは、使い込まれた金時計を取り出した。
(月桂樹に獅子の紋章……王家の紋章が入った金時計……)
それを見ても混乱した状態のウィリアムは、ヴァイオレットの陰に隠れてしまうだけだ。
「これは、あなたのお父様より、近衛騎士団長に任ぜられた時にいただいたものです」
「──この子は、この森に来たときには傷だらけのうえ、すでに記憶を失っていました。どうやら、呪われているようです」
「なっ」
騎士の顔色はみるみるうちに褪せていく。
ぶるぶると震える手で顔を覆い隠し、呻くように泣きはじめた。
(……私は、アルバート陛下を殺(あや)めた男を王とは認めなかった。だから、追放されてしまった)
そのためにヴァイオレットはこの土地に閉じ込められ、いつか来るだろう途方もなく遠い死へひとりで向かうという罰を与えられた。
信仰が揺らぐことはなかったが、苦しくなかったとは言えない。
(そこに、陛下の子が流れ着いた……、呪いをかけてまでこの子を消そうとする人間は、あの男しかいない)
ヴァイオレットはそっとウィリアムの背中を押した。
「傷は手当てをし、いまでは生活も出来ています。ですが恐らく、王都の教会で今の『聖女』が看た方が、きっとこの子──殿下の傷もよくなると思います」
「……呪いが解ければ、記憶は戻りますか?」
「そこまでは。どんな呪いがかけられているかは、私には分かりません……」
ラズリはじっとヴァイオレットを見る。ヴァイオレットは視線を外し、ウィリアムを見た。
「ねえ、ヴァイオレット。なんの話をしているの?」
「……君が家に帰る話だよ」
「僕、ここにいる。ヴァイオレットといるよ」
「それはだめ。君には行くべき場所が……いいえ、殿下を待っている場所がある」
女神の祝福の光が、燦々と射し込む王城の玉座。あの場所は、王にだけ許されるものだ。
ウィリアムの瞳は揺れていた。悲しみをいっぱいに溜めている。
「その場所はね、君にしか許されないの」
正しい王が座るべきだ。それがウィリアムなのだろう。
王の選定を拒み、追放されたヴァイオレットの前に現れた前王の王子。
(恐らくこの子を殺せと命じられた人間は、王族にとどめを刺せなかったのでしょうね。だから川に捨てた。なのに、この森にたどり着くなんて、偶然ではない)
「ご協力感謝する、『聖女』さま」
「……もう『聖女』ではありません。今の『聖女』は健在ですか?」
「はい」
「なら、よかった……私のせいできっと苦労したでしょうから、気がかりでした」
その時、ウィリアムが立ち上がった。
「よくない。僕はどこにも行かない……!」
ウィリアムはそう言って、ついにヴァイオレットに抱きついた。まだ子どもの体だ、薄く細い彼を抱き留めて、あやすように言った。
「いいえ、君にはすべきことがあるの。それは、ここではできないことだから。……ね?」
そうして、ウィリアムの肩をそっと押し、ラズリの前に立たせる。ヴァイオレットは髪を結んでいたリボンを解いた。
「このリボンをあげる。ずっと見守っているから」
「……でも」
ウィリアムはじっとリボンを眺めて、しばらく沈黙していた。ヴァイオレットも、ラズリも何も言わず、ウィリアムの言葉を待つ。
「──……分かった。行くよ」
了承したはずなのに、ウィリアムの声はあまりにも沈んでいて、震えていた。
その日から、ヴァイオレットはまた一人きりになった。
追放された身ではこれが正しかったはずだ。誰かとともに暮らして、笑い合うような時間が許されるわけがない。
正しい王を殺し、偽王となった男を、ヴァイオレットは認めなかった。だから追放された。
(ウィリアムが王都に帰るのなら、恐らく、ちゃんと王冠は正しい場所に戻るはず)
偽王から、正当なる王であるウィリアムへと。
それは、悲願だ。この最果ての森に住んでいたとしても、ヴァイオレットは神を信じている。
だから、これでいいのだ。
そういい聞かせながら、また、しばらくの時を過ごした。
ヴァイオレットは、その日、鳥の鳴き声で目が覚めた。
ただの鳴き声ではなく、悲鳴に似ている。
(……一体、何……?)
森に住んでかなり長い年月が経っているが、鳥がこんなに騒いでいるところに遭遇したことはなかった。
ベッドから体を起こして、あくびをかみ殺す。
そして、はっとした。
(……人の気配がする……)
そんな訳がないと思いつつも、家の外にある気配にいやでも気がついた。今まで森の中には絶対になかった気配だ。
厳密に言うと、それは間違っている。十年前、ウィリアムがこの森で暮らしていたころ、一度だけ人の気配がした。騎士が彼を迎えに来たときだ。
ただその時とは違う、物々しさがある。
ベッドを下り、コートハンガーに掛けていたガウンを手早く羽織る。武器の類いはこの部屋にない。せめてかわりになりそうなもの、と暖炉から火かき棒を手に取った。
(何人いるの……?)
カーテンをしっかり閉めているせいで、外の様子はうかがえない。
(……鎧の、音……? 馬もいる……。騎士……?)
騎士が最果ての森に来るなんて、ありえない。追放した元『聖女』を閉じ込めたとされ、忌み嫌われる土地だ。
(なんのためにここへ? 騎士を動かせるのは王だけ……)
その時、小屋の扉が開けられた。部屋の中にいても音で分かる。
身を守るために持った火かき棒をぎゅっと握り締める。
足音は真っ直ぐにこの部屋に向かってくる。その足どりには、ひとつも迷いがない。
がちゃり、とノブが回る。
「ヴァイオレット!」
「えっ」
扉を開けた青年は、ヴァイオレットを見て満面の笑みを浮かべた。
とても、見目のいい青年だ。背は高く、扉をくぐるときに膝を曲げないといけない。
艶やかなブルネットに、紫がかった瞳、すっと通った高い鼻梁に薄い唇。
「……君なの?」
「そうだよ、ヴァイオレット」
──ウィリアムだ。
少年だった彼はすっかり成長していたが、笑うと目尻が垂れ、あどけなさが覗く。その顔は、記憶の中のウィリアムと同じだった。
(そうか、だから騎士が一緒なんだ。ウィリアムを守るために)
かつてこの森に迷い込んだウィリアムを迎えに来た人物も、騎士だった。
あれから、十年。
十年の間に、まだヴァイオレットの胸くらいまでしか身長がなく、手足も子どもらしい細さだった彼がこんなにも大きくなるなんて。
ウィリアムが大股でヴァイオレットに駆け寄り、そして、抱き寄せた。
「会いたかった……!」
「きゃっ」
抱え上げられてしまい、足が浮く。火かき棒が床に落ち、随分と大きな音を立てたがウィリアムは気にした様子がない。
不安定に揺れるのが怖くて、咄嗟にウィリアムの肩に手を置いた。
(あ……このリボン……)
長い髪を後頭部でひとつに束ねたそこに、ヴァイオレットが餞別に渡したリボンが結ばれていた。
まだ持っていてくれたのか。胸の奥が微かにあたたかくなる。
彼は晴れやかな笑みを浮かべている。
「ヴァイオレット、迎えに来たよ。一緒に王都に行こう!」
「──……はい?」
予想もしていなかった言葉に、ヴァイオレットは目を丸くした。
*
ウィリアム・メイデン=ゴア。
その名前が自分のものだという感覚が、ウィリアムにはいまだない。
キーアランド王国のメイデン=ゴア朝、第十一代国王である父の唯一の子として生を受けた。
七つの時に政変で両親が暗殺されてから、ウィリアムは父に忠誠を誓った元将軍のラズリ家で秘密裏に育てられた、らしい。なんの記憶も残っていないので、正直、他人事に感じられて、感情が付いていかない。
──いずれ、あなた様は王位につくべき御方です。
ラズリ家の人間は、ウィリアムにそう言った。
そして、辛抱強く、ウィリアムの人生とキーアランド王国について教えた。恐らく、ヴァイオレットのところで過ごす前も、心を砕いて養育してくれていたのだろう。
誰もが、ウィリアムの生存を喜んだ。
だがウィリアムはそんな彼らを見ながら、どこかずっと他人事のように感じた。
「あの、陛下……」
「敬語は使わないで」
ヴァイオレットは、困ったようにゆっくり瞬きをした。
「…………そんなに見られていると落ち着かない……」
ぽそりと呟いたヴァイオレットの声に、自然と口角が上がる。
相変わらず、静かにゆっくりと話す。何度もこの声を思い返して支えにしてきた。
ふたりは馬車に乗り、座席で向かい合っている。揺れる度に膝が微かにぶつかり、その温度が快かった。
「仕方ないよ、やっと会えたんだから。ずっとヴァイオレットのことを考えていたよ」
「……もう十年も経つのに?」
「それでも、僕はヴァイオレットと過ごした森での記憶が一番鮮明だから」
ウィリアムの言葉に、状況を察したのだろう。サッとヴァイオレットの顔色が青くなる。
「もしかして、まだ記憶が……?」
「そう、まだ戻ってない。この名前もしっくりきてるわけじゃないんだ。みんながウィリアム・メイデン=ゴアって呼ぶから、それが名前なんだな~ってくらい」
「そんな……十年経っても戻らないなんて」
「そうだね、不便ではある。医者も、ショックで記憶を失っているのか、呪いのせいか分からないって。でも、だからこそ助かったこともあるよ」
「助かったこと……?」
「叔父を討つことに抵抗がなかった」
ウィリアムは、去年、叔父を討った。そもそも、父を暗殺し、王位を簒奪した男だ。ウィリアムが立ち上がると決めたとき、それを支持した人々は少なくはなかった。
叔父が両親を殺したときいても、実感がない。
ただ、ヴァイオレットはこの男のせいで、あんな森の奥に閉じ込められているのだと知り、そちらの方に怒りを抱いた。
「王として正当ではない」と戴冠を拒んだヴァイオレットを追放し、森に閉じ込めた。そして、新しく立った聖女に無理矢理戴冠式を執り行わせたのだ。
ヴァイオレットは自分の意志を貫いた。
ウィリアムは「ならば自分も」と、思ったのだ。
「あの時、どうも、叔父の一派が僕を誘拐したみたいだ」
「……そうかもしれないと思っていた。王子だとは思っていなかったけれど、身分の高い貴族だっていうのは感じていたから」
「そうなんだ」
ヴァイオレットは頷いた。
「服の仕立や生地がすごくよかったもの。それに……鞭打ちの拷問にかけたのに、殺すことはしなかった。多分、実際に拷問をした人たちは、君が王子だから手にかけられなかったんじゃないかなぁ……って考えていたから」
「そうかもしれないね、女神が選んだ王の子だ。時間はかかったけれど、ちゃんと王冠は奪い返した」
「おめでとう。でも、どうして私が王都に行くことに……?」
「あの森は国立公園にすると決まったから、もう人は住めないんだ。昔、ヴァイオレットと木イチゴを採ったよね? あの木イチゴの花びらは三枚だった。いま、キーアランドで主流の木イチゴの花びらは五枚で、海外から流入したものだ。あの木イチゴは、キーアランドの固有種で、国で保護することになった」
「へえ……知らなかった」
「花びらの数を覚えていて、不思議に思ったんだ。図鑑かなにかを見た時かな。この森は幽閉のために使われていたから人は足を踏み入れなかった。木イチゴ以外も動植物に固有種が残っているんじゃないかって思ってさ」
ウィリアムの言葉に、ヴァイオレットはちらっと視線をよこしはしたが、それ以上は何も言わなかった。
「王様になって一番はじめに決めた。ここは保護区にするって」
元々王家の直轄領だ。王となったウィリアムが決めたことがひっくり返るわけもない。
かつては目障りな王妃を、いまでは意に沿わなかった聖女を閉じ込めていた森。
あの森から、ヴァイオレットを連れ出したい。その一心だった。
ウィリアムの記憶のはじまりは、ヴァイオレットだ。
彼女はウィリアムを介抱し、生活に招き入れてくれた。恩人だ。
「僕は」
ドクン、と大きく心臓がはねた。
僕は、ヴァイオレットといたいから。
そう言いたいのに、舌がもつれる。自分では制御出来ない強烈な情動に胸が苦しくなる。
(──来た……来てしまった。ヴァイオレットの前で、見せたくなかったのに……)
背骨を奇妙な感覚が駆け上がる。形容するのなら、痛みが一番近いだろう。
ぞわぞわと何かが駆け上がり、脳がカッと熱くなる。心臓が破れるのではないかと恐ろしくなるほど、激しく、速く脈打つ。
視界が徐々に歪みはじめる。まるで水の中で目を開けたときのようだ。
息が、くるしい。
いくら吸っても、いくら吐いても、楽にならない。
「……ウィリアム?」
ヴァイオレットの声がする。
ズキン、と背骨が痛む。馬車の座面に爪を立て、ウィリアムは必死で体を丸めて堪える。
いい匂いがする。
よく熟れた果物のような、あまい匂いだ。
「どうしたの……? 顔色が」
不明瞭な視界の中、ヴァイオレットが立ち上がった姿が見えた。
だめだ。
脳の片隅にいる、冷静な自分が言う。しかし、それを遮る別の声もする。
──この女を救いたいなんて、そんな詭弁。自分で信じているのか? あの森の中で、この女は穏やかに過ごしていたじゃないか。そこから連れ出したのには、もっと違う意味があるだろう?
違う。
僕は、ヴァイオレットに恩を返したかった。何も覚えていない、ただの子どもだった僕に、かけねなしに優しくしてくれた。
王となった今でも人を信じることが出来ている理由は、ヴァイオレットが打算なくウィリアムの世話をしてくれたから。それが、記憶を取り戻せないウィリアムにとっては原風景になっているからだ。
──違うだろう。本当にそれだけか?
「服を緩めましょう。具合が良くないのなら、どこかで休まないと」
悪魔の声とヴァイオレットの声が、熱に苛まれたウィリアムの脳をぐるぐる回る。
ヴァイオレットの手が伸びてくる。ほっそりとして美しいけれど、細かい傷のある手。
きれい。
今はしっかりと体を覆い隠す服を着ているが、夜着姿の彼女は、女性らしい曲線を持って、もっと柔らかそうに見えた。
背骨の疼きは強く、速くなっていく。