戻る

君と最初で最後の恋をする 有能執事は人形姫を一生愛し尽くしたい 1

第一話

 

 


「本当は好きなの」
 溢れ出した思いは止められず、結ばれることのない最愛の人にレティシアは言った。
「シア」
 彼の低く落ち着いた声が、名前を紡ぐ。
「私の夢を叶えてくれるわよね」
 そう訊ねると、先ほどまで戸惑いを浮かべていた彼の目に、鮮やかな炎が揺らめくのがわかった。
「当たり前だろ。俺だって、本当は……」
 その先は、聞かなくてもわかる。
 でも、聞いてはいけなかった。
 レティシアは人差し指でそれを止め、代わりに彼の手を引いた。
 初恋の人と初めてのキスを交わし、無垢だった身体を暴かれていく。
 その幸福を味わいながら、レティシアは近づいてくる別れのときを考えまいと目を閉じた。

 

 どうして意味のない自慢話や直接知りもしない人物の噂話ばかりで時間を潰すことができるのだろう。
 華やかなドレスを身に纏い、テーブルを囲んでぺちゃくちゃ囀(さえず)る令嬢たちを眺めながら、ブラウディン帝国第三皇女――レティシア・ティツェ・ハーランド・ブラウディンはひっそりとため息をついた。
 かれこれ一時間はくだらない話を聞き続けている。相槌のレパートリーもそろそろなくなりそうだ。
「レティシア皇女殿下もそうお思いになりませんこと?」
 流れでうっかり「ええ、そうね」と言いかけて、レティシアは微笑みを浮かべ、何もわからない子どものように曖昧に濁すことにした。あまりにくだらなすぎてなんの話をしているのかほとんど聞いていなかったのだ。
「殿下には少し難しいお話でしたかしら……」
 質問した令嬢が困ったように眉尻を下げた。それを見て、ほかの令嬢たちが視線を交わし合う。無礼さを罰せられないか窺っているというより、レティシアを笑うという行為を互いに共有し合っているようだった。
「ううん、楽しいお話が聞けて嬉しいわ。続けてちょうだい!」
 悪意に気づかないふりをして、レティシアは笑顔を見せた。
 この無意味な茶会は週に一度、側妃宮の庭で開かれている。皇帝の第二側妃である母は、こうして茶会を開いて貴族令嬢たちと会話をすることが皇女の務めだと本気で思っているらしい。だから娘のためにと、いろいろな貴族に招待状を送っては自分の宮に招き入れているのだ。
 その割にホストである当の本人は自室に引きこもって出席せず、すべてレティシアに任せている。
 そんな調子だから、レティシアにとっては煩わしい以外の何ものでもない。
 こんな時間を過ごすくらいなら歴史書や外交に関する書物を読んでいたいし、社交に関わる情報を仕入れたいのに。
 はじめこそ令嬢たちの持ってくる新鮮な情報に期待していたものの、彼女らが話すのは未確定の噂話や嫉妬にまみれた作り話がほとんどだった。裏取りをさせるのも馬鹿らしくなって、近頃ではすべて嘘と切り捨てている。
 唯一正しいのは、流行の服や宝飾品の話だった。だがそんなものは城に出入りする商人が一番よくわかっている。令嬢たちに聞くまでもない。
 つまり本当にこの茶会は無駄なのだ。
 早くお開きにならないかしら、とあくびしそうになったのを扇で隠しながら思っていると、ちょうどポツリポツリと小雨が降りはじめた。
「あら、空が曇りはじめたわね。残念だけれど、大降りになりそうだから、今日はこの辺でお終いにしましょうか」
 レティシアは軽やかな声で解散を告げ、侍女たちに手土産を持ってこさせる。ひとりひとりに母の代わりに礼を言って見送りを済ませてから屋内に戻り、自室に戻った途端うっすらと浮かべていた笑みを引っ込めてため息をついた。
 そのとき、いつの間に後ろにいたのか、筆頭侍女のサーニャがそれを見咎めて言う。
「レティシア様、天使のような可愛らしいお顔が残念なことになっていますよ」
 確かに、天使に例えるほどレティシアの容姿は整っている。
 陽の光を浴びたこともないような白く透き通った肌に、サファイアのような美しい青い目。それを縁取る睫毛は長く、くるんと自然にカールしている。プラチナブロンドの艶々なストレートヘアには光り輝く天使の輪ができており、羽さえつければまさに天使だ。
 レティシアを初めて見る人は皆はっと息を呑むほどの美しさに驚き、ついたあだ名は『帝国の人形姫』だった。
「部屋の中でくらい、べつにいいじゃない」
 サーニャはレティシアが生まれたばかりの頃からついていてくれる唯一信頼できる侍女だった。歳は母よりもひと回り上で、本人には伝えてはいないが本当の祖母のように思っている。
 ちなみに、本当の祖母――皇帝の母には会ったことがない。レティシアが生まれてすぐ、儚くなられたのだ。母方の祖母も、もう二十年以上前に亡くなっているという。
「ため息をつくと幸せが逃げていくと言いますから。ほら、吸って吸って」
 サーニャが言い、レティシアの前で空気を押し戻すように手を振った。
「わかったわよ。吸えばいいんでしょ、吸えば」
 ぷくっと桃色の頬を膨らませてから、レティシアは先ほど吐き出した空気を再び肺に取り入れた。
「これでいい?」
 肩をすくめ、訊く。するとサーニャはふにゃりと柔らかく目元を緩め、頷いた。
「そうですよ、レティシア様。こういうおまじないでも、信じていれば運気は上がっていくのですから」
「運気、ねえ……」
 そうつぶやきながら、レティシアは机に置かれた一通の手紙に視線を遣った。
 封蝋に描かれた紋章は、グレイストン公爵家のものだ。まだ読んではいないが、きっと次の夜会について書かれているのだろう。
「いくら運気を上げたって、本当に望むものは手に入らないんだから無意味なことよ」
 ぼそっと零したその言葉に、サーニャが苦笑する。
「ダリオ・フォンテール・グレイストン公爵令息様は人望が厚く人柄もいい御方です。見目だって麗しくて令嬢たちの憧れの的です。それに何より、レティシア様を愛してくださっているではありませんか」
「ダリオが私を愛しているですって?」
「ええ。こんなに頻繁にお手紙やプレゼントをくださるなんて、愛している証拠に決まっています」
 自信満々に言ったサーニャに、今度はレティシアが苦笑した。
 サーニャのことは大好きだし、信頼してもいるが、婚約者であるダリオについてだけは意見がどうしても合わないでいる。
(見目がいいのは認めるけれど、あの男に愛なんてあるわけないわ)
 反論してもどうせ分かり合えないからと、レティシアは心の中でつぶやいた。
 サーニャは知らないのだ。あの男がどんな目でレティシアを見つめるか。
 やさしそうな笑顔の下に、ドロドロとした野心が隠れているのを、レティシアは知っている。そして同時に、レティシアを馬鹿な女と見下して嘲(あざわら)っているのも。
 最初こそ、ダリオはうまく隠していたと思う。
 けれど最近ではそれを隠しきれておらず、言動の端々に滲み出てしまっている。
 どれだけ貶しても、馬鹿な第三皇女は気づかないとでも思っているようだ。もしくは、自分と結婚するしか道がないのだから、いくら貶したところで婚約破棄にはならないとでも思っているのかもしれない。
 そんな男、こちらから願い下げだ。
 しかしダリオの予想どおり、レティシアにはこの婚約を破棄する手立てはなかった。
 グレイストン公爵家はこの国で皇帝に次ぐ権力の持ち主で、皇族の求心力保持のためには、かの家との結びつきを強くしておかなければならなかった。
 その生贄に選ばれたのが、レティシアだ。
 レティシアにはふたりの姉――マルグリットとアーデルハイトがいるが、どうして姉たちではダメだったのかというと、事情が少し複雑だった。
 原因は、姉たちの母である正妃の生い立ちにある。
 正妃の生家はアルヴェスター侯爵家だとされているが、正妃が実はグレイストン公爵の落とし胤(だね)ではないかという疑惑があったのだ。
 グレイストン公爵はもう六十歳を超えており、正妃の父であってもおかしくはない年齢だ。ちなみにダリオの母は後妻で、グレイストン公爵とは二十も歳が離れている。前妻とのあいだには子ができず、ダリオは待望の第一子だった。
 箝(かん)口(こう)令(れい)が敷かれ、今や世間では知る人もいない噂だが、もしそれが事実ならば、正妃とダリオは異母姉弟であるということになり、レティシアの姉たちはダリオの姪に当たる。結婚するには、血が近すぎる。
 だから、側妃の子であるレティシアが選ばれるほかなかった。
(なんてグロテスクなのかしら)
 その噂を知っていてなお、グレイストン公爵に便宜を図ろうとする皇帝も皇帝だ。
 皇族の中にグレイストン公爵家の身内が多すぎては政治的なバランスが崩れるだろうに、それを無視してまでレティシアをダリオに嫁がせるなんて。
(まあ、帝国二百年の歴史の中で一度も裏切ったことのない忠臣の家系だし、それほどグレイストン公爵を信用しているということなのだろうけれど……。おまけに近頃は戦争もなく平和で、皇帝の権威も威厳も徐々に下がりつつあるから仕方ないのかしらね)
 ほかの貴族たちから多少の反発があってもなお、グレイストン公爵家を味方につけるほうが得なのだろうか。
「はあ……」
 それを思うと、憂鬱が増していく。
 またため息をついたレティシアを、サーニャが困ったように見つめた。
「そういえば、新しいドレスがもうすぐ届くそうですよ」
「そうなの? また?」
「ええ。ダリオ様がお選びになったものです。次の夜会に着てほしいと」
「……ふぅん」
 今年、レティシアは成人である十八歳を迎えた。デビュタントも済ませ、夜会にもようやく慣れてきたところだ。
 とはいえ、パートナーはもちろんダリオで、レティシアにはほとんど喋らせず、
「どうせ皆の話を聞いても理解できないだろうから、君は人形のようにただ微笑んでおけばいいし、それ以上は求めたりしないよ。君の唯一の長所はその美しさにあるのだから」
 と言われ、馬鹿みたいにニコニコしているだけなのでちっとも楽しくはない。
 できることなら同年代の令嬢たちだけでなく、博識で聡明な大人たちと会話がしたかったのだが、狭量なダリオがそれを許すはずもなかった。
 万が一レティシアがダリオより物事を知っているとばれたら、きっと拗ねるだけでは済まない。生意気だと手を上げられるに違いなかった。
(実際、叩かれたこともあったしね……)
 あれはレティシアが十三歳の頃。
 四つ年上のダリオは十七歳になったばかりだった。
 隣国から王太子と外交官がやって来て、彼らの歓迎パーティーに参加したときのことだ。
 第三皇女とその婚約者として紹介され、王太子と歓談していたふたりだったが、突然王太子が近隣諸国との外交問題についてダリオに訊ねてきた。
 しどろもどろになったダリオの代わりに、レティシアが皇帝の立場を踏まえたうえで返答してしまった。そのおかげで何事もなくその場をやり過ごすことができたのだが――。
「あれはどういうことだ!」
 当然ダリオは褒めてくれるだろうと思っていたのだが、控え室で二人きりになった途端、彼は顔を真っ赤にしてレティシアの頬をパシンと叩いた。
 そして言ったのだ。
「女が政治について語るな。はしたない。俺の妻になりたいのなら、もっと可愛げのある態度を取れ。俺を立てろ!」
 ――と。
 はじめは何を言われたのかわからなかった。
 悪いことなど何もしていないのだから。
 もしあの場で回答していなかったら、きっと隣国の王太子に「この国の皇族は教養がない」と侮られていたはずだ。それを回避したのを褒められこそすれ、叩かれる道理はないはずだった。
 だが、ダリオにとっては違った。
 レティシアに恥をかかされたとでも思ったのだろう。
「す、すまない。ついカッとなって……。痛くはないかい? 俺のお姫様」
 取り繕うようにやさしい笑みを貼りつけて心配してきたが、強烈な頬の痛みは忘れることができなかった。
 それからしばらくして、貴族のあいだで、レティシアが生意気で我儘な女だと噂が流れはじめた。その噂は皇帝にも届くこととなり、当時レティシアの教育係だった教師が責任を負わされる形で全員帝城を追い出された。
 新たに雇われたのはグレイストン公爵家の息のかかった教師たちで、レティシアにろくに学を与えることもなかった。
 そして理解した。
 これはダリオの差し金なのだと。
 表面上は取り繕っているが、彼はレティシアを愛するつもりはなく、ただの駒としか見ていない。聡い女は不要で、自分に従順な女を求めているのだ。だから馬鹿なほうが何かと都合がいいのだろう。
 そしてレティシアが自分の意のままにならなければ、ダリオは卑怯な手を使って自分を貶めようとする。好きだった教師たちが離れていったことで、レティシアは決意せざるを得なかった。
 ――これからは、馬鹿なふりをしよう、と。
 難しい話を振られても、よくわからないと話を遮り、無邪気を装って無能な皇女を演じよう。
 そうしていればダリオの自尊心も傷つかず、一年も経てば生意気な皇女という噂はすっかり立ち消え、代わりに純粋無垢で可愛らしい人形姫というあだ名がついた。美しさを褒めたたえたものらしいが、レティシアにとっては『人形=傀(かい)儡(らい)』という嫌味にしか思えなかった。
 しかし、ひとつ副産物として思いもよらぬいいこともあった。
 姉たちからの執拗な嫌がらせが少しだけ和らいだのだ。
 実はレティシアがまだ優秀さを隠していなかった頃。
 第一側妃の子――皇太子コンラートと、第二皇子フリードリヒには妹として可愛がってもらえていたものの、姉であるマルグリットとアーデルハイト含むその取り巻きたちからは嫌がらせを受けていた。レティシアの美貌と聡明さ、それから兄に可愛がられているのを妬んでいたらしい。
 姉たちはわざわざ側妃宮までやって来て、レティシアに冷水を浴びせたり、物を盗んだり、足を引っかけて転ばそうとしたりと余念がなかった。児戯の延長戦のようなものだったが、まだ幼いレティシアには十分堪えた。
 そのうち殺されるのではと怯える日々だった。
 しかし、レティシアが馬鹿だと噂されるようになってから、その嫌がらせが激減したのだ。
「あれは顔だけしか取り柄がないから」
 ふたりがそうコソコソ言っているのを聞いたとき、レティシアは気づいた。
 ダリオだけでなく、姉たちの自尊心もこれで保たれるのだ、と。
 それからは喜んで馬鹿のふりをし、そうして三年が経てば、「女が政治について語るな」と言った張本人のダリオさえも本当にレティシアが馬鹿なのだと思い込むようになっていた。記憶というのは都合よく塗り替えられるものらしい。
 こうして賢かったレティシアはいなくなり、見た目だけの人形姫が出来上がったというわけだ。
「来年なんて来なければいいのに」
 今はもう夏も終わりに近づいている。年が明けてしばらくすれば、ダリオとの結婚式の準備が始まってしまう。そして再来年には大々的に式が執り行われる予定だ。
「誰か私と代わってくれないかしら……」
 そう言いながらダリオからの手紙を開く。
 案の定、次の夜会について書かれていた。
『私が贈ったドレスを必ず着るように願います。今回の夜会は皇妃陛下主催のため、胸には赤い薔薇の花を忘れないでください。お会いできるのを楽しみにしております。私の可愛い人形姫』
「ハッ」
 思わず乾いた笑いが漏れる。サーニャ曰く「レティシアを愛している」男の手紙が、こんなに簡素なはずがない。最後の締めの言葉も二、三パターンしかない使い回しだ。そもそも皇妃のトレードマークである赤い薔薇のことなど、釘を刺されなくともわかっている。どこまでも失礼な内容だった。
(一度くらい熱烈な愛ある文章を書いてほしいものだわ。……まあ、そんなことをされても気持ち悪いだけでしょうけど)
 想像して鳥肌が立つ。
(はあ……、恋愛小説の中に出てくるカップルのように、人生で一度くらいは燃えるような恋に落ちてみたいものね)
 もちろん、ダリオ以外と、だ。
 皇女である自分には恋愛などできるはずもないのはわかっているが、どうしたって夢見てしまう。鳥籠に入れられた小鳥が自由な空へと旅立つみたいな、そんな無意味な空想をしてしまう。
 だが、それを考えるのと同時に思い知る。
 自分には、皇女という地位以外何もない。それを失くしてしまえば、自分が自分でいる意味も失われてしまう。ひとりでは何もできない無力な女なのだ、と。
「無能を装っているつもりだけれど、本当に無能で馬鹿なのかもしれないわ」
 レティシアは手紙をそっと引き出しの奥にしまうと、サーニャに湯浴みの用意を頼んだ。
 ダリオの手紙のせいで身体が穢れてしまった気がして、一刻も早く全身を洗い流したかった。


 夜会当日、ダリオに贈られたドレスを着て、レティシアはダリオが迎えに来るのを待った。
 淡いピンクのドレスにはたくさんのフリルやリボンがついていて、いかにもレティシアのイメージにぴったりのものだ。だが、十八歳にもなる成人女性が着るには少し……、いや、かなり少女趣味が過ぎる。
「本当はもっと大人っぽいドレスがいいのに」
 鏡の前で一回転しながらつぶやくと、サーニャが首を横に振る。
「よーくお似合いになっておられますよ」
「そう? 可愛い? 変じゃない?」
「変だなんてとんでもない! レティシア様の可愛らしさが存分に引き立てられるいいドレスだと思います」
「ならいいけれど……」
 胸には皇妃を讃える赤い薔薇の生花がブローチのように挿し込まれている。途中で萎(しお)れないように、少し長めに残しておいた茎には水を含ませた綿が巻いてあり、それが肌に直接当たって冷たい。だが、多少の我慢はパーティーにはつきものだ。
 コルセットだってきついし、ハイヒールの靴も痛い。
(なんの制約もない男の人が羨ましいわ)
 苦しくないから好きに食事を楽しめる。足元に気をつけ続けることもない。
 鏡にちらりと引き攣りそうになっている自分の顔が映る。無理やり口角を上げ、笑顔の練習をしていたところに、ダリオが来たと声がかかった。
 胸に湧いた憂鬱に蓋をし、レティシアは微笑みを浮かべて彼の元へと向かった。
「薔薇は挿しているな」
 レティシアを褒めるでもなく、ダリオはそれだけ確認すると、踵(きびす)を返して部屋を出る。その後ろを、レティシアは慌てて追った。
 人が多くなってくる前になってようやく、ダリオはレティシアの手を取り、エスコートのふりをする。
(今夜もまたつまらないパーティーになりそうね)
 そんなふうに思っていたものの、パーティーが始まってしばらくした頃に、やたらと周囲の目を釘付けにしているカップルがいることに気がついた。
(あれは、誰かしら……? 赤髪の美丈夫に、やさしげで可憐な女性……)
 ふたりとも三十歳くらいだろうか。
 一瞬首を捻ったレティシアだったが、その女性の胸元に光る四葉のクローバーモチーフのエメラルドを見て、ピンときた。
(――ラインフェルト伯爵夫妻ね)
 この国でクローバーを家門としているのはラインフェルトの家系くらいだ。
 ラインフェルト伯爵は元々同名の侯爵家の出で、そこは武芸に優れた人物を何人も排出してきた。中でも赤髪赤眼の男児は必ず騎士団長を務めるほどの実力者になるという噂もあった。
 今代の赤髪赤眼はラインフェルト侯爵家の次男、キース・フランク・ラインフェルトだ。国防に関して大きな功績を上げたこともきっかけのひとつだが、侯爵家の内輪揉めのせいで家を出たので新しく爵位を賜(たまわ)ったらしい。その翌年には赤髪赤眼の例に漏れず、若くして騎士団長の座についている。
 レティシアは揉め事の詳しい内容までは知らないものの、侯爵家に結婚を反対され、彼の妻であるイルヴァが家出をし、数年後に子どもを連れて出戻ったという話を聞いたことがあった。
 いったい彼らに何があったのかはわからないが、大恋愛の末に結婚したらしいことは聞き及んでいる。
(恋愛結婚で結ばれたおしどり夫婦、か……)
 レティシアがほうっとため息をついてふたりを眺めていると、隣からふんっと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「一時は平民として暮らしていたという伯爵夫人か。子どもも本当に伯爵の子かどうかわかったものではないのに、実子として迎え入れた伯爵も伯爵だな」
 吐き捨てるようにそう言ったのは、ダリオだ。外面よく笑顔は崩していないものの、つぶやいたその声には嫌悪感が滲んでいて、レティシアの肌はぞわりと粟立った。
 こんなふうに、貴族の中には彼らを悪く言う者もいる。
 しかし今目の前にいるふたりは本当に仲睦まじく、キースのさりげないイルヴァへの気遣いはまさに紳士の鑑(かがみ)だった。また、イルヴァからも心の底から彼を信頼している様子が窺えた。ふたりの視線からも互いが愛しくて堪らない気持ちが見て取れる。
 レティシアにとって、彼らは神聖なもののように思えた。
「……そうかしら」
 だから思わず、反論するようにそう言ってしまった。
「何かおっしゃいましたか?」
 ダリオが高圧的に訊き返してくる。
 レティシアは慌てて首を傾(かし)げ、何もわからないふりをした。
「え? いえ、あのご夫婦、とっても仲が良さそうですね、と。旦那様も逞(たくま)しくて素敵だし、奥様も大人っぽくて素敵!」
「人形姫様はああいうのがお好みですか」
 呆れたようにダリオが笑った。
「ですが彼らを見本にしてはいけませんよ。笑い者になってしまいますから」
「そうなの?」
 レティシアの問いかけには応えず、ダリオは知り合いを見つけたのか、レティシアの腕をぐいっと引っ張って連れていこうとする。
 ダリオの知り合いたちは全員嫌いだ。まるで値踏みするようにレティシアを眺め、見た目だけを褒めて話には入らせようとしない。ダリオを持ち上げることに必死なのも透けて見えて、馬鹿らしい。
 最後にちらりとイルヴァに視線を送る。
 すると、たまたま向こうもこちらを見た。会釈したレティシアに、敬意の籠もった丁寧なお辞儀が返ってきた。
(あ……っ)
 そのとき、ビビッと雷が落ちたような閃きが過(よぎ)った。
(――私、あの方とお話ししてみたい。恋がどんなものなのか、直接聞いてみたいわ)
 もうすぐ、レティシアは王族ではなくなる。公爵家に降嫁してしまえば、今よりもっと蔑(ないがし)ろにされるだろう。
 そうなる前に、少しくらいの我儘を言ったっていいのではないか。
 誰にも見えないように、レティシアはぎゅっとこぶしを握る。
 そして決意した。
 結婚前の最後のお願いとして、皇帝である父にイルヴァとの交流を許可してもらおう、と。