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君と最初で最後の恋をする 有能執事は人形姫を一生愛し尽くしたい 2

第二話

 

 

「イルヴァに帝城に来いだって?」
 ラインフェルト伯爵家に筆頭執事として仕えているヴァイス・ヒノヤは、手紙の内容を聞かされ、驚きのあまりつい素で言ってしまった。
「そうなのよ。なんでも、第三皇女殿下が私に話があるそうで……」
 だが、主人であるイルヴァはそれを気にした様子もなく、困ったように首を傾(かたむ)けた。
 イルヴァはノルランデル子爵家の出で、ヴァイスは代々そこに仕える執事の家系だ。
 ノルランデル子爵家は比較的のんびりとした貴族で、従者たちとも距離が近かった。ちょうどイルヴァと同じ年に生まれたヴァイスは、彼女と兄妹のように育てられたため、仕事以外ではイルヴァに対して敬語を取り払うことが多かった。
「話ってなんの?」
「さあ……」
 イルヴァ曰く、先日行われた皇妃主催の夜会では、皇族に挨拶すらろくにできなかったという。それなのにどうして第三皇女がイルヴァを呼びつけたりするのだろう。
 ヴァイスは顎に手を当て、端整な顔を歪めた。
 ヒノヤの家系には異国の血が混じっていて、帝国人とは見た目が少し違う。ヴァイスの祖母が海を挟んだ遠い国から出稼ぎでブラウディン帝国に来たところを祖父に見初められたらしい。
 祖母譲りの艶やかな黒髪に、切れ長の涼しげな琥珀(アンバー)色の瞳はエキゾチックな妖艶さを孕んでいて、ヴァイスを初めて見たほとんどの人は、その色気に充てられてしまう。若い頃からそうだったが、三十歳を迎えた今、成熟した男の魅力も入り混じり、より一層人目を惹くようになった。
 とはいえ、家族同然のイルヴァは見慣れているし、何より愛している夫がいるから、まったくヴァイスの見た目には頓着しない。
 女性には必ずと言っていいほど秋波を送られるヴァイスにとって、イルヴァの隣は居心地のいいものだった。
「第三皇女――レティシア・ティツェ・ハーランド・ブラウディン殿下といえば、第二側妃の唯一の御子で、人形姫だなんだってチヤホヤされてる皇女様だろ? 確かグレイストン公爵家の跡継ぎに降嫁されるんだっけ」
 持っている情報を口に出してから、ヴァイスはますます顔を歪めた。
「グレイストンってあんまりいい噂を聞かねーし、そもそもラインフェルトとは違う派閥じゃねぇか。それなのにどうしてイルヴァと話なんか……」
 正直に言って嫌な予感しかしない。派閥同士の厄介事にイルヴァが巻き込まれるなどまっぴらごめんだ。
 思わず「ゲーッ」と舌を出して中指を突き立てる。
「ヴァイス、口も態度も酷すぎるわよ」
 呆れたようにイルヴァが肩をすくめ、ヴァイスの中指をそっと手(た)折(お)る。
「すみません、奥様。お耳汚し失礼いたしました」
 背筋を伸ばし、執事の態度に改める。
 そこへ、コンコン、とノックが響いた。誰(すい)何(か)する前に、扉が開く。この屋敷でそんなことができるのは、当主であるキースただひとりだ。
「ヴァイスの辛辣な声が廊下にまで聞こえていたぞ。ロランとルミエナが近くにいなくてよかった」
 赤髪赤眼の大男が渋い顔で入ってきた。
 ヴァイスとはまた違う、正統派の美丈夫だ。騎士団長を務めているだけあって、がっしりとした体躯にキリリとした意志の強そうな顔をしている。ヴァイスとイルヴァより二つ年上で、今年三十二歳になった。
「申し訳ございません、旦那様」
 ロランとルミエナはふたりの子どもで、ロランは十三歳の男の子、ルミエナは八歳の女の子だ。ヴァイスが教育係も兼ねているが、ふたりとも聡明すぎて勉強に関しては全然手を焼かせてくれない。
 しかもヴァイスのことは「おじ様」と呼んでいて、親戚扱いになっている。嬉しいことは嬉しいが、貴族の令嬢令息が爵位も何もない自分に丁寧に接してくれるのは少々複雑な気分だった。
「しかし、帝城からの呼び出しともなれば断るわけにもいかないか。俺も同伴したいところだが、呼ばれてもないのに行くわけにもいかないし、騎士団の仕事があるからな……」
 キースが険しい顔で言い、ちらりとヴァイスを見遣る。それだけで何を言いたいかわかってしまった。
「……私が同伴しましょう。護衛兼執事としてなら、呼ばれていなくてもついていけますしね」
 ヴァイスはしっかりと頷き、大袈裟に傅(かしず)いてみせた。
 ちょうどそのタイミングで、またノックが響く。
「お母様、ロランです」
「ルミエナもいますよー」
 可愛らしい声が聞こえてきて、イルヴァが「どうぞ」と言えばすぐに扉が開いてふたりの子どもが登場した。
「お父様もおじ様もいらっしゃったのですね」
 ロランが嬉しそうに破顔し、ルミエナも満面の笑みでヴァイスに突進してくる。ドンッと足元にしがみつき、キラキラとした目で見上げられると、叱る前につい抱き上げてしまう。
「お嬢様、走ってはいけないと何度も注意したではありませんか」
 ヴァイスは怖くもない声で注意する。ルミエナもそれをわかっていてやっているのだ。ヴァイスに構われるのが嬉しいらしい。
「いいのよ。お家の中だけだから。お外ではきちんとやるわ」
「それならいいのですが」
 ヴァイスの首に手を回し、ぎゅっと抱きついてくる。
 ルミエナの髪色は父親に似て赤いが、ほかは母親似だ。一方のロランは、髪色は母親似のクリーム色、瞳と顔つきは父親似で、いろいろあったせいか小さい頃から妙に大人びている。
「ルミエナ、おじ様に好かれたいなら立派な淑女にならないといけないよ。いつまでも赤ちゃんみたいに抱っこしてもらうなんて、淑女とは真逆じゃないか」
 ロランがそう言うと、ルミエナははっとした顔になり、ヴァイスの腕から抜け出した。
「私、ちゃんとできるもん! もう八歳になったのよ!」
 ヴァイスに向かって美しいカーテシーを見せ、ふふんっと自慢げに微笑む。あまりに愛らしくて、ヴァイスはついルミエナの頭を撫でてしまった。
「ルミエナは本当にヴァイスが好きね」
 イルヴァが笑って言った。それに真剣にルミエナが返す。
「だって、大きくなったらおじ様と結婚するんだもの」
「はいはい。嬉しいことでございます」
 この告白はもう何度もされている。一過性の憧れだとわかっているから、ヴァイスも付き合って頷くようにしている。
 だが、父親のキースは面白くないようだった。
「ヴァイス、そろそろ誰かいい人はいないのか?」
 ルミエナが諦めるように早く結婚しろと言いたいらしい。
「そうはいっても、とんと出会いがありませんので」
「嘘言え。選(よ)り取(ど)り見(み)取(ど)りだろう」
 確かに寄ってくる女性は多いが、肝心のヴァイスにまったくその気が湧かないのだ。大人の遊びはたまにはするものの、結婚したいかどうかと言われると、はっきり言ってそこまでの人物とはまだ出会えていない。
「そんなことばかり言ってるから、お前に関して男色だのイルヴァ一筋などと噂が絶えないんだ」
「ちょっと、キース」
 キースの言葉に、イルヴァが眉間にしわを寄せた。ふたりのあいだには家族愛以上のものは何もない。変に探りを入れられるのは不愉快だった。
 しかし、そういう噂が流れるのは仕方のないことだというのもわかっている。
 イルヴァとヴァイスがまだ十六歳の頃、ふたりはノルランデル子爵家から家出をして、五年ものあいだ遠く離れた村で暮らしていた過去がある。とはいえ、同じ村でもイルヴァは修道院、ヴァイスは集落でひとり暮らしだったが。
 ともかく、そのせいで貴族やほかの家の者たちにふたりが恋仲だったのではと疑われているのだ。
「それについては申し訳ございません。ですが誓って奥様のことは妹としか思っていませんので」
「私のほうが誕生日が早いから姉だって言ってるじゃないの」
 いつものやり取りに、キースがため息をつく。
「イルヴァに気がないのはわかっているがな。だからこそうちに置いているわけだし。まあ、この際男色でも構わないから、パートナーは見つけておけよ。俺たちはべつに男色だろうと気にしないし、むしろお前に伴侶ができるなら大歓迎だ。そのときはこの屋敷の隣に別棟を建てて結婚祝いにやるからな」
「だから、男色でもないんだって!」
 キースがあまりにしつこいものだから、ヴァイスはつい粗雑に叫ぶ。それを見て、ロランがやれやれと首を横に振った。この中で一番大人なのは十三歳のロランなのかもしれないと、ヴァイスは口を噤(つぐ)みながら思ったのだった。


 第三皇女――レティシアとの面会は、召喚がかかってから一週間後に行われることとなった。
 茶会という穏やかな名目だが、ヴァイスはイルヴァの護衛として最低限の情報だけは集めておこうとレティシアについてコソコソと調べることにした。
 だが、グレイストン公爵家に降嫁されるとか、とてつもない美少女だとか、あまり政治に明るくないだとか、当たり障りのないことしか出てこなかった。
 グレイストン公爵家がこの茶会に絡んでいる様子もなく、ただ単に第三皇女自身がイルヴァと話をしてみたいだけのようだ。
 大方、ラインフェルト侯爵家とキースのいざこざの噂を聞いて、イルヴァに確かめたいのだろう。
「ゴシップ好きの皇女様ねぇ……。皇族といえど、その辺にゴロゴロいる令嬢と同じってことか」
 報告書を読みながらハッと鼻で笑い、ヴァイスは面倒くさげにソファの背に凭れかかった。
(たとえ第三皇女でも、イルヴァに失礼なことを言うようなら注意――……はできないかもしれないが、嫌味のひとつくらい言ってやる)
 くしゃっと報告書を丸め、暖炉の中に放り込む。パチパチと爆ぜながら、それは跡形もなく消えていった。

 茶会当日、帝城まではヴァイスと数人の護衛が付き添っていたが、側妃宮に入った途端ヴァイス以外はその場で待機させられることになった。そこまでは想定内だ。
 だが、代わりについた護衛騎士がキースの部下であるアイザックだったのは嬉しい誤算だ。彼はヴァイスの武術の師で、キースに仕えることになったときに彼にみっちりと護衛とは何たるかを叩きこまれたのだった。
 豪奢な造りの宮廷内を歩き、レティシアが待つ応接室へと向かう。
 当然ヴァイスは帝城に立ち入るのは初めてで、伯爵家とは違う雰囲気に緊張はしていたが、何度か舞踏会や夜会で来ているはずのイルヴァも緊張しているのか、顔が強張っていた。
(まあ、皇族の呼び出しだもんな……)
 個別の召喚はキースが帝国騎士団長になったとき以来だ。あのときはキースがメインだったし、何より名誉なことだったので不安よりも高揚が勝(まさ)ったのだろう。特に不安そうな様子はなかったのだが、今回は違う。
 レティシアの意図が読めない段階で行くのだから、不安になるのも当然だった。
 それに、隣にキースがいないせいもある。
 自分では頼りにならないもどかしさを抱え、ヴァイスは自分も帝城の雰囲気に呑まれないようにと平気なふりを努めた。
 ピッと執事服の襟を正し、背筋を伸ばす。
 陽の光が降り注ぐ明るい応接室に通され、待つこと数十分。
 慌てた様子で件(くだん)のレティシアが姿を現した。
「ごめんなさい、お待たせしちゃったかしら」
 声がした途端、イルヴァが慌ててソファから立ち上がって顔を伏せた。ソファの後ろに控えていたヴァイスもさっと視線を床に落とす。夜会はまだしも、こういう場では許可が下りるまで皇族の顔は見てはいけない決まりだ。
 軽やかな足取りでイルヴァの前に立ち、レティシアが言う。
「そんなに堅苦しくしないで。私、あなたとお友達になりたくて呼んだのよ。さあ、顔を上げて。お付きの方も」
 声がかかり、イルヴァが面(おもて)を上げたのを確認して、ヴァイスも正面に向き直った。
 そして、思わず息を呑む。
 美しいプラチナブロンドの髪に、サファイアブルーの瞳。十八歳でもう成人しているというのに、幼さの残る整った顔立ちはまさにビスクドールのようだった。肌も滑らかで、恐ろしく白い。着ている水色のドレスも夜会ほど華美ではないがリボンとレースがふんだんに使われていて、それも相(あい)俟(ま)ってますます人形に見える。
(本当に人間か……?)
 そう疑いたくなるほどの美しさだ。
 陽光が射し込み、レティシアの瞳がきらりと輝く。イルヴァが挨拶を済ませたあと、その瞳がスッと細められ、ヴァイスを捉えた。
「……っ」
 つい、視線を逸らしてしまった。そうしてから失礼だったことに気づき、ヴァイスは軽く会釈してイルヴァが自分を紹介してくれるのを待つ。
「そちらの方は?」
 レティシアが訊いた。
「ラインフェルト伯爵家の筆頭執事兼私の護衛でございます。ヴァイス、挨拶なさい」
 主人らしい言葉遣いで、イルヴァが促した。
「お目にかかれて大変光栄にございます、第三皇女殿下。ヴァイス・ヒノヤと申します。以後お見知りおきを」
「まあ! とても素敵な黒髪ですね。異国の血が混じっているのかしら」
 好奇心を隠そうともせず、鈴の鳴るような声とテンションのレティシアに、彼女に見惚れてしまった自分を消し去りたい気持ちが湧く。
「ええ。祖母が異国人なもので」
「そうなのね。きっと素敵なロマンスがあったのでしょうね」
 それには曖昧に微笑んで、ヴァイスは一歩後ろに下がった。レティシアと交流すべきは従僕の自分ではなく、イルヴァのほうだ。
「どうぞ、座って。ラインフェルト伯爵夫人」
 レティシアがまず座ってから、イルヴァに微笑む。
「私のことは気軽にイルヴァとお呼びください。第三皇女殿下」
「じゃあ私のこともレティシアでいいわ」
 そう言いながらも、レティシアは侍女たちが持ってきたティータイムセットの菓子に目を奪われている。確かに美味しそうな苺のタルトだが、皇女にしては感情が表に出すぎている気がして、ヴァイスはぴくりと眉を動かした。
 政治には疎いお姫様だと噂にあったが、礼儀作法もおざなりなのかとつい教育係の血が騒いだのだ。ロランやルミエナが同じことをすれば、確実に注意していた。
(所詮顔だけのお飾り皇女か)
 ため息が出そうなのを堪え、ヴァイスは無表情でふたりを見守る。
「そんな、皇族の方をお名前で呼ぶわけには……」
 イルヴァが困った顔で首を横に振る。しかし、レティシアは肩をすくめて言う。
「じゃあ私とふたりのときだけね。それならいいでしょう?」
 ね、と無邪気にお願いされれば、イルヴァには断れない。
「わかりました。では、この場では失礼して、レティシア様、と」
「ありがとう。じゃあ、さっそくなんだけれど、質問してもいいかしら」
「ええ、なんなりとお訊ねください」
 紅茶を啜り、取り分けられたタルトを口に運びつつ、レティシアが本題に入る。
「小耳に挟んだのだけれど、あなたたちラインフェルト伯爵夫妻は大恋愛の末結ばれたって本当なの?」
 やはりそのことか、とヴァイスはきゅっと唇の裏を噛む。
 イルヴァが家出をしていた期間は、とても穏やかとは言い難かった。もちろん、ロランが生まれて幸せだったのは間違いないが、思い出したくないことも多々ある。
 それを好奇心などで思い起こされては、イルヴァが嫌な思いをするのではないか。本心では止めたかったが、ヴァイスにその権限はない。
 それに、ここに呼ばれた時点で察してはいたことだ。
 イルヴァ自身も、覚悟はしていたはずだった。
「ええ、本当ですよ。その詳細をお聞きしたいということですね」
 しかし、ヴァイスが思っていたよりも朗らかに、イルヴァが頷いた。微妙な表情になるどころか、彼女の目は爛々と輝いていて、早く話して聞かせたそうな雰囲気だ。
(……ああ、そういうことか)
 皇族に嘘はつけない。いや、すべて把握しているとみなして、ラインフェルト侯爵家の汚点も含めてすべて赤裸々に話せるのは、今目の前にいる皇女くらいだ。
 これまで、イルヴァの身に何があったか聞きたがる貴族は多かったが、キースの生家である侯爵家を悪く言うわけにもいかず、ずっと曖昧に濁してきた。だからあの数年間の記憶は、両家の人間しか知るところのないことだ。
 だが、イルヴァはずっと誰かに話して聞かせたかったのだろう。
 ――自分と最愛の夫、キースの物語を。
「恋愛というのは、小説の中でしか感じたことがないから、ぜひあなたに話してほしいの」
 目を細め、レティシアが言った。
「もちろんです。喜んでお話ししますよ」

 話はイルヴァが十六歳の頃まで遡る。
 ラインフェルト侯爵家とノルランデル子爵家の領地は隣り合っていて、両家も家族ぐるみで付き合いがあった。
 歳の近いキースとイルヴァが恋に落ちるのは至極当然で、ふたりはやがて恋人同士になった。
 だが、ふたりのあいだには大きな壁があった。
 キースがイルヴァに正式にプロポーズしようとしたのだが、それをキースの母親であるアイシャ夫人が止めたのだ。
 赤髪赤眼の男児はラインフェルト家にとっては宝玉で、必ず武勲を立て、帝国騎士団長になることが約束されたようなものだった。だから、イルヴァのような子爵家という低階級の娘はキースに相応(ふさわ)しくないと判断したらしい。
 アイシャ夫人の反対にあいながらも、いや、反対されたからこそ、ふたりの恋はますます燃え上がった。
 そしてイルヴァが十六歳を過ぎたある日、アイシャ夫人はイルヴァがキースの子を妊娠していることに気づいてしまった。それまでイルヴァ本人も妊娠に気づいておらず、喜びに笑顔を浮かべたイルヴァに、アイシャ夫人は言ったのだ。
『わかってるの!? このままではあなたのせいでキースの将来は閉ざされてしまうかもしれないのよ!』
 それはちょうどキースが帝国騎士団の入団試験を受ける前で、イルヴァの妊娠がわかれば試験を受けずに傍にいようとするだろう、と。
 子どもがある程度大きくなるまでは、きっとキースは騎士団に入ろうとしない。若く大事な時期をイルヴァのせいで棒に振るということは、彼の人生そのものを台無しにするということだ、と。
 その事実に思い当たり、イルヴァは愕然とした。アイシャ夫人はそんなイルヴァに堕胎を迫り、冷水をかけ流産させようと試みた。命からがら逃げだして、ヴァイスに保護されたイルヴァは熱を出し、一週間ほど寝込むことになったのだが、幸いお腹の子は無事だった。
 しかし、家族にも妊娠を打ち明けられず、キースの未来のためにとイルヴァは別れを決意し、ひとりで出産しようと決めたのだった。
 唯一相談された姉弟分のヴァイスだけが真実を知っており、か弱いイルヴァをひとりで行かせるわけにもいかず、ふたりで遠い地へと旅立つことにした。
 辿り着いた修道院でイルヴァは長男のロランを出産し、シスターたちの手を借りながら立派にロランを育てていった。
 一方のヴァイスは、修道院に入るわけにもいかず、近くの集落でひとり暮らしを始めた。仕事をしながら時折イルヴァとロランの様子を見に行き、困っていることがあれば助け、話し相手になり、気ままに暮らしていたのだが――……。
 ノルランデル子爵家を飛び出して五年が経ったとき。
 近くに出没する盗賊討伐に、キースが率いる帝国軍騎士団第七連隊がやって来てしまったのだ。
 キースはすぐにイルヴァに気づき、裏切られたと憎しみの目で睨みつつ、けれど結局、ふたりは惹かれ合う運命だった。
 盗賊や、それらと内通するキースの部下に襲われそうになったイルヴァをキースが助けたことでますます気持ちをごまかすことができなくなり、ふたりは再び関係を持つことになった。
 やがて、ロランの瞳の色がキースと同じ赤色であることや、額にラインフェルト家にしか現れない福音であるクローバー形の痣(あざ)があることがばれてしまい、キースはロランが自分の子であると知る。
 それまでイルヴァはヴァイスと駆け落ちしたと思っていたキースだったが、ロランの容姿から真実に辿り着き、アイシャ夫人やラインフェルト侯爵家とは縁を切った。
 その後すぐ、盗賊討伐をしたり、隣国の反乱を未然に防ぎ、開戦危機を退(しりぞ)けたりと功績を上げたキースは、伯爵位を皇帝から賜った。そして隣国へと移住していたイルヴァを追いかけ口説き直し、妻へと迎えたのだ。

 要約すればそんな物語だが、イルヴァはそれを面白おかしく、ときに悲しく、そしてドラマチックにレティシアに話して聞かせた。
 レティシアは紅茶を飲むことさえすっかり忘れ、イルヴァの話に聞き入っていた。
「そうしてふたりはハッピーエンドを迎えたのね」
 話を聞き終えたレティシアは、胸を押さえてほうっとため息をついた。
「いえ、まだまだ物語は終わっていませんよ。私たちはこうして今も生きているのですから」
 にっこりとイルヴァがそう締めくくる。
「そうね。確かにそうだわ」
 レティシアが頷き、紅茶を啜ろうとする。その前に、ヴァイスが侍女に目配せした。冷めているだろうから、新しいものに淹れなおすように、と。
 レティシアはヴァイスがそう指示したことに気づいたのか、ちらりと視線を上げてヴァイスを見た。そして感慨深そうに言う。
「あなたがイルヴァを守ってきたナイトなのね」
「滅相もございません。奥様のナイトはご主人であるラインフェルト伯爵にほかなりませんので。私はただ従僕としての任を全うしたまででございます」
 ヴァイスは軽く頭を下げ、そう答えた。
 だが、レティシアはなぜか悲しそうに眉尻を下げる。
 直後、爆弾のような言葉を投げかけてきた。
「そんなにずっと一緒にいて、イルヴァを好きにならなかったの?」
 その質問に、思わずヴァイスはイルヴァのほうを見遣った。自分では意識していないが、ものすごい顔をしていたのだろう。ヴァイスと目が合った途端、イルヴァが堪らず噴き出してしまった。
「申し訳ございません、レティシア様」
 ンンッと咳払いし謝罪しながらも、イルヴァの目は笑っていた。
「畏れながら」と前置きし、ヴァイスははっきりと答えることにした。
「奥様は妹のようなものですから。それに、そのお言葉はラインフェルト伯爵夫妻を侮辱することにもなりかねます。当然、私のことも」
 従僕が主人に懸想するなど、言語道断だ。
 皇女に意見するなど普通なら考えられないことだったが、訂正しないわけにもいかない。笑わずに真顔で言い切ったヴァイスに、レティシアはすぐに謝罪する。
「ごめんなさい。でも、ふたりとも美男美女だから、惹かれ合っても仕方がないと思ったのよ」
「もったいないお言葉ですが……。互いにそういった感情は持ちえませんので何卒ご承知おきくださいませ」
「そう?」
 納得していないような表情だが、ヴァイスが笑顔で圧をかけると、レティシアは「わかったわ」と肩をすくめた。
 そして言う。
「ラインフェルト伯爵夫妻やあなたにも失礼だったけれど、あなたの奥方にも悪いことを言ったわね」
 それを聞いて、今度はイルヴァがヴァイスを窺う番だった。ヴァイスが独り身であることを言ってもいいかと訊いているのだろう。
「残念ですが、私は独身ですので」
 面倒くさい勘繰りをされそうだと思ったものの、ヴァイスの方から正直に答えた。
「えっ、そうなの?」
 案の定、レティシアが目を見開いてヴァイスとイルヴァの顔を交互に見た。
 キラキラと、サファイアブルーの瞳が輝く。
(俺がイルヴァに操立てしているとでも思ったのか? ったく、これだからゴシップ好きのヤツは……)
 どうやらドロドロの恋愛模様を期待されているようだ。
(見た目だけのお人形さんってのは確定だな)
 政治にも疎く、無学で、遊び惚けているだけの人形姫。
 帝国にとっての都合のいい駒にされ、グレイストン公爵家へと降嫁される世間知らずなお嬢様。
 嫌いなタイプだ、と内心で悪態をつきながら、ヴァイスは笑みを返す。
 しかしレティシアはヴァイスの心情になど気づくはずもなく、続けた。
「私、あなたの話も聞いてみたいわ。どうして独身でいるの? それだけ整った美貌を持っているのなら引く手あまたでしょうに」
 言いながら、侍女にもう一脚ティーカップを持ってこさせる。それをテーブルに置き、ヴァイスに座るよう促す。
「いえ、私は……」
 イルヴァはまだしも、皇族と同じ席に座るなど畏れ多い。レティシアの侍女やアイザックも、この異例の対応にぎょっとした顔をしている。
「私がいいって言ってるんだから、作法は気にしないで」
 少女らしい無邪気さを前面に出してはいるものの、確かな圧を感じ、ヴァイスは折れた。イルヴァもアイザックも、小さく頷く。
「……畏まりました。第三皇女殿下のご厚意に甘えます」
「やだ、あなたもレティシアでいいわよ」
「そういうわけには参りません。私は爵位も何もないただの平民ですので」
 厳密に言えばヴァイスはラインフェルト伯爵領に土地所有を認められているので準貴族ではあるが、皇族を前にしては無意味な身分だ。
「真面目なのねぇ」
 感心と残念さが混じったような声でつぶやき、レティシアは瞬きを繰り返す。
 その後、ヴァイスの生い立ちや家出をしていた五年間のことを根掘り葉掘り訊かれ、イルヴァさえも知らなかった村での生活について話す羽目になった。
 執事として父から厳しく躾をされたので、あらかたひとりでなんでもできるため、村での生活はさして苦ではなかったとか、荷運びで稼いでいたこと、仕事がないときは森で狩りをしていたこと。
 村の女たちがヴァイスを取り合って揉めそうになったことまで話して聞かせると、だんだんとイルヴァが申し訳なさそうな顔になっていく。
「知らなかったわ。もしかして、村に将来を誓った女性がいたんじゃないの?」
「いえ、深入りはしないようにしていましたので」
 レティシアの御前では乱暴な言葉遣いをするわけにもいかず、ヴァイスは作り笑顔でそう答えた。
「万が一、ノルランデル子爵家との繋がりがばれた場合、私の行動で評判を落とすわけにはいかなかったので、品行方正を常としておりました。皆平等に、公正に」
 一晩の遊びをするときは、なるべく素人ではなく娼婦を相手にしていた。素人相手のときは、相手に後ろ暗いところはないか徹底的に調べてから手を出していたし、後腐れのないよう全員丁寧に対応した。
 自分ひとりならそこまで慎重にはしなかっただろうが、ヴァイスはどこまでも生真面目で、主人の名誉に関わることについては殊更敏感なのだ。
 粗野だけど実直。
 決して裏切ることのない信頼できる弟分。
 だからこそイルヴァはヴァイスに心を開いている。
「博愛主義なのね」
 ニコニコと笑顔でレティシアが言った。
 その言葉に、ヴァイスは一瞬違和感を覚えた。そしてすぐ、その正体に気づく。
(初(う)心(ぶ)な少女かと思ったのに、案外わかってるな)
 さっきのヴァイスの話で、どれだけの女性と夜をともにしてきたか理解したのだろう。その点においては、むしろイルヴァよりも聡いかもしれない。言い回しも下品さがなく、完璧だ。
(もしかして、第三皇女殿下は――……)
 はっとして、不躾ながらもヴァイスはレティシアをじっと見つめた。
 目が合うと、彼女は目を見開いて小首を傾げた。幼子のような仕草だった。そこにはヴァイスが思っていたような聡明さはない。
(気のせいか)
 視線を切り、それから肩をすくめる。
「私の話はこれくらいです。ノルランデル領に帰ったあとはすぐにラインフェルト伯爵家にお仕えするようになり、特段変化もなく今に至りますので」
「とても興味深かったわ。ありがとう」
「殿下の御心を満たせたのなら幸いです」
 その時点で二時間ほど経っていただろうか。
 そろそろ帰らないと夕食に間に合わなくなってしまう。忙しいキースとは毎日一緒に夕食をとるようにしている。暇(いとま)を告げようかと思った矢先、レティシアが口を開いた。
「イルヴァもありがとう。あなたの愛の素晴らしさ、本当に感動したわ。私はとてもじゃないけれど真似できない。勇敢なあなたにさらなる幸福が訪れるよう祈っているわ」
 茶会の終わりを告げる言葉だった。
「私もお会いできて光栄でした、レティシア様」
 立ち上がり、イルヴァがドレスの裾を広げて頭を下げた。ヴァイスも同様に、深くお辞儀する。
 部屋を出て、アイザックに小突かれながらラインフェルト伯爵家の護衛たちと合流し、馬車に乗ってようやく、ヴァイスは詰めていた息を盛大に吐き出した。
「はああああ……。疲れた」
「まったく、ヒヤヒヤしたわよ、ヴァイス!」
 イルヴァが責めるように人差し指を向けてくる。
「第三皇女殿下に対してあの態度はなんなのよ! 殿下が温厚な方でよかったけれど、もしご気分を損ねていたら……」
「皇女でもそこまでの権限はねぇよ。俺を処分したとしたら帝国騎士団長であるキースの不興を買うだろ。そっちのほうがダメージがでかい」
「それは、そうかもしれないけど」
「いいじゃねぇか。ご満足いただけたようだし」
 レティシアは終始ご機嫌だった。少なくとも、自分のような作り笑顔ではなかったはずだ。
「だといいけれど」
「まあ、もう呼ばれることもないだろうけどな」
 レティシアの聞きたい話は全部した。
 好奇心が満たされたのだから、お役御免だろう。

 ――と、そう思っていたのだが、驚いたことに、その日以降、イルヴァとヴァイスは頻繁にレティシアに呼び出されることになったのだった。