悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]上 3
お嬢さまはずっと私を守ってきてくれた。
私はお嬢さまの護衛だけど、お嬢さまもまた、私を守ってきてくれた。
子どものころ、お嬢さまの乳母さんの怒りをかったことがある。
おねしょを治すには、昼間は友だちとたくさん遊んで、夜は大好きなひとにぎゅうしてもらうのがいいと洗濯のおばさんたちに聞いたので、夜眠るまえに抱きしめるのが私たちの日課になっていた。
下働きであった私は、ご主人さまがたのお住まいになる上階にあがることは許されていない。そこでいつも優しい副メイド長さんにお願いして、許可こそ得られなかったものの、わざと見逃してもらえた。
私は毎晩、こっそり上階のお嬢さまの部屋に忍び込んだ。
それが乳母さんにバレた。
大人の力で殴られた。焼きごてを押しつけられた。それでも私はやめなかった。
三度目に見つかったとき、とうとう髪を掴んで引きずりまわされ、お邸の大階段から突き落とされた。
私は大怪我を負った。生死の境をさまよった。
お嬢さまは泣いた。起き上がれない私に取り縋り、目が溶けるのではないかというほど泣いた。エマ、いや、死なないで。私を置いていかないで、私をひとりぼっちにしないで。そう繰り返して、私のそばを離れなかった。
私は、だいじょぶだよ、泣かないで、エマはずっとお嬢さまといるよ……と約束した。
半地下の私の使用人部屋は、薄暗く、じめじめして、お世辞にもきれいとは言えない。それでも、お嬢さまは毎日お見舞いに来てくれた。
『こんな所でなにをなさっておいでなのです、イザベラさま』
まだ枕から頭も上がらなかったころ、ギイ……と立て付けの悪い粗末な木の扉が開いた。
暗い廊下から、目が覗いていた。その白目は、ぎらぎらと血走り、まるで光っているように見えた。なぜか私は、その目のことしか覚えていない。記憶の中で、その姿は、あとはぜんぶ真っ黒に塗りつぶされている。
『公爵家のご令嬢ともあろうかたが、こんなみすぼらしい場所に入り浸って。本当にあなたは、なんて悪い子なのでしょう』
黒いかたまりが、部屋に入ってきた。ベッドに寝ている私は身が竦み、動けない。またぶたれる、また階段から突き落とされる、逃げなきゃ、と思うのに、全身が痛くて動けない。
『ほんとうに、ほんとうに悪い子。旦那さまに知れたら、令嬢の躾がなっていないと、私が叱られてしまうのですよ。この乳母がこれほど愛情を込めて躾けてあげているというのに、いつもいつも逆らって、ワガママばかりで。どうして私の言うことを聞けないの? どうしてそんなに悪い子なの?』
『で、出て行って。お、おまえがエマにひどいことをしたから、だから、で、出て行って!』
お嬢さまは私を庇うようにして立った。でもその声はうわずり、足は震えていた。
乳母さんはいつも、陰でお嬢さまをいじめていた。言葉で何時間も責めたり、誰も見ていないところで、つねったり。
『あなたさまは私を苦しめるのが、そんなに楽しいのですね。なんて底意地の悪い、厭な子どもなの。将来ろくな大人にならない。悪魔のような子よ』
『ち、ちが……、エマは違うって、言ってくれたもの。私のこと大好きって、悪い子じゃないって、い、言ってくれたもの』
『下働きの小娘の言葉を、真に受けて。令嬢に取り入るために言ってるだけに決まっているじゃありませんか。まったく……、ろくな教育も受けていない下階の使用人のくせに、おべっかだけは一流ね。しかも、卑しいだけあってしぶといこと。まだ生きてるなんて』
乳母さんは、汚らしそうに部屋を一瞥してから、私の寝ているベッドのほうへやってきた。立ちはだかろうとするお嬢さまを大人の力で簡単に押しのけて、私の傍らに立つ。ギラギラと白い目が、私を見下ろす。声が喉で凍りつくけれど、全身が痛くて動けない。
乳母さんは恐ろしいほど優しい声で言った。
『イザベラさま、私はこの娘と話があります。どうぞごじぶんのお部屋にお戻りになりますように』
『い、い、いやよ! エマになにするの、エマに痛いことしないで! こっから出て行っ……』
パシン!と鋭い音が鳴った。
お嬢さまが、頬を押さえて床にうずくまった。乳母さんは軽蔑するように言った。
『ほんとうに、なんて聞き分けのない子なの。私を怒らせて楽しんでいるんだわ。やっぱり悪魔の娘なのね。この乳母が厳しく躾けてあげなければ、あなたはダメになってしまう。こんな身分低い者のご機嫌取りばかり聞いていては、立派な令嬢になれませんよ。なあに、その反抗的な目は? お父さまに言いつける気? 本当にそれでいいの?』
乳母さんは、叩いたほうのお嬢さまの頬をつねった。幼い頬を捩じり上げて、無理やり立たせる。
『私がこの邸からいなくなったら、あなたを愛してあげられる者は誰もいなくなるのよ? こんな厭な子ども、誰にも愛されないわ。じつの母親にさえ捨てられたくせに! 生まれてこなきゃよかったのよ』
『ひ、ひ……、う、うえぇぇ……』
お嬢さまは泣きだした。まだ六歳。お嬢さまの世界はまだ、子ども部屋が大半を占めていた。大人の、それもじぶんを赤ん坊のころから育ててくれた乳母の言葉は、絶対だった。
『おじょ……、ない、で……』
お嬢さまにひどいこと言わないで、お嬢さまをいじめないで、と言いたいのに、声が出ない。喉で息がかすかすと空回るばかり。ベッドのうえで何度も起き上がろうとするのだけど、力を込めると激痛が走る。
お嬢さまの泣き声が部屋中に響く。
『泣くな!!』
乳母は苛立って𠮟りつけた。
『早くお部屋に戻りなさい! あとで私がしっかり躾けてあげます。全部あなたのためなのですよ。あなたは甘やかされた子どもで、なにが自分のためで、なにが害か、まるでわかっていない。この小娘も――』
乳母さんはお嬢さまから手を離し、ふたたび私を見下ろした。手が伸びてくる。その手のひらは、私の目に、天井を覆わんばかりに大きく見えた。頭に巻かれた包帯ごと、髪を掴まれる。
『い……っ』
『公爵家のご令嬢にとって、害悪でしかない。排除しなければ。あなたが私にそうさせるのですよ、イザベラさま。私はこんなことしたくないのに、あなたがワガママな悪い子だから! さあ、お部屋にお戻りなさい!!』
お嬢さまの声は、もうしない。泣き声すらたてない。私たちは大人に対し、無力だった。
私は髪を掴まれ、無理やり起き上がらされる。痛い。抗う力もない。今度こそ殺されてしまう。助けて。だれか助けて。
ジャキン、とそのときなにかの音がした。切れ味の悪い刃物が、なにかを無理やり断ち切るような、こすれた、いやな音。
『エ、エ、エマから、離れて!』
そこにはハサミを持ったお嬢さまがいた。部屋には替えの包帯や盥(たらい)があり、その包帯を切るためのハサミも、置きっぱなしになっていた。それを掴んで、お嬢さまは泣きながら叫んだ。その銀水色の髪の毛は、肩の上で切り落とされていた。
『なにをなさっているのです!』
乳母さんが振り向く。
ちいさなお嬢さまは泣きじゃくりながら、じぶんの髪の毛をジャキジャキと切り落としていく。腰まであった長く美しい髪が、ざんばらに切り落とされていく。
『エ、エマ、エマを離して! エマにひどいことしないで! 乳母の言うことなんか、もう聞かない! 誰か! 誰か来て! 乳母が私の髪を!!』
乳母さんは解雇になった。
大人たちがお嬢さまの言い分を本当に信じたかは、わからない。
だが旦那さまは、令嬢への傷害罪と殺人未遂で、私刑に処したという。
今思えば、彼女もあのお邸でノイローゼになっていたのだろう。被害者がさらに弱い者を虐げる。
その夜、騒動のせいか、私は熱が出た。だから、おぼろげにしか覚えていないし、夢だった気もするのだけど、
『最近イザベラが変わったのは、おまえのせいだったのか』
誰かが私にそう語りかけた。大人の男のひとの声だった。優しい、毒の蜜みたいな声。
『順調に育っていたのだがな。育ての親を狂言で破滅に追いやったあたりは、先行き楽しみだが――。おまえが摘んだのだな、つぼみのうちに。邪悪の花を』
首に、ひんやりと冷たいものが触れた。高熱をもった体に、それは心地よかった。じわじわと巻きつき、喉を押し包んでくる。
だが、離れていった。
『いいだろう。やってみるがいい。かえって面白いかもしれぬな。これもまた一興だ』
苦労して目をこじ開けたときには、部屋には誰もいなかった。夢を見たのだろうと思った。
翌朝、お嬢さまはまた私の部屋を訪れた。その銀水色の髪は、耳の下あたりで短く切り揃えられていた。
『おじょうさま、髪……、私のせいで……』
せっかく綺麗だったのに。ゆるく波うつ長い髪は物語のお姫さまのようで、私はいつも憧れていた。リボンや髪飾りで、いつも可愛らしくしていたのに。
だけどお嬢さまは、フンとせせら笑った。短くなった毛先を、いつもどおりの高慢なしぐさでうしろへ払う。
『美少女はどんな髪型でも可愛いのよ。どう? このヘアスタイルも似合うでしょ?』
『可愛いよ、似合ってる。でも……』
う……、と涙が込み上げる。でも、好きで切ったわけじゃない。私を守るために。
お嬢さまは、私のベッドのかたわらの椅子にすとんと座った。そうして両腕をベッドにのせ、私の顔を覗き込み、自信満々に笑った。
『見てなさい。来週には王都中のデビュタントまえの令嬢が私を真似て、みんなこのヘアスタイルにするわ。大流行よ』
『おじょうさま……』
強気にそう言ってくれるお嬢さまに、それでも私はまだべそべそしていた。
『エマは泣き虫ねえ』
そう言うお嬢さまだって、昨日はあんなに泣いていたくせに。いつも、陰で泣いてたくせに。
お嬢さまは手を伸ばして、私の頭をそっと撫ぜた。怪我のところに触れないよう、おそるおそる撫でる。頭には、新しい包帯が巻かれていた。
『ごめんね、エマ。私のせいでいっぱい痛い思いをして、怖い思いをさせて。でも、もう大丈夫よ。もう誰にもエマを傷つけさせない。これからは私がエマを守るわ。エマばっかり私を守るなんて、不公平だもの』
短い髪を揺らして、お嬢さまは笑った。銀水色の毛先が、肩の上でさらさら揺れた。
それからその言葉どおり、お嬢さまは私を守りつづけた。
お邸の使用人のなかには、私がお嬢さまに贔屓されている、ご令嬢に取り入って上手く立ち回っていると意地悪をするひともいたけれど、片っ端からクビにした。それはもう容赦なく、電光石火の即断即決だった。じゃあおまえが明日からエマの仕事をしてみなさい、さあ、さあ! 誰がエマほどのことを私にしてくれるの! 私のワガママに秒で完璧に対応できるの!? とゴリゴリに詰めていった。
学園に入ってからは、やはり庶民枠入学の私が王都中の憧れの的である公爵令嬢のそばにいることを面白く思わない生徒がいて、校舎裏に呼び出されたことは数知れなかったけれど、そのたびにお嬢さまはすっ飛んできて、そんな子たちを蹴散らした。この私の友人をあなたたちが選ぶ気? は! 思い上がりも甚だしい! 何様なの? このイザベラの親友はエマだけよ! どんな令嬢だって王女だってエマには敵わない。だいたい身分のハンデありでこの学園に入学できた特待生たちのほうがあなたがたより百倍優秀な頭脳なんだけど? エマへの攻撃は即時私への攻撃とみなす。潰すわよ!
お嬢さまがそうやって身分関係なく私と仲良くすることで、自然と、私だけでなくほかの特待生たちも貴族学園で肩身の狭い思いをすることがなくなっていった。ほかの学年に比べても、すごく風通しのいい学年だった。そういう空気づくりも含めて、お嬢さまは私を守った。
お嬢さまはずっと、私を守ってくれた。
私たちはずっと、そうやって助け合って、寄り添って、一緒に生きてきたのだ。ふたりで生き抜いてきた。
(それに……)
私は握りしめた拳の、その指に嵌めてある指輪に目を落とす。婚約式の打ち合わせで王城に来たので、その日からずっとしている。ブルーサファイアの婚約指輪。
(それに、カイルを――この国の王太子を、そう何度も何度も問題の矢面に立たせるわけにはいかない)
これまでもずいぶん、カイルを公爵家の問題に巻き込んできた。彼はそのたびに、私のために犠牲を払ってきた。カイルは王室にもそうする理由あってのことだと言ってくれるけれど、公爵家が私の養家でなければ、もっと非情な手段がとれたはず。
カイルは王太子なのだ。それは、出逢ったときからずっと、そうなのだ。私の恋人というだけのひとではない。国と民を背負っている。ただでさえ責任感の強い彼に、これ以上私という重荷を負わせたくない。国民にも申し訳ない。
これは、私とお嬢さまと、旦那さまの問題。私がお仕えしてきた公爵家の、長年にわたる因縁。お嬢さまをお守りするのは、私が私に与えた仕事。カイルがどうにかしてくれると頼るつもりは、元よりなかった。
(――となればやはり、私個人としてひそかに皇国に入り、お嬢さまを直接取り返すしかない……)
私はキャビネットの引き出しから、ある小瓶を取り出した。カイルにこの部屋に放り込まれて泣き疲れたあと、テーブルの上に見つけたのだ。
私のじゃない。
火事のまえに、誰かが置いていったのだ。
メッセージ付きだった。署名のイニシャルは『A』。その頭文字を持つ人物は、ひとりしか心当たりがない。
彼女は、どういうつもりなのだろう?
炎のごとき髪色。
王家を裏切り、伯爵の身分も、自分を名君と慕ってくれる領民も捨てて、旦那さまとお嬢さまとともに消えた。
「エマさま、ご要望の品をお持ちしました」
衛兵がコーヒー豆など一式を持ってきてくれた。
私は小瓶を引き出しに隠す。
カイルが来るのを待つしかない。
◆◆◆
「エマをどう思う、トール」
その日も王都の被災状況をみてまわり、カイルが王城への帰路についたのは、夜も遅くだった。
馬車は王都の暗い夜道を進む。いつもならアンフェルム王国の華やかな王都は、庶民の酒場や歌劇場、貴族の邸での舞踏会と夜も煌々と灯りがともっているのに、今は焼け跡も生々しく、夜闇にひっそり静まりかえっている。
つねならばカイルの側近として傍らにいるクロードたちも、いない。俺のそばにいるより、それぞれの親――宰相、騎士長、内務大臣のかたわらで、この非常事態に国家の重鎮がどう判断し動くか見ておいたほうが将来俺の役に立つだろう。そう申し渡してのことだった。
馬車のなかでも、しぜん、話し相手は護衛官になる。
「臣下の身にある者が主君のお妃について申し上げるべきことは、何もないかと」
堅い返答に、カイルは柄にもなく、かるく首をすくめたくなる。
自分も堅物だと言われるほうだが、この護衛官はそれに輪をかけて堅物だ。岩ででもできているかのような返事だ。
「では、王太子妃としてでなくていい。同職の、護衛官としてはどうだ」
「それは」
やや迷うそぶりで、彼は口をひらいた。
「たいへん優秀であられるかと」
「優秀な護衛官とは、なんだ? 定義は?」
「護衛対象のために、あらゆる危険の可能性を排除する。それでもなお避け得ぬ危機のときには、瞬時にほかのすべてを捨てられることです。己の命さえも」
「――――」
は、とカイルは笑った。やや、掠れていた。視線を逸らし、窓の外の暗い街へ視線を投げる。
避け得ぬときには、すべてを捨てられる。じぶんの命も、カイルも。
それがエマか。
「的確な意見だ」
「ご無礼を」
「いや。もうすこしなにか聞かせてくれるか。なんでもいい。これまで、そなたとこうして話す機会はあまりなかった」
「は……」
雑談というものが苦手らしい護衛官はやや戸惑った様子だったが、主君の求めに応じた。
「人を守る職業というのはいくつかございます。先ほど街でも見た、警吏や消防隊、救助隊。ひろく言えば医師や看護師もそうでしょう」
「うむ」
「それらの職業と護衛職とが大きく違うのは、守る対象の広さです。彼らは、ひろく国民を救う。不特定多数が対象です。そのために彼らは、救助者より、己が第一優先なのです。これは、職業訓練の際、徹底的に教え込まれることです。まず己の安全を確保する。この鉄則が守れぬ者は、消防士にしろ看護人にしろ、その職に就く資格はない」
「そうだな」
目のまえの人間を救うために自分が死んでしまってはならない。己の命を最優先にすること。これは職業倫理である。警吏や消防隊が毎度ギリギリの綱渡りで命を晒していては、その職務をまっとうできない。また、その職業者が生きていればほかに救えたはずのより大勢の命、将来にわたるより多くの命を優先するという考え方でもある。ときに、目のまえで火災や洪水に呑まれようとしている市民の救助を諦めねばならない。
「ですが、護衛官は違います。護る対象は、たったひとりです」
トールは言った。
「任務のため、己の命を盾にすることが求められます。おなじ人を守る職業でも、その点が決定的に違う。エマさまはその意味でも、優れている。いざというときの覚悟と瞬時の判断が、身についておられます。先月、ヴァレリウスを捕えるためご自身の命を囮にしたときも、そうでした。恐怖がないわけではないのです。だが、遂行できる。すべては主君イザベラ嬢のために。ゆえに、優秀な護衛官だと申し上げました」
瞬発力と、捨て身の献身。
初めてエマと出会った入学式の日にも、カイルはそれを見た。エマはイザベラを庇ってガラスのシャワーを浴びようとした。わずかの躊躇いもなかった。
それは、とても不幸なことに思えた。
誰が?
エマだろうか? エマはじぶんを不幸とは微塵も思っていないだろう。
ならば、そんなエマを愛した俺か?
カイルは馬車の窓を押し上げた。夏のなまぬるい風が入ってきて、彼の頬を、慰めるように撫ぜた。
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