悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]中 3
イリヤ皇子は私の両手を包んだ。ちょっとピクッと反応してしまったけど、その手はやっぱりあたたかかったから、私はなんだか泣きそうになってしまった。
感謝の見返りがほしくてしたわけじゃない。おこないはただ、そうありたい自分であれた、というだけで充分な報いなのだ。私はそのくらいには、タフな人間でありたい。
けど、それでもやっぱり、ありがとうと言われると、心がくすぐったい。あたたかくなって、うれしい。
辛さや怒りで心はすぐ縮こまってしまうから、そんなふうに優しい言葉をかけてもらえると、また心はのびやかさを取り戻すことができる。
「私こそ、お礼を申し上げなくては。今日私が少女とおばあさんのために動く力を取り戻せたのは、ぜんぶ殿下のおかげなんです」
私はそう伝えた。
「昨晩私の心は、辛いことや怒りで、とても縮こまっていたから。お嬢さまのことだけ考えて、もうよそのことに関わっていてはいけない、って思っていました。でもイリヤ殿下が優しくしてくれたから――それこそ、便利な召使いを取り戻しさえすればあとはなんの得もないことですよね? 部屋に帰ってきてから殿下が示してくださったのは、純粋ないたわりでした。あのね、壁をトントンしてくれたの、すごく嬉しかったんです」
「そんなことが? おかしな娘だ。私はもっといろいろしたと思うがな」
イリヤ皇子の声も、くすぐったそうに笑った。
うん、たしかにイリヤ皇子は、お偉いさんたちを服従させ、私を牢から出してくれ、看守を懲らしめてくれた。でも、強張っていた私の心をほぐして笑わせてくれたのは、あんなささやかな遊びだった。
弱っているときに誰かに気にかけてもらえるのはなんて心救われることなんだろう、って思い出させてくれた。じぶんの辛さに閉じ籠もっていてはいけない。
私はあの少女とおばあさんに、なにかを伝えられただろうか? 私であってもおかしくなかった彼女たちを、ほんのすこしでも力づけられただろうか?
「もちろん、お嬢さまのことが第一です。それは忘れちゃいけません。私自身がギリギリの時もある。でも、でき得るかぎり私は、ありたい私でいたい」
「お嬢さま、か――」
私の両手を包んだままだったイリヤ皇子の声が、にわかに曇った。ぽんと軽く私の手の甲を叩いてから離し、隣に座り直す。
「どうかしましたか?」
「二つ目の重要な話だ。太守から聞いた。一週間前、ヴァレリウスとイザベラの父娘がこの村を訪れたそうだ。太守は彼らをもてなした。歌や楽器が得意な者を呼び寄せ、披露させた。あの少女も詩を諳んじるために呼ばれた」
「あ、はい。そのようですね」
「イザベラは、ほんとうにそなたが救いに行くに値する主人なのか?」
「え? もちろんです」
考えるまでもなくそう答えたものの、私のなかで昨日から引っかかるものがあった。空色の髪の少女が受けた酷い仕打ち。大勢のまえで旦那さまが意地悪な質問をして、あの子を笑いものに……。
「太守から聞いたのは、そなたに聞いていたイザベラの話とだいぶ違った。大勢のまえであの少女を辱め、学ぶ機会を取り上げたのはヴァレリウスではない、娘のイザベラだ。『下々に教育を授けたところで、所詮この程度。むしろ下層民に小知恵がつけば、いたずらに反抗的になるだけ。私のように高貴な生まれの女性は大いに学ぶべきだが、身分低い女は労働し子を産むだけで充分よ』と言い放ったそうだ」
「それはお嬢さまじゃない」
私は反射的に言った。彼の言葉を吹き飛ばすように。
「お嬢さまがそんなこと言うはずない。だってイザベラお嬢さまは、ただの下働きだった私に教育を授けてくださったのよ。誰もが平等に学べるべきだと言って。私が王立学園に入学できたのだってお嬢さまのおかげよ。そんなこと言うはず――」
「そなたが牢に入れられた理由だがな」
だがイリヤ皇子は、気色ばんで言い募る私をいなして、続けた。
「『エマという名のストロベリーブロンドの娘がこの村に来たら、ひっ捕らえて投獄せよ』。そうイザベラに命じられていたそうだ。そなたはあの父親の讒言のせいで牢に入れられたのではない。イザベラの命令だったのだ。おかげで酷い目に遭ったな」
「――――」
夏の暑さのせいだろうか。包帯でなにも見えない視界が、さらに立ち眩みのような曖昧な暗さで覆われる。
頭のなかに、灰色の靄がどんどん立ち籠める。急に太陽の熱射が増し、地上の空気が薄くなったかのようだ。
私たちを運ぶ荷馬車がガラガラと音を立てつづけている。
――お嬢さまに、なにが起こっているの?
炎に包まれた王城を去り際、お嬢さまが言い残した言葉を思い出す。
『悪役令嬢には悪役令嬢にふさわしい道がある』
――悪役令嬢堕ち、という前世の言葉が頭をよぎる。
いえ、と即座に打ち消す。この世界がゲームであることはもう否定されている。なら旦那さまがお嬢さまになにかしたのか。たとえば暗示のようなものをかけた? 例の秘薬同様、不可思議な物でお嬢さまになにかした?
だってもう、乙女ゲームを象った強制力は終わり、社畜処女救済プログラムは消滅したのに。
……本当に? 消滅したのだろうか?
わからない。
なにもわからない。
お嬢さまになにがあったのか。
なぜ父ヴァレリウスと皇国へ去ったのか。
なんらかの事情があるに決まってる。お嬢さまが酷いことするはずない。そう信じている。
でも、あの少女や太守が嘘を言っているとも思えない。
ひとりの少女の人生が、イザベラお嬢さまによって理不尽に奪われたのは、事実のようだ。
私を牢に入れろと命じたのも、どうやら。
「イザベラは行く先々でおなじ命令を下しているらしい。私がそなたの名を間違えて覚えていたから、人違いということで釈放されたのだ。それでもまだ追うのか?」
「…………お嬢さまに、会わなくては」
私は低い声で、そう言った。
けっきょく私に言えることは、それだけだった。目指すことは変わらない。
お嬢さまに会う。
会って、事情を聞く。事と次第によっては、ただ救い出すなんて話にはならないかもしれない。
私は顔を上げた。
「お嬢さまに会います。このまま追いかけます。皇国へ行きます」
「意志は変わらぬか」
イリヤ皇子は最初からそうとわかっていた口ぶりで言った。
「なら、私たちは引きつづき旅の道連れだ。そこで最後の三つ目。これは最も重要性の高い話だ」
「はい。なんでしょう」
私は緊張して応えた。これ以上まだ重要な話があるなら、その衝撃に身構えなくてはならなかった。
「ガリバタゴンザレス」
「……はい?」
「そなたの名をそう覚えていたので、私の身にそなわった威光もあり、別人だということで釈放されたのだ。だがたしか、そんな名ではなかったよな?」
「ガリバタゴンザレス!!」
私は反唱した。どっからどう出た!? もはやエマの面影もない! 二文字ですらないし、エもマもない!! なにをどうしたらそんな名前になるの!?
イリヤ皇子はくすくす笑っている。
「もういちど、そなたの名前を聞いても?」
「エマ! です!」
「エマデス」
「エマ! 鉛筆のエ、枕のマ! エ! マ! 覚えました?」
「覚えた。ェウスのエ、マリョシアのマだ」
「マリョシア? どういう意味ですかそれ? ェウスは光ですよね。語頭小音ですけど」
「こまかいことを言うな。ェマ」
「ほら言ったそばからー! ちっさくなってる!」
「ふふ、うそだよ、そんなすぐに忘れないよ」
いやーけっこう毎度、秒で忘れられてましたけどね? まあガリバタ云々はさすがに太守たちへのブラフかな。
ふいに、ヴェールに触れられた。
ずれていたのを直してくれたようだ。ふわりとイリヤ皇子の気配が、正面から顔をのぞきこんでくるように近くなる。
柔らかなテノールがささやいた。
「エマ。そなたの名はエマだ。エマ」
「はい」
「エマ」
「はい」
「エマ」
「……何度お呼びに?」
「エマ。二度と忘れぬよう、何度でも呼ぼう。エマ。エマ。エマ」
雪の花が咲くような声で、イリヤ皇子は私の名を呼んだ。六角形の結晶に咲いては、淡くとけていくような声で。
「――エマ」
旅の空は遥か南へつづく。
夏は灼熱を増してゆくのに、雪白の皇子と出会った。
かくして私は、熱砂の国のイリヤ皇子と旅の道連れになったのだった。
このさき私たちを――私とカイルとイザベラお嬢さまを待ち受ける皇国動乱の渦中となる、悲運の皇子と。
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