悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]中 2
一分はとうに過ぎていたけれど、イリヤ皇子は止めずに待ってくれていた。
「じゃあ、私たちは行くね。私の話を聞きにきてくれてありがとう。友だちをたくさん連れてきてくれてありがとう。暁(あかつき)の乙女の話をもう一度できなくてごめんね。どうか元気で」
「ありがとうお姉さん、お兄さんも。またこの村に来る?」
「わからない、帰りはどの道を通るか。いつ帰れるのかもわからない。だからこれが最後だと思おう」
「あたし、これからすぐ太守さまのお邸に行きます。大奥さまに会って、文字を教えてください、ここで働かせてくださいってお願いにいきます。本を読めるようになるわ」
「うん、たくさん読んでね。あなたにとって面白い本とも、そうでもないなって本とも、たくさん出会ってね。あなたに合う本も合わない本も、ためになる本もばかばかしくて笑える本も、脳に汗をかいて何時間もかけてやっと一ページ読める本も、わくわくしてページをめくる手が止まらない本も、心ときめく本も、悲しくて落ち込む本も、怒りにふるえる本も、目のまえが明るくひらけるような本も、人生で何度も何度も読み返す本も、一回読んだきりで忘れてしまう本も、いろんな本と出会うよ。ぜんぶがあなたをつくるよ。でもほんとは、本なんか読まないでもいいんだよ。人生をよりよく生きて、できれば打ちこめるなにかがあるということが大切なの。それが物語なら、私たちは一緒だ。そうしてね、さっきの話、人生の長い長い旅で、どうしてもどうにもならなくなったら。間違えて詰め込んでしまったその荷物があなたを苦しめるばかりで、もう一歩も道を歩けないってなったら、鞄をひっくりかえすこともできるよ。中身を捨てて、一から。リスクはあるし、勇気がいることだけどね。さっきあなたの言ったとおりよ。見方さえ変えれば、希望はある。あなたは最初からこの話を見抜いてた。あなたは賢い子よ。じぶんの頭でものごとを考えられる、とても、とても賢い子よ。どうか忘れないでね」
私とイリヤ皇子は荷馬車に乗った。
ガラガラと街道をゆく。次はいよいよ大河だ。それを渡れば皇国圏。
「滋味に富む話であったな」
イリヤ皇子は私と並んで荷台のふちに寄りかかって座りながら、言った。
「あれはアンフェルム王国で読んだ話か? 誰の著わした本だ」
「いえ、私が読んだのは掲示板といって……不特定多数の……うーん、壁の落書きみたいなもの。ただしその壁は、地の果てまでもずーっと続く長大な、しかも網のように広がってる壁なの。大元が誰か知れないまま世間に流布していた話を、誰かがそこに書き込んで、さらに誰かが物語形式に書き換えて、いろんなバージョンが繰り返され、あ、神話とか説話も、そうだよね。口伝えでひろがったり、本に記録されたり」
私の前世の記憶はまだらで、もとの話からはだいぶ逸れちゃったかもしれない。でも今、あの女の子に必要なことが伝われば、それでいいと思う。親や村に押し潰されそうな、あの子に。
「よくわからぬが、壁の落書きにそんな話を書き込む者がいるとはたいした文化水準だな」
「うん、ねえ。本当に。くだらないことも多かったけどねえ」
「まえにも訊いたが、そなたは――」
イリヤ皇子がなにかを考えるように言った。石畳の道をゆく荷馬車は、揺れるたびに積んだ干し草がぷんと香って、いいにおいがした。
「はい?」
「何者だ?」
「…………」
「ヴァレリウスの公爵邸の元使用人、王立学園の生徒。それだけではないはずだ。なぜそんなにもいろいろなことを知っている? それに、牢でのこともだ。ヤガの実を知らず失明に脅えていたくせに、いっぽうでは理性によって、その可能性は低いと考えた。それでも異国の未知の植物だ、理詰めだけでは恐怖は割り切れない。異国の牢に冤罪で投獄された状況、常軌を逸した看守。失明の可能性はゼロではない。ふつうは失明の恐怖や激痛から逃れたくて、言いなりになる。女囚たちはスカートをまくる屈辱に甘んじてきた。上の者どもは薄々知っていたが、減るものではない、数日経てば治る、どうせ外国人だ、と問題は表面化されずにきたそうだ。下衆な話だ」
イリヤ皇子は吐き捨てるように言った。
そして私のほうに向き直った。声を発する向きがまっすぐこちらを向いたことで、それがわかった。
「なぜそなたは耐えることができた? 意地か? 誇りか? 貞節か? それとも純粋な理性? いずれにせよ、肚の据わりかたがふつうではない。一介の使用人とは思えない。なんらかの高位の、あるいは特別な役目に就いていたとしか思えない。また、ヴァレリウスが己の邸でそのような者を見逃すはずがない。そなたは何者だ?」
「…………」
どう答えたらいいのだろう。
このかたに、もう嘘はつけない気がした。あまりに恩義がありすぎる。
私は公爵邸の使用人であり、お嬢さまをお護りする者。ヴァレリウスの敵対者。いまは公爵家の養女でもある。
王立学園の特待生。
王太子カイルの同級生で、婚約者。あるいは元婚約者。
それから、転生者。
「お話ししなければなりませんか、イリヤ皇子殿下?」
私は言った。見えないけれど、彼のほうを向く。
「私には、私の身元をあなたがお知りでないこの状況を保ったほうがいいのか、それとも明かしてもいいのか、判断がつきません。なので、現状を維持したい。必要になれば知らせることはいつでもできます。いずれにせよ、大オル=フュゼウス皇国の皇子ほどの身分ではありません。それが答えでは、お許しいただけないでしょうか」
「よかろう」
イリヤ皇子は吐息まじりにそう応えた。
「そなた自身に免じて、いまはそれで許そう。それに私はそなたの稼ぎなしには、快適な宿に泊まることも十年物の美酒を堪能することもできないのだからな。また、そなたのように強固な者から聞き出すには、私も手持ちのカードが少なすぎる」
「あなたに仇為す者ではけっしてありません。私の目的は、ヴァレリウスからイザベラお嬢さまを取り返し、いっしょにアンフェルム王国に帰ること」
「そこまで想われる主人は幸せ者だな。イザベラか。あのヴァレリウスのひとり娘。私も興味が湧いてきた」
「素敵なかたですよ。私、大好きなんです」
「ヴァレリウスに似ていれば相当な美人だな」
「美人ですよーーーーー!! 世界でいちばん綺麗です! もう女神! アンフェルム王国の白銀の月、濃紫の薔薇とは我がお嬢さまのことです。あまたいる求婚者をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。イリヤ殿下も絶対めろめろになっちゃいますよ」
「なにを! 世界でいちばん綺麗なのは我が姉上だ!」
「ま、そういう議論は永遠に平行線なので脇に置きまして……」
「ふふん、私は説得する自信があるがな。姉上ラァラ=ファン皇妃のお美しさのゆえに」
「そんなん私のほうが一億倍自信ある! じゃなくて、それにしても殿下、どうやって太守たちを従えたのですか? ご身分を明かしたにしても、さすがに太守や憲兵長官の立場であれば、証拠でもなければそう簡単には信じないだろうし……。あの、もしかしてもしかしてですけど、今朝起きたら私の荷物がすごーく軽くなってたんですけど、もしかして殿下……」
「ああ、保釈金代わりにそなたの荷物から金目のものを渡した。あんな高価なものを隠し持っていたとはな。初手で度肝を抜かせるために全部くれてやったら、ふふ、奴ら、途端に靴をも舐めんへりくだりぶりだったぞ。なによりアンフェルム王国の通行手形と、どこぞの王侯貴族らしき紋章入り玉環が効いたな。あれで私を皇族だと信じたのだ。なぜあんなものを持っている? やはりそなた、ただ者ではないな」
「や、や、やっぱりーーーーー!! ひどい、いざという時のために取っておいたのに! 全部渡しちゃったの!?」
「あれがいざという時であろう?」
イリヤ皇子はまったく悪びれたところもなかった。
彼の『身分証明』になったのは、辺境伯子息テオドール殿のところで失敬してきた外交用通行手形と、プリシラ王女殿下からいただいた紋章入り玉環だ。
アンフェルム王国の外交用通行手形はそれだけで身分の高さの証明になるし、王侯貴族の御紋は言わずもがな。プリシラ王女個人の菫の御紋が入っている。
『なにかのときにお役立てください』と、別れ際にくださったのだ(もっとも、これ以上はもうムリ、お願いもう頼ってこないで、これあげるから許して、という手切れ金のような口ぶりもあったが……。持つべきものは私に負い目のある王妹殿下の友人である。ゲスゲスゲス←笑い声)。
「それにしたってひとの物を勝手に……。私すっからかんじゃないですか。だいたい、高価なものは下着にくるんで隠してあったのに……、女の子の荷物を漁るなんて……」
なおもぶつぶつ抗議すると、ふふっとイリヤ皇子は笑った。
「おかしなことを。そなたの所有物は、私の所有物。私の所有物は、私の所有物だ」
「ジャイ○ン……!!」
ハッ。いま前世の言葉を口走った? 具体的には思い出せないが、なぜだろう、その単語が思い浮かんでしかたない。人名だよね? 誰? ……ジャイリヤンだった気も?
「さらに言えば――」
とイリヤ皇子は指先で私のあごを持ち上げた。深く甘く柔らかい声が、歌うように微笑んでいる。美声である。
「召使いとは、主人の所有物だ。すなわち、そなたは私のもの」
イザえもーんたすけてーーー!! ジャイリヤンがいじめるよう!! 自他の境界の別がつかないひとがいるよう!
水色っぽい同居人に私は泣きつきたい気持ちだった。誰? メガネのだめな子としてわんわん泣きつきたい。私いま目が「3」だし。いやほんと誰?
「金のことなど気にするな。また稼げばいいではないか」
私がな!!!!
ヒモ、かつ暴君。にこにこ上品そうな顔をしてやはりとんでもなく厄介なひとに捕まってしまったようだ。
「ま、あの少女と老婦人の未来に幸あれかしだ」
「うーん、根本的になにが解決したってわけじゃないですけどね……。今後もご家族や村の環境に抗いつづけるのは消耗するでしょう。それに、偶然出会ったあのふたりだけを助けたって……」
「それでもあのふたりにはおおきな転換となろう。あの者らの人生を、そなたが一生手を引いて導いてやるわけにはいかぬのだからな。あとは自身が切りひらかねば。栄光も挫折も本人だけのもの。とまれ、おなじ物語を愛する者同士、仲良くやってゆくだろう」
「や、それも意外とそうでもないんですよね、おなじ読書好きおなじ作品好きのほうがかえって好きなポイントのズレや解釈違いなどが深刻な溝になり得るというか。私もクララちゃんとは愛好する小説がかぶるだけに何度も気まずい空気が漂ったことがあり最近はそのへんの解釈論争は慎重に避けてますし、ニーナちゃんくらいジャンル違いのほうがお互いの領土を尊重できて平和といいますか。ただあのおふたりの場合は年齢差と雇用・師弟の関係が緩衝材になってくれることを願います」
「…………? なんでいきなり早口なんだ? そなたは本当に妙なことばかりを言うな。だいたいあんな単純な神話で解釈もなにもないだろう。暁の乙女が愛する王に寄り添い生きる話だろう」
「ほーらそっから解釈違いだ! あの子は女の子が馬を駆って敵を薙ぎ倒す話だって言ってましたよ」
「ええ……? そこの場面そんなに重要だったか?」
「やはりお客さんそれぞれ食いつくポイントが違いますので。ひとつの物語でも受け取り方には無数の形があります。よく言われることですが物語の完成形とは聞き手の脳内で初めて結実するもので」
「その話、長くなるか? そなたのおかげであのふたりの女性がすこしは生きやすくなるだろうという良い感じの結末で締めてはだめか? 私はもっと重要性のある話をしたいのだが。三つある」
「…………いえ。いいです。けっこうです、すみませんね、重要性のある話をいたしましょう。大河を渡る方法でしょうか? 今夜の宿賃の算段? 砂漠の越え方?」
「そのような話ではない」
イリヤ皇子は笑った。
「まず、一つ目だ。ありがとう」
「え……」
「私はあのとき、そなたに礼を言っていなかったな? 最初に街で私を助けてくれたときだ。改めて礼を申す」
「いえ、そんな」
深く頭を下げた気配があって、私は慌てて手を振った。
「伝わっていました、充分。あのときもう。声に出せなくても、表情や仕草で、殿下は充分私に伝えてくださっていました」
「そなたは、いつもああなのか?」
「ああ、って……」
「あのときそなたは、私を皇子だと知っていたわけではなかった。ただただ、困っている見知らぬ女性を助けた。私はあのとき、妙な男につきまとわれて、ほんとうに困っていたのだ。じぶんで声をあげると正体がばれそうで躊躇われたし、それに普通に気味悪かったしね」
「それは、だって、私がおなじ立場だったら助けてほしいと思うから……。あたりまえのことです」
「あたりまえではない」
イリヤ皇子はまた笑った。彼が笑うときの声は、雪の花が咲いてふわっと溶けるようだ。
「あのとき、そなた以外には誰も助けてくれなかったのだからね。周囲にはそなたよりずっと体格のいい男や立派な風采の紳士もいて気づいていたはずなのに、私を助けてくれたのは、私よりずっとちいさな異国の女人だった。私はそなたの行為を、とても尊いと思う」
「そんな……」
そんなに褒められては、照れてしまう。皇国の皇子さまは言葉が大げさだ。かーっと顔が熱くなるのを感じる。
「今日もそうだった。じぶんとて酷い目に遭い、まだ目の治らぬ不安のなかにありながら、行きずりの赤の他人のために動いた。じぶんにはなんの得もない、責任もない、ただただ、純粋な好意から。そなたはいつもそうなのか?」
「いつも、というわけでは……。したくても、できる時とできない時があります」
「でも、してきたのだろう。したいしたくないでなく、できるできないで。たぶん、それで損をしたことも何度もあるはず。善行がつねに報われるわけではないのが世の中だからね。だからこそ私は、それでもなお善きおこないを選び取りつづけるそなたを、尊いと思うのだ。そなたは勇敢で、優しく、理性と誇りによって、善きおこないを選べる者だ。私はそのことを、尊いと思う。あのとき私を助けてくれて、ありがとう」