悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]下 1
白亜のオル=フュゼウス皇宮に、喝采が湧いた。
「カイル皇子がやったぞ!!」
「見たか、銀の環もど真ん中を射貫いた! なんという腕前だ!」
カイルは矢が環を通過し的に当たったのを見届けると、弓を下ろした。
誇るでもない涼やかな面持ち、その鮮やかな一挙手一投足にも、歓声があがる。
皇宮の庭園では今日、皇族内々の競射の遊宴が催されていた。
夏の青空の下、真っ白な雲よりなお白く、巨大かつ壮麗な宮殿が建っている。その本殿の屋根は伝統的に半球状となっており、神の坐(いま)す天空を模したものといわれている。
庭園には、まぶしいほどの緑。椰子や棕櫚(しゅろ)といった南方の木々がおおきな葉をひろげている。また夏の色鮮やかな花々は、オアシスの都の恩恵を受けて咲き誇っていた。
日よけの天幕の下で寛ぐのは、百人を越す皇族たち。若い皇子たちの競射を、観覧席から楽しんでいる。歴史の長いオル=フュゼウス皇国には、皇孫・皇曽孫含め老若の皇子皇女が数多いた。みな、濃淡はあれど皇統の証である褐色の肌。
そんな皇族たちの手にする玻璃の杯に、見目麗しい女奴隷たちが美酒を注ぐ。孔雀の羽根でできた団扇で風をおくり、宝石のようにつややかな果物をのせた器を捧げ持つ。
熱砂とオアシスの国、大オル=フュゼウス皇宮の贅沢と絢爛がここにあった。
競射に参加したのは、いずれも腕に覚えのある若い皇子四十人ばかり。
だがその場の視線は今や、突如として皇国に現れたカイル皇子たったひとりに注がれていた。
「あれが先々帝の孫、カイル皇子か。なるほど、アーシェラ=オミ皇女によく似ている。容姿もだが、あの人目を惹かずにはおかぬ颯爽とした振る舞いと存在感よ!」
「つくづく、アンフェルム王国に取られたのが惜しいのう。王太子ではあるが、なんとかして我が国に……」
「はっ、いきなりやってきて皇子ヅラか。ここらで皇宮の流儀を教えてやらねばならぬな。おい、そこの奴隷――」
競射は、さいしょ茅の環を射貫くことからはじまる。紐で吊るされたそれを、風の揺れを計算して射貫く。
つぎに木の環。さらに竹、陶器、青銅、銀、と環の素材は段階を追って上質なものになっていく。それにともない、環の直径は小さくなっていく。射貫ければつぎの環へ進み、矢が逸れた者はそこで脱落となる。
銀の環まで進んだのは、四十名のうちわずか二名。それもいま、カイルひとりのみが成功した。
最後は金の環。
「やあカイル皇子、すこしは手加減してくれよ。今日はめずらしくイスファラン皇妃さまもご臨席なんだ」
皇子のひとりが親しげに話しかけた。目は笑っていない。さきほどの銀の環で大きく矢を逸らしてしまった皇子である。最後までカイルと競っていた彼は、顔を近づけ、ささやく。
「見たまえ、上階のあのテラスを。ヴェールで見えないだろうが、あちらには今、イスファラン皇妃さまをはじめ、ご相伴にあずかった皇女や側妃たちが我らの競射を見物しているのだ」
言われて、カイルは庭に面した建物を見上げた。大きくせり出したテラスがある。庇から日よけの大きなヴェールが垂れており中は見えないが、ひとの気配がある。
オル=フュゼウス皇国では、公の場で男女が同席する場面はすくない。今日の遊宴でも、射手はもちろん天幕内の観覧者も全員男だった。戒律によって、男女の別が厳しいのだった。
ただし抜け道というのはどの時代、どの国にもあって、こうして『たままたそこにいただけですよ』という体を装って、女人たちの席があらかじめあちこちに設けられている。ヴェールは、外から中への視線は遮るが、室内から明るい屋外へはよく見えるのである。
庭園をよく見渡せるテラスには、最も高貴な女人たち。
そのほか、すこし見づらい小部屋や廊下の小窓には、身分の落ちる貴族令嬢や女官や侍女たちが、鈴なりになって皇子たちの遊びを見物しているのである。
「なぜ今日の遊宴に、これほど大勢がやってきたと思う? ふだんなら、ただの競射にここまで集まりはしない。それもこれも、珍しいことにあのイスファランの花のごとき尊く麗しき皇妃さまがひそかにご臨席になるというので、皇都じゅうの皇族が集まってきたのさ。なのに他国育ちの新参皇子が金の環まで射貫いてしまっては、皇妃さまの手前、我ら生粋のオル=フュゼウスの皇子たちの面目が立たない。それに……」
と皇子はさらに顔を近づけた。笑みが恫喝にすり替わる。
「新参者が礼儀をわきまえぬのは、今後のきみの皇宮での立場を悪いものにすると忠告しておくがね」
「それは助言、痛み入る」
カイルは頷いた。外交用の微笑みを浮かべる。
「だが私には苦手なものがいくつかある。ひとつは、手加減というものだ」
そう言って弓を取り直すと、すげなく離れていった。振り返りもしない。
フン、と皇子は鼻を鳴らした。
(まあいい。どうせ次で醜態をさらすんだ)
視線で、金の環を吊るしていた男奴隷に確認する。奴隷は心得顔に、こくりと頷いた。
最後の金の環は、直径わずか七センチ。遠くから射貫くのはただでさえ至難の業であるうえ、風が吹けばくるくる回る。
射手の位置に立ったカイルは、目を眇めた。
その回転が、あきらかに不自然だった。左右前後にぐらんぐらんと不規則に振れながら回っている。さきほどまでの青銅や銀とはまるで違う動きだ。
環の細さが不均一なものにすり替えられているのだ。
それに気づいたのは、カイルだけではなかった。
脱落したほかの皇子たちや、観覧席の皇族から、くすくすと忍び笑いが起こる。この競射はあくまで皇族内々の遊びだ。面白くなったぞ、と興を覚えこそすれ、カイルのために不正を糾弾する者はいなかった。
もちろん、けしからんと義憤を抱く者もなかにはいたが、他国育ちのよく知らない皇子、しかも仮想敵国の王太子などのためにわざわざ庇ってやる者はいない。
アンフェルム王国からつき従ってきた臣下も数人、遊宴に随従してはいたが、他国の宮廷では歯噛みするしかない。へたに騒げば主君に恥をかかせる。
(さあ、どうする? 環に不正があると、真正面から言い立てるか?)
すり替えさせた皇子はほくそ笑む。
(だが、言い立てたところで誰もおまえの訴えを認めはしない。おまえひとりが黒だと主張したところで、皆が白と言えば白なのだ。ここにはおまえの味方などいない。王太子だって? どうせ生まれたときからちやほやされ、なにもかも周囲にお膳立てされてきたのだろう。王太子さまには生まれて初めての屈辱だろうな。さあ、みっともなく泣き言をいってみろ! そのすかした顔でな!! それとも、言ってもムダだからとこのままむざむざ失敗するか? それがせめてものプライドか? それはそれでしっぽをまいて逃げ出した負け犬を嘲笑ってやるがな!)
この遊宴には皇族のほか、それにつき従う貴族や官人、召使い、衛兵も入れれば三百人以上の観客がいる。建物からは女人たちも見ている。おまえの醜態は、あっという間に皇宮中にひろまる。大勢の注目するなかで、情けない姿を晒すといい。
矢をつがえるカイル皇子の表情は、憎らしいほど変わらない。だが内心では泣きっ面のはずだ。どう振るまえば面子が保てるか、今ごろ頭のなかで必死に考えているだろう。
(おまえは目立ち過ぎたんだよ、カイル皇子! アンフェルム王国の王太子だろうが、この大オル=フュゼウス皇国ではあまたいる皇子のひとりに過ぎぬ。調子に乗るのもここまでだ。イスファラン皇妃のご臨席があだとなったな。さあ、皇妃さまの御前で大恥をさらしてみろ!!)
カイル皇子は、弓を下ろした。
射手の立ち位置を示す線から、一歩退く。
白旗を揚げたのだ、と観覧席から失笑の声があがった。
だがカイル皇子はテラスへと向き直ると、朗々と声を張り上げた。
「ヴェールのむこうにおわす貴人に申し上げる。このカイルがみごと金の環を射貫くことができたなら、尊きかたより褒美を賜りたい」
おお……! と庭園中から声があがった。そのなかには多分に非難が含まれていた。女人が見にきていることは暗黙の了解でけっして触れてはならぬのに、なんと不躾な! そのうえ先帝の皇妃にみずから褒美を要求するとは、なんと非礼な!
眉をひそめる者、大胆不敵な振る舞いにますます面白がる者、ちっと舌打ちする者、反応はさまざまだった。
テラスからの反応はなかった。ヴェールのむこうは、沈黙を保っている。不愉快さのあまり席を立ったのではないかとも思われた。
だがカイル皇子は意に介する様子もなく、ふたたび弓を構えた。作法にのっとったその美しく洗練された挙措だけでも、弓術の手本にしたいほどだった。
矢をつがえる。
きりきりと弦が引き絞られる。
金の環は生き物のごとく、左右前後に振れながらくるくる回る。
その場にいた全員が、固唾を呑む。どうせ失敗する、という予想と、だがもしかしたら、という期待。
庭園がしずまりかえる。
矢が放たれた。
「あっ」
誰かが声をあげた。
矢はみごと、金の環の中心を射貫いた。
「なんと……!」「信じられぬ、カイル皇子が金の環も射貫いたぞ!!」「いったいどういう技量なのだ!」
わあっと歓声があがる。
カイルは誇らかに弓を掲げた。そうなるのが当然という爽やかな自信と、華やかな傲り。
若い皇子たちが興奮のままに駆け寄った。
「すごいよカイル皇子! きみのような男は見たことがない!」
「いったいどんな修練を積んだんだ。アンフェルム王国流なのかい? 今度我が邸に来て教えてくれよ!」
「うちにもぜひ来てくれ。父上に紹介したい、私の友人としてね」
と口々に褒めたたえる。先ほどまでの意地悪な視線はすっかり忘れて、ただ驚きと感嘆、若者らしい率直な憧憬だけがあった。
いっぽう観覧席の年輩者たちはべつの意味で熱い眼差しをそそぐ。
「これはぜひとも我が皇女の婿に欲しいぞ! アンフェルム王国になど帰すものか」
「それより次の皇統派の会合に招いてはどうか。あれは信頼できる男と見た。あの空気をものともせぬどころか、完全に場をひっくり返した。なんという胆力か!」
「皇帝や軍閥派が接触してくるまえに、こちらの陣営に引き入れるんだ。向こうに渡してなるものか」
策略の巡るなか、カイルは相変わらず涼やかな顔で、同世代の皇子たちの賛辞をごくしぜんに受け入れている。むろん、なかには面白くない顔の皇子もいるが、この喝采のなかで水を差せばじぶんが犯人だと自白するようなものだ。
アンフェルム王国の臣下たちはといえば、主君の成功に胸を撫で下ろすとともに、「どうだ、我らの王太子殿下は!」と満面で誇っている。
だが、どこか腑に落ちないものも感じていた。
(どこか、いつものカイル殿下らしくないような……)
さきほど金の環を射貫いたとき、弓を誇らかに掲げたのは、いつもの殿下らしくなかった。ふだんのカイル殿下なら、端然と弓を下ろしたはず。そもそも、他国の皇子たちの体面に配慮して、程よいところであえて外しておいたのではないか。
また、他国の作法を侵して女人に、それも皇妃に声をかけたのも、らしくなかった。
(ことさらに人々の注目を煽り立てるような、挑発的なお振る舞いだ……)
それはもちろん、我らの王太子はどこにいても人目を惹かずにはおかない特別な星のもとに生まれたかただ。
謹厳実直なお人柄にもかかわらず、ときに思いもよらぬほど大胆かつ華やかなことをなさる。そうした場面は、これまでにもいくらもあった。
だがそれは、ある意味で、人目など意にも介しておられぬからだ。
他者の注目を浴びたいなどという作為は、おそらく生まれてこのかた、もったことがない。己を世間に誇示せねばならぬような生まれ育ちでもなければ、ご性格でもないのだ。
(もちろん、外交の場ではそのような振る舞いも必要なのだろうが……)
だがさきほどのは、非常に危うい行動にも見えた。皇国のタブーにも触れている。つねに配慮の行き届いたカイル殿下らしからぬ言動に思えた。
彼らは不安だった。
それは、アンフェルム王国を発ってからずっとつづいている不安だった。
カイル殿下はこの国に来てしばらくしてから、衣装もすべて皇国風にあらためておしまいになった。
いまも、くるぶしまである長衣に、色とりどりの宝石を嵌めた首飾りや、腕輪を身につけている。
頭には頭布を巻いている。庶民もつけるそれとは違い、殿下がつけているのは皇国では冠に相当する、宝石が縫いつけられた立派なものだ。髪も、伸びた。
皇統の証である褐色の肌に、そうしたいでたちはとても馴染んでいらっしゃる。
だからだろうか。
アンフェルム王国の臣下らにとって、今のカイル王太子は、どこか遠々しい。
いや、それは旅のあいだからそうだったのだ。声をかけるのも憚られる、張り詰めた緊張感。
以前はそんなことはなかった。近寄りがたいほど高貴な雰囲気を纏ったかたにもかかわらず、殿下はいつでもこちらを受け入れてくださる、我らの話を聞いてくださる、という安心感があった。
なのに、今は。
(あれはほんとうに、カイル殿下でいらっしゃるのだろうか――)
そんな不安が拭えない。
皇国の者たちはその華やかさをもてはやしているが、以前のカイル王太子を知る者には、どこか、なにかが、違う。
(せめて、クロードさまかガウェインさまが殿下のおそばにいてくださったら……)
(それに、エマさまのことはいったい――……)
そのとき、テラスからひらりと、一輪の花が落とされた。
白い花だった。
それは、テラスの真下にあらかじめ据えられた大きく美しい水盤――勝者の水盤と呼びならわされるそれ――のうえに、幾重もの波紋をえがいて、たゆたった。
おお……! と今度はため息のような感嘆が、庭園中からあがった。男たちからも、姿の見えない女たちからも。
「皇妃さまが、カイル皇子に褒美をお与えになったぞ!」「勝者の花を、お授けに――」
召使いが水盤からそれを恭しく取り、カイル皇子のもとへと運んだ。
彼はテラスに向かって、片手をひろげた優雅な一礼をした。そんな華やかで大仰な礼の仕方も、いつものカイル王太子ならしない。
彼は白い花弁にそっと口づけてから、胸もとに挿した。
まあ……! とまた感嘆がもれた。その声はもはや遊宴見物を隠す気もない、皇女、令嬢、侍女たちの夢見るようなため息だった。
「ああ、まるで物語から抜け出てきたような素敵な皇子さまねえ……」
「それにあれほどの美男でありながら、あれほどの弓の腕前だなんて! なんて凛々しくていらっしゃるの」
「でも、なんだか気障じゃない? それに不躾よ、皇妃さまに褒美を求めるなんて」
「あら、そう言いながら、こんなふうに祈るように手を組んで見守っていたのはどなた?」
「そ、それは……!」
「外国育ちだもの、きっとあれがふつうなのよ。ああ、アンフェルム王国って、優雅で華やかな国なのねえ」
女たちは思い思いに囁き交わす。もちろん、テラスにいる最も高貴な女性には聞こえぬよう、注意深く声をひそめて。
「ね、やはり、噂はほんとうなのかしら。カイル王太子殿下はイスファラン皇妃殿下を王太子妃として迎えにいらしたと……」
「しっ、畏れ多いことを。先帝の喪があけたとはいえ……」
「でもここだけの話、昨晩もおふたりでともに過ごされたそうよ。皇妃さまはまだお若く美しいのだもの。カイル殿下ほどの皇子となら、ご再婚も……」
「あの慎ましい皇妃さまが宴見物のために後宮(セラグリオ)からお出になるなんて、めったにないことよ。やはり恋人の勇姿をご覧になりたくていらしたのよ」
「カイル殿下がこの皇国においでになった日のこと、覚えてる? 皇妃さまへの献上品は目も眩むほど煌びやかで、まるで求婚の贈り物かのような豪勢さだったわ。しかもその贈り物の列は宮殿のお部屋におさまりきらず、廊下をずらりと並び、さらには門の外にまで連なっていたのよ……」
さわさわと囁かれる、女たちの噂話。
どっと湧く男たちの賞賛。
そのすべてを一身に集めて、『皇子』カイルはオル=フュゼウス皇国に舞い降りた。
――ある目的を秘めて。
*
一ヵ月前。
アンフェルム王国。
エマが王城を去ったあと、ふたたび御前会議がひらかれた。
「エマ嬢の失踪は、公爵家父娘の王城および王都放火、宝冠強奪損壊ほかの共謀が露見しそうだと見て国外脱出を図ったものと思われます」
宰相はそう言った。
父王は玉座から鷹揚にたしなめた。
「そう結論を急がずともよい。エマ嬢には先年の宝剣事件での功もある。予断をもたず、引きつづき公正な調査を進めよ」
「御意」
宰相は慇懃に頭を下げた。
(茶番だ)
カイルはおもてを変えず、そう肚のなかで評する。
エマがみずから身を引いてくれたおかげで、大事な王太子を守ることができた。婚約解消の既成事実は、できた。ならばこれ以上、若い王太子の感情を波立たせるのは得策ではない。
という、親世代の懐柔でしかない。
宰相が悪役を演じ、父王はそれを諫める。そういう役割分担だ。公平な国王にして息子思いの父親、というわけだ。
婚約解消の手続きは現在、王室庁が進めている。一両日中にも成立するだろう。
「では、つぎの議題に移ります」
議事役がどことなく王太子の顔色を窺いながらそう申し述べた。
閣僚たちは、やれ終わった、という顔だった。
あれほど寵愛していたエマ嬢との婚約解消をカイル王太子が最終的にはすんなり受け入れたことは意外だったものの、やはり国家を第一に考えてくださったのだ、という安堵も彼らにはあった。
もっとも、会議がはじまって以来沈黙を貫いていることだけが、落ち着かないものを感じさせていたが……。
「緊急の議題である、皇国への対処について。ヴァレリウスが傀儡としている皇帝の――」
「ヴァレリウスの目的は、みずからが皇帝になることだ」
玉座の間を、空気を打つような声が響いた。閣僚たちが一斉に瞠目し、声のぬしを見る。
カイルは表情ひとつ変えず、その視線を受け止めた。
閣僚たちは驚きを隠せず、国王の御前にもかかわらずざわめいた。
「…………恐れながら、王太子殿下」
慇懃に口をひらいたのは宰相だった。
「それはあり得ぬことかと。あの国において、皇統の血脈は絶対です。軍事クーデターなどはあっても、皇位そのものが侵されたことはかつて一度たりともない。千年に及ぶ建国以来、ただの一度もです。皇帝とは、あの国において神にも等しい存在なのです。恐れながら、今のご発言の根拠は?」
「ない」
カイルは答えた。宰相は眉間に深くしわを寄せた。
「殿下、むやみに議事を混乱させるような発言はどうぞお慎みに――」
「ないが、ヴァレリウスが皇帝の証である白光の石をわざわざ奪っていったのは何故か。そんなものがなくとも皇国はこの千年、つつがなく皇位継承をおこなってきたのだ。何故今さら白光の石が必要なのだ?」
「それは、ですから己の擁する現皇帝の箔づけのために」
「たったそれだけのためにあれほどの危険を冒したというのか? そなたも申したとおり、皇帝はその血統だけで神にも等しい皇位継承権があるというのに? 捕まれば極刑に処されるほどのことをしでかしたのは、ただ奴が愉快犯だからか?」
「…………」
「なにより奴の性格からして、傀儡政権の可能性は最も低い」
「なぜ。現に我が国でかつて――」
「おなじゲームを繰り返すのは退屈だからだ」
「――――」
宰相は沈黙した。鉄面皮が強張る。
「奴はかつて我が国で、前女王陛下を擁しての傀儡政権を執った。最後は前陛下のご退位により潰えた。おなじ轍を、奴は踏むか? 余にはそうは思えぬ。つぎは己自身が絶対的な位、すなわち皇帝位を得んと望むはず。そのための白光の石だ」
閣僚たちは騒然とした。めいめい、長年の仇敵であるヴァレリウスがどのような不遜かつ不敵な男であるかを思い出した。それはあり得ることだ。いや、なぜそのことに気づかなかったのか。
「皇帝位を簒奪するために、奴は戦争を利用する。あの国で皇帝の座につくためには、それほどの大事業、皇国に栄光を取り戻すという前代未聞の『偉業』が要る。北征計画はその端緒に過ぎぬ。奴は己の目的のために、世界を戦争に巻き込む。なんとしてもヴァレリウスの野望を止めねばならぬ」
「王太子よ、それは本心か。いや――、まことか」
隣の玉座から、父王が問うた。カイルは恭しく一礼した。
「如何なる意味においても本心でしかあり得ませぬし、まことかと問われれば直接奴に訊いてみるしかない。だが、蓋然性の高い推測ではあるかと」
父王は顔を歪めた。
カイルが本心でなにを企んでいるかわかりすぎるほどわかっていながらも、それとは別に、これまで御前会議で繰り広げられてきた議論のなかで最も確からしい推測だと認めざるを得なかった。
ヴァレリウスの目的は、皇帝位。
本来ならば、あの皇国で皇統以外、それも外国人が皇帝位を簒奪するなど、一笑に付される世迷言だ。狂人の妄想。だがあの男なら、やる。
一度したゲームを繰り返すのは退屈だというのは、なんと正確に奴を言い表していることか。大皇国の皇帝の座。これほど不可能で挑み甲斐のあるゲームはないだろう。
しかもヴァレリウスの肉体は今、二十代後半。政治の表も裏も知り尽くした老獪な政治家の頭脳に、無尽蔵の体力を有する青年の肉体。うんざりするほど、厄介だ。
せっかく長年かけてヴァレリウス政権を倒したのに、またやるのか。こんどは大皇国を巻き込んで。
父王のおもては、そんな厭世さえ隠さなかった。
それは、かつて雪の一夜の動乱に加わったここにいる閣僚、功臣たち全員に共通だっただろう。なぜあんな悪夢のような男が我が国に生まれたのか。
「カイルよ」
父王は物憂げに言った。
「して、如何にする」
「問題は、当の皇国がその危機に気づいていないことです。現皇帝はヴァレリウスを頼もしい忠臣だと思いこそすれ叛逆者だとは夢にも思っておりますまい、前女王陛下のときと同様に。道理を説いても、もはや通じない。なればこそ、父王陛下はかつて、あのような強硬な手段に出るしかなかった。一歩間違えればみずからが謀反人として処刑台に立たされる、危険な賭けでした」
「二度とやりたくないものだ」
父王は倦んだ顔で言った。カイルは頭を下げて、同意を示した。そして、つづけた。
「――ならば今こそ、二十数年前に手にしたカードを切るべきです。かつて父王陛下が王太子であられたとき、我が母妃、皇国のアーシェラ=オミ皇女を庇護なさったのは、いま我が国が直面しているような危機が万々が一にも訪れた場合、皇国に介入する手段をもっておくためだった」
父王は厭な顔をした。
閣僚たちは、心得顔に頷いた。
「陛下はいざという時のためのカードを手に入れたかった、我がアンフェルム王国の安全のために。その時は来るかもしれない、来ないかもしれない。来ずに済めばなによりだ。だが、来た。陛下のご慧眼のとおりに、今その時は来たのです。我が国のいかなる優秀な外交官とて果たせぬ役目です。父王陛下、どうぞ私にお命じください」
カイルは王太子の座を立って、父王のまえに恭しく片膝をついた。
そのおもては凛として誇り高かった。王太子の国への献身と勇敢さを疑う者はだれひとりいないと思われた。
「今この時のために、陛下は私を王太子に選ばれたはず。皇統の血を引く、このカイルこそを。お命じください、どうか――」
王太子カイルはそのブルーサファイアの瞳を確信的に閃かせた。
「アンフェルム王太子にしてオル=フュゼウスの皇孫カイルよ、今こそ皇国へ出向け。そして我らの敵をひっ捕らえ、我が国に安寧をもたらせと」
「――――なりません!!」
女の声が鋭く響いた。
国王の玉座を挟んで反対側、王妃の座から堪らず声があがった。妊娠中でこのところ公務をセーブしていたアーシェラ王妃だった。
「陛下、お命じになってはなりません! カイルがなぜこんなことを言い出したのか、おわかりのはず! カイルは――」
「ご発言をお慎みください、母妃殿下」
カイルは慇懃に言った。
「不肖の息子には、母妃殿下がなにを仰せになりたいのかは拝察しかねます。ですが、おやめになったほうがいい。ここは閣議の場です。王室の品位を損ねかねぬご発言はお慎みを」
「おまえは――……!」
アーシェラ王妃は火のごとき怒りをあらわに息子を睨み据えた。カイルはそれを水のような平らかさで受け流した。先日と母子の立ち位置は逆だった。
「大事なお体に障りましょう。ご退席を」
「…………!」
アーシェラは怒りのあまり、目から火が噴き出そうだった。だが、唇を噛み締めた。そうせざるを得なかった。
――おまえはヴァレリウスを口実に、エマを探しに皇国に行きたいだけじゃないの!
そう糾弾したかったが、むろん、臣下たちのまえでそんなことを言えるはずもない。
「王妃よ、王太子の申すとおりだ。退席を」
国王がおごそかに言った。
王妃は激しくそちらを振り返った。
「……かつて言ったとおりだったわ、アンフェルムの王太子! おまえはわたくしを利用しただけ! 当時、前女王とヴァレリウス政権下で、明日の命も知れぬ身でありながら将来を見通していたおまえは見事だったわ。祖国の戦火から逃れてきた窮鳥を匿うという名目で、あるいは異国の皇女に好色な思いを抱いたという艶聞にまぎれて、わたくしというカードを手に入れた。おまえは野心家だったわ。わたくしの腹から生まれた皇統の子を通して、いずれ我が皇国をも手中に収めんと――……!」
「『我が皇国』? そなたの口からまだそんな言葉が出るとはな。とうに祖国を見限り、このアンフェルム王国の王妃として生涯をまっとうすると、そう覚悟を決めたはず。そして政治とはべつに、余のそなたへの愛は――」
「そうよ、覚悟を決めたわ。だからこそ、カイルを皇国に遣ることはなりません。皇孫であるカイルがあの国に行けばどんな謀略に巻き込まれるか! 十年前それを感じたからこそ、わたくしはカイルに二度と皇国の地を踏ませまいと決めたのです。陛下は王太子を喪ってもよいとお考えで?」
「カイルはそのような惰弱な王子ではない」
国王は愛する妃の言を、厳しく撥ねつけた。
「王妃よ、これは我が国の王太子が乗り越えるべき試練だ。またカイルの申すとおり、この役目ばかりは我が国のどんな優秀な外務大臣、外交官たちにもできぬこと。皇帝の血を引くカイルでなくば、皇国入りしたところであの国ではなにほどの役割を演ずることもできまい。ヴァレリウスだけではない、皇国という脅威を今こそ呑み込むべき時だ。カイル王太子は必ずや戦果を持ち帰り、我がアンフェルム王国のために貢献するであろう。輝かしき次期国王として」
「おまえは……! おまえたちは……!!」
アーシェラは憤怒とともに夫と息子を睨みつけた。彼女は本来激情家ではあったが、常日ごろは優美な気品とシニカルな言動によって、人目にその性情が触れることはめったになかった。だが今や、火の女神のごとき怒りが、溶岩のごとき怒りが、この玉座の間を焼きつくしそうだった。
閣僚らは、王妃が御前会議で王と王太子を糾弾するというありうべからざる事態に、言を挟むことができずにいた。へたになにか言って、とばっちりを受けてはたまらない。また、高貴な王妃のこのような姿を直視することを憚ったのだ。
だがカイルは、この空気を意にも介さず、いたって事務的に父王に言上した。
「皇国入りの名目としては、折よく、前皇帝のラァラ=ファン皇妃の祝賀式典がございます。アーシェラ皇女の姪にあたり、私も面識がある。かの国とは長年緊張関係にあるとはいえ、正式に国交を断絶したわけではなく、たびたびラァラ=ファン皇妃より形式上のお招きを受けておりました。遠方であることを理由にこれまではお断りしていましたが、これを利用するのがよいかと」
「よかろう、王太子よ。宰相や外務大臣、王室庁長官らと計らい、一日も早く出立せよ」
国王と王太子のあいだで話が進む。日取り、皇国行きの外交使節団の編成、贈答品の規模、五か国同盟諸国との連携、諸々。
アーシェラは蚊帳の外だった。
「――おまえは陛下を味方につけたのね、カイル」
王妃はしずかに言った。その目は今なお怒りと、それ以上に、哀しみに満ちていた。