悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]下 2
夫である国王アルフォンスの最大の目的は、国家の安寧だ。
そのためなら王太子に婚約破棄もさせるし、皇国へ派遣もするし、カイルがそれを逆手にとって王を利用していると理解していてもそのとおりに遂行する。皇国という長年にわたる脅威を戦争でなく政治によって打ち払う。皇帝の血を引くカイルによって、内政干渉とならぬ形で巧妙に支配する。
国家安寧という、崇高なる目的のために。
だがアーシェラは違う。
我が子の安全を思えばこそ、愛する祖国から遠ざけてきた。
王太子になど、ほんとうはさせたくなかった。なってしまったなら、今度は保身のために、愛した娘を諦めよとさえ諭した。
祖国も、夫も、可愛がっていたエマも、じぶんを受け入れてくれたこのアンフェルム王国も、大陸全土の平和さえも、我が子カイルたったひとりに比べればなにほどのものでもない。
若いころ抱いていた、かつてじぶんを追放した者どもへの復讐も、カイルのために捨てた。この子さえぶじで、幸せでいてくれればいいと。
それは一国の王妃、一国の皇女にあるまじき、愚かさだろうか? 他人は安全な高みからそう嘲笑うだろう。だからなんだ? 国のために、我が子を差し出せと? 断固として拒否する! 全身全霊をかけてその要請に抗ってきた。おまえの子は優れているから王太子にしよう、王の器があるから民のために捧げよう。
――王など、ろくでもない!!
王とはつまり、国家の奴隷なのだ。
いかに金銀や宝石で飾り立てようと、その本質は、国じゅうで最も卑しいとされる身分よりまだ最下層の、すべての民の奴隷にすぎない。その王が名君であれば、あるほどに。
だが己は、敗北したのだ。
「……カイル、わかりました。わたくしも協力します」
アーシェラは譲歩することにした。そう、じぶんは敗北したのだ。子を守るという戦いに。
カイルはとうに、一人前の男だった。じぶんのもとから、とうの昔に巣立っていた。
認めねばなるまい、己の敗北を。
だが最悪の事態を避けるための敗戦処理は、敗残者にも残されているはずだ。
「ですから、皇国行きだけは考え直して。だれか使者を立てましょう」
「母上」
カイルはブルーサファイアの瞳を和らげて、母親を見下ろした。
アーシェラは息を呑んだ。ぞくりと鳥肌が立った。
(――この男は、だれ?)
この、今や見上げねばならぬほど高い位置からわたくしを見下ろしている長身の男は、今なんの感情もなく石のごとき冷たい眼でわたくしを見ているこの男は、だれ?
この、がらんどうの闇のような瞳は。
ふいに、かつて少女のころ皇宮で見た、ダナンの神像を思い出した。
迷宮のごとき皇宮で、幼いアーシェラは立ち入ってはならぬ奥深くに迷い込んでしまった。だれがなぜそこに据えたのか、一体の神像があった。
光神に反逆する、闇の悪神。眼には石がふたつ嵌められ、酷烈な呪詛を込めた闇が、そこにはあった。まるで、奈落の闇のように暗い眼。
カイルの瞳は、いつからこのように暗く閉ざされている? あのブルーサファイアの瞳は、いつからこんなにも凄惨に昏い?
(エマが去ったから?)
たった一昼夜で、ひとは、青年はこれほどまでに変貌してしまうものなの?
――この男は、カイルではない。
アーシェラは後じさった。
だれも気づかないの?
アーシェラは玉座の間を見まわした。
この男の目には、わたくしも陛下も閣僚も、あまつさえこの国も世界も、なにも映ってはいない。
このような目をした男を王太子として大皇国に遣れば、いま以上の災いが世界に降りかかるのではなくて?
「陛下、――――」
不吉な予感に、アーシェラは玉座へ声をかけようとした。
だがそれを、低く響く、支配的な声が押し留めた。
見知らぬ男が優しく言った。
「母上、ご退席を」
*
「鮮やかなお手並みでしたわ、カイル皇子」
ラァラ=ファン皇妃――イスファランは、姉のように優しく微笑んだ。
ミルクティーのように淡い褐色の肌、雪のように白い髪。たおやかな花のごときかんばせ。
後宮(セラグリオ)の奥深く、皇妃の御殿の一室である。
「金の環まで勝ち進むのさえ異例のことだというのに、あのような卑劣な妨害を逆手にとっておしまいになるとは。しかも、皇妃たるわたくしを巻き込むことで、皇族たちの注目をさらに煽られた。でも内心、冷や汗ものでしたよ。もし失敗したらどうなさるおつもりだったの?」
「さあ」
カイルは皇妃をまえに、涼やかに答えた。
「だが私は、ここぞという勝負を逃したことはない。射貫けるだろうと思っていました」
「まあ」
イスファランは、感心というよりほとんど呆れたような声をあげた。そして、敬虔なしぐさで、従弟皇子のために祈りの印を切った。
「あなたの尊大さがあなたを滅ぼさぬよう祈っておりますわ、カイル皇子。そういうときは、光神のお導きによって正しき道がひらかれると信じていました、とか申すものですよ。ェウス・ヤーン」
「ご心配には及びません。私は慎重な男だ」
「そうでしょうか。焦っておいでなのではなくて?」
カイルはブルーサファイアの目を眇めた。
――焦っている? たしかに。
“彼女”はまだ見つからない。
「そうかもしれません」
「この国で皇子としての基盤をつくりたい、ヴァレリウスを制するために、という焦りはわかりますが」
と、イスファランはカイルの真の目的を知る由もなく、そう言って頷いた。皇妃の威厳をもって、ゆったりと椅子に座り直す。
「我々の計画は順調です。手始めに、あなたという皇子の存在をこの皇宮で知らしめる目的は、予想以上に達成されました。競射の遊宴にこのわたくしまで引っ張り出して、より大勢にあなたを印象づけられるよう、最大限の効果を狙った。わたくし、あの日は臨席するつもりなどなかったのに。皇妃などといっても、本当はひとまえに出るのが苦手なのです。なのに、『迎えに来た』とああも当然のように言われてはね」
「恐れ入ります」
「それ。そのようにしれしれとおっしゃるものだから、つい言うことを聞かされてしまう」
イスファランは鈴をころがすような声で笑った。細い声だ。
「カイル皇子に頼まれてしまうと、どうしてかお断りできません。十年ぶりにお会いして、なんだかあのころのカイル皇子とは別人のような、でもやはり、同じところもあるような……。ふしぎなかたね……」
「皇妃殿下にはお力添えをいただき、深く感謝しております」
「皇妃と呼ばないでと、申しましたでしょう」
イスファランは上座から、冗談めかして軽く睨んだ。歳上の、いかにも姉のように。
「それが、あの日遊宴におもむく条件だったはず。この御殿はイスファラン宮と呼びならわされ、皆、いつしかわたくしをイスファランと呼びます。呼び直して」
「イスファラン」
カイルは素直に呼び直した。
皇妃は、花のように微笑んだ。十年前の、あのイスファランの花園の夜を思わせるような、匂いやかな微笑みだった。
いちめんに群れ咲く、夜闇にうかぶ儚げな白い花々。
あのころ十三、四であった可憐な少女は、臈たけて、今、大人の女性の美しさを湛えていた。
そしてまた、意に添わぬ結婚に泣いていた従姉皇女は、ただ不遇な運命に泣き暮らしていたのではないらしい。今や、この後宮の事実上のあるじとなっていた。
先帝の最後の皇妃。
現皇帝の、義理の母。
今の皇帝はまだ十六歳で、実母がすでに亡くなっているため、後見人として先帝皇妃が母の役割を務めることになったのだ。異例のことだが、準皇后待遇である。その立后の儀と式典が、来月執り行われる。
彼女は彼女なりに、したたかにこの後宮で生き抜いてきたのだ。
そう思うことは、カイルの罪悪感を和らげはしないまでも、慰めではあった。
ただ、彼女の首にはいつも薄絹が巻かれている。
日々のドレスに合わせた、美しい装飾の飾り布だ。彼女がそれをしていないところを見たことがない。
かつて、短剣で喉を突いて自害をはかったという――……。
今に至るまで拭えぬ罪悪感、幼い己の失敗が、胸を刺す。
カイルは意識的に視線を逸らし、テーブルに置かれた玻璃の杯をとった。清涼感のあるサラムの葉で香りづけをした水で、暑い皇国では一般的な飲み物だ。
従弟の内心の揺らぎを敏感に感じ取ったのだろうか、イスファランもちいさく咳払いをして、杯をとった。
わずかに、意図せぬ沈黙が流れる。
「それにしても……」
皇妃らしい威厳を纏い直し、さきに切り出したのはイスファランだった。
「これを機に、皇帝陛下も皇統派も、皆が競ってあなたに接触してくるでしょう。どの派も、有益な人物を欲しがっている。あなたはみごと、それだけの存在感を示しましたからね。各派の重鎮が、皇国でのあなたの後ろ盾になりたがる。現在はアンフェルム王国王太子として国賓の扱いですが、数日中にも、この国の皇子としての待遇が与えられるでしょう。皇宮の予算や人員が割かれ、皇子の権限も与えられる。ここまでは予定どおり。さて、つぎはどうするおつもり? 一気にヴァレリウスを攻める?」
「しばらく様子を見ます」
カイルは答えた。
「私はまだ、この皇宮で誰が信頼に足る者か、誰がどのような勢力をもっているのか、裏で誰と誰が繋がっているのか、正確に把握していない。アンフェルム王国で外務官から受けていた報告以上に、ヴァレリウスはこの皇宮中枢に入り込んでいるようだ」
「そうね、それがよろしいわ。ご自分の目でよくよく見極められるといいでしょう。誰か紹介してほしい者がいればわたくしが仲介いたします」
「重ね重ね、世話になります」
「あなたのためだけではありません。ヴァレリウスの昨今の勢力拡大は、わたくしも懸念しておりました」
イスファランは侍女に、サラム水のおかわりをもってくるよう命じた。退席させると、部屋にはふたりだけになった。
彼女はかるく咳払いし、声をひそめた。
「ここだけの話、アンフェルム王国の推測どおり、皇帝陛下はヴァレリウスの言いなりです。ごじぶんではみずからの意志で判断していると思っているけれど、その政策はことごとくヴァレリウスの献言によるものです。いいえ、政策だけじゃない。なにを食べるか、なにを着るか、どの女を閨に召すか、そういったことまでヴァレリウスの気に入るよう、無意識のうちに考えている。あれは危険な男ですね……」
皇妃は悩ましげなため息をついた。
「陛下があのようにおなりになるのも、わかる気がするのです。あの男とじかに対面していると、わたくしですらつい惹き込まれてしまいそうになる。美しいというだけではない、それだけの魅力がある男です。軍閥派もすっかりあの男の支配下にくだってしまった。ですが――……、先日あなたから、あの男がアンフェルム王国でしてきた怖ろしいことの数々を聞いて、わたくしは腑に落ちたものです。そう、そういう男であろうと、理解できます。あれは、帝王たる者が最も遠ざけなくてはならぬ男です」
「イスファランから陛下にお伝えし、お諫めいただくことはできませんか。義理の母として、陛下にも発言力があると伺っていますが」
「難しいのです」
皇妃は眉をくもらせた。
「陛下のおそばには、つねにヴァレリウスがいます。あの者が不在のときは、息のかかった者が代わりに目を光らせている。こう申してはなんですが、今の皇帝は頼りない。まだ十六歳とお若く、しかもほとんど帝王教育を受けてこなかったのですから仕方ありませんが……。各派閥の皇帝候補たちが互いに潰し合った末に、ひとまず折衝案として帝位につかされたに過ぎないのです。突然手にした御位と権力に舞い上がり、それをごじぶんの力だと過信されている。いつでも首をすげ替えられる程度の男と侮られているから、繋ぎで即位させられたに過ぎないのに」
カイルは頷いた。それは、アンフェルム王国の外交官の報告と一致している。
「お諫めする者はことごとく遠ざけられ、周りには阿諛追従する者どもしかおりません。まだお若いのに享楽にふけり、昼間から女人や宦官を侍らせ、目に余ります。そんななかでヴァレリウスだけは、申し上げるべきことは申し上げ、かつ皇帝の信頼も篤い、稀有な人材だ――というのがもっぱらの見方です。正直、彼を今すぐ完全に排除してしまうのは、この皇宮にとって益よりも、損失のほうが大きいのです」
カイルは押し黙った。
最初は、そうなのだ。アンフェルム王国でもそうだった。前女王のとき、最初は才気あふれる有益な臣と見られていた。だが気づいたときには、取り返し不可能なまでに奴の毒に蝕まれている。
「なにより、ヴァレリウスの最大基盤である軍閥派も黙っていません。北征計画は事実です。彼らは戦争をしたがっている。世界の覇権国に返り咲こうと、夢を見ているのです」
夢、という言い方に引っ掛かった。
「イスファランは、皇妃としてそれはお望みにならないのですね。皇国にかつての栄光を取り戻そうとは?」
「時代はかわります。わたくしが望むのは皇国の繁栄と安寧です」
イスファランは、言質をとらせず、注意深くただそう言った。
「――カイル皇子。先日の遊宴でわたくしもまた、皇宮中に印象づけられてしまいました。カイル皇子の後ろ盾は、ラァラ=ファン皇妃だと。最初からあなたの狙いはそれだったのでしょう? あなたは皇国での足掛かりに、まずわたくしを利用するおつもりだった。初めて皇国に来た日の、あの皇宮中、いえ皇都中の耳目を集めた、豪勢すぎる献上品もそう。あれで皆が、あなたがわたくしの従弟で、十年前にも来た、あのアーシェラ=オミ皇女の皇子だと思い出した」
カイルは黙して頭を下げた。彼女を利用したと言われれば、まさにそのとおりだった。
アンフェルム王国から持参した、献上品の数々。
絹、宝石、大壺に入れた金貨。螺鈿の鏡に、上等な白粉(おしろい)や紅。書物の好きだった彼女のために稀覯本と、良質な紙。世界に類を見ない、アンフェルム王国ならではの精密かつ芸術的な置き時計、自動演奏装置といった規模のオルゴール、機械仕掛けの鳥籠、等々。さらには馬、馬車、輿、孔雀、駱駝、象、などの室内には持ち込めぬ贈答品の目録。それらを載せた台が、宮廊を折れたさらにその先、門の外にまでずらりと列をなした。
それらは皇国中に、カイル皇子がラァラ=ファン皇妃の従弟であり近しい関係にあると――実際にはわずか二週間遊んだだけだが――思い出させるには充分すぎるほどの、絢爛たる贈り物の数々ではあった。
「恐れ入ります」
「いいのです、カイル皇子。わたくしもまた、あなたの後ろ盾をする理由はあります。――あなたはアンフェルム王国の王太子。五か国同盟の主導者。わたくしは、大陸南北の平和を望みます。カイル王太子に最大限の協力をいたしましょう。手始めに、このあとわたくし傘下の皇統派たちを紹介します。ごじぶんの目でそれぞれの人物を見極め、この皇宮で人脈をひろげ、ヴァレリウスに対抗し得る基盤をつくられるとよろしいわ」
「ありがたきご配慮」
カイルは頭を下げた。
幼馴染みの従姉皇女が、これほど頼もしい人物に成長していたのは思わぬ誤算だった。本人は控えめに言っているが、彼女が後宮の支配者であり、また政治の表側においても大いに影響力を持っているのは皇宮の誰もが知るところだった。
彼女は、アンフェルム王国がカイル王太子を通しての皇国の実質的掌握までも視野に入れていると知ったら、どうするだろう?
ヴァレリウスを皇宮から追い払うつもりで、べつの危機をも呼び込んでしまったのだと知ったら? 皇国が――皇統派と軍閥派が、ある意味カイルとヴァレリウスの代理戦争を負わされるのだと知ったら?
アンフェルム王は、長年の脅威である大国オル=フュゼウス皇国政権を内側から支配するために、皇孫でもある王太子に二百名もの使節団をつけて派遣したのだ。
重すぎる任務だ。
だがそれほどの重責でなくば、王太子みずから皇国に来ることはできなかった。
――ただひとりエマをひっ捕らえ、己という獄に繋ぐために。