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この溺愛は政略です! 「貴女を愛することはできません」と言った冷徹宰相に毎晩めちゃめちゃ甘く抱かれてます 上 1

第一話


 残念ながら、この国の貴族たちは『ゴシップ』が大好物である。だからこそ、今の状況も彼らには格好のネタであろう。
 今夜、王宮で開かれている夜会は、えもいわれぬ空気を醸し出していた。
 その原因は、茶髪の男である。彼は腹がわずかに膨らんだ金髪の女性の肩を抱いている。
 そして二人に対峙するのは、一人の令嬢だ。彼女にはエスコートする者すらいない。
 他の招待客たちは、三人を囲むようにして距離をあけて輪を作り、ヒソヒソと言葉を交わし、ニヤニヤと笑いながら見物していた。見世物そのものである。
「申し訳ございませんが、もう一度おっしゃっていただけます? ティム・ナッシュ侯爵子息様」
 いっそ冷酷ともとれる声でそう言ったのは、一人でたたずむ令嬢のほうだ。
 まっすぐに二人を見据える彼女が麗しく見える理由は、その堂々たるたたずまいのせいだけではないだろう。美しく結い上げた青銀の髪に、アイスブルーの瞳。長いまつ毛に縁どられた目元は艶があって絶世の美女と賛辞するにふさわしい。
 そんな彼女はほんのりと笑みを浮かべているだけでこのうえなく美しいが、どことなく作り物のようである。
 完璧な造形美を誇る彼女の年は二十一、まさに結婚適齢期の彼女が相対しているのは、婚約者だった。
「チッ嫌味ったらしいな。イヴァンゼリン・アリス侯爵令嬢! 俺は、お前との婚約を! 破棄すると言ったんだ!」
 男――ティムの再度の宣言に、周囲に集まっている者たちの囁き声が一層大きくなる。これでは晒し者だ。
 もっとも、ティムはわざとそうしているのだろう。肩を抱かれた女性も勝ち誇った顔である。
 しかも彼は、あろうことか厳重に保管されているはずの婚約証明書を持ち出している。あれを破くか、裏面に破棄のためのサインをするかのいずれかで婚約は取り消しになる。
(まさか、こんなに早いなんて)
 内心に浮かんだ気持ちを一切表に出さず、イヴァンゼリンはにっこりと笑ってみせる。
「そちらの女性……ヘレン・ガウリー男爵令嬢でしたわね。彼女が理由ですか?」
「ああ、そうだ! 婚約者の癖にキス一つもさせない女と違って、ヘレンは俺を支えてくれて、俺たちの愛の証を宿してくれたからな! お前なんか用済みだ」
 ふふん、とティムは威張り散らす。さらに周囲のひそひそが大きくなった。それは婚約破棄を言い渡されたイヴァンゼリンではなく、軽率なティムへの嘲笑だろう。だがティム自身は気づいていない。
(自分で不貞を働いたって公言するなんて。馬鹿だとは思っていたけれど、大丈夫かしら、この人。確かもう二十五歳よね)
 そこまで考えたところで、思案すべきはそこではないことを思い出す。
(どうすべきかしら? まだ“打合せ”ができてないのに……!)
 対処法に惑って、イヴァンゼリンが思案したその刹那である。
「これはなんの騒ぎでしょうか」
 呆れたような声で登場したのは、黒髪の男性だった。
 パーティー会場の入り口に現れた彼に、周囲の人ごみがざあっと割れて道ができる。
「ケイン公爵だ!」
「鋼鉄の堅物宰相様よ!」
(うそ……)
 ひそひそと言葉が交わされた通り、彼はこの国の宰相である。
 セオドア・ケイン公爵。この国に三家しかない公爵家の中でも筆頭公爵家の若き当主だ。年は二十九、病に伏せった前代ケイン公爵に代わり、若くして爵位と宰相職を引き継いでいる。だが、年齢を理由に馬鹿にされないほどに仕事のできる男だと社交界ではもっぱらの評判だった。
 噂話が絶えない原因はおそらく、彼の容姿のせいもあるのだろう。鋼を思わせる艶やかな黒髪はこの国ではごく珍しい。
 それだけでも目立つのに、その顔は鼻筋が通っており、形の良い唇に、意志の強そうな深い青の瞳の涼やかな目元。平たく言えばセオドアは美丈夫だった。
 役職に身分、加えて容姿まで良ければ注目を浴びるのは当然である。今見せているのが無表情であっても、周囲の貴族令嬢が彼に対し熱烈な視線を送るのも無理はない。
 そんな宰相様の登場に、貴族たちは好奇の目を向けている。セオドアがイヴァンゼリンたちのそばに辿り着いたところで、観衆は再び輪を作って彼らを取り囲んだ。
「それで?」
「は?」
 セオドアが目元を険しくして、青い瞳でじろりとティムを睨む。
「ナッシュ家のご子息ともあろう者が、何の騒ぎを起こしている。そう聞いているのです」
 ピリッと冷たい空気を漂わせ、再度低い声で尋ねる。
「チッ、ケイン公爵か……宰相殿には関係ないだろう」
「いいえ、関係あります。ここは王の主催する夜会です。その空気を台無しにしているのですから。……弁明があるなら、お聞きしましょう。ナッシュ侯爵ご子息殿?」
 かたや宰相かつ公爵、かたや侯爵子息。分が悪いのは明らかだ。さすがに逆らえないと思ったらしい。ティムは不機嫌そうながらも話しはじめる。
「恋人が孕んだから、責任をとって結婚するという話をしていただけだ。ただ、イヴァンゼリンとの婚約を破棄するだけで」
「ほう」
 きらりと目を光らせての短い返事は、きっと今からティムを叱りつけるつもりだろう。誰もがそう思った、そのときである。
「っ、別に俺は悪いことなんて……!」
「それはいいお話ですね」
「……は?」
 ぽかんとしたティムをよそに、パンパンッとセオドアは手を叩く。
「法務官をここに。今すぐナッシュ侯爵子息とアリス侯爵令嬢の婚約破棄の手続きを」
「え、あの……」
 ティム自身も咎められると思っていたに違いない。呆然とする彼の前で、法務官がやってきてテキパキと婚約証明書の裏に婚約破棄の旨を書き足していく。
「さ、どうぞ。破棄のサインをしてください」
「いや、あの……」
 署名のための羽根ペンを差し出されて、ティムはしどろもどろである。だが、セオドアの気迫に圧されてよれよれの字で名前を書きこむ。ちらちらとこちらに視線をよこしてくる彼は、まるで不本意だとでも言いたげだ。
(自分で望んだんでしょうに)
「ああ、アリス侯爵令嬢。進めてしまってよかったですか?」
「そ、そうだ。一言くらい惜しがって見せろ!」
 とんとん拍子のこの状況に、なぜだかティムが焦っている。
「いいえ、わたくしが反対することなど一切ございません」
 イヴァンゼリンはティムの持っていた羽根ペンをひったくり、自分の名前の欄に署名してみせる。
「どうぞ、ガウリー男爵令嬢とお幸せに」
 優美な笑みを浮かべて、イヴァンゼリンは礼を取った。瞬間に会場がワっと沸く。
(何を喜んでるのかしらね、この国の貴族たちは。まったく……)
 内心でため息をつきつつ、イヴァンゼリンはセオドアに向き直る。
「仲裁をありがとうございます、ケイン宰相様」
「いいえ。これも私のためですから」
「え?」
 婚約破棄のための署名がそろい、法務官がその紙を皆に見せつけるように掲げる。
「これにて、ナッシュ侯爵子息とアリス侯爵令嬢の婚約は破棄されました」
 証書をぱっと指し示し、セオドアが高らかに宣言したところで、なぜか会場から拍手がわいた。
「そして」
 キュっと踵を返して、セオドアはイヴァンゼリンの前に跪く。いかにも気障なその動作に、周囲でキャーッと悲鳴が起きた。
「イヴァンゼリン・アリス侯爵令嬢」
 そっと彼女の手を取って、セオドアはここにきて初めて微笑む。
(え……っ!?)
 内心の焦りを一切見せずに、イヴァンゼリンは微笑み返した。
(こ、このお方、笑うの……!?)
『鋼鉄の堅物宰相様』
 その異名はセオドアの仕事ぶりだけでなく、表情筋のせいでもある。彼はいつも鋼鉄のような真顔か、渋面ばかりなのだ。たとえ彼の婚約者の座を狙った女性がしなだれかかっても、彼は眉間の筋肉しか動かさない。相手がどんな美女だろうと同じだった。
 そんな鋼鉄の堅物宰相様が笑顔を浮かべたところなど、おそらくこの会場内にいる貴族は見たことがないだろう。動揺の走る会場内で、セオドアははっきりと告げる。
「以前より聡明な貴女をお慕いしておりました」
「宰相殿って人を好きになれるんだ!?」
「信じられない!」
 観衆が叫んだのも無視して、セオドアは続ける。
「婚約を破棄されたばかりの貴女につけこむような真似をして申し訳ありません。ですが……二の足を踏んでいたら美しい貴女は、他の男に攫われてしまうでしょう? ですから、卑怯にもこの場で求婚することをお許しください」
 まっすぐな視線を向けたまま、セオドアは熱烈に乞う。
「イヴァンゼリン、私と、結婚していただけますか?」
「うそ……」
 素直な感情が口から滑る。それが恥ずかしくて、かぁっとイヴァンゼリンの頬が紅潮した。
「氷の侯爵令嬢が赤くなったぞ!?」
「笑顔が崩れた!」
 その二つ名は、彼女がいつでも笑顔の仮面を被っているかのようだからだ。動揺する姿など、社交界で晒したことがない。
(凄いわ、ケイン様。わたくしを赤くさせるなんて)
「あの……わたくし……」
 心なしか、声が震えているような気がする。
(女は度胸よ。ここは乗るしかないわ……!)
「わたくし、も……実は、以前からお慕いしておりました。謹んで、お受けいたします」
 イヴァンゼリンの返事に、今までで一番大きなどよめきが起きた。
「まさかあの完璧侯爵令嬢が……!?」
「嘘でしょ」
「うおおおおお!」
 謎の雄叫びまで交ざっている。ティムが婚約破棄を宣言したときとは比べ物にならないお祭り騒ぎである。
 だが、そのざわめきも長続きはしなかった。
「この騒ぎは一体、何ごとだい?」
 会場内を制する新たな乱入者のご登場である。
「あっあの方は……!」
 現れた人物を通らせるために、再び人の波がざぁっと割れる。
 輝かしい金の髪に、青い瞳。どことなく艶のある垂れ気味の目をちらりと向けるだけで、視線の先の令嬢がため息をついて頬を染める。
 そんな色男が纏った夜会服のクラバットピンは太陽の飾りだ。この国を象徴する太陽のシンボルを、公の場で身につけられる人物は限られている。
 来訪者の顔を認めた者から順に頭を下げはじめた。
「王太子殿下!」
「ああ、楽にしてくれていい」
 鷹揚な態度で入ってきたのは、ヒューバート・アーサー・シャノン。この国の王太子である。
 それに臆することなく、返事をしたのは真っ先に頭を上げたセオドアだった。
「お騒がせして申し訳ありません。ティム・ナッシュ侯爵子息がヘレン・ガウリーと不貞を働いたため、イヴァンゼリン・アリス侯爵令嬢と婚約破棄をしました。そこで私が彼女に婚約を申しこんだところです。そして快諾いただきました」
「へえええ!」
 目を丸くしたヒューバートは、感心したような声をあげる。
「なるほどねえ。宰相、本気かい?」
「私が冗談でこのようなことを申し上げる人間だとお思いですか?」
「それもそうだね」
 人好きのする笑顔を作り、ヒューバートはイヴァンゼリンに目を向けた。
「アリス侯爵令嬢」
「はい」
 名を呼ばれてイヴァンゼリンはカーテシーの状態からようやく頭を上げる。
「君もこんなことになって大変だろう。宰相と結婚する意志は固いのかい?」
「はい、もちろんでございます」
「なるほどねぇ……」
 考えるようなそぶりを見せたヒューバートは、まだ近くにいた法務官に目を向ける。
「そこの君、結婚証明書を書けるかな?」
「はっ、すぐに準備いたします」
「よろしくね」
 頷いたヒューバートは、会場を見回して宣言する。
「侯爵家ともあろうものが、軽々しく婚約や破棄をくりかえしていいものではない。ティム・ナッシュ侯爵子息はただちにヘレン・ガウリー男爵令嬢とこの場で婚姻するように。そして、セオドア・ケイン、アリス侯爵令嬢もだ。異論はないね?」
 突然の命に会場が再び騒がしくなる。
「ははは! よかったな、ヘレン!」
「え……っ? あっ、はい……」
 急展開に理解が追いつかないのだろう。ひきつった笑みながらもティムは喜びの声をあげ、隣のヘレンもお腹をさすり目を丸くしている。
「異論はございませんわ」
「お願いします」
 続いて言下にイヴァンゼリンたちも平静な様子で頷いたものの、彼女の内心はパニックだ。
(これ、夢じゃないわよね……?)
 イヴァンゼリンが小さく吐息を漏らすと、隣に立っていたセオドアが微笑んでくる。柔らかな笑顔だった。
(なんだか、この方の笑顔って心臓に悪いわね……)
 彼女の心情をよそに、会場内は大盛り上がりで二組の夫婦が誕生することをはやし立てている。
 そうして突然の婚約破棄に続き、イヴァンゼリンは突然の結婚をしたのであった。ゴシップ大好きな社交界が、この噂でもちきりになったのは言うまでもない。


 ◇ ◇ ◇


 ときはスピード結婚劇よりも、一週間ほどさかのぼる。
 イヴァンゼリンは自宅の執務室に呼び出されていた。呼び出した主は、兄であり現アリス家当主のヴィクターだ。人払いをしてソファセットについた二人の間には神妙な空気が漂っている。
 ヴィクターは長い青銀の髪を後ろで束ねており、彫刻のように整った顔面に、涼やかなアイスブルーの瞳で、冴え冴えとした氷を思わせる美貌はイヴァンゼリンそっくりだ。
 とはいえ、笑顔を貼りつけたイヴァンゼリンに対し、ヴィクターはむっつりと口元を引き締めていて二人の表情は対照的である。メイドが下がったあとに沈黙が下りていたが、先に口を開いたのはイヴァンゼリンだった。
「ふふふ、お兄様。ちょうどよかったわ、わたくしもお話がありましたの」
「ああ、察しのいいお前のことだから、そろそろだと思っていた」
 乾いた笑いを浮かべるイヴァンゼリンに対し、ふっとヴィクターが口元を緩めた。
「では一緒に言ってみましょうか」
「ああ」
「「ティム・ナッシュ(ばかやろう)と婚約破棄」」
 見事に声をハモらせた二人は、ガッと固く握手する。
「やはりな。さすがイヴだ」
 イヴというのはイヴァンゼリンの愛称である。ゆっくりと手を離した彼女は、ふう、と息を吐いて続ける。
「あのばか、お父様が亡くなられた直後から、わかりやすぅく浮気してたでしょう? このところ社交界にお相手のビッ……男爵令嬢が姿を現さないとは思っていたんですけれど……」
 イヴァンゼリンの口がちょっぴり悪い。外では完璧令嬢と言われる彼女が、兄のヴィクターの前でだけ出す一面だ。
「お前も知っていたか。孕ませたらしいな」
 ため息交じりに頷いたヴィクターは、獰猛に唸る。
「こんな完璧な婚約者がいるってのにあいつは本当に見る目がない。いや、婚前にイヴに手を出したりなんかしていたらただじゃ済まさないが、だからといってイヴをないがしろにするなんて許されないだろう……不貞は渡りに船ではあるが……」
 ブツブツと文句を言いはじめたヴィクターに少し笑って、イヴァンゼリンは同意する。
「ええ。あちらから婚約破棄の材料を提供してくださるなんて僥倖ですわね。ですが……お兄様、婚約破棄なんてしてよろしいの? 我が家は貴族派の立場をより強固にするためにナッシュ家と婚約を結んだのでは?」
「それはお父様の意思だな。俺は国王派につきたい」
 ヴィクターは重々しく言う。
 この国の大半の貴族はゴシップが大好きだ。そして享楽に弱い。その一方で、少数ではあるもののゴシップとは無縁で、国への貢献に努める貴族も存在する。
 だから、国を豊かに導こうとする国王派と、自分たちの権利を守りたいだけの貴族派に分かれていた。ちゃらんぽらんのようでいて、実はそんな対立があるのだ。しかも大半は貴族派か、どちらにもつかないかそのときどきで意見を変えるコウモリ中立派である。
 ちなみに一年前に死んだイヴァンゼリンたちの父は、典型的な貴族派だった。兄のヴィクターはすぐに爵位を継承したが、若すぎる当主だからか、最近になってようやく家門の掌握ができはじめたころである。
「国王派に……そうなんですのね」
「驚かないのか」
「お兄様は、以前からどちらかと言えば中立派のような態度を取っていらしたでしょう? 今まではお父様がいらした手前、その意見を出せなかったようですけれど。だから驚きませんわ」
「そうか」
「お兄様がそのご意見でしたら、ナッシュ侯爵家との婚約は積極的に破棄しないといけませんわね」
 考えながらイヴァンゼリンが言えば、ヴィクターは首を傾げた。
「反対しないのか?」
 彼の懸念はもっともだろう。国王派につくだなんて、寝耳に水だ。けれどもイヴァンゼリンは即座に頷いた。
「ええ。いかに政略結婚と言っても、ティムが継ぐ侯爵家など泥船と同じですものね。そんな家に嫁ぐなんてまっぴらごめんだと思っていましたの」
 呆れ顔をしたあとに、イヴァンゼリンはむぅっと口を尖らせる。
「それに……わたくしがティムを嫌いなのは、お兄様だってご存じでしょう? でも、わたくしはしがない令嬢ですもの。今まではお父様のご命令でしたから、我慢していましたのよ」
「ああ……」
 今までの婚約期間でイヴァンゼリンが耐えてきた我慢の数々を思い出したのか、ヴィクターは半眼になった。そんな兄に頷き返して、彼女はさらに続ける。
「お父様が亡くなられてこの義理も消えたことですし、婚約解消できるならせいせいします。それにどうせナッシュ家と距離を置くなら、貴族派でいるよりも国王派についたほうがよろしいでしょう?」
「お前の言う通りだ」
 ヴィクターの肯定に、イヴァンゼリンは満足げに微笑む。
「でしたら、わたくしが反対する理由なんて微塵もありませんわ」
「ふむ」
「わがままが許されるなら、ティムよりましな方に嫁がせていただきたいものですわね」
(条件の合ういい方なんて、なかなか見つからないでしょうけれど……)
「そうか……」
 あいの手を入れながら聞いていたヴィクターは、最後にため息を吐いてきゅっと顔を引き締めた。先ほどよりも顔が怖い。
「そのことについて、一つお前に提案がある」
「なんでしょう?」
「お前、セオドアと結婚しろ」
「あら」
 ぱちぱちと目をしばたいて、イヴァンゼリンは扇を広げる。
「セオドア様……と言えば、国王派筆頭のケイン公爵家……宰相様ですわね?」
「ああ。貴族派代表のナッシュとうちが婚儀を結べば、バランスが偏りすぎる。だから」
 重々しくヴィクターは頷いた。
「政略結婚、ということですわね?」
「そうだ」
「わかりました」
「わかるぞ、また政略結婚なんてうんざり……え?」
 うんうんと頷きながらヴィクターが言いかけたところで、はた、と止まる。
「宰相様との婚約を、受け入れると申し上げたのですわ」
「おま、お前……なんでだ!」
「なぜって、お兄様がおっしゃったことですのに……」
 扇を閉じて、イヴァンゼリンが困ったように言えば、ヴィクターは頭を抱えた。
「ものわかりが、ものわかりがよすぎる……! ナッシュは幼馴染だからあのクソジジ……お父様が婚約を命じたのもまだ理解できたろうが、セオドアとはろくに話したこともないだろう。またお前の意思を無視した結婚なんだぞ……」
 ヴィクターが頭を抱えるのはもっともだ。彼の言う通り確かにイヴァンゼリンはセオドアと会話した記憶がほとんどなかった。
 もちろん社交の場で挨拶を交わしたことはあるものの、反対派閥の彼とは個人的な交流などない。
 イヴァンゼリンが知っているのは、セオドアが敏腕の宰相で、いつも渋面か真顔の男だということだけだ。彼の内面的なことについての知識は皆無である。
 だが、そんなことは問題ではない。
「わかっておりますわ。これは国王派の派閥を増やすための措置ですわね? 充分にわかっておりますとも」
「イヴ」
 心苦しそうな声をあげる兄に、イヴァンゼリンは笑ってみせる。それは侯爵令嬢の仮面ではなく、妹の笑顔だ。
「お兄様、わたくしは侯爵令嬢ですもの。政略結婚をすべきなんです。ちまたで流行っているような恋愛結婚ができるだなんて、小さいころから思っておりませんでしたわ」
 あんまりにも潔い。そんな妹に、ヴィクターはこれで何度目かわからないため息を深々と吐いた。
「お父様が死んで、やっと、お前を自由にしてやれると思ったのにな。結婚くらい、好きなやつとさせてやりたかった」
 盛大に嘆くヴィクターは、心の底からそう思っているらしい。縁談を持ち出してはいるが、この兄は存外にシスコンなのである。
(お兄様が悩まなくてもいいのに)
「いいんですのよ、お兄様」
 このアリス侯爵家は、もともと国王派でも貴族派でもない中立の立場だった。それが典型的な貴族派に変わったのは、父の代、それも二人の母が病に倒れて亡くなったあとからのことである。
 母の死は十年以上も前のことだが、父親はその悲しみを忘れるためにか、享楽にふけり貴族派へと傾倒するようになった。あまつさえ、貴族派筆頭のナッシュ侯爵家の嫡男と婚約まで結ばせたのだ。
 しかもイヴァンゼリンがいやがったにもかかわらず、である。それでも結局、彼女はティムとの婚約を受け入れた。
「どうせわたくしに好いた方なんていないもの」
「だが……」
「むしろ、あのばか……ティムなんかが相手でも婚約破棄をしたら名前に傷がつきますでしょう? そうなれば侯爵令嬢といえど、ろくな縁談は望めませんもの。耄碌ジジイの後妻にならなくてラッキーだと思ってるくらいですのよ?」
 明るく話すイヴァンゼリンに対し、ヴィクターが痛みを堪えるような顔になる。
 家門と国のために必要なことだとはわかっていても、それを妹に押しつけるのがヴィクターは苦しいのだろう。
(優しいんだから)
「お兄様がそう言ってくれるだけで嬉しいわ。だからお気になさらないで」
 そう言って兄を慰める。
(まさか、次のお相手が宰相様だなんて思わなかったけれど)
 渋面を浮かべた宰相を想像してほんのりと笑む。だがすぐに頭を切り替えた。
「それより、国王派の派閥を増やしたい、ということは近々大きな法案を通される予定でもありますの?」
 早々に自分の婚約話を切り上げたイヴァンゼリンを見て、ヴィクターはもの言いたげに口を開き、大きなため息を吐く。
「お前は敏いな……。そうだ。国民にかける税を変更する予定だ」
「あら。下げるんですの?」
 それならば収入の減る貴族派が反対しそうなものである。
「いや。その年の収入に応じて、税金を変更する方式にする」
「隣国の方式を採用なさるの?」
 問いかけに対し、ヴィクターが頷く。
 現在この国の税金は、毎年同じ金額を納める形式になっている。もちろん身分ごとにその額は違うものの、収入額に関係なく爵位など階級が同じであれば一律だ。
 それゆえに貧しい者は税が払えず困窮する場合もあるが、逆に富める者はどんなに稼いでも税が増えないので懐が温まるという状況である。
 課税の方法がシンプルで分かりやすい一方、平民の中ですら貧富の差が激しくなるのがこの課税方式の問題だった。
 話題にのぼった隣国では、毎年の収入額に応じて税金の額を変更する方式をとっている。収入額の何割かを国に納めるシステムなので税金だけでお金が消えるということがない。
 そのうえ収入額に対する税金額の割合自体も、収入が少なければ年収に占める税の割合を低く、多ければ割合を高くするように調整されている。このため、貧しい者からは少なく、逆に裕福な者からは多く税を徴収するシステムになっているのだ。
 とはいえこれは平民だけで、貴族は一律の金額らしい。
(平民にこの方式を取り入れるだけなら、逆に収入の増える貴族は多くなりそうですし貴族派の賛成も多そうですけれど……)
 王の直轄領では国民は直接国に税を納めているが、各領地は領主が税金を代わりに集めてその一部を国に納める形式をとっている。だからこそ、金持ちから税金を多く取る形式を採用すれば、収入が増える領地持ちの貴族は多いだろう。
 ここまで税のシステムについて一瞬で考えを巡らせたイヴァンゼリンは、あることに思い至る。
「……ああ、貴族にもその方式を適用するんですわね? それでしたら確かに貴族派の方々は反対なさるでしょうね」
 何しろ稼げば稼ぐほど税金が多くなる。享楽主義の貴族派には辛い話だろう。彼らは金がいくらあっても足りないのだから。
「でしたら、国王派を増やさないと、その法案を通すのは辛そうですわね……。わたくしが政略結婚をする以外にも、国王派を増やす策が何か必要ではありませんこと?」
「まったくお前は賢くて困るな。その通りだ」
 ヴィクターはため息を吐いた。
 この国では王政が敷かれているが、会議で出される貴族たちの意見にも、国政が大いに左右される。だからこそ、国王の通したい法案を通すには国王派を増やす他ない。
「結婚するだけでなく、わたくしには他のお仕事がありそうね。お兄様。国王派につくことになった経緯や、その先のお話はいつしていただけるの?」
「近々、セオドアと顔合わせの機会を設ける。そのときに詳しい話をしよう」
「わかりましたわ」
 そう返事をして、話し合いは終わった。
 この件を受け、色々と政略結婚に向けてイヴァンゼリンも検討していたことがあった。だというのに、顔合わせも打合せも何もできないままに、あの婚約破棄劇が開催されてしまったのだった。