策士な宰相閣下は笑わない侍女を絶対に手放さない 3
「君は……」
怪我をしていない彼の左手が伸びてきて、セシリアの手に触れた。震えていることを誤魔化すため、セシリアは反射的に拳を作り、強く握った。
そのとき部屋の扉がノックされ、騎士を伴った王妃が姿を見せた。
「治療は終わりましたか? 二人ともそのままでいいわ」
心優しい王妃は、二人の様子をわざわざ確認しに来たのだ。
「はい。宰相閣下はしばらく安静が必要とのことです」
「リドルフィ殿、わたくしの侍女を救ってくださってありがとう。セシリアも、あなたが守ってくださらなかったら、誰かが……陛下が命を落としていたかもしれません」
取り調べはまだだが、暗殺者の標的はおそらく国王だろう。その事実を改めて口にした王妃の顔色が青ざめていく。愛する人の命が危険な状況だったということは、想像するだけで恐ろしい。
「……ですが、私のせいで宰相閣下が……」
するとライナスがやれやれという様子で首を横に振った。
「さっきも言ったけれど、謝罪はいらない。感謝ならいくらでももらうが」
「あの少年はまだ小さくて、おそらく私よりも軽かったはずです。しっかり押さえておけば誰も傷つかずに済みました。だからやはり私に問題があったんです」
「侍女殿は真面目すぎる。女性を守って負傷するのは、男性にとって誇るべきことだよ」
王妃の前では、間者としての役割を前提にした話ができない。
か弱い貴族の令嬢という立場でなにを言っても、ライナスに言い負かされるだけだった。
それから彼は、なにかいいことを思いついたとばかりに、にっこりと笑った。
「王妃陛下、彼女をしばらく……そうですね、私の怪我が治るまでお借りしてもよろしいでしょうか?」
「まぁ、どうなさるのかしら?」
「文字を書くのに支障がありそうなので、手伝いをお願いできればと思いまして」
ライナスの提案は意外なものだった。
「君は簡単な手当ならできるんだろう? 恩に着せるつもりはないけれど、責任を感じているのなら職務の補助や包帯の交換なんかをお願いしたい」
利き手である右手に怪我を負ったライナスのために、代筆や雑務、それから傷口の消毒や包帯の取り替えを行え、というのが彼の提案だった。
「まぁ……! 素敵なお話ですこと。そうしましょう」
王妃は喜んでセシリアを貸し出す気でいる。
補助役が必要というのは理解できる。しかし、それがセシリアである必要性はなかった。
むしろ、セシリアの正体を知っているライナスが、あえてその提案をした意図がわからない。
「セシリア!」
急に名前を呼ばれ、セシリアは声がした扉のほうを見た。
そこにいたのは「娘の怪我を聞きつけて心配している」養父だった。
「これは王妃陛下……失礼いたしました」
養父のバージルは、焦ったあまり王妃がいる部屋に無断で立ち入ったことを詫びた。
けれど彼は人の気配に敏感で、そもそもセシリアを心配するはずもない。すべてが演技だった。
「いいのよ。愛娘が大変な目に遭ったのだから、早く元気な姿を確認してあげて」
「私は擦り傷だけです。宰相閣下が助けてくださったので、怪我をせずに済みました」
「宰相閣下が?」
いぶかしげな顔をするバージルに、ライナスが簡単に事件のあらましを説明する。
突然現れた暗殺者。たまたまそのあいだに立っていたセシリアが、無謀にも立ちはだかった。けれど非力な身では太刀打ちできず、もみ合いになり、ナイフで刺されそうになったところをライナスが助けた……という彼の主観で脚色された内容だ。
「で、彼女はなぜか責任を感じているようなんだ。か弱い令嬢が子供とはいえ暗殺者を取り押さえるなんて最初から無理だったと言っても、納得できないらしい」
責任感が強いのはいいが頑固な侍女に困っている、と肩をすくめた。
「……さようでございましたか。娘の危ないところをお助けいただきまして、感謝いたします」
「それで、しばらく王妃陛下から彼女を借りることにしたから」
「借りる、ですか?」
「ほら、このとおり右手が全治一ヶ月と診断されているから、そのあいだ宰相付きになってもらう」
ライナスは何重にも包帯の巻かれた右手を、バージルに見せた。
「それはっ。……しかし、セシリアは王妃陛下付きの侍女ですぞ?」
「ウフフ。とってもいい案でしょう? エルムズ卿」
王妃がにこやかに笑い、バージルに同意を求めた。
彼女が乗り気であるため、ライナスの提案をバージルが拒否できなくなってしまった。
セシリアの同意などなしに、勝手に話がまとまっていく。
そしてライナスは、セシリアにとびきりの笑みを向けてきた。
「すまないが、今日はさすがに休ませてもらうし、明日も休暇をいただく。明後日からよろしく頼む、侍女殿」
「……セシリア、閣下に感謝を。命を救っていただいたのだから、精一杯務めなさい」
バージルの「命を救っていただいた」という言葉の真意は、暗殺者のナイフからという意味ではないのだろう。
ライナスの希望で、セシリアは侍女の仕事を辞められなくなった。〝処分〟を保留にするしかない、という意味だ。
「宰相閣下、精一杯お手伝いをさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
セシリアが素直にそう言うと、ライナスは満足げに何度も頷いた。
(この方は私を助けてくれたの……?)
ライナスはどういうつもりで、どこまでわかっているのだろうか。
例えばこのまま王妃付きの侍女をしていた場合、怖い思いをしたので休養し、その後縁談が決まったなどと理由をつけて、自然に侍女を辞めることができた。
侍女を辞めたあと、セシリアがどうなろうとほとんどの者が気にしないはずだ。
ライナスはすべてわかっていて、セシリアを助けようとしたとしか思えない。
結局なぜ助けてくれたのかは聞けないままだった。
◆ ◆ ◆
その後、暗殺者の少年が王宮の牢に収監された。
少年に対し事情聴取は行われているが、彼はどうやって王宮への侵入を果たしたのか、口を割らない。
十代前半の少年が、国王暗殺未遂の実行犯であるという事態は、長いソールテアの歴史においても前例がなかった。
本来なら間違いなく極刑となるのだが、国王の命で保留となる見通しだ。
子供に過酷な取り調べを行うのははばかられる。だから、ひとまず時間をかけて少年から言葉を引き出していくしかないというのが、今の状況だった。
高い壁に阻まれ、厳重な警備がされた王宮内に、暗殺者の侵入を許した。それは王宮を守る騎士たちに衝撃を与えた。
運び込まれる荷物については、すべて検められる。大きな荷物に隠れて少年が簡単に突破できるほど甘くはない。
出仕している貴族に同行すれば侵入が可能だが、随行者はすべて名前や身分を記載する必要があり、門番も一人一人の顔を確認している。
ただし、王宮内は入るときに比べ、帰るときの確認が甘いことが露呈した。
まず疑われている侵入方法としては、貴族の侍従か息子として王宮入りをしたという方法だ。もちろんその場合、同行した貴族が協力者か暗殺の依頼主ということになる。
事件の日、十代の少年の随行者は二人。困ったことにその二人とも身もとがはっきりしていた。
王宮内に立ち入る権利を有している身分の高い者の中に、謀反人がいる可能性を否定できないまま、捜査は暗礁に乗り上げた。
◇ ◇ ◇
翌日、セシリアはリドルフィ侯爵家を訪問した。
昨日のうちに医師から毎日の手当の仕方について指導を受けている。それを実践すべく、お見舞いと包帯の交換のために、侯爵邸を訪問したいと手紙で伝えていたのだ。
ライナスからの返事は「もう謝罪は聞き飽きたから、申し訳ありませんは禁止。守ってくれるのなら歓迎する」というものだった。
この手紙は、おそらく使用人が代筆したのだろう。
九年ぶりに訪れる侯爵邸のたたずまいは、昔と少しも変わらない。
けれどエントランスの大きな扉を開くと、静寂に包まれ別の屋敷のように感じられた。
小さな頃、大きく見えていたものが、大人になるとそうでもなかったという経験は誰にでもある。王宮の中で働くようになったセシリアには、侯爵邸の建物がそれほど特別なものに思えなくなった、ということもあるだろう。
けれどそれだけではなかった。
以前訪れたときは、廊下や出窓、いたる所に花が飾られていて、明るい雰囲気だった。
多くの使用人を雇っていて、にぎやかだったのだ。
今はただ清潔に保たれているだけだ。無機質な印象で、生活感があまりない。
家令の案内で部屋に通される。
そこは応接室ではなく、書斎のような場所だった。
書架に囲まれた広い部屋。大きなマホガニーの机の上に本を積んで、ライナスが書類に文字を書き込んでいた。
「侍女殿、よく来たね」
来客に気がついた彼が顔を上げて、にっこりとほほえむ。
「お邪魔いたします。閣下はなにをされているのですか?」
「せっかく休暇をいただいたから、領地の収支なんかを見直していた」
セシリアがたずねた意図は、そこではない。静養の必要があるライナスがなぜ机に向かって仕事をしているのか、という非難の意味だ。
「お医者様は、安静にとおっしゃっていませんでしたか?」
「右手だけは安静にしている。偉いだろう?」
机の上にクッションを置き、彼の右手は確かにその場所でおとなしくしている。動かしているのは左手で、たどたどしい手つきで文字を綴る。
「その書類は、私が拝見したら問題のあるものですか?」
「そんなに大層なものではないよ」
「でしたら、代筆いたします」
彼が左手で書くよりも、口頭で伝えた言葉をセシリアが書いていったほうがずっと早い。
もちろん彼の筆跡でないとダメな場合もあるだろうが、公的な書類でなければ代筆でも大丈夫だ。
「私の補佐は明日からだろう? それに今やっているのは、宰相としての職務でもない」
「明日からの仕事を滞りなく行うためには、慣れも必要ですから。早く終わらせて、包帯の交換をしましょう」
「……真面目だね。君、計算は得意?」
「それなりにはできるはずです」
セシリアはさっそくライナスの隣に椅子を運んで、彼の仕事を手伝った。
最初は領地管理人宛の手紙の代筆だ。侯爵領の天候に関する懸念事項などが書かれた手紙が領地から送られてきていて、その返事だった。
一週間ほど前の豪雨で、領内の橋に傷んでいる場所ができてしまい、大規模な補修を要望したいという内容だった。
ライナスはそれに対し、技師を派遣し、予算を確保すると返答するつもりだという。
修繕に伴う本年度の収支予想のやり直しに関する計算なども、合わせて行う。
「この資料、私が見てはいけないものではありませんか?」
「健全だろう? べつに面白くもなんともないからエルムズ卿に知られてもかまわないけど、君が話すとは思っていない」
ライナスが再計算をするようにと渡した書類の中には、領地の昨年の収支やその内訳、本年度の見込みなどがはっきりと記されている。
もちろん、所領に関する報告は毎年、国のしかるべき部署に提出するものではある。けれど詳細な項目を追っていくと、彼の領地運営についての基本的な方向性が透けて見えてしまう。
ライナスが言うように、侯爵領の運営は健全そのもので、大規模な投資や開拓を行わず、特産品の収穫量を上げるための小規模な改革などに力を入れているらしい。
侯爵領にやましいところがないから見せただけだとしても、セシリアは補佐役として信頼されているような気がした。
「侍女殿は優秀だね。助かった、ありがとう。……そろそろお茶の時間にしようか?」
一時間ほど集中して作業をしたところで、彼からそう提案があった。
口頭で指示するだけでも、本来なら安静が必要なけが人には負担のはずだ。適度に休んだほうがいいに決まっている。
「はい」
セシリアが同意すると、ライナスが使用人を呼ぶために立ち上がろうとした。そのとき、不用意に右手を使ってしまったらしく顔をしかめる。
「私が参ります」
「左の突き当たりの部屋に行けば、誰かいるはずだからお願いできるかな? 天気もいいし、ガゼボがいいだろう。お茶の時間にするとだけ伝えてくれ」
「はい」
セシリアはガゼボという言葉に気をよくしつつ、使用人の部屋へと向かった。
対応してくれたメイドにガゼボでお茶をする旨を伝え、セシリアは再び書斎に戻る。
(静かだわ……)
ライナスに家族がいないせいだろうか。
リドルフィ侯爵邸はせつなさを感じるほど、静寂に包まれていた。
ライナスの書斎からテラスを通って、庭園の中を歩く。昨日もそうだったように、彼はセシリアの歩調に合わせゆっくりと進んでくれる。
侯爵邸の広い庭園は九年前に目にしたそのままの景色だった。
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