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モテすぎ伯爵様(夫)と私の悩ましい溺愛結婚生活 2

第二話

 

「は……」
 朝、目を覚ましはしたが、ポリーナの身体は鉛のように重かった。身じろぎしただけで、股関節が鈍く軋む。
「痛いわよ」
 誰にともなく、つぶやいた。
 ベッドの中でも身体を起こす気になれないほど、疲労が蓄積していた。すでに外は明るいから、そろそろ起き出さなければならないのに。
 ――そうよ。……もう、……春になってるわ。
 この神聖ゴッドルフ王国は、エウロパ大陸の北の端に位置している。冬は極寒であり、積雪も多い。外に出てやれることはわずかだ。
 だから、この国の貴族たちは冬の間はそれぞれの領地に戻り、やり残した執務をこなす。だが、春になって社交のシーズンとなれば、王都に次々と戻ってくる。
 特にポリーナとキリルは、神王直属の執政機関である評議会の構成員だった。
 ミハイロ神王は、自分の信頼できる部下を八名選び出し、この評議会を作った。彼は国政に関することは、何でもこの評議会に諮ってくる。だからこそ、やりがいがある仕事だ。
 ポリーナは博識なところを見こまれ、女性としては唯一、評議会の構成員に加わっていた。
 評議会が発足してまだ間もない。その構成員として、やらなければいけないことが山積みだった。
 ――なのに、キリルが朝まで、なかなか寝かせてくれないから。
 キリルと結婚して、この春で一年だ。
 新婚のときならまだしも、子供がいないということもあるのか、キリルの欲望はまるで衰えることはない。
 キリルに誘われると、ポリーナのほうも断りきれずにいた。だが、さすがに朝起きたときにこんなにもぐったり疲れ切っているのでは、日常生活に支障が出る。
 ――あなたみたいに、体力がある人とは違うのよ、キリル。
 重い身体に活を入れ、ポリーナはどうにか手を伸ばし、それを支えに上体を起こした。
 立ち上がるだけでも、気力が必要だった。めまいに何度か立ちすくみながらも、全裸だった身体にローブをつ羽織る。そのとき、寝室のドアが開いて、快活な声が響いた。
「おはよう、ポリーナ。このところ、お寝坊さんだね」
 カール・キリル・オステルツェフ伯爵。
 朝の光の中で、華やかな衣装を着こなしたキリルの姿は、一段と輝いて見えた。
 まっすぐな銀色の髪に、宮廷一と言われる端整な美貌。
 神王の信頼厚き家系に生まれ、今はポリーナと同じ評議会の一員だ。社交に優れて弁舌も立つから、彼は主に外交部門を担当している。
 いつでもキラキラとした光の粒子をまとっているようで、その輝きが色あせたところをポリーナは見たことがない。外では髪の毛一筋たりとも乱すことなく、完璧な美を味方につけて、艶然と微笑んでいる。
 そんなキリルが汗ばんで息を弾ませる姿を見せるのは、ポリーナとあんなことをしているときだけだろう。
 そう思うと、ポリーナはぞくりと身のうちが痺れるのを感じた。
 だが、朝からこの暴力的なほどのまばゆさは目に厳しい。キリルの衣装についた金銀や宝石が陽光を弾くからなおさらだ。
 ポリーナはその姿からさりげなく顔を背けて、ベッドの天蓋の布の陰へと隠れた。
「なかなか起きられないのは、あなたが寝かせてくれないからよ」
 答えた声は、ひどくかすれていた。愛想の欠片もない態度なのだが、ポリーナがどのように接しようが、キリルの情緒は滅多に乱れることはない。笑みなど浮かべようもないほど疲れ切っているときには、表情を作る努力をしなくてすむのが幸いだった。
 対するキリルは、まるでポリーナから生気を吸い取ったかのように生き生きとしていた。その肌は剥きたての卵めいて艶々だ。
「だって、……昨日は、君のほうから『もっと』ってせがんだだろ」
 ――は?
 その言葉に、ポリーナは耳を疑った。
 せがんだのは、キリルが焦らしたからだ。
 さすがに今日は、少し腹が立った。ここらで、いい加減にしろとガツンと一発言っておかないと、ますます図に乗りそうな予感がする。
「そう」
 ポリーナは低い声でつぶやいた。その声の響きにキリルが何かを察したのか、警戒した顔になる。その顔を天蓋の布の陰からまっすぐにらみつけ、ポリーナは妥協の欠片もない声で突きつけた。
「だったら、これから寝室を分けるわね」
「どうして、そういう話になるんだ?」
「寝室を分けたら、私から『もっと』ってせがむことはないわ。私の私室は、このオステルツェフ伯爵邸にもあるもの。……私が夫婦の部屋に居着くように、あなたが私の私室をあえてじめじめとした居心地の悪い北の角に選んだのは知ってるわ。だけど、おあいにくさま。私は日当たりのいい部屋より、日当たりの悪い部屋のほうが好きなの」
 ポリーナの好みだけではなく、日当たりの悪い部屋のほうが本の保存にはいい。それもあって、キリルの提案にあっさりうなずいておいたのだ。
「え?」
 完璧に美しい笑顔は崩さないながらも、キリルが動揺しているのはなんとはなしに伝わってきた。
 だが、キリルのペースにこれ以上合わせてはいられない。この男がポリーナのためを装いながら、自分の思うがままに事態を進めていることは、完全に見抜いている。
「ポリーナ。君の私室のベッドよりも、夫婦の寝室のベッドのほうが、ずっと眠り心地もいいと思うよ」
「眠り心地がいいかどうかは、私が決めるわ。ふかふかのベッドよりも、床の上みたいな硬いベッドが好きだってこと、あなたは知らないでしょう?」
「だ、……だったら、ここのベッドもそうしようか?」
 キリルの笑顔が、崩れつつある。
 意外なほどキリルが、自分との時間を大切にしていることに驚きを感じながらも、ポリーナは容赦なく言い返した。
「別にそんなのはいいわよ。私はどこでだって眠れるもの。だけど、一番問題なのは、こうやってあなたにやたらとかまわれることよ。週に半分ぐらいは、このキラキラなしで気楽に過ごしたくなったの。あなたがいると、まぶしさに目がしばしばする。没頭して調べたい書類も書物も山積みだし」
「このキラキラ……?」
 そんなふうに言われるとは思っていなかったらしく、キリルは呆然と繰り返した。
 だが、そんなキリルが態勢を立て直す余地も与えずに、ポリーナは要求を突きつけた。
「同じ部屋にいると、あなたは私に、何かと話しかけずにはいられないようだわ。それに、黙って、と言ったところで、煩わしいほどの視線を感じるの。だからこれから、週の半分は私室で過ごすことにするわね」
 この屋敷には、ポリーナの部屋もあるのだから、最初からそうすればよかった。
 許可を取ろうというのではなく、単に決定事項として伝えたのだったが、キリルは慌てたように言ってきた。
「待ってくれ、ポリーナ。君に結婚してくれとせがんだのは私だ。いつでも君は自由で、今まで通り、好きなだけ本を読んで、好きなことをすればいい。そう言ったよ? だけど、……そばにいるのを許して欲しいとも、言った」
 最近は人生に満ち足りたような、余裕綽々という態度でいたキリルが、これほどまでに狼狽した姿を見せるのは珍しいことだった。だが、ポリーナだって妥協するつもりはない。
 もとより、キリルのことが嫌いになったわけではないのだ。ただ、キリルと一緒にいると、気が散って自分のペースが乱れるから、少し距離を置きたいというだけの話だ。一人きりの時間が欲しい。
「キリル」
 そのハンサムな顔がこれ以上崩れることがないように、ポリーナは天蓋の布の陰からベッドの外へ出ると、キリルの前まで歩み寄った。
 そっと手を伸ばして、彼の頬を包みこむ。なめらかな白い皮膚を親指の腹でなぞりながら、言い聞かせるように言った。
「ずっと別室で、という意味じゃないわ。週の半分は、この部屋に戻るから」
「週の半分というのは、具体的に、三日? 四日?」
「三日かしら」
「せめて四日というのはどうかな」
 キリルが、哀願するように見つめてくる。
 だが、春になって王都に戻ったポリーナは大忙しだ。睦み合うのは嫌いじゃないが、それで体力を消耗するわけにはいかない。
 だから、キリルの目をまっすぐ見つめて、要求を通した。
「ダメ。三日。……あなたとこの夫婦の寝室で寝るのは、週に三日ってことに、今、決めたわ。その日だけは、私に触れてもいい。もちろん、何もせずにすやすやと眠るのもありよ」
 これは決別宣言ではない。単なる回数制限にすぎない。そのことを、キリルはようやく理解したらしい。心配そうだったその表情がぱああっと明るくなる。
 ポリーナの腰の後ろにキリルが腕を回し、そっと引き寄せた。
「君の部屋に、私が押しかけるのはダメなの?」
「あなたのキラキラで集中できないのが問題だから、入室は許さないわ。食事とかは一緒にとってもかまわないけど、私が考えごとをしているときには、あなたから話しかけるのは、できるだけ控えてもらえるとありがたいわ」
 それで、思いついた考えが消えてしまったこともあるのだ。
 他人との暮らしは、一人暮らしのようにはいかない。
 それなりに妥協して暮らしてきたが、さすがに新婚の一年目は終わっている。評議会構成員としての日々を重ねることで施策を実行に移せることが増え、今年もやりたいことが山積みだった。
 キリルは特にポリーナに何かを押しつけようとすることはないが、それでも一人で好きなだけ本を読み、気が向くままに考えごとに没頭していたときと比べたら、まるで違っていた。
 ――だって、キリルがいるとかまわなければならないし。
 同じ部屋にいるだけで、気が散る。それが、今の体力的に疲弊したポリーナには煩わしく感じられた。
 だが、キリルは納得できないらしい。
「なんでそんなことを? きつかった?」
 ポリーナの身体を抱きしめて、耳元で尋ねてくる。
 彼に抱きしめられるのは、とても好きだ。背の高いキリルの身体つきは、意外なほどたくましくて、安堵できる。その腕の中にすっぽり包みこまれると、自分が華奢なお姫様になったように思えてくる。
 キリルから漂う高貴な匂いも大好きだし、胸いっぱいに吸いこむと、それだけでジンと心が甘く痺れた。
 自分が理不尽なことを言い出しているのだと、ポリーナも理解している。キリルは何も悪くない。ただ、ポリーナが彼のまばゆさに慣れないだけなのだ。
 ――私はずっと、日陰で暮らしていたようなものだもの。
「そのキラキラがキツいの」
 言葉を選ばずに表現すると、キリルは動揺したのか、びくっとその身体を震わせた。
 たまには容赦なく思いをぶつけないと、なんやかやとキリルは聞き入れてくれない。そんな頑固なところが、彼にはあった。
 深呼吸してから、一息に言ってのける。
「冬の間に読んでおきたい本がいっぱいあったのに、あなたが何かと邪魔をするせいで、その半分しか読めなかったわ。冬の間はまだいいとする。だけど春になって王都に来た今、私にはやることが山のようにあるの。あなたにその大切な時間を奪われるわけにはいかないわ。あなたのように、無限の体力があるわけではないのだし」
 こんなふうに、体力気力を奪いつくされて、朝からくたくたになっている状況に耐えられない。
 ゴッドルフの春夏は短いのだ。
 油断すれば、何も成し遂げることができないうちに秋となり、過酷な冬がやってくる。冬になったら何もかも雪に閉ざされて、身動きが取れない。それに、ポリーナには焦りがあった。
 ――ゴッドルフは、このままではいけないの。
 だからキリルの目をのぞきこみ、自分の邪魔をするのは許さないとばかりに言葉を投げかけた。
「いい? 私には、やらなければならないことがいっぱいあるの。元宰相の内乱のせいで、ゴッドルフの産業はエウロパの列強に比べて大幅に遅れているわ。それをこれから、一気に追いついて、追い越さなければならないの」
 神聖ゴッドルフ王国は、同じ文化圏であるエウロパ大陸の北の端に位置しており、他の諸国とは急峻な山脈で隔たれている。
 国土は広大で資源も豊富にあったが、その山脈の存在ゆえに文化や技術の流入が遅れ、かつては『北の辺境』扱いされていた。
 三代前のユーリー大帝が、エウロパ大陸の諸国との交流を復活させ、彼らが宿敵としていたスルタン国への侵攻を行った。その国土の一部だった不凍港・デスノグラードを戦利品として奪うという偉業を成し遂げたことでゴッドルフは見直され、極端な辺境扱いは今はされなくなっている。
 それでも、ゴッドルフが文化、産業ともに遅れているのは間違いない。
 今は綿織物の生産において、驚くほどの技術革新が、エウロパ大陸の列強を中心に広がりつつあった。
 さらには農業技術の改革を受けて、各国で食料の生産が飛躍的に伸びている。
 世界が急速に変化している。この波をとらえ損ねてはならない。ずっと停滞していた世界が、この数十年で驚くほどの変化を遂げているのだから。
 その焦りが、ポリーナにはあった。
「世界の変化に、ゴッドルフもついていかなければならないの。まずは情報を集め、新しい技術を獲得するために、どこにどれだけ人材が必要なのか分析する必要があるわ。それからエウロパの諸国に優秀な人材を送って、勉強させたいの。秋には人を送りたいから、その意見書をまずは評議会で通さなければならないし、通ったら分野ごとの面接もして、人を選ばないと」
 世界の変化については、キリルとも冬の間、たくさん話をした。
 だから、認識は一致しているはずだ。
 同意を示すためにキリルは深くうなずいたが、心外だというように口を開いた。
「君の言いたいことはわかる。今年、君がやりたいと思っていることもね。だけどそれと、……寝室を分けることとは別だろう?」
 その反応に、ポリーナは深くため息をついた。
 キリルは自分の体力と行動力を基準にしているのだろう。だが、ポリーナは一日外出してパーティに出席すれば、しばらくは誰とも口をききたくないぐらいに消耗するのだ。
 対してキリルはそうではない。豊かな弁舌とその容姿で相手を魅了し、パーティの華となる。人と交流すればするほど、生き生きしているように感じられる。
 だからこれ以上説得しようとしても平行線だと、ポリーナは判断した。
「私にはやらなければならないことがあるの。あなたがいると、気が散るわ。それに体力をこんなに奪われたら、私の日常生活に支障をきたすの。だから、これからは週に三日だけ!」
 こんなふうに文句を並べ立てたところで、身体を鍛えろと言い返されるのがせいぜいかもしれない。だけど、キリルは無言でポリーナを抱きしめて、その薄さを測るように背をなぞった後で、仕方なさそうに腕を離して息を吐いた。
「わかった」
 もう少し、なんやかやと食い下がられると思っていただけに、その物わかりのいい態度に驚いた。
「あら?」
「そんなふうに言われたら、残念だけど、寝室を分けるしかない。君と結婚してもらえただけでも、破格の幸せだからね。目障りだと思われたあげくに、離婚すると言い出されたら困る」
 その言葉に、ポリーナは内心でひどく動揺した。
 ――そんなことは、しないわよ。
 ゴッドルフ一の美貌を持ち、他の女性からも大人気だったこの幼なじみの伯爵に、ポリーナはずっと片思いしていた。勉強ばかりでおしゃれにはまるっきり興味のなかった自分が、このキラキラとした幼なじみに伴侶として選ばれるなんて、期待もしていなかった。
 なのに、思いがけない成り行きで、求婚されたのが一年前のことだ。
 結婚してくれと懇願されたとき、ポリーナもずっとキリルのことが好きだったと伝えたはずだが、それは本気で受け止められていなかったのだろうか。
 ――大好きなのに。ずっと、好きだったのに。
 そのキリルと結ばれたのだから、離婚など一度も考えたことがない。それでも、こんなふうに思われるほど、ポリーナはキリルに気のない態度を取っていたとでもいうのか。
 ――ええと。
 ポリーナは我が身を振り返ってみる。
 確かに、今までの自分の態度は、恋する女性のそれとは違っていたかもしれない。ポリーナとしてはそれなりに頑張って、愛のある新婚生活を送ってきたつもりだった。だが、ポリーナは基本的には変わっていない。考えごとに夢中になると他のことはかまわなくなるし、キリルのこともおざなりになる。
 ――だけど、いつもキリルのほうからやたらとかまってきたから、それでちょうどいい感じだったわ。
 キリルは何かとポリーナにかまうのが好きなようだ。
 髪を柔らかなブラシでくしけずり、時折、花飾りまでつけてくれた。最初のころはそれも嬉しかったが、頭皮がずっと花飾りによって引っ張られるのが煩わしい。気がつけばそれをむしり取っていたし、しまいには髪に触られるのも拒否するようになった。
 最近では考えごとをしたいときにはキリルがいる部屋を避け、対応もかなり雑になっているのを自覚している。
 そのあげくに、寝室を分けるとまで言い出したのだ。
 これは、離婚の危機をキリルに感じさせる態度なのだろうか。
 ――それでも、……最大限の譲歩はしているはずなのよ?
 ポリーナにとっての生きる意味は、世界の謎を解くことだ。毎日、世界にはびっくりさせられ、多くの疑問が湧いてくる。一つの謎を解こうとすれば、新たな謎が生まれる。知りたいことが多すぎて、死ぬまでにその全ての謎を解くことはできそうにない。そのうえ、今は驚くほどの新発見がエウロパ諸国で相次いでいるのだ。
 ――私も、ちゃんとキリルのことが好きなんだけど。
 だけど、今はそれよりも、なすべきことを優先させたい。離婚の危機など、根拠のないことで煩わされたくない。
 ポリーナは深く息を吐き出して、キリルに指を突きつけた。
「あなたも同意してくれたから、これからは夫婦の寝室で寝るのは、一日置きにするわ。月曜、水曜、金曜日でいいかしら。あなたは他の日も、この寝室で寝ていいわ」
 とにかく、ポリーナは自分のペースを取り戻したい。誰にも邪魔されず、好きなだけ動きたい。
 キリルがポリーナの言葉に、反論したそうな顔を見せた。だけど、ポリーナの目にあった焦りでも読み取ったのか、諦めたように肩をすくめて、柔らかく笑った。
「わかった。週に三度でも、君に触れるのを許してもらえるのは嬉しい。私は君に、少々無理をさせすぎたみたいだ。では、……朝食にしようか」
「その朝食なんだけど、食事に無駄な時間をかけたくないから、私はパンだけでいいわ。しかも、時間短縮のために馬車で食べたい」
 二人が暮らしているのは、キリルが当主を務めるオステルツェフ伯爵邸の王都の館だ。
 ポリーナは結婚してからも、ノヴォシリネルフ伯爵家の当主のままだ。ノヴォシリネルフ伯爵家はポリーナ以外、全ての血族が死に絶え、他の者に譲るわけにもいかないからだ。
 そのために、王都にあるノヴォシリネルフ伯爵邸はそのままにして、オステルツェフ伯爵邸で暮らすことになったのだが、ここでの暮らしにはすっかり馴染んだ。ポリーナが変わったのではなく、ここで働くものたちがポリーナに慣れたのだ。
 ローブにサンダル姿で邸宅内をうろついていても、使用人たちは何ら気にする様子はない。ノヴォシリネルフ伯爵邸の使用人と同じように、ポリーナを上手に受け流すすべを覚えたようだ。
 ――ここは、居心地がいいわ。
 何も言わなくても、部屋が整えられている。おそらくは、キリルの好みのふかふかのベッドに、朝食にはふわふわのパンと、黄金色のオムレツ、香り高い紅茶にジャムが準備される。ややもすれば、ポリーナがすっかり馴染んだノヴォシリネルフ伯爵邸よりも居心地がいいぐらいだ。
 だけど、その居心地の良さがポリーナには少し落ち着かない。至れりつくせりで世話をされるのではなく、少し放置されるぐらいのほうが頭が働くのだ。誰にもかまわれることなく、気ままに過ごしたい。朝食などはあんなに豪華でなくてもよかった。だが、そのあたりが、キリルには理解できないらしい。
「馬車で、パンを食べる?」
「そのほうが時間がかからないでしょ。朝食に何十分もかけるのは、無駄だと思うの」
「だけど――」
 キリルが反論しようとして、ぐっと言葉を呑みこんだ。朝の食事の時間を、キリルが大切に思っているのは、なんとなく伝わってきている。ふわふわのパンに、黄金色のオムレツ。おそらくはその食材の一つ一つが、キリルによって吟味されているのだろう。だけど、ポリーナは食事に時間をかけるよりも、本を読みたい。一ページでも、読み進めておきたい。
「わかった」
 キリルがまた反論を呑みこんで、ぐっと拳を握った。
 キリルばかりに我慢させているみたいで、苦しくなる。
 それでも、ポリーナはさらに提案せずにはいられない。
「申し訳ないんだけど、キリル。もう一つ、あなたにお願いがあるのよ」
「ん? 何でも言って」
 キリルが何かを期待したようなキラキラとした目を向けてくる。
 いつ目にしても、キリルは麗しかった。
 最近、その美しさに一段と磨きがかかっているようにも思える。銀色の髪の艶は凄みを感じるほどに増しているし、肌の艶めきもすごい。
 ――女性は恋をすると綺麗になるって言うけど、うちの場合はキリルのほうが綺麗になっているわ。
「夕食を一緒にとるのも、週一回ぐらいでいいんだけど」
 寝室を分けるだけではない。
 もっと根本的な対処が必要だった。