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その愛玩人形、私ですか!? こじらせ天才魔術師様の一途でみだらな超溺愛 2

第二話

 

 こちらに背を向けて立つメアディスの前には、彼の三倍以上の背丈がある大きな獣が立ちはだかっていたからだ。
 煤色の逆立った毛に鋭い牙は狼を思わせるが、こんな大きさは見たことがない。元は狼だったものが魔力を得て巨大化したのだろうか。
(というか、一体どうやって現れたの)
 この大きさで音もなく走ってこられるわけがない。葉鳴りや枝を踏む音がするはずだが、イヴには聞こえなかった。
 転移魔法を使ったのだろうか。そうなると相当手強い魔獣だ。魔力レベルが高すぎる。
(ちょっと誰よ。魔力はそう大きくないから、ヴェールクラスの魔術師に依頼するなんて言ったのは)
 この魔獣については当初、王命魔術師の中でも下から二番目の位階《ヴェール》であれば充分対応可能、とされていた。それをイヴが、メアディスでもまともに働いてくれる案件を、と執務局からもぎ取ってきたのである。
 そのとき。
 すうっと大きく息を吸い込んだ魔獣が、炎とともに力いっぱいそれを吐き出した。
 足元の落ち葉が燃え上がり、イヴのところまで熱風が吹き込んでくる。
(熱い……!)
 魔獣はメアディスの頭上めがけて、まっすぐに炎の息を吹きかけていた。
 熱波が直撃したメアディスは、しかししゅうしゅうと白い水蒸気が上がる中で、先程と寸分違わぬ位置に立っていた。
 よく見ると、彼の周りには透明な壁ができている。
 とっさに氷壁を作って、炎を防いだらしい。
 メアディスの人間性についてはほとんど諦めているイヴだが、彼の実力は手放しに信頼していた。
 イヴはほっと胸をなで下ろす。
(メアディスさまが怪我するような魔獣だったら、もう手の施しようがないもの)
 しばらく魔獣を見上げていたメアディスは大きくため息をつくと、頭に手をあてて首を力なく振った。
「くだらない。生き残りたいなら虚栄を張らずに逃げ暮らせばいいものを」
(虚栄……? どういうことかしら)
 一人と一匹の動向から目を離せずにいたイヴは、突然近くから聞こえてきた子供の泣き声にはっと我に返った。
「えーん、えーん、ママー」
 目の前には五歳くらいの男の子がいる。ぼろぼろと大粒の涙を流し、母親を探しているようだ。
(どうして……! 人払いはしてあるはずなのに)
 けれど迷っている暇はなかった。
 イヴはさっと男の子に駆け寄る。
「大丈夫よ、落ち着いて」
 これで錯視の魔法は解けてしまったはずだが、背に腹はかえられない。
 とにかくこの子を安全なところまで誘導するのが先だ。
 そのあいだ、魔獣をなんとか引き留めておいてくださいよ。そんな希望を込めてメアディスを見やるが――。
「そいつから離れろ!」
 メアディスは一目散にこちらへ駆け寄ると、あろうことかいたいけな子供の腕をねじり上げて地面に押し倒していた。
「ちょっ、なにするんですか!?」
「よく見ろ!!」
「み、見た上で言ってますが! 子供に乱暴するなんて――」
「子供じゃない。ただの犬だろうが!!」
「は……」
 腕を背中側に拘束されて顔を歪めている男の子。その光景がぐにゃりと歪む。
「ママ、ママ、たすけえぅっ、ぅぅぅ……、ぐあぁっ!!」
 人の言葉は獣の声に切り替わり、子供は牙と爪を剥き出しにした野犬へと姿を変える。
「な、なんで……?」
 事態が飲み込めなくて呆然としていると、今度は巨大狼がこちらへ向かって駆けてくる。
 視線はまっすぐイヴを捉えていた。今度は自分が攻撃されるのだと直感し、足がすくむ。
「ちっ」
 メアディスが忌ま忌ましげに舌打ちする。瞬間、周辺の空気の流れが変わった気がした。
 爪を立てて飛びかかってきた狼はイヴに触れる寸前で見えないなにかに弾き飛ばされる。
「ぎゃぉんっ」
「え……」
「お前の周りに防御壁を張っている。よく見ろ。まだあれがでかい狼に見えるのか。痩せた野犬じゃないのか!?」
「あ……」
 魔獣は頭を強く打って失神しているらしい。四肢が時折びくんと震える。
 だらりと横たわる巨躯が陽炎のごとくぐらりと揺らぐ。するともう、落ち葉に投げ出されているのはただの中型犬にしか見えなかった。
 メアディスは捕らえていた犬の魔獣を手刀で失神させると四肢を縛り上げる。元狼の魔獣も同じく縄で縛ってしまう。
 二頭はよく似ていた。兄弟か親子かもしれない。
「これは研究所に送るのか。その手配までは俺はやらないからな」
「え、あ、はい……もっもちろんそれはわたしが」
 魔獣を地面にまとめて転がすと、メアディスは立ち上がってずんずんとイヴのほうへ進んで来る。
 真正面に彼が立ち、未だに夢の中のようで呆然としていると、
「この……バカがっ!!」
 ストレートな叱責を受けた。
「す、すみま」
「よりによって錯視遣いがこのザマか!? 子供の姿も、デカい身体も炎も。全部ただの催眠魔法だろうが!!」
「さ、催眠魔法……」
『催眠』は人の脳に作用して、事実と違う認識を促す魔法だ。
 イヴの『錯視』と作用が似ているが、自分の姿を変えることのみに使える錯視より催眠のほうが自由度が高い、上位互換の魔法なのだ。
 どうりで、あの巨大な身体で移動したのに少しの音もしないわけだ。本来は痩せこけた犬なのだから、気配を消して近づいてくるのも容易なはず。
 子供の泣き声だってそうだ。
 急に聞こえたのは森を彷徨っていたからではなく、この場で催眠魔法を使い始めたから。
 そのすべてに、イヴは騙された。
 メアディスはおそらく、狼の炎魔法を受けて催眠に気づいたのだろう。だから「虚栄」なんて言葉を使っていたのだ。
「こんなのも見破れないでよく魔法省に入れたな。錯視魔法の精度だってそれじゃどれほどのものだか」
 メアディスはひどく苛立っている。
 たしかにミスをしたのはイヴだ。
 しかし、他者の魔力を感知できないイヴにとって、催眠魔法を見抜くのは至難の業である。
(メアディスさまみたいな天才にはわからないだろうけど……)
 彼の怒りが理不尽なものに思えて、結局まともに謝ることもお礼を言うこともできなかった。
 帰りの馬車では、怒気を放つメアディスと同じ車内にいるのは気が重く、早く着けと気持ちが急く分、いつもより時間が長く感じられた。
 ようやく屋敷へと帰ってくれば、彼はふらりとどこかに行ってしまう。
 おおかた気に入りのハンモックで惰眠を貪っているのだろう。
 重苦しい空気から解放されたイヴはリビングのソファで人心地ついていた。
 疲れを察してメイドが淹れてくれたスパイスティーが身体に染み渡っていく。
 ほんの少し気持ちが回復したのを感じてはじめて、イヴは先ほどの出来事がなかなか堪えているのだと悟った。
 秘書官になって、二年。
 自分はそれなりに優秀なほうだと自負していた。
 魔力は少ないが、知識量や事務処理速度、はたまたメアディスというとっつきにくい人物を相手にしても物怖じしない性格で上手くやれていると思っていたのに。ただただ無力さに打ちひしがれるばかりである。
「お礼くらいは……したほうが良かったわよね……」
 彼が助けてくれなかったらイヴは命を失っていた。それは純然たる事実だ。
 怒られたと腹を立て、まともに礼を言わないのはさすがに幼稚すぎる。
 そう考えをまとめたとき、リビングにシリルが駆け込んできた。
「ただいまイヴ!」
「おかえりなさい。どうしたのそんなに急いで」
 シリルはメアディスの弟子である、十二歳の少年だ。
 赤茶色の短い髪をすっきりと整え、吊り目がちの目元は利発そうとも、生意気そうとも捉えることができた。
 メアディスがシリルを連れてきて同居がはじまったのは、今から一年半ほど前だった。
 人嫌いな彼がなぜ急に弟子を取ったのかイヴは不思議だったが、結局真相は今も明かされないままだ。
 シリルは現在、王立魔法学校に通っており、今日も制服を着て帰ってきた。
「ちょっと気になることがあってさ」
「それでそんなに急いでいたの。おやつなら逃げないわよ」
「違うよ。メアディスはちゃんと昼食を摂っていた? だとしたらもう禿げていてもいい頃なんだけど」
「そういえば今日は食べてなかったはず……というか、禿げるってなに?」
「食事に毛根が死滅する魔法をかけておいたんだけど、やっぱりバレたかあ」
「なにをしているの……」
 こともなげに言われて、イヴは呆れてしまう。
 将来有望な魔力を持つシリルは、いずれメアディスを越えてやると、彼に対して並々ならぬライバル心を抱いている。
 それで一応は師匠であるメアディスに何度もいたずら魔法を仕掛けているのだ。
(メアディスさまがちゃんと面倒みないから恨まれるのよ……)
 弟子と言いつつ直接の指導もなく、学校に通わされていることがシリルは面白くないようだ。
 しかししょげる素振りもなく果敢に立ち向かっていく強気なところが、もしかしたらメアディスのお眼鏡にかなったのかもしれない。 
「あなたたちの攻防戦に口を出すつもりはないけれど、食事に手を加えるのはだめよ。メアディスさまが本当になにも食べなくなっちゃう」
「ごめん、今度からはやめておくよ」
 根が素直なシリルはあっさりと謝ってくれた。
 メアディスのひどい偏食ぶりに悩まされるイヴの苦労を近くで見ているからだろう。
「ま、いいんだ。さすがに気付くだろうとは思ってた」
「じゃあ仕掛けるのをやめたらいいのに」
「それじゃいつまでたっても魔法が上手くならないじゃん。やっぱり実践あるのみだよ」
 彼のこういう向上心自体は、尊敬に値する。
 きっと成長したら王命魔術師として活躍するだろうと、イヴは密かに確信していた。
「でも、メアディスをぎゃふんと言わせてやりたいよなあ」
「焦らないの。あなたが立派な魔術師になったら、自然とまわりが評価してくれるわ。師のメアディスより素晴らしい魔術師だって」
「それは自信あるよ。だってメアディスよりは絶対僕のほうが世渡り上手いもんね。けどそうじゃなくて、僕は今、メアディスに一泡吹かせてやりたいんだ」
 シリルはそう言うと、ポケットから取り出したものをテーブルに置いた。
 それは金色に輝く鍵だった。
「なに、これ。どこの鍵?」
「メアディスの秘密の部屋」
「えっ」
 イヴは驚いて、鍵とシリルの顔を交互に見る。
 この家には、メアディスしか入ることのできない部屋がある。
 二階の東棟の奥に位置するその部屋は、イヴが秘書官になった当初はただの物置だったが、いつの間にか絶対入るなと釘を刺され、常時鍵がかけられた。
 シリルだって入室禁止の命令は覚えているはずなのに。
「ぬ、盗んだの……?」
「違うよ。複製魔法を覚えたから、それでコピーしたんだ。魔法ごとね」
「魔法ごと?」
「知らなかった? あの部屋の扉、魔法がかかってるんだよ。この鍵は物理的なほうだけじゃなくて、差し込んだらその魔法も解けて入室できるようになっているんだ」
 つまり町の鋳金屋でやってくれる普通の鍵の複製ではないわけだ。
 複製魔法自体は難易度がそう高くもないが、魔法ごと、となると相当な練度が必要とされるはず。
 改めてシリルのセンス、そしてメアディスをぎゃふんと言わせたい執念に驚かされる。
「入っちゃだめな部屋ってことは、なにかメアディスの弱点が隠されてるかもしれないだろ。だから探してみてほしいんだ」
「ほしいんだ……って、わたしが!?」
「これから課外授業なんだよ。今日は講師に《ブラン》の魔術師が来るから、絶対休めない。だから、お願い! イヴならわかってくれるよね?」
「そんな……わたしに物盗りみたいな真似は……」
「だってメアディスの弱点、知りたいでしょ? イヴだってあいつに苦労させられてるじゃん。優位に立ちたいと思わないわけ?」
「メアディスさまに振り回されるのは仕事だから――」
「やばい、もう時間だ。とにかく頼んだから!」
 シリルは机の上のクッキーを口に放り込むとそのまま出て行ってしまった。
 残されたのは、鍵がひとつ。
「あり得ないわ」
 イヴは鍵をずいっと机の奥に追いやった。