その愛玩人形、私ですか!? こじらせ天才魔術師様の一途でみだらな超溺愛 3
第三話
入るなと言われている部屋に入る、なんて秘書官として信用問題に関わる。
あの師弟がやり合う――一方的にシリルが挑むだけだが――なら放っておくが、イヴまで巻き込まれてはたまったものではない。
命令違反がバレたら、メアディスは自分を即クビにするだろう。
「クビ……」
今日の失敗を、いやでも思い出してしまう。
すぐに秘書官を辞めさせるメアディスにしてはイヴの着任期間は長いもので、このまま秘書官を続けていけるのだと無意識に信じ切っていた。
けれど今日の失態は彼を失望させるのには充分だったろう。クビになってもおかしくない。
(もしもここを追い出されたら――わたし、実家に連れ戻されるんじゃ)
背筋がぞくっと寒くなり、イヴは思わず自分自身を抱きしめていた。
(お父さまの手駒として、また誰かと結婚するなんて話になったら……)
「……そんなのいや。絶対に、いや!」
かつて受けてきた数々の不快な仕打ちが頭をよぎる。
メアディスがどんなに偏屈で付き合いにくい人間でも、あの地獄に舞い戻るよりは数倍マシだ。
だからなんとしてもこの仕事にかじりつかないといけない。
考えるより先に、イヴは金色の鍵を握りしめていた。
メアディスの弱点を知ったところで自分のクビがなくなる保証はないけれど、もし辞めろと迫られたときに交渉する手札としては使えるかもしれない。
つまり脅しである。
普段ならそんな非人道的な行為をよしとするはずがなかったが、イヴはそれほどに追い詰められていた。
幸い、屋敷の中にメアディスの姿はない。庭のハンモックに揺られているのだろう。
東棟の、鍵のかかった扉の前に立つ。
シリルは魔法がかかっていると言っていたが、見た目は物置だった頃となにも変わらない。
しかし試しにドアノブを回してみると、まるで石の彫刻のようにびくともしない。
普通の鍵がかかっているだけなら、少しくらいは鍵が引っかかる手応えがあるはずだが、このドアノブは最初から飾りとして作られたのかと思うほど、少しも動かないのだった。
ようやく、魔法をかけるほど厳重に管理されているのだと理解して、ごくりと唾を飲み込んだ。
本当に入っていいのだろうか。いや、いいはずはない。それはわかっている。
――自分にはこの部屋に入る覚悟があるのだろうか。
思えば、メアディス付きの秘書官となって二年。
毎日同じ家で暮らしているのに彼との親密度が変わった気がしない。
人嫌いなメアディスだから、初対面で警戒されるのはしかたない。けれど少しずつ互いを理解していってもいいと思うのだ。
イヴはメアディスに対してきゃあきゃあはしゃいだこともないし、執務だって彼が心の底から嫌がる会談や会食は極力避けるよう根回ししてきた。
それでも上から文句を言われないために、ほかの仕事で挽回してきたし、食事に気を回したり体調にも気を配ったりしている。
秘書官としては当たり前の仕事だから、不満には思わないけれど、歴代の秘書官たちはそれができずにクビになってきたのだ。
自分の働きぶりを過剰に評価して欲しいとは言わない。けれど、多少の信頼は得てもいいのではないか。
今日の失敗は大きかった。だがその一回でクビになるのは納得がいかないし、いつまでも手負いの獣のようにこちらを信頼しないのにもだんだん腹が立ってくる。
「その上、秘密主義なんて……もう知らないんだから!」
イヴはやけくそになって鍵穴に鍵を差し込む。
するとさっきまでぴくりとも動かなかったドアノブがあっさりと回った。
「う、嘘。開いちゃった……」
シリルの魔法の精度は確かなものだったのだ。
驚いていると、廊下の角からメイドたちの話し声が聞こえてきた。
イヴは考える暇もなく、慌てて小部屋に身体を滑り込ませて扉を閉じる。
ふう、と一息ついたのち、目の前に広がる光景にイヴは小さな悲鳴を上げた。
「ひっ、す、すみません……!」
部屋は縦に長い間取りになっており、扉を入ってすぐのところからでも室内を見渡せる。
そう広い部屋ではなくて、元々は使用人の支度室に使われていたのかもしれない。
ちょうど真正面の奥には革張りのソファが置かれていて、イヴが引きつった声を上げたのはそこに人が座っていたからだった。
「ご、ごめんなさい、誰かいるなんて思ってなくて」
驚きのあまり震える声で謝罪するが、ソファに座る女性はなにも言わない。
「……ん?」
微動だにしない様子に違和感を覚え、おずおずと近づいて、イヴはほっと胸をなで下ろした。
「これ、人形じゃない」
背格好が人間と同じだからわからなかったが、その年若い女性は精巧な人形だった。
見知らぬ人間と鉢合わせた恐怖が解消されて一瞬安堵するが、すぐに新たな疑問が湧き出てくる。
なぜこんな人形があるのだろう。メアディスはこれを隠したかったのだろうか。
「ちょっと待って、これ……わたし?」
まじまじと観察すれば、拭えない違和感の正体に気づく。
人形はイヴに瓜二つだった。
口元には微かに笑みをたたえており、まっすぐに前を見据えた瞳には大きなアクアマリンがはめ込まれている。
「やだ、なにこれ……な、なにでできているの……」
あまりに自分と似た人形に恐怖すら感じながら、その手を取ってみる。
材質が知りたくてそうしたのだが、驚くべきことに人形はほんのりと温かかった。
「ひっ」
思わず手を払ってあとずさりする。
(びっくりした……本物の人間かと。でも、これは魔法で作られているのよね。身体の一部を精製する魔法も存在するもの。わたしなんかじゃ手も出ないほど難しいけど。体温を感じたのも、人形の内部で熱魔法を反応させているだけよ。あれなら常時発動させていてもそんなに魔力を消費しないし)
持ち得る知識を総動員し、数秒のあいだに思案する。
高度な魔法ありきの話だが、ここはメアディスの部屋なのだ。彼ならば可能なはず。
そうすると今度は、なぜメアディスはイヴとそっくりな人形を作ったのか。その一点に疑問が集中する。
首を傾げていると、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
(やだっ、どうしよう!)
足音はどんどん近づいてくる。この部屋に用事があるなんて、メアディスに違いない。
イヴは慌てて周りを見回し、隠れられるところがないかを探す。
ソファやローテーブルの下は丸見えだし、棚には本や雑貨が置かれている。
イヴは扉が両開きになっている衣装用のチェストを開けてみる。
中にはドレスが何着か下がっており、スカートのあいだなら多少の空洞がありそうだった。一瞬、誰のドレスだろうかと疑問がよぎるが、今はそれどころではない。
足を折りたたんで身体を小さくすれば隠れられるだろうか。スペース的には可能だと思うが、五分と持たずに潰れたヒキガエルのような声を発してしまいそうだ。
「……そうだ!」
イヴはソファに楚々と腰掛ける人形の腕を自分の肩に回し、えいっと起き上がらせた。
並んでみてわかるが、人形はイヴと同じ背丈で、重さもおそらくは一緒だ。
なんとか人形をドレスの隙間に押し込み、四肢を折り曲げて身体を抱く形にさせる。人形であればうめき声を上げる心配もない。
「あとで出してあげるからね」
イヴは自分と瓜二つの彼女に若干同情の色が滲んだ声をかけつつ、今度は自分がソファに腰掛ける。
姿勢良く足を揃え、ぴんと背筋を張り、口元はほんの少し微笑んで。
そして、魔力を集中させた。
(わたしは人形、わたしは人形――)
錯視の魔法が発動したのと、扉が開いたのは同時だった。
「はぁ……くそ……」
頭をがしがしとかき乱しながら、少し疲れた様子のメアディスが入ってくる。
メアディスはそのままイヴの横に腰を下ろした。
イヴの鼓動は速くなり、彼にまで音が聞こえるんじゃないかとひやひやしてしまう。
(ば、バレてないわよね? 人形だと思ってるのよね!?)
メアディスはイヴが人形と入れ替わっているなんて思ってもいないのだ。だから彼には、額にじわりと汗を滲ませるイヴがただの人形に見えているはずで――。
「なあ、イヴ。悪かったよ。まだ怒っているか?」
(えっ!?)
イヴは思わず大声を上げそうになった。
自分の名を呼びかけられて、平静でいられるはずがない。まさか錯視魔法は失敗したのだろうか。
「あのままだとまたお前に怒鳴り散らしそうだから、少し頭を冷やしてきた。でも、だめだな」
目の前をメアディスのプラチナブロンドがふわりと掠め、柔らかな体温がイヴの身体を包む。
(!?!?)
メアディスが自分を抱きしめている。
そうとしか説明できない状況を、脳が理解しようとしない。
だって、こんなことがあり得るはずがない!
「本当に心配したんだからな! あのままお前が攻撃されていたらと思うと……」
(え、な、なに……なんの話……あっ、さっきの魔獣退治の……?)
「だから馬車で待っていろと言ったんだ。お前のかわいい顔に傷がつくなんて耐えられない。顔だけじゃない、イヴのどこにだって傷がつけられていいはずがない……!」
切実な声でメアディスが言う。身体はますますきつく抱きしめられ、イヴは混乱する頭でなんとかこの状況を整理しようとしていた。
(これ、本当にメアディスさまなの? だってこれじゃまるで、怒ったのはわたしがミスをしたからじゃなくて、心配していたからだっていうふうに聞こえるんだけれど……)
イヴにとっては、自分を心配するメアディスだなんて、催眠魔法が作り出した幻想と言われたほうがまだ説得力がある。
夢の中にいるみたいな、地に足の着かない不思議な感覚に支配されていると、
「イヴ……」
メアディスの長い指先がそっとイヴの頬を撫で、視線が絡んだ。
(っ……!)
とっさに目を逸らしそうになってなんとか耐える。
不自然な動きをしたら錯視だとバレてしまう。
プラチナブロンドの前髪から覗く、紫と青が混じった不思議な虹彩にじわじわと体温が上がっていく。
至近距離で見るメアディスはやっぱりとても美しくて。
(なんでそんな顔……)
切なげに目を細めた表情なんてはじめて見た。
今まで接してきた、不機嫌な顔のメアディスからは想像もできない、特別なものを見る目。
その先に映るのは、彼にとってひどく大切なものなのだと、そう感じざるを得ない視線だ。
メアディスの瞳にはイヴが映っている。
それではまるで、イヴを大切でかけがえのないものと思っているような――。
「イヴ」
名前を呼ばれただけでうなじがぞくりとした。
(メアディスさまはこんな声でわたしを呼ぶの……?)
少し掠れた声は不思議と甘い響きを帯びている。思わず自分も彼の名を呼びそうになった。
「イヴ――」
甘くて、切実で、まるで宝物の名みたいに。
自分の名を表す音にはこんなにも繊細な感情が乗るのか。
新鮮で甘美な驚きに、何度も呼んで欲しくなってしまう。
瞬間。
「ん……」
メアディスのくぐもった声とともに、彼の美しい顔が大写しになる。
唇に柔らかなものが一瞬触れて、そして離れていった。