戻る

俺の妻が可愛すぎる! 騎士団長は初心な王女をケモノのように愛したい 2

第二話

 

 品のある静かで落ち着いた声は、だからこそ静寂の中、よく通った。
(今……レオナルトさまが私を妻にと、言ったの……? どうして? だってレオナルトさまは私を……嫌っていたのではないの……?)
 好意を持ってくれていると思えたのは、親しくなり始めた頃だけだった。今ではいつも睨まれているかのような威圧感すら覚えていたというのに。
(嫌われて……いなかった……?)
 心の奥からじんわりと嬉しさがやってきた。テレシアは思わず口元を両手で押さえる。
 嬉しい。彼に嫌われていなかった。それどころか妻にと望んでもらえた。
 求められるままに頷こうとして、テレシアは慌てて留まる。
(ああでも、私はこの国の王女。王女の結婚は、本人の意思よりも国の意思が優先されるもの……今のところ私に政略結婚の必要はないとはいえ……お兄さまはどうお考えなのかしら……)
 さりげなく玉座の方へと目を向ける。
 玉座の傍に立つロンバウトは、驚愕のあまり硬直していた。だがライニールはにこにこと満面の笑みを浮かべている。
 兄の笑顔が答えだった。テレシアは耳まで赤くなりながら、小さな声で言った。
「……お、お受け、します……!」
 レオナルトが小さく息を呑み、両手で握ったテレシアの手を押し戴いた。そして手の甲に唇を押しつける。
「テレシアさま……」
 わずかに揺れる声が、名を呼んだ。今このとき、レオナルトがどんな顔をしているのか知りたかったが、彼が俯いたままのせいで見えない。
 ライニールが立ち上がり、手を叩いた。それを合図に貴族たちも盛大に拍手する。
 次々と婚約を祝う声が上がった。
「私の可愛い妹を任せられる男は、レオナルトしかいないと常に思っていた。皆もそう思ってくれるだろう?」
 皆が笑顔で頷いた。
 ロンバウトが青ざめてライニールを睨むが、兄王は笑顔のまま意にも介さない。凄まじいロンバウトの視線は、今度はレオナルトに向けられた。
 レオナルトは揺らがない。微笑を口元に浮かべ、真っ直ぐにロンバウトを見返す。それどころかテレシアの肩を強く抱き寄せた。思わずよろめき、胸元に倒れ込んでしまう。
 その様子も、この場では歓喜を促すことにしかならないらしい。拍手はさらに大きくなる。ロンバウトの睨みが凄みを増した。
 自然と寄り添って並び、笑顔で片手を上げ、拍手と歓声に応える。まるで成婚の儀を迎えたかのようだ。
 レオナルトの様子が知りたくて、ちらりと彼を見上げる。彼もこちらを見ていたようで、目が合った。何だか気恥ずかしくなり、反射的に目を逸らす。
「……求婚を受けてくださり、ありがとうございます」
 レオナルトの低い声が、落ちてきた。その声は普段よりほんのわずか揺れていたが、それだけだった。
 彼の声に熱を感じないのは、気のせいだろうか。


 拍手をおさめると、あとは思い思いに楽しんで欲しいと言って、ライニールはロンバウトとともに退場した。レオナルトとテレシアも今後のことを話し合うため、場を離れる。
 レオナルトのエスコートは完璧だ。だが彼とこんなに密着するのは初めてで、何だか緊張する。いつもならば決してしないのに、控え室に向かう途中、絨毯の毛足にわずかに躓いてしまった。
 すぐさまレオナルトが支えてくれる。
 こんな失態は恥ずかしい。頬を赤く染めて慌てて礼を言うと、レオナルトは真面目な顔で言った。
「怪我をされたら大変です。私が抱いていきましょう」
 祝福の拍手と歓声に応えていたときの柔らかな微笑は、どこにいってしまったのか。まるで別人だ。
「……だ、大丈夫、です……」
「……わかりました。ならば私に掴まってください。また躓かれては困ります」
 叱られたようで、テレシアはしょんぼりと肩を落とす。求婚してくれるくらいには好意を持ってもらえていたと思ったのは、勘違いだったのだろうか。
 軽く曲げて差し出された腕に、テレシアはそっと触れる。また、一瞬だけレオナルトが身を震わせた。
 強く掴まり過ぎたのかもしれない。慌てて手を離すと、レオナルトが今度は厳しい表情で言った。
「私の話を聞いてくださらないのですか。もっとしっかり掴まってください。……こうです!」
 レオナルトの腕を胸の谷間に挟み込むほど、密着させられる。これはとても恥ずかしい格好ではないかと思うのだが、彼は至って真剣な様子だ。テレシアの怪我の心配だけをしてくれているようなので、何も言えない。
 控え室に入ると、ロンバウトが牙を剥くように叫んだ。
「密着しすぎだ!! 外聞が悪い!! 離れろ!!」
「お言葉ですが、私はテレシアさまの夫として……」
「まだ婚儀を執り行ってもいない!! 勝手に夫面をするな!!」
 テレシアは急いでレオナルトと適切な距離を取り、使用人をすべて下がらせた。ある種の修羅場になりそうだ。
 ロンバウトは、今度はライニールに厳しい叱責の声を放った。
「どういうことだ、ライニール!! テレシアを降嫁させるなど聞いていないぞ!!」
 叔父の本気の怒声は滅多に耳にしない。テレシアは驚き、目を瞠った。
 そんなに怒るほど、身分差のある結婚ではないはずだ。
 ライニールは一人がけのソファに座っている。そのままで手招きし、テレシアを傍に引き寄せる。レオナルトは兄王の背後に控えた。
「叔父上がテレシアを可愛がっているのはよく知っています。ですがいずれ、テレシアも誰かの妻になるのです。いつまでも我々の手元に留めておけるものではありません」
「テレシアの夫は、国益のためにもっと慎重に選ぶべきだ。彼女はこの国の王女だぞ。いくら政略結婚が必要ないとはいえ、それはあくまで現時点での話だ。今後、テレシアの協力が必要となるときがくるかもしれない。こんなに早急に決めるべきことではない。それに……こんな、平民上がりの騎士になど……!!」
 最後の言葉が叔父の本音なのだろう。テレシアは思わずレオナルトを見上げた。
 凜とした無言の横顔に、揺らぎはまったくない。こんな罵声は彼にとっては日常茶飯事だったのかと改めて気づかされ、胸が痛んだ。
「叔父さま、そんなふうに仰るのは止めてください。レオナルトさまは我が国に尽くしてくれている、立派な騎士です。出自は関係ありません。実力ある者がその力を国のために使ってくれることは、とても素晴らしく、有り難いことです。優しい叔父さまならば、おわかりになることでしょうに……」
 悲しい気持ちで目を伏せると、ロンバウトは困ったように眉を寄せた。
「だがお前も、好きでもない男に報奨として嫁がされるなど、嫌だろう?」
(レオナルトさまの妻になることが……嫌……?)
 そんなことはなかった。彼に求められて驚きはしたが、嫌悪感など一切抱かなかった。
 むしろ、嫌われていないとわかってホッとし、嬉しかったのだ。
「私……レオナルトさまに求婚されて嫌だなどと、少しも思いませんでした……」
「……っ!?」
 ロンバウトだけでなくなぜかレオナルトまでが、勢いよくテレシアを見やった。二人に強い視線でじっと見つめられ、戸惑う。
「そ、それはお前が、この平民上がりの騎士に好意を抱いていた、ということなのか……?」
 ロンバウトの問いかけに、さらに戸惑う。だがテレシアは自分の心を見つめ、素直に答えた。
「お、お恥ずかしながら、私は恋をしたことがありませんので……と、殿方に向ける好意、というものがどういうものかがよくわかっていません。でも、レオナルトさまとは……良い夫婦になれるのではないかと、思いました」
 レオナルトの口端が、わずかに引きつった。今の言葉が不快だったのかと、テレシアは目を伏せる。
 おかしい。どうしてこうも上手くいかないのだろう。社交術も話術も王女として研鑽を重ねてきて、失敗したことはほとんどないのに。
(レオナルトさまにだけ、どうしていつも上手くいかないのかしら……)
 ロンバウトは絶句している。ライニールがどこか楽しげに笑った。
「テレシアが嫌がっているのならば考え直しますが……どうもそうではないようです。それに、レオナルトとは約束をしています。此度の件、上手くおさめる代わりに、必ず欲しいものを与えて欲しいとね。レオナルトは私との約束を守りました。そして褒美にテレシアが欲しいと願いました。私は王として、約束を違えることはいたしません」
 そういう経緯があったのならばなおのこと、彼の求婚を断ることはできない。
「レオナルトはいい男です。平民出身でありながら、テレシアと並んで外見はもちろんのこと、所作も言動も知識も見劣りしません。さらに貴族にはない、この男だけが持つ力に私は大いに期待しているのです」
「……それは何だ」
「守ると決めたものを命に代えても守り抜く信念です。私の大事な妹を任せるのに、その資質は何よりも必要だ。私とテレシアが二人仲良くどこかで殺されそうになったとき、私ではなくテレシアを守る男を夫にしたいと思っていましたから」
 極端な喩えに驚くが、それだけ兄が自分のことを思ってくれていたことは伝わってくる。
 テレシアはライニールの肩にそっと触れた。兄が振り返り、嬉しそうに笑う。
 反論の言葉が尽きたようだ。ロンバウトは苛立たしげに嘆息する。
「……わかった。だが可愛いテレシアに少しでも相応しくないと判断したら、即、この結婚はなしだ!」
 力任せに扉を閉めて、ロンバウトが控え室を出て行く。ライニールはクスクスと楽しげに笑いながら立ち上がった。
「さて、私は部屋に戻る。あとのことはレオナルト、任せても大丈夫か?」
 はい、とレオナルトが凜とした声で答える。ライニールは満足げに頷き、退室した。
 急に二人きりになり、テレシアは緊張してしまう。だが打ち合わせしなければならないことはたくさんある。話せないなどと怯んでいては駄目だ。
(こ、ここは私から話をして……!!)
 テレシアが口を開く前に、レオナルトが言った。
「私の求婚を受けて下さり、本当にありがとうございます。突然のことですので、お気持ちの整理をつける時間が必要でしょう。私はこのままパーティー会場に戻り、招待客のお相手をしてきます。テレシアさまはもうお下がりになって、お休みになられるのがよろしいかと……皆さまには私からその旨をご説明いたしますので心配なさらないでください。今後のことにつきましては段取りや降嫁についてのしきたりなどを私の方で一度調べ、整理してからお話しいたします。テレシアさまのご予定を確認し、公務に影響のない日を選んでお伺いいたしますが、それでよろしいでしょうか?」
 一体どこで息継ぎをしているのかと不思議に思うほど、淀みなく提案される。問題に思うところなど、一切ない。
「……だ、大丈夫、です……」
 そう答えるだけで精一杯だ。レオナルトは神妙な表情で頷いたあと、テレシアの手の甲に別れのくちづけをして、颯爽と退室した。
 一人残された室内で、テレシアは思わず呟いた。
「……私、求婚されたのよ、ね……?」
 実感に乏しいのはどうしてだろう。


「──おう、レオ! こんなところにいたのか。パーティーの主役がいつまでも離席してたら、みんな、不満だらけになってしまうぞ。さっさと戻ってこい!」
 豪快な声音と口調で言いながら、廊下を歩いていたレオナルトに近づいてきたのは騎士団長ヘンドリックだ。礼装を身に纏っているがすでに襟元はくつろぎ、なでつけた髪も崩している。
 襟首を掴んで引き寄せようとした太い腕を軽く片腕でいなして、レオナルトはぎんっ、と養父を見つめた。
「申し訳ございません、十分ほど時間をください。このままではテレシアさまへの愛が溢れて粗相をしそうです」
「……なんだと!」
 それはまずい、とヘンドリックは呻き、近くの空き部屋にレオナルトと一緒に入り込む。扉を閉めた途端、レオナルトはヘンドリックに迫って言った。
「団長、やりました……!! ついに……ついに、テレシアさまを俺の嫁にすることができます……!!」
 感激のあまり、それ以上の言葉が出てこない。ヘンドリックは養子の肩を優しく叩いてやる。
「ああ、そうだな。俺も見ていたぞ。お前の求婚を恥じらいながら受け入れるテレシアさまをな。お前、テレシアさまを絶対に妻にするんだと、とんでもなく努力してきたものなぁ……騎士としての鍛錬は人の十倍は頑張っていたし、礼儀作法も勉学も、誰にも引けを取らないようにって……本当にお前はよく頑張った。だからこそ俺も、お前を跡継ぎにしたいって思ったんだし」
「お、俺の求婚を受けて恥じらうテレシアさま、だと……?」
 レオナルトは蒼白になる。
 なんてことだ。見ていない。一生の不覚だ。
「俺は……俺は、だらしなく緩む顔を見られないよう、俯いていたのに……!!」
「ざ、残念だったな……」
「待てよ……もしかして団長だけでなく、あの場にいた全員が、そんな天使のように愛らしいテレシアさまを見ていたということか……?」
「う……ま、まぁそうなる、な……?」
 全員の目を潰すか、とレオナルトは低く呟く。もちろんそんなつもりはないが、この行き場のない憤りを吐き出したくてのことだ。
 ヘンドリックが青ざめてレオナルトの頭を撫でた。
「……いやいや、それはまずい。そんな凶行に走ったら、テレシアさまが悲しむ」
 テレシアの名が出され、レオナルトは我に返った。
「……ああ、そうだ……俺は、テレシアさまの悲しむお顔は絶対に見たくない……」
(落ち着くんだ。俺はこのときのために努力し続けてきたんじゃないのか!)
 ──テレシアを賊から守ったあのときも、彼女はレオナルトの傷を見て、まるで自分が怪我をしたかのように泣きそうな顔になっていた。それでも彼女は震えながらも動き、応急手当をしてくれ、手を握ってくれた。
『私を助けてくれてありがとう。あなたはとても勇気ある素晴らしい騎士です。あなたに最大の感謝を』──平民上がりの騎士の自分に彼女は感謝の礼を伝え、血で汚れることも構わずレオナルトの手の甲にくちづけた。
 身分も立場も、彼女には関係なかった。助けてもらったから感謝する──そんな当たり前のことを、彼女は自分にしてくれた。
 王女でもそんなことができるんだな、と痛みの中で思った直後、唐突に彼女を嫁にしたいと思った。おそらく、一目惚れだったのだろう。
(そう! あの後、わざわざ俺のために色々な見舞いの品を用意してくれて……!!)
 気遣いに富んだ様々な品だけでも嬉しかったのに、良かったら貰って欲しいと、自ら刺繍したハンカチは、一生の宝物になった。この世の何物にも代えがたい宝は、相応しい宝石箱に入れてある。
 あのときも感激のあまり立場をわきまえず、彼女を抱き締めようとしてしまい、必死に耐えていたのだ。それは傷の痛みに耐えるよりも辛いことだった。
 だが、テレシアは大国の王女だ。平民上がりの騎士では高嶺の花過ぎる。
 まずは彼女の目に留まるよう、生まれながらの貴族に劣ることのないよう、勉学、礼儀作法、話術、流行についての知識など、必要だと考えられるものすべてを身につけた。
 だがそれでも絶対的に必要なのは、身分だった。
 どうしたら手に入れられるのかさすがに途方に暮れ──目を掛けてくれていたヘンドリックに相談したところ、心意気を買われ、ならば養子にしてやると言われたのだ。いや、貴族にしては珍しく豪胆な質の人だから、単に面白がっただけかもしれない。
 侯爵家子息という身分を得ても、これまでし続けてきた努力は決して止めなかった。誰からもテレシアに相応しい男だと言ってもらうために、それは決して止めてはならぬことだった。
 ヘンドリックを通じて、ライニールとも繋がりを持てた。
 親しくなってからどれほど自分がテレシアを求めているのかを彼に話す機会に恵まれ、夜明けまで酒を酌み交わした。
『それほど愛しているのならば、お前に妹を任せたい。そのためには、誰もが納得する功績を挙げなければならないな』──ライニールが口にするまでもなく、燻り始めた国境の火種を消すことを自ら提案した。
 気を抜けば、死ぬだろう。命のやり取りは、死んだ冒険家の父に付き添っていたときよりも過酷なはずだ。それでも彼女を手に入れるためならば、かける価値のある危険だった。
 求婚するのならば、責務に真面目である彼女が逃げられないときがいい。だから、このパーティーまで待った。
 報奨という大義名分を前にすれば、彼女は決して断らないだろう。……そういう人なのだ。
 戸惑いながらもほんの少し嬉しそうに頬を緩めて求婚を受け入れてくれたというテレシアを見たかったが、あのときは騎士然とした凜々しい表情を保ち続ける自信がなく、俯いてやり過ごすことしかできなかった。
(まだまだ俺は未熟だ……!!)
 彼女に相応しい男は、彼女の愛らしい仕草や笑顔を見ても、だらしなく頬を緩めてはならない。しかも彼女は自分を騎士として尊敬してくれている。
 凜々しく隙なく、完璧な男でいなければ。
「ところでレオ。口調が素に戻ってるぞ」
 レオナルトは慌てて利き手で口元を隠す。ふーっ、と内圧を下げるように一度深呼吸をし、気持ちを入れ替えた。
 そうだ。こんな粗野な話し方はテレシアの夫として相応しくない。
 気が緩むと素が出てしまうのは、なかなか矯正できていなかった。
「申し訳ございません。ご指摘ありがとうございます、団長」
「お前、本当に切り替え早いよなぁ……けどそれって、己を偽ってるってことだろ? 疲れないのか?」
「いえ、まったく。これもすべてテレシアさまのためです。これから私はテレシアさまの夫となります。私が悪く言われることでテレシアさまの心証まで悪くなることに比べれば、必要なことです」
「……まあ、お前がそれでいいならいいけどな。あまり無理するなよ。我慢し続けるとそのうち爆発するからな」
 ぽんぽん、とヘンドリックが肩を叩く。
 爆発することなどない。テレシアのためならば、我慢もむしろ甘美な快感だ。