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求婚してきた陛下の様子がおかしい件 冷徹王の溺愛は伝わりにくい! 2

第二話

 

「エリーヌ・マルロー」
 王妃付きの従者が休憩所に現れ、エリーヌの名を呼んだ。
 侍女仲間たちとお茶を飲んでいたエリーヌは、立ち上がり「はい」と返事をする。
「王妃殿下がお呼びです」
 王宮で侍女として働き始めて十年経つが、王妃から呼び出しを受けるのは初めてだった。
「わたしを……ですか? ご用件は何でしょうか」
「存じません」
 エリーヌが問うと、従者は真面目な顔で端的に答える。その態度からして、本当に知らないようだ。
 どんな用件であれ、王妃の呼び出しである。無視できないし、すぐに行かねばならない。
 一緒に休憩をしていた同僚たちが心配げな視線を送ってくる。彼女たちに『大丈夫』と目配せしながらも、心の中は不安でいっぱいだった。
 心当たりはない。侍女としての規律はしっかり守っていたし、高価な壺を割ったとかドレスに飲み物を零したとか、大それた失敗もしていない。
 真面目に、手を抜くことなく、仕事をしている。いや、ときどき手は抜いているが、ほんのちょっとだ。叱責されるほど怠けてはいないと思う。
 ――でも……気づいていないだけで、何かしていたのかも。
 根が小心者のせいか、嫌な想像ばかりしてしまう。
 ――もしかして、辞めさせられる……とか……。クビになっても……家には戻りにくいわ……。
 家族と不仲なわけではない。しかしエリーヌは侍女になると同時に家を出て以降、十年近く家族とは離れて暮らしていた。エリーヌの自室もとっくの昔に物置になっている。
 それに、エリーヌには妹がいるのだが、つい最近彼女から『交際している人がいるの。姉様にも紹介したい』という内容の手紙をもらったばかりだった。
 家族みんなで話し合って決めたわけではないものの、自身が早くに家を出たのもあり、エリーヌは妹がマルロー家を継ぐのだと思っていた。両親も妹もそう思っているはずだ。
 妹が婿を取り家を継ぐ。そんな状況のときに、戻るのは心苦しい。
 ――家に戻らなくても……やっていけるかしら。
 給金はそこそこ貯まっているし、一年ほど前、出産する叔母の代わりに、仕立て屋で店番をしていたときがあった。働きぶりを気に入られたのか、侍女を辞めてうちの店で働かないか、と叔母から熱心に勧誘されてもいた。
 ――叔母様に頼んで、雇ってもらってもいいかも……。
 今は王宮の敷地内にある使用人の部屋の一室を与えられて暮らしている。辞めるならば、引っ越しもせねばならない。
 小心者だが楽観的なところもあるエリーヌは、暮らすならあそこね、家具は奮発してちょっと良い物を揃えたいわ、などと今後の生活について思案する。
 そうこうしているうちに、王妃の私室の前に着いた。
「エリーヌ・マルローをお連れしました」
 従者がドアを開く。エリーヌは入口で、深く一礼する。
「入りなさい」
 王妃のものではない。威厳のある男性の低い声がした。
 恐る恐る頭を上げたエリーヌは、部屋にいる男性の姿に心臓が飛び出しそうになった。
 頬をヒクヒクさせながらも、必死で平静を装って歩を進める。
「ごめんなさいね。休憩中だったのでしょう?」
 朗らかな声だ。こちらは、王妃殿下である。
「すまないな。呼びだしてしまって」
 王妃の隣にいるのは彼女の夫。つまり、国王陛下だ。
「いえ、滅相もございません……」
 エリーヌはか細い声で答え、再び頭を下げた。
 ――いったい、何なのかしら……? 陛下から、直々に解雇の通達なんて、普通ないわよね……。
 よくよく考えてみたら、王妃から解雇を言い渡されることだってあり得ない。
 ならばいったい自分に何の用があるのか。
 ――家に……両親に何かあったのかしら。
 マルロー家は伯爵位を持つ貴族である。由緒も正しい。
 エリーヌの高祖父の姉は、当時の王に見初められ王妃になっていた。ずいぶん遠くはあるが、一応、王家とも縁のある家柄だ。
 なので王が、マルロー家や両親について口を出しても別段おかしくはない……。
 ――いえ……おかしいわ。あり得ない。
 昔ならともかく、今のマルロー家にあるのは爵位だけだ。
 祖父の事業の失敗により、マルロー家は借金を重ね、資産のほとんどを失っていた。領地はすでに返上し、代々受け継いできた屋敷もすでに売り払っている。
 両親はこぢんまりとした屋敷で、細々と暮らしていた。
 そんな没落した家に、国王夫妻が関心を持つなど考えられなかった。
「ふむ。じっくり見ると整った顔立ちをしている。……華やかさは足りぬが、まあ、どうにかなるであろう」
 王は、エリーヌの頭から爪先まで、舐めるように視線を這わせた。
 ――も、もしかして……陛下の愛妾に……選ばれたとか?
 年齢よりは若く見えるが、王は御年五十歳。
 侍女をしていれば、いろいろな噂が耳に入る。しかし王は王妃一筋らしく、結婚して三十年以上経つが他の女性の影はない。
 そんな王が今さら愛妾、それもその相手に自分を選ぶだろうか……。
 いや、ない。自意識過剰だわ、と思ったエリーヌだったが。
「よく働く、気立てのよい娘です。王を支え、力になってくれるでしょう」
 王妃がにっこりと微笑んで王に言った。
 ――わたしの働きぶりを知っていらっしゃる! そして、褒めてくださっている!
 喜んだのは一瞬で、すぐに我に返った。
 どうやら本当に、王の愛妾に選ばれたようだ。
 王妃が閨行為をできなくなった。そのため王妃公認の、若い女性を探しているのかもしれない。
 エリーヌは落ちぶれてはいるが由緒正しい家の娘だ。それに未婚で婚約者もいない。
 愛妾として最適だと、目をつけられたのだろう。
 ゼリア王国の民として、国王陛下を尊敬している。けれど尊敬しているからと言って、何をされてもよいわけではない。
 いくらお金を積まれても、愛妾になどなれない。……もしかしたら金額によっては多少はぐらつくかもしれないが、無理である。
 ――穏便に断るには、どうしたらよいのかしら。
 思案しているエリーヌに、王が口を開く。
「エリーヌ・マルロー。シュバール王国の国王ディオン・ヴァレスに嫁ぐ気はないか?」
「………………は?」
 思いも寄らぬ問いをされ、エリーヌは国王夫妻を前にしているというのに、ぽかんと口を開けて間の抜けた声を出してしまった。

   ◆ ◇ ◆

 十年前――。

 十五歳のとき、エリーヌは王宮の侍女になった。
 王宮の侍女は女性にとって憧れの仕事だ。しかし下位貴族の令嬢ならともかく、エリーヌのような高位貴族の令嬢が侍女になるのは珍しい。
 伯爵家の令嬢ならば、家庭教師を招き礼儀作法などを学び、しかるべき年齢で婚約をして結婚するのが普通だ。
 けれどマルロー家には、金銭的余裕がなかった。
 資産どころか借金があり、まともな結婚相手すら見つからない状態だった。
 マルロー家が落ちぶれた原因は祖父の事業の失敗である。
 後を継いだ父は、何とか持ち直そうと奮闘したそうだ。けれどその結果、借金は膨れ上がり、エリーヌが生まれた頃には領地を失っていた。
 少しでも家にお金を入れたい。あわよくば王宮に出入りする資産持ちの貴族に見初められたい。
 エリーヌは少々不純な動機で侍女を志し、三か月間の見習い期間を経て、侍女になった。
 そして、それから八か月後。エリーヌは国賓の侍女という大任を請け負うことになる。
 国賓の名はエディット・ヴァレス。御年十三歳のシュバール王国王女である。
 エディットの滞在は長期の予定で、年の近い者のほうが気楽に過ごせるだろうと、エリーヌが選ばれた。
 若い侍女は他にもいたが、エリーヌの出自も考慮しての選出らしかった。
 侍女になってまだ一年も経っていない。そんな自分に王女の侍女が務まるのか。
 ただでさえ不安でいっぱいだというのに、侍女頭は重々しい口調で『話しておくべきことがあります』と前置きしたあと、エディットが置かれている状況についての説明を始めた。
 シュバール国王は、国内でもっとも権力を持つ家の令嬢ドリアーヌ・ファセットと結婚した。しかし結婚後、男爵家の娘シャルロットと恋仲になり、子どもまで作ってしまう。
 国王は愛妾としてシャルロットを王宮に迎え、彼女の産んだ子に王女という立場を与えた。その王女がエディット・ヴァレスである。
 シュバール王国では王位は男子のみ継承権を持つ。そのため王妃ドリアーヌは、シャルロットやエディットに寛大に接していたという。しかし歳月とともに憎しみが湧いてきたのか、ドリアーヌ自身が子に恵まれなかったからか。王妃の態度は変わっていった。
 そしてエディットが九歳のとき、事件が起こる。
 シャルロットが庭師に殺害されたのだ。精神が錯乱したゆえの犯行だとされたが、王妃が裏で糸を引いているのでは、という噂も流れた。
 エディットは幼いながらに慈善活動に熱心な王女だった。母を失ってからは、引き籠もりがちになったというが、美しく聡明な王女で民の人気は高かった。
 ドリアーヌに妊娠の兆しはなく、国王にはエディット以外の子がいなかったため、民の間でエディットが女王になるべきだとの声が上がり始めた。
 民の声に後押しされ、女王を認める法改正も議論され始めたのだが、結論は出ずうやむやに終わる。
 長年子に恵まれなかったドリアーヌが妊娠をし、待望の男子が生まれたのだ。
『シュバール王国では、王妃殿下の産んだ御子が陛下の御子ではないのでは……という噂があるそうです。そのため女王待望派と王妃支持派に分かれ、臣下どころか民たちまで論争しているとか。そんな中、エディット王女殿下の周辺で異変が起こり始めました』
 最初は馬車の不備による事故だったという。次第に護衛の隙を突き襲われそうになったり、食事に毒を混入されたりとなりふり構わなくなっていった。
 エディットの周りの者たちは、王妃もしくは、王妃の実家であるファセット家の仕業だと怪しんでいたが証拠がない。
 王宮では跡継ぎを産んだ王妃の権限が増していて、国王ですら追及できない状態だった。
『そのような経緯があり、状況が落ち着くまでの間、ゼリア王国に滞在なさることになったのです』
 エディットの祖母、今は亡きシュバール王国の王太后はゼリア国王の叔母だった。その伝手を頼りに、エディットはゼリア王国に『避難』して来たらしい。
 エリーヌにも悩みはある。けれども家は貧しくとも家族は健在だし、命を狙われた経験もなかった。
『わたしに……エディット王女殿下の侍女が務まるでしょうか』
 エリーヌが不安を露わに問うと、侍女頭は頷く。
『何かして差し上げようとせずとも、よいのです。王女殿下が暮らしやすいように、お心に寄り添う。それで充分ですよ』
『お心に寄り添う……』
 エリーヌは侍女頭の言葉を胸に刻んだ。
 エリーヌが王女と初めて顔を合わせたのは、侍女頭から説明を受けた翌日だった。
 王宮の二階、賓客用の陽当たりのよい一室がエディットに宛がわれていた。
 侍女頭とともにエディットの元を訪れたエリーヌは、窓辺で椅子に座っている王女の姿を見て、驚きのあまり息を呑んだ。
 白磁の滑らかな肌に、癖のない銀色の長い髪。髪と同色の長い睫に彩られた瞳は、青みがかった灰色。鼻梁も薄紅色の唇も、これ以上ないくらいに整ったかたちをしていた。
 手足はすらりと長いが、背は同年代の少女よりも低く、全体的に華奢だった。
 ――うわあ、お人形さんみたい。
 エリーヌはエディットのあまりの美少女ぶりに心の中で感嘆の声を上げた。
 見た目がすべてではない。けれど見た目は大事だ。彼女が民たちに人気があり、女王にと推す声があるのがわかる気がした。
「王女殿下、こちらが今日から侍女を務めます、エリーヌ・マルローでございます」
 侍女頭の声に、エリーヌは我に返った。
「はじめまして、王女殿下。エリーヌ・マルローでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
 エリーヌは深々とお辞儀をした。
『こちらこそ、よろしくね』
 そんな答えが返ってくるのを期待して待つが、沈黙ばかりが続く。
 痺れを切らしたエリーヌは、頭を上げて王女を窺う。
 エディットの視線はエリーヌに向いていなかった。興味がないとばかりに、外を眺めている。
 ――……た、大変そうね……。大丈夫かしら……。
 この気難しそうな王女様の心に寄り添えるのか、心配になった。
 初対面でのエリーヌの不安は的中した。
『エディット王女殿下。今日はよいお天気ですし、お庭を散歩しませんか』
『……………………』
『エディット王女殿下、王都内でしたら外出してもよいとのことです。どこか行きたい場所がありましたら、遠慮なく仰ってください』
『……………………』
『エディット王女殿下、庭師と一緒に摘んだお花を飾りました。王女殿下は好きなお花がありますか?』
『……………………』
『エディット王女殿下。王妃殿下から今日の午後、お茶会のお誘いを受けたのですが、参加されますか』
『…………体調が悪いから、断っておいて』
 いつもエリーヌの言葉に反応しないエディットだったが、王妃の誘いのときだけは流石に無視できなかったのか、抑揚のない声が返ってきた。
『エディット王女殿下はお声まで綺麗ですね』
 エディットの声は、容姿そのままに美しかった。世辞と感じたのか、それともいつも声を出さないことへの嫌味と思ったのか。エディットはいつもより不愉快げに、エリーヌを睨んできた。
 初めて会った日から十日経っても、エディットのエリーヌへの態度は変わらなかった。
 幸い……というのもおかしいが、エディットの冷淡な態度は、エリーヌに対してだけではない。他の侍女や使用人たちにも同じだった。
 自分だけが嫌われているわけではないと安心する反面、彼女の悪評が広まりはしないかと心配になる。
 いくら幼くともエディットはシュバール王国の王女という立場で、ゼリア王国に身を寄せているのだ。エディットの冷ややかな態度のせいで、シュバール王国への印象が変わってしまう人もいるだろう。
 ――余計なお世話なんだろうけれど……。
 十日間、部屋に籠もりっぱなしなのも気になる。
 本を読んだり刺繍をしていたりするならまだしも、エディットは何もしていない。椅子に座って、ぼんやりと外を眺めているだけなのだ。
 聡明な王女だと、シュバール王国では民たちから人気だと聞いていたが、エリーヌにはエディットは綺麗なだけの生気のない人形のように見えた。
 ――冷淡だけれど……でも、我が儘の類いは一切言わないのよね……。
 食事に注文をつけることもなければ、エリーヌにあれこれ指示したり、叱責したりもしない。それどころか、エディットは着替えを始めとした身の回りのことを全部自分で行っていた。
 ゼリア王国では、身分が高い者は普通一人で着替えない。けれども国が違えば、考え方も違うのか。シュバール王国では王族でさえも、侍女を必要とせず生活しているようだった。一人で着られないような夜会用のドレスのときは、流石に侍女の手を借りるのだろうけれど。
 ――シュバールから侍女を連れて来なかったのも、必要なかったからかしら。
 エディットはゼリア王国に侍女を同行させていなかった。
 必要がないのに、ゼリア王国側から侍女を一方的に押しつけられた。迷惑に感じているから、態度が冷ややかなのかもしれない。
  けれども、エディットの気持ちがどうであれ、ゼリア王国側は王女を丁重にもてなさねばならない。
 エリーヌもまた、大してすることがなくともエディットの侍女として働かねばならなかった。
 楽といえば楽だ。けれども仕事がないのも、それはそれで疲れるし苦痛である。
 ――髪を触らせてくれたらよいのだけれど。
 エリーヌは寝具のリネンを交換している手を止め、窓際に座るエディットを盗み見る。
 空気の入れ換えのため窓を開けている。柔らかな朝の風が、エディットの櫛を入れただけの髪を揺らしていた。