俺様王太子に嫌われようと精いっぱい悪女を演じましたが逆効果のようです!? 2
エヴェリーナが案内されたのは王族の居住区にある一室だった。
他国の姫を、王族と同じフロアに留まらせるなどどうかしている。
「エヴェリーナ姫のためにこの部屋を用意させた。ここは歴代の王太子妃が使う部屋だ」
何故か積極的に案内役を引き受けたジャレッドに部屋の説明をされた。エヴェリーナは緊張がぬぐえず、早くひとりになりたいと思いつつ大人しくジャレッドに続く。
──婚約したばかりの相手を歴代の王太子妃のお部屋に案内するって、どういう神経をしているの……? これが大国の余裕ってやつ?
ミルカでは考えられない。王族は皆、用心深くて慎重なのだ。二十四歳の長兄は未婚だが、婚約者を城に住まわせるなら離宮を用意させるはずだ。
てっきりエヴェリーナも、ジャレッドたちとは鉢合わせないような適度に離れた場所に部屋を用意されるのだと思っていた。その方が双方気兼ねなく過ごせるからだ。
「内装はどうだ? 気に入らなければすべてやり直させよう」
「っ! 素敵ですわよ、とても」
反射的に肯定してしまった。すべてやり直させるのは気が引ける。
──まさか私が望んだら、壁紙から調度品まですべて一から揃え直すのかも。
エヴェリーナは王族だが、過度に贅沢な暮らしはしていない。王族は民の血税で暮らしているという教えがあるため、極力無駄を省いた生活を送っていたのだ。
ジャレッドの九百九十八個もの宝には一体いくらつぎ込んだのだろう。金銭感覚の溝というのは簡単には埋まらない。
わがままな悪女なら嬉々としてやり直しを命じるところだが、エヴェリーナにはできない。胃がキリキリ痛みそうになりつつ、余裕の笑みを浮かべ続ける。
「それにしても、王太子妃の部屋をあてがうなんて気が早いのではなくて? まだお互いの相性も確認していませんよ」
性格や価値観など、時間をかけて確認しなくてはいけない。決定的に歩み寄りが無理だとわかったら、エヴェリーナはお払い箱にされるはずだ。
ジャレッドは一瞬意外そうな表情を浮かべたが、すぐに不敵に笑う。
「魅惑的な誘いだな。積極的な女性は好きだぞ」
「……はい?」
──今、なにかおかしなことを言った?
積極的に互いを知りたいと思っている。つまり、エヴェリーナはジャレッドに興味があると判断されたのだろう。
なんとなくかみ合わない気がするが、エヴェリーナは彼に微笑み返す。
「一般論を申し上げているだけですわ。王太子殿下は私との婚約を後悔する日が来るかもしれませんでしょう?」
最初から王太子妃の立場を用意するのはいかがなものかと意見する。
だがそんなエヴェリーナを、ジャレッドは何故か謙虚だと評価した。
「安心してほしい。後悔はしないしこれまで一度もしたことがない。自分の選択に間違いはないと自負しているからだ」
──……今まで後悔したことがない人なんて存在するの?
言っていることも態度も大きくて眩しい。自分の選択に間違いはないなど、一度は言ってみたい台詞である。
もちろんエヴェリーナは逆だ。優柔不断ではないが、常に他の選択を考えながら行動している。
「さて、茶の用意をさせよう。今日は疲れただろうから、ゆっくり休むといい。あと、俺に会いたくなったらいつでも会いに来ていいぞ」
「ありがとうございます……」
ジャレッドは使用人にお茶を持ってくるよう指示してから退室した。長旅で疲れているエヴェリーナを労わることにしたようだ。
ほどなくして温かなお茶が運ばれる。
室内にエヴェリーナと侍女のセルマのふたりだけになると、ようやく詰めていた息を吐き出した。身体中の毛穴から汗が吹き出しそう。
「はあ……疲れたわ。もうダメ、無理……動けない」
長椅子にごろりと横たわる。
手近なクッションを抱きしめて、エヴェリーナはめそめそと泣き言を吐き出した。
背中が汗でぐっしょり濡れている。ジャレッドと対面していた時間はさほど長くはないが、とてつもない疲労を感じている。
うまく演技はできていただろうか。笑顔は不自然になっていなかっただろうか。
気になるところが多すぎて、後悔ばかりが思い浮かぶ。
女性は皆、演技力に長けているという話を聞いたことがあったが、潜在的な才能を発揮できていたのかもわからない。一応及第点には達していたと思いたい。
「なにひとつ嘘の臭いを感じなかったわ……逆に怖すぎる」
本心を明かしてくれるのは信頼への一歩であるが、彼の発言はすべてエヴェリーナの想像を超えていて恐ろしくなった。
「ねえ、セルマ。私、すっごく頑張ったと思うの。今日はもう終了よ。一日分の気力を使いきったわ……暗くて狭いところに閉じこもりたい」
ジャレッドの笑みを目の当たりにして、何度眩しいと思ったことか。笑顔だけで人を圧倒させられることをはじめて知った。
自信満々で自尊心の高い王太子……根が小心者のエヴェリーナとは正反対である。
「噂に違わない美男子でしたね。相当女性からもモテてきたのでは」
セルマが冷静に分析する。
エヴェリーナは上体を起こし、カップを手に取った。
「女性なんて選びたい放題だと思うのに、何故私を選んだのかしら。でも妖精姫の噂に興味を持っただけなら、私はもう用済みだと思うわ。普通の人間だもの」
色素が薄くて端整な顔立ちをしている者なら、エヴェリーナだけではないだろう。会ったこともない相手を婚約者に選ぶなどどうかしている。
「この婚姻でゼディア側が得られるものはさほど多くはないですからね。ミルカは大国の後ろ盾ができて安泰ですが」
元々両国は同盟を結んだ友好国だ。ふたりが婚姻することで関係性を強化することはできるが、婚約解消になったところで戦争に発展することはない。
「つまらない女だったって思ってくれないかしら。これからどうやって渡り合ったらいいかわからないわ。ねえ、セルマは後悔なんてしたことがないって言ったことある? 普通は迷うものじゃないの?」
「私も普通の人間ですので、後悔はしますね」
セルマもジャレッドの強烈な人柄に感心したようだ。ミルカの王族とは真逆で面白いとまで言い出している。
「王太子殿下は発言も男前でしたね。自信に溢れた振舞は、男女共に好かれそうです」
「ええ、本当に。生まれながらの王族だわ。あれで人たらしだったら恐ろしい……きっと社交界でも噂の的よね。大半の女性は自信に溢れた魅力的な男性が好きだもの」
もちろん例外はあるし、エヴェリーナは少数派のひとりである。傍にいる間、緊張が解けなかった。
結婚するなら隣にいて落ち着ける相手がいい。ドキドキしすぎて疲れる相手より、同じ空間にいても居眠りができるような安心感がある人が理想だ。
──お兄様たちみたいに、遠慮のない会話ができて多少お行儀が悪くても気にしなくていい相手だなんて、都合がよすぎるわよね。
知り合ったばかりでは難しい。遠慮というのは時間と共に薄れていくものである。
熱々のお茶を冷ましながら、カップに口をつけた。
出された紅茶はミルカで飲んでいた茶葉とは異なるが、香り豊かで味も濃い。そのおいしさにほっとする。
「それにしても、姫様には喜ばしくないかもしれませんが素晴らしい待遇ですね。さすが大国です」
ここは応接間と寝室が続き部屋になっている。衣装部屋と浴室も広々としており、贅沢な造りだ。
日当たりがいい部屋を用意してくれた厚意に感謝しつつも、エヴェリーナはもう少し暗い方が好みである。明るすぎて落ち着かない。
「衣装部屋を私の読書部屋に改造できないかしら……窓のない部屋に閉じこもりたいときは浴室か衣装部屋のどちらかよね」
「本棚は追々用意してもらえると思いますが、長期滞在をするつもりはないのですよね。そうであればここにあるもので順応するべきですね」
その通りだ。エヴェリーナは飲み干したカップをテーブルに置いて、窓辺へ向かう。
「遮光性が高そうね。引きこもりたいときはカーテンを閉めておくわ」
「くれぐれもゼディアの使用人には目撃されませんように。変人扱いされてしまいますので」
ありがたい忠告を受けて、エヴェリーナは頷いた。変人を目指したいわけではないのだ。わがままな悪女で手に負えないと思われたい。
「はあ……初対面で私を九百九十九番目のコレクションにしてやろうと言われるなんて、想像もしていなかったわ……咄嗟に夫のものは妻のものって言い返しちゃったけれど、嫌われていなかったらどうしよう」
「王太子殿下は一筋縄ではいかない方のようですね。明日から気を引き締めた方がよさそうです」
セルマに紅茶のお替わりを淹れてもらったが、これまでの会話を思い返してエヴェリーナは憂鬱な気持ちに浸っていた。
◆ ◆ ◆
天蓋付きの寝台は、母国の城の寝台と同じくらい寝心地が良かった。
何度寝返りをしても床に落ちることはない。背中全体を支えてくれる寝台に横たわってからすぐにエヴェリーナは夢の世界に誘われて、気づいたときには朝だった。
「……夢も見ずにぐっすり寝られたわ」
余程疲れていたのだろう。寝台が変わっても眠れたことに少々驚く。今までは自分を繊細だと思っていたが、案外そんなことはないのかもしれない。
着心地も良くて可愛らしいネグリジェは、ゼディアが用意してくれたものだ。彼らはエヴェリーナに荷物は最小限でいいと伝えており、ドレスから寝間着にいたるまですべて負担するようだ。
とはいえ、きちんとミルカから一通りの衣類を持ってきている。小柄で華奢なエヴェリーナには大きさが合わないこともあるだろう。
「おはようございます、姫様。よく眠れたようですね」
「おはよう、セルマ。あなたもゆっくり眠れた?」
「ええ、おかげさまで。個室の使用人部屋をいただいております。破格の待遇ですね」
王太子の婚約者付きの侍女として、セルマは城で注目を浴びているようだ。だが彼女は順応力の高い有能な侍女なので心配はしていない。
「本日はどのドレスになさいますか?」
セルマは衣装部屋に吊るしていたドレスを数着持ってきた。
締め付けがなく、軽くて着心地のいいドレスがいいが、それはあくまでもミルカでのみ許されるものだろう。ゼディアでは最初から怠惰な恰好を見せられない。
「楽なドレスと言いたいところだけど、きちんとしたものがいいわよね。マナーは大事だもの。でも流行の最先端を追求したおしゃれなドレスなんてものはないし、そもそもゼディアの流行を知らないわ」
「これから姫様がその流行の発信者になるんでしょうね。社交界に出られたら注目の的ですから」
「やめて、圧力をかけないで」
髪型から爪先にいたるまで、すべてのものに注目されるのだと思うとぞっとする。想像だけで鳥肌が立ちそうになった。
「私が流行を作るなら、腹部を圧迫しないゆったりしたドレスを流行らせたいわ。あと顔を隠せるように被り物も追加で」
「安全上無理でしょうね。顔の判別ができないと不審者として通報されてしまいます」
冗談はさておき、エヴェリーナは今日のドレスを選ぶ。
不審者ではなく悪女に見られたいのだ。それなら気が強そうに見えるドレスがいい。
「悪女っぽいドレスってあったかしら」
「悪女の定義は人それぞれですが、主張が激しい色合いで言いますと赤や黒でしょうか。どちらもないですね」
身体の線がわかり、胸元が大きく開いたデザインのドレスは悪女らしさがある。だが、全体的に華奢なエヴェリーナには、豊満な美女が似合いそうなドレスは着こなせない。
──お胸の肉が物足りない……人並みに成長しているとは思っていたけれど。
むむ、と眉間に皺を寄せた。外見を悪女に寄せたいのに、どうも肉感が足りていない。
「本日は春らしいドレスにしましょう。淡い桃色のこちらは、姫様の兄君たちの一押しで持たされたものですよ」
「うーん、可愛すぎじゃないかしら」
軽やかな布をふんだんに使ったドレスだ。全体的に柔らかい印象を与えるため、悪女とは真逆に見える。
「姫様、着たいものと似合うものは別と考えた方がよろしいかと。ご自身が着こなせるドレスを着用した方が魅力的です」
「うう、真理……」
理想と現実は違うのだ。豊満な体型で、引き締まった美脚があればいくらでも見せつけたいところだが、エヴェリーナは違う。
──怠惰にゴロゴロしていたから、ただ細いだけで健康的な脚とは言えないわ……出すのは無理ね。
とはいえ淡い桃色のドレスはエヴェリーナが求めている印象とかけ離れているので、翡翠色のドレスを選んだ。
「お化粧は濃い目にしてちょうだい。眉毛をきりっとさせて、頬紅もしっかり入れたいわ」
見た目を変化させれば、自然と精神面も引っ張られるだろう。
「ご希望通りにしてみますが、お化粧は控えめの方が姫様の魅力を引き出せると思いますよ」
「いいの、魅力的に見えたら困るもの」
昨日の顔合わせでは自然な化粧で挑んでいた。だが多少化粧を変えるくらいは問題ない。
──眉の印象って大事なのよね。強気で自信満々に見えたらいいわ。
あまり乗り気ではないセルマに無茶を言い、エヴェリーナは化粧できりっとした強さを手に入れた。
……そのはずだったが、朝食の席で予想外に周囲を心配させる羽目になった。
「エヴェリーナ姫、体調が悪いなら無理をすることはないぞ」
「……はい?」
ジャレッドが心配そうにエヴェリーナに声をかけた。どうやら化粧で顔色をごまかしているのだと誤解されているらしい。
「え、あの……」
「君は健気だな。顔色を隠すためにあえて化粧を変えたんだろう。疲労を考慮できなくてすまなかった」
彼は使用人に朝食をエヴェリーナの部屋へ用意するよう指示していた。
食堂に来るのも辛かっただろうに、部屋食を希望せずジャレッドに会いに来たのだと思われている。
「今日は一日休んでいたらいい。もし午後に歩けるようなら俺が城内を案内しよう」
「きゃあっ」
ジャレッドがエヴェリーナを抱き上げた。突然お姫様抱っこをされて、エヴェリーナは目を丸くする。
──近すぎて無理、心臓が止まりそう!
なにやらいい匂いまで漂ってくる。彼がつけている香水だろう。
「軽いな、軽すぎるぞ。少し力を込めただけで壊してしまいそうだ」
「あの、下ろし……」
そう言いかけてハッとする。わがままな悪女なら、運んでもらえて当然だと思うのではないか。
──いろいろ誤解されているのだけど、自分で蒔いた種だからなにも言えない……!
エヴェリーナは大人しく運ばれることしかできず、部屋に到着後、セルマに化粧を落としてもらう。
「姫様は無理に悪女の化粧をしない方がいいですね」
「……そのようね」
めそめそしながら長椅子のクッションに突っ伏した。
思った通りにいかなくて脱力する。朝ご飯は大変美味だった。
午後、エヴェリーナはジャレッドに城内を案内されることになった。
──王太子殿下は忙しいはずなのに、私に付き合っていていいのかしら。
彼はわざわざ時間を調整して会いに来ているのだろうか。できれば会うのは一日一回、夕食の時間だけにしてほしい。でないと心臓がもちそうにない。
「エヴェリーナ姫は本が好きだという話を聞いている。うちの自慢の図書館に案内しよう」
「……っ! まあ、うれしいですわ」
書庫ではなく図書館と言った。どうやら城の敷地内に、独立した図書館があるらしい。
「ところで殿下、私のことはどうぞエヴェリーナとお呼びください」
わざわざ姫とつける必要はないことを告げる。エヴェリーナは彼に嫌われたいが、小国の姫としての立場も弁えているのだ。
──嫌われるのは王太子殿下にだけでいい……使用人にも嫌われたらどんな嫌がらせに遭うかわからないし、セルマにも被害が及ぶわ。それは怖すぎるもの。
「そうか。それならエヴェリーナと呼ばせてもらおう。俺のことも殿下なんて他人行儀な呼び方はしなくていい。名で呼んでくれ」
──他人なのですが……?
顔合わせをしてまだ二日目だ。距離感が少しおかしい気がする。
「それではジャレッド殿下とお呼びさせていただきます」
「余計な敬称はいらん。ジャレッドだけでいい」
それを周囲が聞いたらどう思うだろうか。一気に親密度が上がっていると思われるか、不躾だと非難されるかのどちらかだ。
エヴェリーナは折衷案として、様つきで呼ぶことにした。
やや不満そうではあったが、ジャレッドは「強制するものでもないか」と納得している。
──思い通りにならなくて機嫌を損ねることがないのはちょっと予想外だわ。わがままな王太子なら、自分の命令には絶対服従だくらい言うのかと思っていたけれど。
今のところ嫌な要素は見当たらない。初対面でのコレクション発言には引いたが、エヴェリーナも言い返したのでお相子だろう。
歩く速さも歩幅も、彼はエヴェリーナに合わせている。女性のエスコートに慣れているようだ。
「エヴェリーナ、そこは段差がある。手を貸そう」
「あ、ええ、ありがとうございます」
さりげない親切がありがたい。握られた手は大きく力強くて、エヴェリーナの心臓がドキッと跳ねた。
「ジャレッド様は剣を握られるのですか?」
「ああ、そうだ。手で気づいたのか」
剣だこがある。硬くて節くれだった手は、三人の兄たちとはまるで違う。
──お兄様たちは皆非力で、私でも倒せそうなくらいひ弱だもの。その分、頭がものすごくいいのだけど。
策略と謀略なら得意だろうが、身体を動かすことは苦手だ。王太子は次期国王としての社交性を身につけているが、第二王子は研究者で引きこもり。第三王子は芸術家肌である。
ミルカは争いを好まない国民性なのもあり、周辺国に攻められたら白旗を上げるしかない。
歴代の為政者がうまいこと交渉して、大国のおこぼれにあずかりながら生き延びてきた国だ。
水と資源が豊富なためいつ侵略されてもおかしくなかったが、知略と外交で国を維持し続けている。
エヴェリーナにとって、男性的な男と対面したのははじめてかもしれない。近くで見るとジャレッドは鍛えられた体鏸をしていた。
──男性ってこんなに逞しいの? 大型獣みたいじゃない。
勝てる気がしない。兄たち見た目より非力ではないのだろうか。
「エスコートありがとうございました。もう大丈夫ですわ」
さっと手を離す。このまま手に触れていたら、妙に意識してしまいそうだ。つれない態度で気を悪くされるのもアリだろう。
「そうか、残念だ。あわよくば君の手を繋いだまま館内を案内したかったんだが」
本心か冗談かの見分けがつかない。
からかう目的でなかったのだとしたら、それはそれで困る。
「私も子供ではありませんので、迷子にはなりませんわ」
そんな意味ではないとわかりつつも、エヴェリーナはあえてずれた回答をした。男女の駆け引きに巻き込まれたようで、せっかく直した化粧が汗で崩れそう。
──不意打ちの接触と発言は禁止にしたい……。
だがここでもう一言、悪女らしい台詞を残しておいた方がいい。頭を働かせて、エヴェリーナは隣を歩くジャレッドを見上げる。
「それに、タダで私に触れさせませんわよ」
挑発的に微笑んで見せた。手を繋ぎたいならなにかよこせというのは、傲慢な響きで嫌な女ではないだろうか。
──ふふ、今のは上出来だわ!
エヴェリーナは颯爽と図書館に入る。
後ろから追いついたジャレッドはまるで機嫌を損ねてはいなかった。
「では贈り物を用意するとしよう。手を繋ぐ名目は迷子防止でいいか」
先ほど離したばかりの手を握られた。エヴェリーナはぎょっとする。
──普通の人は、不快に思うんじゃないの? なんで手を握ってくるの?
大胆不敵なのか、へこたれない性格なのか。そもそも彼を一般的な部類に当てはめるべきではないのだろう。
ジャレッドは嬉々として、エヴェリーナの手に指を絡めてきた。
「図書館では静かに、が鉄則だ。いいな?」
「も、もちろんですわ……」
繋いだ手を離そうと試みたが、まったく離してもらえない。
重厚感のある図書館を隅々まで堪能したいところだが、この日は軽く歩き回るだけとなった。だがそれでも素晴らしい蔵書の山を見て、エヴェリーナは目を輝かせた。
──あの窓のところにクッションを置いてゴロゴロしながら読書がしたいわ。
一日中いられそうだ。なんならここの一画をエヴェリーナの部屋にしてもいい。
「気に入ったようだな」と囁かれて、エヴェリーナは満面の笑みを見せる。
「ええ、ここに住みたいくらいですわ」
図書館での飲食は禁止されている。それに浴室もないため、現実的には難しい。
「なるほど、部屋か。新たに作るのも面白そうだ」
ジャレッドが思案している。
この男なら本当にやりかねないので、エヴェリーナは慌てて「お世辞ですわ!」と宣言した。実際に住むのは不便なことと、夜はお化けが出そうで寝られそうにないことまで付け加える。
「妖精姫はお化けが怖いのか。可愛らしいな」
「……一般論ですの」
妖精姫というのもからかいに聞こえるが、訂正する気力はない。
──危なかった……ポロっと言ったことが現実になりかねないなんて、怖すぎるんですけど。
図書館に住むというのは子供の頃からの夢である。ミルカの王城にも立派な書庫があったが、城内の一部が書庫というのと、本だけの建物があるというのとではロマンが違う。
気になる書物があり惹かれたが、ジャレッドになにを読みたいのかを知られるのは少し嫌だ。題名を見られるだけで心の中を暴かれるような気がするからだ。
──また今度ゆっくり来ましょう。次はセルマと一緒に。
ぞろぞろとジャレッドの護衛を引き連れて長居する気にはなれない。
「もう一か所見せたいところがある」
そう言われて移動した先は、図書館のすぐ隣にある建物だった。
中は美術館のように、あらゆるものが展示されている。
──よく見ると全部に番号が振ってあるわ。年代と注釈までついている。
「あの、こちらは?」
「ここが俺の宝物部屋だ」
……部屋の定義とはなんだろう。と、エヴェリーナは自分の常識を疑いだした。
「美術館の間違いではなくて?」
「そう呼ぶ者もいるな」
大小様々なものが展示されている。古びた時計やただの石に、奇妙な彫刻まで。
一貫性はないが、ここはジャレッドの歴史部屋なのかもしれない。
「幼少の頃から集めたものたちだ。好きなものだけを展示している。面白いだろう?」
一と書かれた一番古いものはおしゃぶりだった。赤子だったジャレッドが愛用していたものらしい。
──ちょっと微笑ましいかも。赤ちゃんの頃の記憶なんてないけれど、離さなかったものたちってことよね。
エヴェリーナだったら、お気に入りだった人形を飾るかもしれない。綺麗に磨かれたただの石にも、子供のときは心が動かされたものだ。
だが不思議なものも数多くある。よくわからない鳥の卵の殻や、錆びた鉄くずのようなものまで。高価な値がつくものばかりを集めているわけではないようだ。
「エヴェリーナ、ひとつずつ見ていたら日が暮れるぞ。君が興味を持ってくれたことはうれしいが」
声をかけられてハッとした。なにせ彼の宝は九百九十八個もあるのだ。
「ええ、そうですね。それなら一番価値のあるものを見せてくださる?」
ジャレッドが最も価値を見出しているものを尋ねた。彼は面白そうに思案する。
「いい質問だ。価値の意味合いは様々で、金を積んだら買えるものばかりではない。いくつかの項目別に順位をつけることになる」
宝物はすべて思い入れがあるらしい。順位をつけさせるのは忍びない気持ちになる。
──失礼な質問だったかも……等しく大事なものから一位を教えろだなんて、悩むわよね。
質問を撤回しようとしたが、ジャレッドは気にしたそぶりはない。エヴェリーナの手を繋いでエスコートを続ける。
「歴史的な価値があるという意味では、これなんかどうだ。百年以上前に海に沈没した海賊船から出てきた航海日誌と太陽石だ」
「沈没した海賊船を引き上げたのですか?」
「ああ、五年ほど前だったか。王弟である俺の叔父上が指揮をとった」
さらりと告げられた内容が豪快すぎて、頭の処理に時間がかかる。沈没船を引き上げる技術がゼディアにはあるということだ。
嘘の気配を感じないため、すべて真実なのだろう。
「海賊船の一部や宝箱なんかは、叔父上が治める公爵領の博物館に展示されている。興味があれば今度案内しよう」
「あ、ありがとうございます……」
ふたたびジャレッドに手を引かれた。絵画や銅像の前を素通りし、ネモフィラの押し花に視線が留まる。
──押し花の栞って、少し意外。誰かからの贈り物かしら。
なんとなくだが、女性の影がちらついた。初恋相手から贈られたものだとしたら、純情な一面もあるのだなと感心する。
そしてジャレッドは九百九十八番目の宝の前で足を止めた。ようやく最後まで到着したようだ。
「これは最近のものなんですね。日付が新しいわ」
よく見るとそれは美しいヴェールだった。繊細な刺繍とレースが施されている。
まるで結婚式に花嫁が身に着けるものに見えて、エヴェリーナの心臓がドキッと跳ねた。
「月明りを浴びた蚕から作り出された純白のヴェールだ。君の髪によく映えるだろう」
「……っ!」
ジャレッドはエヴェリーナのプラチナブロンドの髪をひと房手に取り、キスを落とした。流れるような動作が美しすぎて、思わず息を呑んでしまう。
「ま、まあ、つまり私のためのものってことかしら」
声が震えそうだ。動揺が激しい。
「当然だ。俺が花嫁にと望んだのはエヴェリーナひとりだからな」
顔が熱い。動悸が激しくて緊張感が高まる。
エヴェリーナは話題を変えて、九百九十九と書かれているプレートに目を留めた。
「あら、終わりだと思ったらもうひとつ……」
番号の下にはエヴェリーナ・ユリア・ミルカの名前が記載されている。
「……」
この男、本気で婚約者を展示するつもりなのでは?
怯えと怪訝が混じった表情を向けると、彼はにこりと笑った。
「エヴェリーナ、紅が取れているな。直してやろう」
「はい? 別に結構で……」
ジャレッドが懐から口紅を取り出した。絶世の美男子とも呼ばれている王太子が何故、口紅を持ち歩いているのだ。
──わからない。わからないことだらけで困惑している……!
大人しく紅を塗られた。男性にそのようなことをされるなんてはじめてで、緊張のあまり目が潤みそうだ。
「うん、美しい。だが少し濃いな。これをひと噛みしたらいい」
真っ白なハンカチを渡される。半分に折ったハンカチを言われた通りにハムっと噛んだ。
赤い唇の跡がしっかり付着した。この展示室で見ていると、それもひとつの芸術に思えてくる。
「よし。飾るぞ」
「え……え?」
ジャレッドは従者に額縁を用意させる。
エヴェリーナが唖然としている間に、芸術かもしれないと思ったハンカチが九百九十九個目の宝として展示されてしまった。プレートには自分の名前が記載されたままである。
彼は「後で日付を書いておこう」とまで言い出した。
満足そうな王太子を見ていると、なにがなにやらわからないが、深く考えたらおしまいな気がする。
「まあ、私の唇が目当てでしたのね。これで満足だなんて、ジャレッド様は思ったよりも無欲な方ですわ」
嫌味を込めて告げる。
「ははは、無欲だなんてはじめて言われた。エヴェリーナは純粋だな。俺は君の唇も、物に残したいほどほしいと思っているのに」
少しはみ出た紅を親指で拭われた。
心の奥まで射貫くような視線で見つめられる。まるでキスでもされそうな淫靡な空気を感じ取り、エヴェリーナはしばし呼吸を止めた。
──無理。男女の駆け引きなんて、私には難易度が高すぎる……!
彼から漂う色香を吸い込みたくない。うっかり彼の持つ引力に引き寄せられてしまう。
微笑を貼り付けたまま硬直していると、ジャレッドが一歩距離を置いた。
「さて、歩き疲れただろう。城に戻ってお茶にしよう」
「……ええ、そうですね」
エヴェリーナの緊張を感じ取ったのだろう。ジャレッドは思っていた以上に大人なのかもしれないと思いながら、素直に彼の案に頷いた。