戻る

麗しの辺境伯令息は胃が痛い ワケあって、新妻といっぱい孕ませ×××しなければなりません 2

第二話


 ハルドウィック家の街屋敷を退出した書籍商たちは、馬車に乗って帝都の西地区へ向かう。西地区は商業地域で彼らの店舗もそこにあった。
 書籍商の主人であるジェントリのバリー・ヘニングは、営業用の顔を崩して額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
「意外と気づかれないものですなぁ」
「ええ、リオネルさまの様子が分かって良かったですわ」
 バリーの正面に座るシュエナ、いや、シエナ・ウォルステン辺境伯令嬢はおっとりとほほ笑んだ。
 シュエナ・ヘニングは適当に考えた偽名である。バリーの親戚という設定にしたので、ヘニング姓を名乗っているだけだ。
「しかしお嬢さまも豪胆ですな。平民に化けて堂々と他家のお屋敷に入るなど、諜報行為だと糾弾されても文句は言えないでしょうに」
「あら、わたくしはリオネルさまの婚約者よ。婚約者に会いにいくのはおかしなことではないわ」
「偽名を名乗った時点で婚約者ではなくなっていますが……」
 引き攣った笑いを漏らすバリーに対し、シエナはにこりとほほ笑むだけで何も言わなかった。
 リオネルに会って謝罪したいと告げたシエナに、弟のクリフォードは使用人か商人になってハルドウィック邸に潜入することを思いついた。
 とはいえメイドなどの下級使用人では、屋敷の主人との接触は難しい。
 主人のそばで仕える上級使用人は、信頼のおける紹介状が必要なうえ身元調査も徹底されるため、これまた難しい。
 そこでクリフォードは商家の一員になることを思いついた。
 ウォルステン家は隣領のブレイディ侯爵家と懇意にしており、そこの嫡男であるブレイディ侯爵令息とクリフォードは友人だ。
 そしてブレイディ家の一族には書籍商がいる。
 リオネルは読書家と聞くから、書籍商の従業員になって接触を試みてはどうかと計画を立てた。
 ……との相談をされたブレイディ侯爵令息は、クリフォードに引き合わされた女性がハルドウィック辺境伯令嬢と聞いて、腰を抜かしていた。
『大貴族のご令嬢を書籍商の従業員に仕立てるって、本気?』
 ブレイディ侯爵令息には、変人を見る目を向けられたものである。
 本来なら領地の揉め事に他家を巻き込むのはよろしくないし、他家にしても面倒事を持ち込まないでほしいのが本音だ。
 しかしシエナとリオネルが結婚しなければ、皇帝陛下の怒りを買って東部全体がきな臭くなる。
 東部の大貴族であるブレイディ侯爵も二人の婚姻を望んでいるため、平和のために協力は惜しまないと言ってくれた。
 そういったことがあって、シエナは無事に帝都を訪れてリオネルと七年ぶりに再会できたというわけだ。
 ──リオネルさま、昔より男ぶりが上がってすてきだったわ。七年前はまだ少年って感じだったけれど、大人の紳士になられてすごく格好いい。もともと顔立ちは整っていらっしゃった方だもの、成長するとあんなハンサムになるのね。
 なんとなく顔色が悪そうで心配になったが、それでも久しぶりの再会に胸が躍ったものである。
「しかしお嬢さま、どうしてノーリッシュ卿に正体を明かさなかったのですか?」
「ウォルステン辺境伯令嬢はね、病弱で領地に引きこもり中になっているの」
「ん? 私の目の前にいるあなたさまのことですか?」
「ええ、たぶん両親が噂を流したのでしょうね。そのうえで七年も会えないなら相当な重病人よ。そんな死にかけの令嬢がいきなり現れたら、本物かどうか疑うのではなくて?」
「言われてみれば、お嬢さまの身元を保証するものは何もありませんね」
 シグネットリングも作ってもらえなかったため、ウォルステン家の紋章付き馬車でハルドウィック邸を訪問しない限り、シエナが本物であると信用されない。
「それにリオネルさまとお会いしていた頃にいただいた贈り物は、全てお母さまに没収されて何も持っていないの。だから余計に信じられないでしょう?」
「ひどい話ですね……」
「ええ、しかも弟が調べたリオネルさまって、誰に対しても冷酷で人の温かさがない人物だと言われているそうなの。わたくしが婚約者だと言っても、頭がおかしいと思われるだけだわ」
 するとバリーが腕組みをして宙を睨む。
「ノーリッシュ卿とは初めてお会いしましたが、なんというか……めちゃくちゃ熱っぽくお嬢さまを見ていたように思われますけど」
「そうかしら。お加減が悪いようには見えたけれど」
「…………」
 バリーが口を真一文字にして納得がいかないような顔つきになる。
「それよりも、リオネルさまはヘニング書籍商の本を気に入ってくださったようなので、何度かお会いして誘惑しようと思っているの」
「ゆっ、誘惑、ですか?」
「ええ、リオネルさまがわたくしを気に入ってメロメロになってくれたら、手紙や贈り物を燃やしていたことを許してくださるのではないかしら」
 バリーはこのとき、それってノーリッシュ卿の不貞行為になるのでは? と思ったが、この二人は婚約者だからいいのか? と考え直して激しく混乱するのだった。

 翌日、シエナは予定通り昼近くの時間にハルドウィック邸へ一人で向かった。
 ──一人での接客、ちょっと緊張するわ。
 ヘニング書籍商の店舗で接客は習ったけれど、やはり頼りになるバリーがいないのは心もとない。
 ──大丈夫、昨日はうまくやれたとヘニングさんからも及第点をいただいたもの。
 ドキドキしながらハルドウィック邸に着くと、昨日と同じ応接間に通された。シエナはテーブルに書籍を並べてリオネルを待つ。
 手持ち無沙汰なので、隅に控えるメイドにばれないよう室内を見回した。
 ──リオネルさまと結婚したら、わたくしもここで暮らすのよね。そう考えると商人として来ているのが不思議な気分だわ。
 ハルドウィック家の街屋敷に入るのは初めてだった。まだ帝都でリオネルと会っていた頃、お茶会の会場は帝城の一室を借りていたので。
 なぜお互いの家を訪問しなかったのかといえば、両家とも、「おまえの方がうちに来い」と主張したためだ。
 その頑なな姿勢に、皇帝陛下も頭を抱えていた。
 シエナの本音を言えば、リオネルとの結婚で両家が和解するなんてあり得ない。それでも国境を守る二家が対立している状況は、隣国が付け入る隙になるから国としても大きな弱みだ。
 なんとかしたいと願う君主の気持ちも分からなくはないが……
 ──でも本気で帝室に背くつもりなんて……独立でももくろんでいるのかしら。
 まさかね、とシエナは自分の考えを笑い飛ばした。帝国は領地の独立を許さないし、仮に独立したら生きていくことさえ難しい。
 百四十年前、旧ウォルステン王国に隣国のクレランド王国が攻め入り、王族の全員が処刑された。帝国がクレランド王国を退けたものの、王家が断絶したため傍系となるシエナの先祖が領主になった歴史がある。
 リオネルのハルドウィック家も同じ状況に陥った。
 帝国の庇護がなければ土地と民を守ることさえできない小国。それが故郷の実態だ。残酷な事実だけれど、さすがに両親も分かっているはず。
 ──それなのに、なぜ皇帝陛下の勅命を守ろうとしないの?
 シエナが沈痛な面持ちで唇をかんだとき、遠くから人のざわめきが近づいてきた。騒がしさとは無縁の貴族の邸宅で、このような気配がするのは珍しい。
 そう思った数秒後、ノックもなしに突然ドアが開いた。
「すまない、遅くなった」
 髪を乱したリオネルが息を切らして現れる。馬に乗って駆けつけてきたような姿に、シエナは驚いて立ち上がった。
「そんなお気にせずとも、いくらでも待ちますわ」
 実際に貴族は、商人などどれだけ待たせても構わないと考える者が少なくない。
「いや、日時を指定したのはこちらだ」
 そう言いながらシエナに近づいてくる。このとき彼のブラウンの髪に小さな葉っぱが付いているのを見て、シエナは目を丸くした。
 ちらっとリオネルの背後を見れば、侍女長らしき年配女性や家令がうろたえている。貴族にあるまじき姿のまま、令息を人前に出してしまったと焦っているのかもしれない。
 ──確かにあわてんぼうさんね。リオネルさまにこんな一面があるなんて。
 物心ついたときからそばにいた婚約者は、五歳年上で大人びた存在だった。幼い子どもにとって五つも違えば、相手が子どもだったとしても自分よりずっと頼もしく見える。
 けれど自分も成人して大人の仲間入りを果たした今、あの頃ほど彼との間に心理的な距離は感じない。
 それがうれしくて、思わず彼の髪に指先を伸ばす。
「よほど急いでいらしたのですね」
 葉っぱをつまんで彼の目の前でひらひらさせると、リオネルはアメジスト色の瞳を大きく見開いて頬を染めている。
 照れるほどのこと? と思った直後、ドアの近くから咳払いが響いた。
「ヘニング嬢、平民が貴族に触れてはいけません。この場で斬り捨てられてもおかしくありませんぞ」
「あ……」
 シエナがサッと青ざめる。自分の設定を完全に忘れていた。
 けれどリオネルは首を左右に振る。
「いや、気にしないでくれ。私の方こそ身繕いもせずに淑女の前に立つなど、紳士のすることではない」
 平民女性を淑女として扱ってくれるリオネルにきゅんとする。
 ──リオネルさま、やっぱり格好いい。わたくしの方がメロメロになりそう。
 誰に対しても冷徹で人の温かさがない人物と聞いていたが、本当は昔のように優しくて温厚で寛大な方なのではないだろうか。
 シエナは物心ついたときから、自分を愛さない両親より親身になってくれるリオネルのことが好きだった。
 その気持ちが恋なのか親愛の情なのかは分からないけれど、大人になった彼と向かい合えば昔とは違う胸の高鳴りがする。
 ポーッとしていると、リオネルがシエナの指先から葉っぱを取って家令に渡した。
「待たせて申し訳なかった。かけてくれ」
 リオネルが正面のソファに腰を下ろしたので、シエナもソファに座り直す。このとき彼の服装に引っかかった。
「もしかしてお仕事中ではありませんか?」
 リオネルの大きな体が揺れて、飲もうとしていたゴブレットから水が零れた。
「まあ、大丈夫ですか」
 シエナは素早くハンカチを取り出し、テーブル越しに彼の手を拭こうとしてハッとする。
「失礼しました……」
 家令に注意されたばかりなのに、もう失念している。子どもの頃はリオネルに甘えて抱きついたり、抱っこされて移動することもあったため、彼に対して触れることをためらわないのが原因だ。
 頭の弱い人間だと思われたらどうしよう、と動揺しすぎてテーブルに零れた水を拭いてしまう。
「あの、私どもが片づけますので……」
 メイドの困惑した声で我に返ったシエナは、慌ててハンカチを引っ込めた。ポケットに濡れたハンカチをしまったので冷たい。
「重ね重ね、ご無礼を……」
「いや、私の方こそ無作法だった。仕事中だと見抜かれて驚いた」
「日延べしても構いませんのに」
「そうなんだけど……その、よく仕事中だと分かったね」
「ジャケットに文官の証であるブローチがありますから」
 濡れた袖口を布で拭いていたリオネルの手が止まる。
「……そうだな。慌てていたから外すのを忘れていた」
 小さく笑うリオネルは家令に視線を向けて、「人払いしてくれ」と告げた。
 家令は慌てた表情になっている。
「リオネルさま、女性と二人きりになることは認められません」
「誰が認めないのだ。おまえか? どのような権限があって私に命じている」
 目をつり上げるリオネルが今まで聞いたことがない低い声……まるで恫喝するような声を放つからシエナは目を丸くする。
 家令は使用人だが家政と資産を管理する、上級使用人の中で最も信頼できる人間だ。そういう相手に対する態度ではないため、やっぱり冷酷との噂は本当なのかと不安になってくる。
 しかしリオネルは家令やメイドを部屋から追い出すと、表情を元に戻して疲れた声を出した。
「みっともないところを見せた、すまない」
「え……あ、いえ」
「情けない話だが使用人たちを信用していなくてね。彼らに話を聞かれたくない」
 その言葉にもっと驚いた。上級使用人はその家門に代々仕える一族が多く、信用できなかったら貴族の生活は成り立たない。
 というか、このような内情を聞いてもいいのだろうか。結構な醜聞だと思うのだが。
「えっと、わたくしは、話を聞かれても構いませんが……」
「いや、私が聞かれたくないんだ。君と屋敷の外で会いたいと願うつもりなので」
 言われた意味がすぐには理解できず、数拍の間を空けてシエナは悲鳴を上げそうになった。
「え、えっ、あの、それって」
「屋敷では落ち着いて話せない。そうだな、六日後が休日だからこの日がいい。どこに住んでいる?」
「あ、えっと、西地区と、南地区の境目にある住宅街の、ベイブリー通りにあるヘニング邸です」
「分かった。午前中に迎えに行く。──では書籍について聞かせてもらおうか」
 満足そうに話すリオネルに付いていけず、シエナはしどろもどろで持ち込んだ本について説明する。
 だが頭の片隅では疑問がグルグルと渦巻いていた。
 ──屋敷の外で会いたいってどういうこと? どこかに出かけようってことなの?
 シエナはリオネルと別れてハルドウィック邸を出るまで、心臓がドキドキしっぱなしだった。

 

 

 

 ヘニング書籍商会に戻ってリオネルの誘いについて話したら、バリーはひどく難しい顔になった。
「お嬢さまとノーリッシュ卿は昨日が初対面ということになっています。よく知りもしない女性を出会って二日目で誘うなど、遊び人としか思えません。お嬢さまの身が心配です」
 リオネルがシュエナ・ヘニングを誘うことは、シエナへの裏切り……不貞行為ではないかとバリーは心配している。
「リオネルさまは婚約者だから襲われてもいいけれど」
「おそ……っ、いや、そんなっ、お預かりしているご令嬢を危険な目に遭わせるわけにはいきません!」
「わたくしはリオネルさまをメロメロにして少しでも罪を軽くするつもりだったから、悪いことではないわ。でも遊び人なのは困るわね」
 シエナは昔のリオネルに懐いていたため、できれば尊重し合う穏やかな家庭を築きたい。しかし自分たちは政略結婚、しかも長年の仇敵同士なので贅沢なことは言いにくい。
 貴族社会では嫡男をもうけた後、お互いに愛人を持つ夫婦は少なくないため、仮面夫婦になっても文句は言えなかった。
 ──リオネルさまがシュエナを気に入ったら、婚約者はいずれお飾りの妻にするつもりかもしれないわ。
 考えすぎて思考がおかしくなっていることにシエナは気づいていない。
 シエナはリオネルとのお出かけに期待半分、不安半分といった心境で当日を迎えた。

  ◇   ◇   ◇

 午前中に迎えに行くとの約束は、細かい時間指定がなければ午後十時から十一時の間に行くという意味になる。
 なのでシエナは十時前からヘニング邸の玄関ホールで待機していた。
 彼女を預かるバリーと彼の妻は、「高位貴族の方はだいたい時間より遅れて来るから、そんな早くに準備していなくても大丈夫」と教えたのだが、シエナの聴覚はそれを捉えていない。
 そわそわしながら玄関ホールで待っていると、十時を数分ほど過ぎて質素な馬車が門の前に停まった。
 大貴族が使うような馬車ではないうえ、ハルドウィック家の紋章がついていない。
 屋敷の窓から門を眺めるシエナは首をひねるけれど、リオネルが馬車から降りたため慌てて玄関を飛び出した。
「ノーリッシュ卿!」
 淑女らしからぬ勢いにリオネルは目を見開いたが、すぐに淡くほほ笑んだ。
「こんにちは、レディ」
 七年前までリオネルはシエナに挨拶するとき、『小さなレディ』と呼びかけていた。その形容詞が消えるほど自分が成長したのだと感慨深い。
 じーんとしたシエナは思わず、「こんにちは、リオネルさま」と名前を読んでしまった。
 貴族の名前は、本人から呼ぶことを許されなければ決して呼んではいけない。特に平民が高位貴族の名を呼ぶなど、とんでもない無礼だ。
 シエナの背後でヘニング夫妻が青ざめている。
 しかしリオネルはほほ笑むだけで指摘しなかった。手袋に包まれた大きな手のひらを差し出してくる。
「では行こうか」
「はい!」
 大人になったリオネルがすごく格好良くて、シエナは夢見心地で馬車に乗り込む。
 リオネルの方が、ヘニング夫妻が心配そうに見つめていることに気がついた。
「ヘニング嬢をお借りします。必ず無事にお返ししますから」
 ヘニング夫妻は身分が違いすぎるので、「よろしくお願いします……」と言うしかない。
 ただ、ハルドウィック家の令息が家紋を付けない馬車を使い、まるでお忍びのようにやって来たため、本当にシエナは戻ってくるのかと不安で青ざめていた。
 そんなヘニング夫妻の恐れに気づかないシエナはニコニコしている。
 機嫌が良さそうなシエナを見るリオネルもまた、いい表情だった。
「早くに迎えに来てすまないね」
「いいえ、わたくしもお会いしたかったからうれしいですわ」
 シエナが本当にうれしそうな表情になる。もう完全に当初の目的を忘れて、婚約者とのお出かけに浮かれていた。
 七年前まではお互いに未成年だったため、当然、両親や使用人がそばに張りついており、婚約者との交流といってもお茶を飲んで日常の出来事を話すぐらいだった。
 だからこうして二人きりでお出かけすることがうれしい。
 ──でもたまに皇太子殿下がお茶会に参加することもあったから、そのときは殿下がわたくしたちを庭園に連れ出してくれて、リオネルさまと自由に話すこともできたのよね。殿下には感謝しているわ。
 さすがに両家の親たちも、皇太子を止めることはできなかった。
『いつかリオネルさまと一緒に、帝都のロウ中央公園を歩いてみたいです』
 シエナは帝都生まれの帝都育ちでも、街歩きなんてしたことがない。貴族女性は身分が高くなればなるほど自由がなくなるので。
 それは身を守るためでもあるが、素性のよろしくない男と恋に落ちて駆け落ちされたり、貞操を捧げたりする醜聞から遠ざけるためでもある。
 だからシエナは、いつか行ってみたい憧れの場所が帝都にいっぱいあった。
『シエナ嬢は中央公園に行きたいの?』
『ええ、珍しい植物がたくさんあると聞いて』
『じゃあ私が成人したら連れて行ってあげるよ』
 懐かしくて優しい記憶まで思い出してシエナはうっとりする。自分が“平民階級で書籍商の親戚”であるという設定が頭からすっぽりと抜け落ちていた。
「リオネルさま、どちらに行かれる予定ですの?」
「そうだね、昼食には早すぎるから、暖かいところで散歩でもしようと思っている。付き合ってくれるだろうか」
「構いませんわ。でも今の季節で暖かくて散策できるところとはどこでしょう?」
「ロウ中央公園に温室がある。そこへ行こうと思ってね」
「まあ! ぜひ行きたいです」
 今さっき思い出したことを言い当てられたみたいで、驚きつつもワクワクする。
 馬車の窓から帝都の景色を眺めるだけでも楽しい。七年ぶりに見る景色はそれほど変わっておらず、ようやく戻ってこられたと感動した。

 帝都は北地区の北端に皇帝の城が建てられており、城から扇状に街が広がっている。そしてロウ中央公園は帝都のちょうど中心部にあった。
 帝都の住民から“ロウ”と親しまれているここは、庭園に色とりどりの花が咲き誇るだけでなく、植物研究所が併設されている。
 そのため一般に流通されていない草花も多い。そういった貴重な植物を守るため、警備兵の巡回も多く、公園内は治安が良かった。
 帝都は城から離れれば離れるほど物騒になる。南地区の防御壁近くには貧民街もあった。
 幼いシエナがロウに来たいと思ったのは、安全だからという理由もある。貴族の子女を誘拐し、身代金を要求する事件は忘れた頃に発生しているので。
 特にシエナは幼い頃から際立って美しかったため、国外に売り飛ばされる可能性もあった。
 やがて目的地に着くと、シエナはリオネルのエスコートで馬車を降りて温室へ向かう。
 ──子どものころの夢が叶ったわ。
 婚約者にエスコートされて、二人きりで自由に街を歩くことに憧れていた。
 しかも大人になったリオネルはすてきな紳士だから、会話がなくても彼と歩いているだけで楽しい。
 十一月に入った今の時期は気温がどんどん低くなっている。そのため公園を散策している人は少ないが、巨大な温室はとても暖かかった。
「わあ、すごいですね」
 二階建ての吹き抜けの温室には、この国で見たことがない大木や池に咲く花などがある。
「ここに来るのは初めて?」
「はい。温室があるなんて知りませんでした」
「……そうか。私も来るのは初めてだ」
「あら、そうだったのですか。通い慣れているように見えました」
 馬車停めから温室までそこそこの距離だったが、迷うことなくたどり着いたので来たことがあると思っていた。
「ロウの地図を頭の中に入れてきたんだ。いつか婚約者を連れてこようと思って」
 その婚約者であるシエナはドキッとしてリオネルを盗み見る。
 彼は大木のかなり上の方にある赤い花を見上げたまま、懐かしそうに話を続けた。
「でも長い間、婚約者に会うことが叶わなくてね。手紙を送っても返事が来ないし、大病を患っていると聞いて見舞いたいと願ったが許されず、小さなレディがどうなっているのか心配だった」
「リオネルさま……」
「だからこうして無事な姿を見ることができて良かったよ。──シエナ嬢」
「はい! わたくしもリオネルさまとお会いできてうれしいです」
 リオネルがゆっくりとシエナへ視線を移す。
 ひどく困惑した表情のまま見つめてくるからシエナは首をひねった。
「リオネルさま?」
 呼びかけると彼は右手で双眸を押さえ、重くて長いため息を吐き出している。
「なんで元王族の辺境伯令嬢が、商人になっているんだ……」
「え? ……あっ!」
 自分は今、シュエナ・ヘニングだ。リオネルとのお出かけにはしゃいで、シエナ嬢との呼びかけに応えてしまった。
 軽率でうかつな自分に真っ青になったシエナが、後ずさってリオネルから距離を取る。
 その気配に気づいたリオネルがハッとして素早くシエナの右手をつかんだ。
「逃げないでくれ、君と話がしたい」
「……リオネルさま、怒ってない?」
 昔、小さなシエナが帝城に咲く花をむしって花占いをしていたら、リオネルが血相を変えて止めて叱ってきた。
 幼いシエナにはちょっと怖かった思い出だ。そのことを思い出して、しゅん、と肩を落としつつ潤んだ瞳でリオネルを見上げる。
 彼はウッと軽くのけ反っていた。
「そっ、それは、あざといんじゃないか……?」
「え?」
「いや、なんでもない。……怒ってはいないよ。ただ、かなり困惑している」
 座ろう、とリオネルが点在しているベンチの一つにシエナを導いた。
「リオネルさま、どうしてわたくしがシエナだって分かったの?」
「そりゃあ、婚約者の顔ぐらい覚えているよ。それに屋敷へ来たとき、カーテシーをしただろ。平民女性はやらないんだ」
「知らなかったわ……」
「ヘニング氏もうかつだな。それに君、文官のブローチに気づいただろ」
「ええ。帝城へ行くと文官はブローチをつけていますから」
「あれを身につけるのは城の中だけだ。あのときは慌てていたから外すのを忘れたが、ブローチを知るのは城への出入りが許されている者に限られる。でもヘニング書籍商が帝室御用達だとは聞いたことがない」
「……そうだったのですか」
「シエナ嬢にそっくりで年齢も同じぐらいの女性が、平民に似つかわしくないほど所作が美しく、隠しきれない気品があって、帝城の規定にも詳しい……やはりシエナ嬢ではないかと、シエナ嬢であってほしいと願ったんだ」
「それでわたくしを誘ってくださったのですね」
「まだ疑っていたけど、試しに君が行きたがっていたロウに誘ってみたんだ。そしたら温室があることを知らないし、私のことを平気で名前で呼ぶから、やっぱりシエナ嬢ではないかと思ってね」
 ロウ中央公園の温室は五年前に建てられており、帝都民のほとんどが知っている名所だ。しかし七年前に領地へ移ったシエナが知るはずがない。
 リオネルの推察に感動したシエナは、思わず彼の右手を両手で握り締めた。
「すごいですわ! その推理力、物語に出てくる探偵のようです!」
 書籍業界では推理小説というジャンルが流行の兆しを見せている。ヘニング書籍商でも取り扱いがあって、よく売れていると聞いていた。
 しかしリオネルの方は微妙な顔つきになっている。
「それより体は大丈夫なのか? 治療不可能な病に侵されたと聞いているが」
「とても元気ですわ。病は両親がでっち上げた嘘ですから」
「やはりな……」
 リオネルが苦虫を噛み潰したような表情になる。申し訳ない。
「それよりもリオネルさま、わたくしはあなたさまに謝らなければいけないことがあるのです」
 怒らないでほしいな……と心の中で願っていたせいか、握っていたリオネルの手をスリスリと撫でてしまう。
 さらに自然と上目遣いで彼を見ていたようで、リオネルは空いた方の手で再び双眸を押さえた。
「君、分かっててやってるだろ……」
「何がですか?」
「天然か……まあいい、何を謝るんだ?」
 リオネルがシエナに握られた手をやんわりと引き抜き、シエナから少し距離をとった。婚約者とはいえ淑女との距離が近すぎると思ったのかもしれない。
 するとシエナが開いた隙間を埋めようと近づいたので、リオネルはギョッとする。
「待ちなさいっ、それ以上、淑女が異性に近づいては駄目だ」
「リオネルさま、やっぱりわたくしのことをお怒りですか……?」
「怒る以前に話ができないだろう。いいか、ここは屋外で人目がある。婚約者でも適切な距離をたもって付き合うものだ」
「でもここ、全然人が通りませんわ。不人気なんですの?」
 ここでリオネルが動揺した様子で視線をさまよわせる。
「……君と話がしたくて、午前中は貸し切ってある」
「え! じゃあ人目なんてないじゃないですか」
「そうだけど、そうじゃない! 私は貴族の常識を説いて──、いたたっ」
 リオネルがみぞおち辺りを手で押さえて顔をしかめた。
「リオネルさま!?」
「……大丈夫だ。興奮したのがまずい」
「そんな。リオネルさまはご病気なのですか?」
「いや、胃が痛いだけ。……それよりも話を戻そう。謝るとは?」
 シエナはリオネルの体が心配だったが、会話を中断して医師に診てもらうことを彼が受け入れそうになかったため、渋々と話を続けた。
 リオネルからの手紙や贈り物を、両親の命令で使用人が燃やしていたことを丁寧に謝罪する。
「弟と相談して両親を介さずにお手紙を出しましたが、返信が来なかったためリオネルさまが怒っていらっしゃると思い、直接謝罪しようと領地を抜け出しました。今まで本当に申し訳ありません」
 もう一度深く頭を下げてから体を起こすと、リオネルは目を閉じて天を仰いでいた。
「すさまじい行動力だな……」
「弟にも言われましたわ」
「そうか。……では私も君に謝罪させてくれ。実は先日、君からの手紙を使用人が燃やしていたことが発覚した」
「えっ! ハルドウィック家もですか!?」
「ああ、本当に申し訳ない。君のご両親は手紙を検閲後、きちんとうちに届けていたようだ。皇帝陛下に対してハルドウィック家と交流している姿勢を見せたかったのだろう」
「あっ、もしかして使用人を信じてないとおっしゃったのは、これが原因ですか?」
「そうだ。手紙を燃やすなんて、いくらなんでも人としておかしい。当主に命令されたといっても、私に報告してくれれば対応策を考えたのに」
「確かにそうですわね。わたくしの両親はリオネルさまの手紙を燃やして、返事が来ないと、リオネルさまが悪いと主張したかったのでしょうか」
「だろうな。うちの両親も全く同じことを考えていたというわけだ。──似たもの同士だな」
 吐き捨てるように言うから、かなり怒っているようだ。
 シエナは暗い空気を変えたくてわざと明るい声を出した。
「でも良かったですわ。リオネルさまが怒っていなくて」
「君の中で私はどれだけ極悪非道なんだ? こっちは婚約者の身をずっと心配していたんだぞ」
「だって七年も会えなかったのですよ? リオネルさまが婚約のことをどう考えているのか不安にもなりますわ。それにリオネルさまはお城に奉職しているから、美しい貴婦人と会う機会も多いでしょうし、わたくしのような子どもは忘れ去られているかもと……」
「君との婚約は皇帝陛下の勅命だぞ。忘れるなんてあり得ない」
 その言葉にシエナは半分喜んで半分しょげてしまう。勅命での婚約、つまり好きも嫌いもない政略結婚ということだ。
 恋になりかけていた淡い気持ちがへこんでいる。でも、七年ぶりに婚約者と再会できたので暗い顔は見せたくなかった。
「これで両家が、わたくしたちを結婚させる気はないことが判明しましたね」
「ああ、馬鹿なことをしたものだ。権力者の怒りがどれほど恐ろしいものか、元王族だからこそ知っているはずなのに」
 シエナもずっと同じことを考えていた。昔は両親も不本意ながら婚約者同士の交流をさせていたし、勅命に従うつもりだった。
 七年前、ウォルステン家のみならずハルドウィック家に何があったのだろう。
「以前、帝国から離脱するつもりかしらって考えたことはありますけれど、それはないでしょうから、本当に理由が分かりませんわ」
 ため息交じりに呟いたらリオネルが息を呑む。
「……案外、それかもしれない」
「それとは、帝国からの離脱ですか?」
 リオネルが重々しくうなずいたため、シエナは青い顔で首を左右に振った。
「あり得ません! そんなことをしたら領民を守れませんわ。それこそ百四十年前のようにクレランド王国に占領されるかもしれません」
「仮定だが、そのクレランド王国と密約があったら?」
 今度はシエナが息を呑む。
「……クレランド王国と手を組むなら、独立を支援するとか、ですか?」
「かもしれない。もちろん深読みしすぎかもしれないが」
 考え込んだリオネルを見て、シエナも動揺しながら考える。
 ──お父さまがクレランド王国と手を結ぶ……考えたこともなかったわ。だってクレランド王国もハルドウィック家と同じ仇敵だもの。
 クレランド王国は旧ウォルステン王国を滅ぼし、当時の王族を惨殺した怨敵だ。だからこそクレランド王国とカミンの森を挟んで国境を接していても交易はしていない。
 そのため隣国の商人は、二つの辺境伯家を通過してブレイディ侯爵家と取り引きをしている。辺境伯領を通るだけなら当主は文句を言わないので。
 ……ただ、旧王国の滅亡から百四十年がたっている。当時を覚えている者は誰もおらず、世代交代が進み戦争の記憶も薄れていた。
 カミンの森という壁によって隣国との交流もないため、領民は「そんなこともあった」程度にしか受け止めていない。
 なにせすぐ隣に数百年もいがみ合う家門があるのだ。領民の意識は常にハルドウィック家へ向けられている。
 日常で関わることがない国のことなど、どうでもいいのだ。
 ──そうよ、わたくしだってクレランド王国については歴史の授業で習っただけだわ。普段は思い出すことさえない。ハルドウィック家と同じ仇敵だけど印象はまるで違う。
 ハルドウィック家に向ける感情が“嫌悪”だとしたら、クレランド王国は“無関心”だ。この差はとても大きい。
 二つの仇敵が存在し、どちらかと手を取る必要が出てきたら、どちらを選ぶか。
 そんなこと悩むまでもない。
「──どちらにせよ皇帝陛下に報告せねばならない」
 互いに無言で考え込んでいたが、リオネルの呟きでシエナは我に返った。「そうですね」とうなずいたのと同時に顔を伏せる。
「お互いに罰せられますわ……」
 リオネルの仮定通りだったら、ウォルステン家もハルドウィック家も、勅命を無視して秘密裏に隣国と手を結ぶという、裏切り行為をしたということだ。
 帝国法では領地の離脱を認めていないため、独立したいなら帝国との戦争になる。帝国の出方次第では一族郎党が処刑されてもおかしくない大罪だ。
 このときリオネルが体ごとシエナへ向き直る。
「シエナ嬢」
「はい……」
「今すぐ結婚しないか?」